序章 わたしがあなたの……!
栄梯子と遠山竜哉は幼馴染である。
時刻は午前零時を過ぎている。細い路地の突き当りで、梯子は尻もちを付き、不良たちに囲まれていた。夏に差し掛かったこの季節、Tシャツに短パン姿とは言え、この時間でも蒸し暑い。だが、額を伝う汗は温度のせいだけではないだろう。
絶対的なピンチ。心のどこかで助けを呼んだりもした。王子様がひょっこり現れてくれることも期待した。
それでも――。
(竜……哉……?)
思いもよらなかった人物が路地の入口辺りに立っていた。
「何してんの? おたくら?」
街灯の灯りにぼんやりと照らされながら、白いシャツに黒いズボン姿の遠山竜哉はアスファルトの上に尻もちを付いている梯子を一瞥した後、不良たちに言った。まるで、他人全員を見下したような態度だ。
「あンだァ? てめぇ」
竜哉は不良たちのガンつけを無視して、一歩路地の奥へ踏み込む。
「ちッ……」
不良の一人が舌打ちをして近づいてきた竜哉の肩を掴む。
「今、取り込み中なんだよ。邪魔もンは引っ込んでろッ!」
梯子は、不良がもう片方の手で拳を握りしめたのが背後越しに見えていた。このままでは竜哉が殴られてしまう……そんな懸念は杞憂に終わった。
「あ……?」
拳を振るう前に、不良の体が竜哉に倒れ込んだ。梯子には何が起こったのか理解できないが、力なく崩れていく不良に意識がないことだけは把握できた。
「梯子から離れろよ」
竜哉は不良の身体を払いのけて、命令する。
「くそっ……やれぇ!!!」
一人の怒声と共に、残りの不良たちが竜哉にとびかかる。
竜哉が圧倒的な強さを見せつける中、尻もちをついた姿勢のまま梯子は考えた。
なぜ、竜哉がここにいるの。
小学校時代からの幼馴染で当時は一緒に遊んだりもした。だが、中学校で竜哉に悪い友達が出来てからは、段々と疎遠になっていった。高校生になった今では、同じ学校に進学したにも関わらず、顔を見合わせることもなく、お互いのことを認識することも減った。しかし、竜哉の噂は時々耳にする。どこどこ高校の番長格に勝っただの、警察に補導されているのを見ただの、深夜に真っ黒なスーツのお兄さん達と歩いていただの、どれもこれも良い噂とは言えなかった。
最近は学校にもほとんど顔を出していないと、これもまた噂で聞いた。誰にも居場所は分からない。それが遠山竜哉の現在のはずだった。それなのに、今こうして梯子のピンチに駆けつけ、不良たちを倒している。
「おらぁっ!!」
「わわ……」
梯子は目の前に転がってきた不良の身体を身をよじってかわす。
「はぁっ、そんくらいでビビってんじゃねぇよ……」
竜哉が毒づいた。
どうやら今のが最後だったらしい。辺りを見渡すと、不良たちが呻きながら蹲っている。
「相変わらずドジだな。こんな時間にうろついてるからこんなんに絡まれるんだ」
言いながら、竜哉は不良の頭をつま先で軽く小突く。
「うるさい……そもそも……」
竜哉が梯子の目の前に手を伸ばしてきた。それを掴もうとするが……竜哉の手を握った瞬間、ポタリと梯子の頬に何かが零れ落ちた。
「くそっ……!」
急に竜哉に手を離され、梯子の身体は再びアスファルトに転がる。後ろを振り向こうとした竜哉の半身の向こうで、石材を持った不良の姿が見えた。
不良の身体は、竜哉の回し蹴りによって横に薙ぎ払われたまま動かなくなった。
「怪我は、ないか?」
梯子のことを心配する竜哉だが、どこか様子がおかしい。
