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#Let's "run away” together

#Rosette EP2 檻の中の二人


 普段よりもいくらかの静寂に包まれたホームルームでは、スマートフォンを片手に談笑する数人の女子生徒の群を除いて、テスト直前のあがきとも言うべき奮闘に精を出すクラスメイトがかしこに見受けられた。

 テストの点にさほどの興味もない觜鷹は、赤点さえ回避出来ればそれで良いという考えだった。ぼんやりと頬杖をついて教科書を拡げ、そこに並ぶ幾何学的な数列を、はたから見れば真剣そうに眺めていた。

 昨夜眠る前にみもりへ一通のメールを送った觜鷹は、その返事が来るのを今か今かと気にかけていた。暇さえあればiPhoneの画面を幾度となく覗いてみたが、そこにみもりからの返信は未だ来ていない。

 真由美に誠二の事を話す。その一文を打つのにどれほどの時間を要したかわからない。送る寸前でさえ、自分の判断は正しいのかという自問自答が果てしなく繰り返された。

 そうしていざメールを送った暁には、一種の激しい浮遊感を覚えるほど何か大きなものを吐き出して身軽になった感覚を覚えた。加えて、何かからほんの少しだけ許された気がした。

 有言実行を期するためにも、觜鷹はもう後には引けないでいた。


 昨日の別れを最後に神崎は今日も姿を觜鷹の前に現さなかった。彼の制服を汚してしまった手前、觜鷹は一晩経ってその事に後悔を感じ、謝罪すべきだと内心強く感じ始めていた。

 ところが心の裏側には誠意を以って神崎に応じるのが気恥ずかしいと感じる自分が居るのも事実だった。いつの間にか神崎が隣に居ることが当たり前になり、彼という存在に慣れ親しんだ故の感情。觜鷹は思わず心の中でそれを否定した。不可抗力なのだと、そう自分に言い訳をした。

 万が一神崎に対して友情に似た感情を抱いているとしたら、觜鷹は自分自身への信頼と呼ぶべき自尊心の塔が傾くか崩壊する気がしてならなかった。それは、心中決して穏やかではなかった。

 觜鷹は開いていた教科書を乱雑に閉じると、腕を枕に、机に突っ伏して目を閉じた。視界が暗闇になると周囲の音はやや鮮明に聴こえ、觜鷹は黙ってそれに耳を澄ました。

 シリシリと紙の上をペンが走る音、シャリシャリとページが捲られる音。その中で、勉強ではなく会話に勤しむ声がそれらの環境音を抑えて明朗と觜鷹の耳に舞い込んで来た。

「転校生が来るんだって!」

 女子生徒の声でそう囁かれたのを、觜鷹の耳は聴き漏らすことなくはっきりと捕えていた。「本当?」と大げさに驚いてみせる誰かの声がして、觜鷹も声には出さずに同じことを思った。


「何でこんな時期に」

「さあ。でもその転校生、噂によると外国人らしいんだよね」

 誰かが声を潜めてそう言うと、好奇心を露わにした声色で「凄い」、と誰かの相槌を打つのが聴こえた。

 会話の内容に興味をひかれた觜鷹は引き続き机に伏したまま耳を澄ましていた。周囲で聴こえていた筆記音がいつのまにかか細くなって居る。会話を耳にしたクラスメイトもまた、その内容に興味を持って勉強の手を緩めたのだろうと思った。

 会話から得られた情報は極めて異例のものだった。転校生は外国人、もしくは欧州系のハーフ。性別は女性でモデルのように綺麗な顔をしているらしい。

 その情報の発信源はともかく、信憑性については(イササ)か眉唾ものだった。大抵こういう類の噂には尾ひれが付いてまわり、吹聴者の思惑とは裏腹に次第に誇張されたものになるからだ。

 外国人の転校生といった珍しき逸材に至っては、その現象は顕著なのかもしれない。觜鷹はそこまで聴いておきながら次第に興味を失い、テスト開始の時刻まで惰眠を貪ろうかと怠惰な選択を図ろうとしていた。

 ところが、目を閉じた暗闇には己の内から湧き上がる妙な胸騒ぎがある事に気付いて、半ば強制的に眠りに落ちることが妨げられた。胸騒ぎは、悪い予感に似ていた。その予感はテストに対するものなのか、また転校生の噂に対するものなのか、即座には判断する事が出来なかった。


 觜鷹が眠りに落ちる前にホームルームは終わり、やがて廊下を歩く教師の硬い足音が聴こえてきた。

 分厚い手で開かれた扉から、見慣れた担任の顔が覗く。觜鷹が眠りかけた頭のぼーっとするのを支えながら上半身を持ち上げると、ジャージ姿で教室に入ってきた担任が教壇の後ろで大きく手を叩いた。

