中
今は冬だ。
ソフト部は雪が降っていてグラウンドは使えない為、練習は校内で筋トレと基礎体力作りのみとなる。
廊下る規則正しい足音を聞きながら、私は帰宅の準備をしていた。
「部活、辞めたのか」
つい昨日聞いたばかりの声に振り向くと、その少年と目が合う。
今、教室には私達以外いない。
何であなたがと口に出そうとしたが、年上の意地……大人な対応をしようと思った。
「正確には、休部だけど」
「何故」
はっきりと理由も告げずに休部を伝えた時でさえ聞かれなかったストレートな質問に少なからず動揺した。
本当は退部しようとしていたのだが、部長や部員達がせめて休部にしてくれと懇願してきたのだ。私は練習に対して真面目に取り組んでいたし、レギュラーであったし、信頼もされていた。それ故に手放すのは惜しいと思ったのだろう。それに、心のどこかでまた部活がしたいという気持ちもあった。
――まあ、年が明けたら春になる前には退部するんだけどね。多分、戻れないだろうし。
「母が、心配するし……それに」
私自身が怖かったのだ。
それ以上は続けなかった。
不自然に言葉を切った私に、彼は何も言わなかった。察した様にひと言、そうかとだけ呟いて。
玄関で靴を履き、駅へと向かう。
夏から秋に掛けては電車に乗るのが恐ろしくて自転車で来ていたのだが、冬はそうもいかなかった。
足取りはどうしても遅くなった。
「って、何であなたが着いて来るのよ!」
振り向いて先程から隣を歩く少年を睨み付けた。
少年は思いの外あっさりと、あっけらかんと言い放った。
「何でってあんたを送ろうと思って」
「だから何でよ」
「……昨日は悪かったよ」
「は?」
問い詰める様に尋ねると、何故か謝罪が返ってきた。質問の答えになっていない。
彼は言いづらそうにそっぽを向け、口をもごもごと動かしていた。
「図星だった。あんたの言う通り、俺は、俺自身の心配しかしていなかった。何で俺ばっかりって、真実から目を背けて、一番酷い目にあったのが誰かなんて考えもしなかった。目が覚めたよ」
すまない。
か細い声で、しかしはっきりとそう言った彼は昨日の逆上していた姿とは似ても似つかなかった。
――彼も被害者の一人なのかもしれない。
それでも同情は出来なかった。
自分の父親のせいで不幸の道を辿っている彼を憐れには思っても、家族なんだから止められた筈なのにと許せない気持ちが消えることは無かった。
私は器の小さい女だ。
「だから、罪滅しと言ったらアレだけど……」
それでこの送り迎えという事か。
「そんなのあなたの傲慢じゃない。罪悪感を勝手に押し付けないでよ」
「……分かってるよ」
目を伏せる姿に、自然と私も視線を背けた。
私は酷い女だ。
「そういえば、これ」
「何」
「やるよ」
電車に揺られながら手渡してきたのは一枚の絆創膏だった。
――何で?
それが顔に出ていたのだろう。疑問は直ぐに払拭された。
「昨日、手、怪我しただろ」
昨日、確かに私は手を怪我した。
そんな些細な事、覚えていた事に私は瞠目した。
「……傷、もう塞がってるけど」
「っ! いいからやる」
あっても困らないだろって……そう言われてもさ。
返そうとしても固くなな彼に、結局返品は叶わなかった。
「ねえ、由恵。あんた例の一年生と付き合ってるの?」
「はぁ!?」
彼とひと悶着あってから一週間が経った頃、突然友人から色気の無い恋話をふっかけられた。
何でも、私とあの彼が毎日登下校を共にしている所を目撃した人が居るとか。
根も葉もない噂、と全否定したい内容だが、これは事実であった。
そうなのだ。彼はあれから毎日、しかも朝までも私の送り迎えをしている。特に会話は無いのだが。
何度も断りもしたし、警察に訴えてやるとも脅してみたが、彼は懲りずに毎日毎日着いてくるのだ。
やっと由恵にも春が……! と歓喜している友人には悪いが、そこに一切の恋愛感情は無い。
寧ろ彼の罪悪感の為に何故私が、と不満を言いたいくらいだ。
「由恵先輩、ちょっと良いですか」
噂をすれば何とやら。
当事者の彼が嬉しくも無いタイミングで登場してくれた。人前では相変わらず上手く猫を被っている。
隣の友人は顔を赤らめ目を輝かせている。恋話が大好きな乙女というか、獲物を見つけた肉食獣に見えた。
噂が結構広まっているのか、心做しかクラス内もそわそわとしている。
――そんなに私に恋人が出来るのは異常なのか。いや、恋人じゃないけど。