「竜哉?」
梯子はぼんやりと見える竜哉の額の辺りを手で拭った。ヌルリとした感触が手に伝う。
意識が遠のきそうになる中、必死にこらえる。
「なに、たいしたことはない」
竜哉は隠す様に額を拭った梯子の手を握る。
「でも……」
その嫌な感触、寒気のするよう感覚。
竜哉の頭に流れているもの……血だ。
「ほんとに大丈夫だから……」
「でも……!」
梯子はうろたえるばかりで、何もできない。
言葉とは正反対に、竜哉の身体から力が抜けていくのが握られた掌を通じてわかる。
「ほんとに……だい、じょーぶ……」
ゆったりと竜哉の身体は梯子の胸元に吸い込まれるように倒れ込んだ。それっきり彼の身体は動かなかった。
竜哉はすぐに病院に運ばれた。
立会人として、一緒に救急車に乗った梯子は、待合室で手術が終わるのを待っている。
救急車の中で、頭から大量の血を流す竜哉の姿を見ていた。明るいところで見ると、白いシャツにも真っ赤な血が滲んでいた。どう見ても、小さい怪我ではない。
(わたしのせいだ……)
梯子がこの時間に外に出かけなかったら、竜哉が怪我をすることはなかった。そもそも自分が不良に絡まれることもなかった。
外に出た理由はあったような気がするが、別に翌日でもよかった気もする。それを焦って今日中にやらなければと思った。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで。
自分を問い詰めればキリがない。
ヴーッ、ヴーッ。
ポケットに入れたままのスマートフォンが震えた。病院だからと無視をするが、いつまで経っても鳴りやまないバイブレーションが弱り切った神経を逆なでする。
待合室には自分一人。
(少しくらいなら……)
梯子はスマホを取り出す。画面には「安茂里千羽」との表示。
千羽は、梯子が通う高校の男子生徒だ。クラスメイトであり友達でもある。
「もしもし……」
「栄さん! 僕です。千羽です」
「いちいち言わなくても分かってるわよ」
電話に出るなり、大声を出した千羽に梯子は眉を顰める。
「大丈夫ですか? 待ち合わせ場所に来ないから、何かあったのかと」
「え? あ……ごめんなさい」
そう言えば、千羽と待ち合わせをしていたのだった。この感じからすると千羽はずっと待っていたのだろうか。……悪いことをした。
梯子の中で、罪悪感が膨れる。
「今度何かをおごるわ……」
「いえ、僕は大丈夫なのですが……。そちらこそ声に元気がないですけど、大丈夫ですか?」
「ええ……今、ちょっと取り込んでいるからまた後で連絡するわ。今日は本当にごめんなさい」
言ったあと、梯子は一方的に電話を切った。悪いとは思いつつも今は竜哉のことでいっぱいいっぱいだ。
千羽とは何の約束をしていたのだったか。そうだ。確か、何かを受け取るために……。渡したいものがあると、千羽から連絡を受けて……。
ブゥン、と手術中のランプが消えた。梯子は待ちきれなかったように、全ての思考を放棄してベンチから腰を上げた。
自動扉が開き、医者が姿を現す。
「あなたが、彼の付添人ですか?」
梯子の顔を見据えて医者が尋ねる。年齢は三〇後半ぐらいか、顎に少しの髭を蓄えた彼の首には「岩鳶」と書かれた名札がブラがっていた。
「竜哉は大丈夫ですか?」
「命に別状はありません。頭を殴られて、数針縫った程度です。今晩は検査もありますので、病院に泊まってもらいますが……異常なしと判断できれば、明日には退院できます」