「始めるぞ。席につけ」

 教科書を凝視していた生徒らが諦めの悪い顔をしながら渋々その表紙を閉じてゆく。觜鷹も同様に机の上のものを粗方鞄に詰め込んで、教室内に充満する独特の緊張感を堪能し始めた。

 用紙とインクと、汗の匂い。普段の教室とは少し違う、切迫した香りだった。

「さて、今日はテスト二日目だが……始める前に、皆にひとつ知らせがある」

 教卓にテストの束をトントンと打ちつけていた担任が前触れなくそう口にする。その様子に、周囲の生徒が不意をつかれて不思議そうに顔を上げた。

「もう知っている奴も居るかもしれないが、今度うちのクラスで転校生を迎えることになった。急な話だが、皆宜しく頼む」

 えっ、という声が教室内のあちこちから上がった。觜鷹は窓の外の曇天を眺めながら、帰るまでに雨が降らなければ良いと思案し、傘の心配をしていた。


「どんな子ですか」

「もしかして、噂の外国人ですか」

 先ほど転校生の噂話に興じていた女子生徒達が意気揚々と担任に笑顔と質問を向けた。担任はにこりともせず「落ち着け」と言うだけで、深刻そうに手元に視線を向けている。

「本当はテストが終わってから話したかったが、あまりにも急な話だったので今話す事にした」

「急って、いつですか」

「それが、明日にも転校してくるそうだ。何でも本人は皆に早く顔を合わせたいらしい。さあ、この話はもういい。今はテストに集中しろ」

 そう言って硬派にテスト用紙を配り始める担任だったが、クラスの中は興奮や喜びを隠しきれない様子のクラスメイトで(ホトン)どだった。それは無理もないだろうと、觜鷹は思った。明日にも噂の転校生がやって来るなんてこの場の誰が想像しただろう。

 觜鷹も表情こそ変えなかったが、内心では周囲と同じように声さえ上げて驚きに身を興じたかった。しかしそれを他のクラスメイトと同じように享受できないのは、今日の空の雲が不穏な鉛色をしているせいなのか、みもりからの連絡がないからなのか、何にせよはっきりしなかった。


 觜鷹の前に裏返しのテスト用紙が送られて来た時、不意に教室の扉が静かに数回ノックされた。

 カラカラと弱々しく開かれた扉から、見慣れない初老の男性が顔を覗かせた。それを見るなり担任が「教頭先生」と呼んだので、その男性がこの学校の教頭であることが教員に無関心な觜鷹にもすぐに解った。

「ちょっと、良いですか」

あまりにも申し訳なさそうな声色で、教頭が言った。

「今からテストなんですが」

「知っています。しかし、少しだけ頼みます」

 試験の緊張に水を差されて眉をひそめる担任に、教頭は「頼みます」と懇願した。

 教頭の顔は一目みただけでも平静を欠いて青白く、瞳孔が開いていて気味が悪かった。まるで背中にテロリストでも控えていて、背中に銃口でも突きつけられているかのようだった。

「申し訳ありませんが、もうテストを配ってしまったので終わった後でも構いませんか」

「それでは困ります。早くしないと少女が私を……」

「少女?」

 その瞬間、それまで顔だけを覗かせていた教頭の身体がびくりと跳ねて、そろそろと後ろに下がっていった。

 少女、という不可解な一言を担任が繰り返したのを最後に、教室には異様な沈黙がじんわりと蔓延した。何が起きているのか?それまでテストに集中する気を見せていた生徒も教頭の明らかに異様な行動を目にして、そちらに視線を移していた。


 コツコツと靴底の響く音がする。

 規則的に聴こえる足音を引き連れて、小柄な少女が教室の扉を押し開けて入って来るのが見えた。

 少女を止めようとした教頭の腕が、廊下から虚しく伸びて、だれる。少女に威圧されているかのようにぶるぶると震えている教頭の姿は、觜鷹の目にひどく滑稽に映った。

 少女はこの場にいる全員の注目を全身に浴びながら、誰にも視線の先を向けることなく、背後に幻視の百合を咲かせながら教卓の前まで歩み出た。

 背の低い、華奢な身体に切りそろえられた前髪がふわりと揺れる。その瞬間、觜鷹の心臓が打楽器のように激しく脈打った。

 誰もが放心して見つめるその少女はこの学校のものではない、他校の制服を身に纏ってにこりと微笑んだ。鼻筋の通った、日本人離れした顔立ち。僅かにつり上がった両目、おかっぱ頭のようなショートヘア。間違いない。觜鷹はその瞬間、自分は一種の悪夢をみているに違いないという妙な確信に精神をぶん殴られた気がしてならなかった。

「お早うございます」

 少女がそう言ってお辞儀をする。外国人らしい、独特のニュアンスが含まれていた。

「私の名前は、Chloé Rosenstockです。フランスから日本へ来ました。皆さんとは早く仲良くなりたいと思います。ご挨拶するのをとても愉しみにしていました。どうぞ宜しく」