取り敢えず、話し合おうと彼の方に近付いて行った。
「噂?」
「聞いてない? 私とあなたが付き合っているとか何とかって……」
「ああ……アレの事か」
どうやら一年生の方にも広まっているらしい。
「まあ、似たようなもんだろ。あんたが俺の勝手な罪滅しに付き合っているんだし」
「全然似てないでしょ!」
「別に良いんじゃね。男が居るって思わせていた方が余計な虫……ストーカー野郎とか現れなくてさ」
私から目を逸らした彼は、つまらなさそうな顔で言う。
私はと言えば想像していた反応と異なっていてかなり驚いていた。
しどろもどろになりながらも何とか反論を繰り出した。
「でも、それじゃあなただって迷惑じゃない」
「……心配してくれてんの、俺を」
えっと小さく声を漏らした私は思わず口を押さえた。
彼は目を見開いている。彼自身で言った言葉であるのに、信じられないと思っている様だ。
何度か目を瞬かせた後、少し照れた様に俯いた。
小さく聞こえたマジで、という台詞が妙に気恥ずかしくて、
「兎に角、私も迷惑だから! それだけだから!」
と、大慌てで教室に戻った。
席に着いて深呼吸する私を友人達がニヤニヤと笑っていた事を私は知らない。関係ない。
放課後。
いつもの様に現れるであろう彼を思うと歯痒い気持ちに駆られた。
勿論、クラスメートにはあれからしっかりと交際しているという噂は否定しておいた。登下校の面においては、帰る方面が同じだという事にしておいた。
――本当は彼の家が私の家とは全くの逆方向にあるのは知っていた。
彼の家の近くに住んでいるという友人にその事を聞いたのだが……彼女は訝しげに私を見ていたのは言わずもがな。
疑ってる人も多いだろうが、その内あんな噂は消沈するだろうと、私は指定鞄に教科書を詰めた。
「佐々木さん!」
帰宅の準備を終え、何となく玄関に行きたくないなと自席に座って時間を潰していた。十分程経った頃だろうか。そんな風に声を掛けられたのは。
振り返ると一人の男子生徒が立っていた。クラスメートで隣の席で、野球部の五十嵐君。野球着を着ていることから、今は校舎内ランニングをしている途中なのだろう。
彼とはそこそこ仲が良かった。部活がソフトボールと野球、と意気投合する事もしばしばあった。
「帰らないの」
「あはは……まあ」
丁度もやもやと考え込んでいた事を聞かれて、思わず苦笑いが溢れた。
目を逸らした私に、五十嵐君も苦笑した様子が気配で分かった。
「今日、大変だったもんね」
これにはまあねとしか答えられなかった。
――というか、何でこんな事くらいで動揺してるんだろう。別にあいつが気になった訳でもあるまいし。……帰るか。
「五十嵐君、私そろそろ……」
「佐々木さん! その、俺、佐々木さんがあの一年と付き合ってないって分かってほっとしたんだ」
五十嵐くんが帰ろうと荷物を持ち上げた所を腕を掴んで止める。
その表情はいつにも増して真剣だ。
「それで、俺と付き合ってくれないかな」
へへ、と照れた様に鼻をかく彼に、私は狼狽した。
それでも、告げねばならない事をゆっくりと口にした。
「……ごめん。その、気持ちは嬉しいけど……」
「……」
私は今は誰かと交際するだとか、誰かに恋愛感情を抱くだとか、そういう事は全く考えられなかった。
平気になっても好きじゃない。寧ろ、嫌いだという気持ちは少なからず残っていた。
勿論、世の中あの男の様な男性ばかりでも無い。反対に女性でもああいうタイプの人間だって居る。その事は私だってよく理解していた。それでもどうしても受け付けることは出来なかった。
結局の所、未だにあの事件に囚われているのだ、私は。
だから、悪いとは思うが私は断った。
あれ以来、仲の良かった五十嵐君とも自分からの接触する事は絶った。それ程までに、男とは出来る限り関わりたくなかったのだ。
「……ごめんね」
五十嵐君に原因がある訳じゃないのに。
もう一つ謝罪の言葉を残して、その場を去ろうとした。
その時だった。
「ふざけんじゃねぇぞ!!」
鈍音と共に五十嵐君の近くにあった椅子や机が吹っ飛んだ。そしてそのまま彼が掴みかかってきたのだ。
物凄い形相で胸倉を掴んだ五十嵐君に驚いて、私は荷物を落とし、そのまま床に押し倒された。
「ちょっと可愛いからって調子乗ってんじゃねえよ! 人を馬鹿にした様に言いやがって!」
まるで人が変わったように唾を飛ばして来る様に、私は瞬きを繰り返した。
――え、誰? これが五十嵐君なの?