「そうですか……」
ホッと息を吐き、肩から力が抜ける。
「一つお尋ねしますが、彼のご両親は?」
「え、……と」
梯子は少し困惑したあと、過去の記憶を頼りに答える。
「確か、両親は共働きで今は海外にいるはずです。連絡はつくはず……」
小学生の時、竜哉の両親から連絡先の書かれたメモをもらったはず。
「そうですか……わかりました。それはそうと君も早く帰った方がいい」
もう時間は深夜二時を回ろうとしている。明日も学校だ。それを考えての言葉だったのだろうが、このまま家に帰ったのでは、心にモヤモヤが残りそうで、岩鳶の言葉に頷けずにいた。
「ふむ……」
梯子の気持ちを察したのか、岩鳶は考え込むように腕を組んだ。
「なら……ご両親の代わりにあなたの連絡先を教えてください。遠山竜哉くんが目を覚ましたら、すぐに連絡します。ですが、今日は本当に帰って下さい。看護婦の一人に車を出させますから」
岩鳶は言いながら、後ろの方に立っていた看護婦に視線を向ける。
すると、若い看護婦は笑顔で頷いた。
「ね、大丈夫ですよ」
岩鳶はくしゃっとした笑顔を梯子に向けて、頭にポンと手を置いた。まるで駄々をこねる幼い子をあやすような動作に恥ずかしさを憶える。
「でも、本当にいいんですか?」
実際に幼馴染とは言え、他人であることには違いがない。そんな梯子に一人の患者である竜哉のことを教えてもいいのか。
「大丈夫です。……でも、他の人には内緒にしておいて下さいね」
人差し指を唇の前に置いて言った時の岩鳶の無邪気な笑顔は、不思議と頼れる力があった。ふと、梯子が看護婦の方に視線を向けると、彼女も同じようにほほ笑んでいた。
「なら……お言葉に甘えさせていただきます」
翌日の朝、梯子はスマホの着信音で目を覚ました。普段、通学のために起床する時間よりも随分と早い。栄家も、竜哉の家と同様、両親共働きでほとんど家にいない。泊まり込みの仕事も少なくないため、梯子は家事を一人でやらなければならないため、朝も割りと忙しかったりする。
しかし――。
「すぐに行きます!」
相手の言い分も聞かず、電話を切り、パジャマから着替え、サイフとスマホを手に家を飛び出す。
朝食も食べず、洗濯もせず、教科書の入ったカバンも持っていない。
向かう先は病院。
電話の相手は、病院の岩鳶医師だった。電話の内容は『竜哉が目を覚ました』他にも何か言いかけていたが、それだけ聞ければ十分だ。
「先生!」
電車の待ち時間すら億劫だったが、病院につき、すぐに岩鳶を発見できたのは幸いだった。
「はぁ、はっ、竜哉が、目を覚ました、って聞いて……」
息も絶え絶えに電話の内容を岩鳶に再確認する。
「あ、あぁ……目を覚ましたんだけど……」
何かを言いよどんでいるが、今の梯子に必要なのは竜哉のことだけ。梯子は岩鳶の前に立ち、鋭い目で問い詰める。
「どこにいるの?」
「ちょっと落ち着いて! その前に君に話しておかなければならないことが……」
「先生、二〇六号室の遠山くんなんですけど……」
その時、廊下を曲がって来た看護婦の言葉を梯子は聞き逃さなかった。
「二〇六号室ね……」
ここが病院だということを忘れ、梯子は走り出す。後ろから聞こえる足音は岩鳶のものだろう。梯子を止めようとする声も聞こえるが、意に介さない。
(二〇四……二〇五……)
流れていく景色の中でも部屋の番号だけは見落とさない。
(二〇六……!)