 淡々と少女がそう言うのを、この場の誰もが夢でも見ているように口を開けながら聴いていた。少女の自己紹介が終わると、時間が凝固していたような教室は途端に溶解し、幽霊でも見たような顔をして担任がぽつりと呟いた。


「……何言ってるんだ、君」

「Enchante(初めまして)。このクラスは今日から私の通うクラスです。ですので自己紹介をさせて頂きました」

 少女はそう言うと、制服のスカートを片手で摘み上げて花束のように会釈した。その雪のような白さをもつ足がすらりと地面に向かって伸びているのを見て、近くにいた女子生徒が甘やかな溜息を漏らしていた。

「……綺麗」

「フランス人なんだ」

 ぽつぽつとクラスのどこかから上ずった声が聴こえてくる。数名の生徒がまるで実物の女神を前にして心酔するような眼差しを少女に向け、魅了され、恐らくは思わずそう声に出していた。

「素敵」

 可愛い、綺麗、モデルみたい、格好良い、足が細い。皆それぞれ思いつく限りの言葉で少女の容姿を崇め、褒め讃えた。觜鷹の目にあらためて映ったその少女は確かに皆の言うとおり華奢で可憐で、美しい異国の美少女だった。

 しかしその美貌が優れているからといって、觜鷹もまた魅了されてはいなかった。美しさの奥に潜む猛獣のような気配。その気配を、温度を、觜鷹の肌という肌は全てが感覚器官となり、痛いほど感じ取っていた。


 見た目は天使でも、その中身は残酷を極めた殺人鬼。返り血を浴びる事に喜びさえ覚える異常性格(サイコパス)。觜鷹の脳内では様々な憶測が飛び交い、その回路を完全に熱し混乱寸前となっていた。

 どうして此処にあの夜の少女が居る。自分を殺しに来たのだろうか。觜鷹は背中に嫌な汗が無数に伝うのを感じ、心臓が確実にその鼓動を早めているのが解った。

 觜鷹の視線が少女に釘付けとなっていると、少女の視線がクラスの人間ひとりひとりの顔を確かめるように動いているのが見えた。瞳以外は少しも動かさず、まるで機械のように次から次へと、これではない、違う、これでもないといった風に教室内の隅々にまで視線を行きわたらせる。

 觜鷹はそれを見て思わず顔を伏せた。探している。何を?自分を。間違いない。觜鷹は少女が自分を探しに遣って来たのだと疑わず、冷や汗を流しながら少女の視線が自分の頭上を通り過ぎるのを切に願った。


「居た」

 觜鷹の背中がびくりと反応する。少女のその一言が、自分に向かって発せられた気がした為だった。

 コツコツと、少女の足音が聴こえ始める。その硬質な響きの一歩一歩がまるで死刑判決のような重みを伴い、觜鷹の精神を磨り減らすのが解った。

 その間の觜鷹の中に流れる時間はひどく、深刻に緩慢なものとなった。狂おしく退屈に、ゆるやかに恐怖の波が押し寄せた。

 何かの間違いだと願った。目覚めて夢であって欲しいと祈った。それでも、足音は止まなかった。担任が、教頭が少女を制止する声が聴こえる。それでもまだ、少女は止まらなかった。

 全てを亡き者に還すメロトロンの和音に重なる高潔なパイプオルガン。そして歩調のチェンバロといったいくつもの破壊的な音階が頭の中から鳴っている。少女が教室に現れた瞬間から。鳴り止まない。目に見えぬ奏者を銃殺しようと結果は同じだった。觜鷹の精神はそうした幻聴とストレスにより限界を迎えながら、やっとの思いで保たれていた。


「そこの君」

 恐らく、目の前で少女が立ち止まっている。少なくとも、觜鷹の席の正面で、少女の足音は途絶えた。

 まるで抑揚のない声。まるで白百合のような声。ほのかに甘く、冷たく、圧がある。觜鷹は鎖で繋がれて消耗しきった罪人のようにはらはらと顔を上げた。 

「どうして顔を隠します?」

 精一杯の冷静を装って、觜鷹はゆっくりと顔を上げた。端正な少女の顔立ちが見え、その視線が觜鷹の目に注がれている。觜鷹は目が合った瞬間、思わず目を逸らした。

 少女は觜鷹の想像よりいくらか品のある顔をしていた。数日前に見た時とは、少し感じが違うようだった。觜鷹は間近で少女の顔を目の当たりにして、改めてその日本人離れした端正な顔立ちに一種の幻想を抱いた。