脳内で零した言葉に身震いした。
人がこんなにも一瞬にして変わってしまうなんて。
ふと彼の事が脳内を過ぎった。
『人が変わったように怒鳴り散らして暴力を振るうようになりました』
目の前の五十嵐君はハンっと鼻で笑い、嘲る様に私の耳元で囁いた。
「お前さ、少し前におっさんに襲われたんだって? こんな風によお」
腕を押さえ付けながら馬乗りになり、五十嵐君は自身のベルトに手を掛けた。
カチャカチャとベルトの外される音を聞きながら、五十嵐君は続ける。
「お前の人生、もう終わってんじゃん」
ニヤリと笑うその姿は、いつかのあの姿と重なった。
「い……っ」
「叫んだって無駄だぜ。部活の生徒は皆二線校舎だし、この階には今誰もいない事を確認して来たしな」
――わざわざ見て回ったのか。
用意周到なこの男に、穏やかに談笑していた五十嵐君の姿が霞む。
涙が零れそうになった。
腕も足も、頭も暴れさせた。押さえ付ける手に爪を立てようとした。馬乗り状態の奴の股間に蹴りをかまそうと膝で宙を蹴った。キスでもしてこようもんなら噛みちぎってやると言わんばかりに歯をガチガチと見せ付けてやった。
それでも逃げる事も出来ずに、簡単に胸をまさぐられた。
最早、手段は何も無かった。
――誰か、誰か助けて!
助けを求めて脳裏に浮かんだのは……
星宮蒼二だった。
「そう、じ……」
気付けば彼の名前を呼んでいた。
今まで一度だって呼んだことの無い弱々しいそれは、あなたとかあいつとか彼とか、そんな代名詞なんかじゃなくて、紛れもない彼の名前。
私は自然とそれを発した自分自身に酷く驚いた。
何故、彼だったのかは分からなかった。
それでももう一度、今度は力強く、はっきりと呼んだ。
「助けて蒼二!!」
「由恵!!」
バン! と扉が乱暴に開かれ、彼は現れた。
そのまま五十嵐君に掴みかかり、右頬を殴った。
「ってえ……へっ。誰かと思ったらこの女を襲ったおっさんの息子様じゃあねえか。何だよ、てめえも親父と一緒でこの女に惚れてんのか?」
下品な笑みを浮かべながら煽る五十嵐君に、彼はちっとも堪えてない様子で、
「先生を呼んだ。もうじき来るぞ」
その言葉に舌打ちをし、五十嵐君は去って行った。
残された私達の間には沈黙が落ちた。
十秒程、たっぷりと間を置いて彼が私に向き直ると、目を見開き顔を真っ赤にした様子で「服……」とすぐに目を逸らした。
下の方に目を遣ると、胸元が少し空いていた。まさぐられた時ボタンが外れてしまったのだろう。
「あっごめ……! こんな格好じゃ先生が見たらあなたが疑われるね」
「いや、あれはハッタリだ」
だから、そうじゃなくてだな、としどろもどろになる彼が珍しいなと思い眺めていると、「いいから服!」と叫ばれてしまった。
「あれ……」
慌ててボタンを止めようとするも上手く止まらない。
手がガタガタと震えていた。
「あはは……」
空に乾いた笑が溢れる。
それが強がったものであるということは彼にも伝わってしまったようだった。
「泣いていいんだぞ」
「え、や、嫌だな。別に泣きたくなんて」
「泣け」
半ば強引に遮られるようにして放たれたその言葉に、我慢していた筈の涙腺が緩む。
「……うっ、ひ、うぇえっ」
怖かった。ただ怖かった。
私は無力で、必死に抵抗しても所詮は女。力で男に適う筈がなかった。
五十嵐君とあの男の顔が重なる。
普段は優しい五十嵐君の豹変ぶりが脳裏に焼き付いて離れない。
あの男の事なんて私は知らないけど、彼が『人が変わったように』と言っていたから恐らく以前は穏やかな人だったのだろう。
『お前のせいで親父の人生滅茶苦茶だよ!!』
いつか聞いた少年の悲痛な叫びが思い出される。
あの時は筋違いな逆恨みに苛立って、そっくりそのまま返してしまったけれど、あの言葉はあながち嘘ではなかった。いや、寧ろ的を得ていた。
――私が狂わせたんだ。これまで優しかった人を、穏やかだった人を。私が、いるから。私がいたら、壊しちゃう。これからも、ずっと。
――星宮蒼二だって。
そう思うと次から次へと涙が溢れ、止まらなかった。
――本当の被害者は誰?
彼は自分の持っていた上着を私にそっと掛けてくれ、隣に腰を下ろした。
私が泣いている間、何も言わず、ただ隣でじっとしていた。
私に決して、触れようとはしなかった。