目当ての部屋の前で急ブレーキをかけ、思いっきり扉を横に引く。
「竜哉……!」
ベッドの上で上半身を起こし、開いた窓から外を見つめていた竜哉を見つけるや、とっさに叫んだ。
「ん?」
「たっ……竜哉?」
確かに横顔は遠山竜哉のそれだったが、振り返った少年にはどこか違和感を覚えた。
昨夜見た竜哉の顔とはどこかが違う。昨日は外も暗かったし、あまり顔ははっきりとは見えなかったけど、暗闇でもはっきり分かる鋭い眼光に、ねじまがった唇。眉間にくっきりと刻まれた皺。
それが今の竜哉はどうだ。パッチリと開かれた二重瞼の瞳、あどけなく薄く横に開かれた口、穏やかなアーチを描く眉毛。
「竜哉……?」
梯子は首を傾げた。返事もないため、それが本物の竜哉なのかわからない。いや、記憶の中の竜哉と目の前の少年の顔は一致している。
だが、それが問題である。梯子の記憶の中の竜哉とは一緒によく遊んでいた小学生のころの顔だ。しかし、この少年の身体はどう見ても、高校生以上のそれである。
「はぁ、はぁはぁ、ようやく追いついた……」
疑問符を浮かべた梯子の背後で息を切らせるのは岩鳶だ。
「先生……この子……」
「間違いなく、遠山竜哉くんだよ」
岩鳶は梯子の聞きたいことを分かっているかのように話し始めた。
「確かにこれは遠山竜哉くんだ。実年齢は一五歳。だが、少し問題がある。」
「それって、どういう?」
梯子は戸惑いを隠せず、岩鳶の顔とベッドの上の少年の顔を交互に見る。
「昨日、頭を殴られたショックで、遠山竜哉くんは記憶を失ってしまっている。今は自分が誰だかもわからない。しかも、それだけではなく、どうやら精神年齢が著しく低下しているようだ。今では小学校低学年程度の知能しかありません」
岩鳶は事実だけをスラスラと述べる。
(小学生……)
どうりで記憶の中の竜哉と一致するはずだ。梯子はまだ信じらず、竜哉の顔を凝視する。
「おねえちゃん……だれ?」
見られていることに気が付いた竜哉が首を傾げる。
自分のことも忘れてしまったのか、と梯子は唇を噛み締める。
「ね……だぁれ?」
「ほら、聞かれてるよ……!」
岩鳶に身体を押され、梯子はつんのめるように病室の中に入る。先ほどよりも近い位置でみる竜哉の顔は幼さの中にも、どこか大人びた感じもあり、見たことのない表情に少し戸惑う。
「記憶喪失を回復させるためには、一つずつ思い出させていくことだ。小さい子供に教えるみたいに一つ一つゆっくりゆっくりとね」
岩鳶が扉を閉めながら、小さな声でアドバイスをくれた。
「え、え……と」
竜哉は梯子をじっと見つめ、答えを待っている。
そんな無垢な瞳を向けられると、どう答えていいかわからなくなってしまう。いや、単純に幼馴染ですと答えればいいのだけれど、そもそも小学生に幼馴染とか言っても伝わるのか? それにお互い両親がいない身としては、唯一近くにいる知り合いとして、私が世話を見ていかないといけないし、世話をやくなんてそんなお母さんみたいなことできるのかな、あー、そういえば小学生の時はずっとおままごとをしてたっけ、っと今はそれとなんも関係もなく、えーと、えーと。
頭がグルグルとまわる。顔に熱が集まっていく。早く答えなければという焦りと、竜哉に見つめられている照れが合わさり、もう何が何だか。
「わたしは……!」
おさななじみ、これから、世話、おままごと。
色々な単語が頭で混ざり、梯子の口からついて出た言葉は――
「わたしは、あなたのお母さんです!!」
後ろの方で岩鳶がスッ転んだ音がしたが、そんなことにかまっている余裕はない。
少し冷えた頭で自分が何を言ってしまったのか理解する。そして、とんでもない嘘をついてしまったと冷や汗が伝う。
「ママ!!」
動揺する大人二人を余所に、竜哉は大声で叫んだあとベッドから降り、満面の笑みを向けて梯子に抱き付く。
「え……?」
胸の辺りに顔を埋める竜哉は、梯子の言葉を少しも疑っていない。
「は、はは……」
とんでもないことをしでかしてしまった。乾いた笑いを浮かべながら、梯子はそこに突っ立っていた。