 黙っていれば綺麗な洋服を着てランウェイを歩いているような凛とした顔立ちで、西洋薄荷(ミント)に似た一種の清々しさすら持ち合わせている。にもかかわらずその顔をずっと見つめていたいと思えないのは、少女の眼光が研ぎたての果物刀(ナイフ)よりもはるかに、はるかに尖って鋭利であるというほかなかった。

 少女は、觜鷹に向かってにこりと微笑んだ。觜鷹はそれを伏し目がちに見て、思わず息を飲んだ。

「これは、君のものでしょう」

 少女はそう言うと、制服の上着のポケットから男物のネックレスを取り出して、觜鷹の前に差し出した。


 觜鷹が見覚えのあるそのネックレスに目を奪われた瞬間、少女の両手が伸びて觜鷹のシャツを掴み、そこから勢いをつけて左右へ思い切り開かれた。

 バチバチという(ボタン)の床に転がる音がして、觜鷹のシャツのボタンがどこかへと消える。觜鷹は突然の事に何が起きたのか理解する暇もなく、瞬時に唖然とした。

 少女が持っていたネックレスを觜鷹の首に巻きつけると、装飾のクロムハーツが胸元でちらちらと揺れた。その金属のひやりとした感触は觜鷹の体温を吸ってすぐに同調し、やがて觜鷹の身体の一部に感じられた。

「なかなかに似合います」

 少女がそう言った瞬間、それまでしんとしていた周囲からひゃあと歓声に似た声が上がった。続いて笑い声や拍手、果てはまるで場違いな口笛までが飛んで、觜鷹をまるで古風な西洋映画の一場面(ワンシーン)を演じさせた気分にさせた。

「話がしたい。お前と二人で。ここではない、他のどこかで」

 少女は周囲の騒ぎを気にも留めず、胸元を大胆にはだけている觜鷹に向かって、そう言った。

「何を言ってるんだ」

「私の名はChloé。君の名を聞かせて下さい」


「ふざけるな」

 淡々と自分勝手に言葉を発し続ける少女に対し、觜鷹の唇は静かに震えていた。

 觜鷹の脳裏では、先日の悪夢のようなレストランでの出来事が瞬間、録画された映画のフィルムのようにカラカラと音を響かせながら回転していた。その映像の切れ端で嗤う少女の周囲にある夥しい血や、死体。そういった記憶の断片らが、目の前の少女に対して過剰な免疫反応を起こしていた。

 あまりに短絡な再会。理解すらままならない現状。觜鷹はそういった現実を飲み込むより早く、己の内で白煙を上げ始めている火種の存在に敬意を払っていた。この人間を認めてはいけない。その存在に流されてはならない。觜鷹の心は意思とも感情とも違う、あるひとつの使命感のようなものによって動かされていた。

「ふざけるな、とは」

 觜鷹の口から思いもよらない言葉が飛び出したために、少女はまるで理解できないと云った風でそう応えた。

「お前、何の目的でここへ来た。忘れもしない、お前があの夜何をしていたのか。俺は知っている、お前が何者なのか。俺は覚えている、お前がどんな人間なのか」

「では、話は早い」

 少女が觜鷹の言葉を遮ると、その表情には少しだけ不服そうな陰が落ちた。その拍子に、隣の席で興味津々に様子を伺っていた男子生徒が不意に二人の間に口を挟んだ。


「なあ、この子篝の知り合いなのか?」

 にやにやと目を細めながら、普段会話すら交わすことのない男子生徒は觜鷹と黒江との顔を交互に見遣っていた。その瞳は觜鷹と少女の関係に興味があるからというより、むしろ自分自身が少女との接点を持ちたいが故に光っているように見えた。觜鷹は首を振って否定するも、何と説明していいものか、迷った。

「邪魔をするなよ俗物が」

 やけに低く、冷え切った少女の声が、觜鷹が応えるより早く(セキ)を切って出た。今、何と言った?周囲の誰もが脳内にそう思い描く中、男子生徒の視線はあまりに冷酷な少女の視線を受けて、笑顔のままそこで固まった。

「私が今、この男と話しているのに。何故貴様が割って入った?不愉快だ。とても。不愉快極まりない」

「な、何だよいきなり」

 椅子に座ったままの男子生徒が顔を引き攣らせて椅子ごと後退りする。少女の身体がその方向へゆっくりと向き直り、無言のまま距離をつめた。

 まずい。

 觜鷹がそう直感した時、既に少女は事に及んだ後だった。少女は蛇のようにしなる右手で男子生徒の胸倉を掴むと、自分より頭ひとつは背の高いその身体をいとも容易く、軽々と縊り上げた。


「やめろ!」

 觜鷹は思わず叫んだ。脳裏にレストランでの光景が重なって見えた。少女の姿が死神のようにドス黒く、目を凝らせばその周囲に荊棘(イバラ)の束でも見えてきそうだった。少女は觜鷹の声を聴いて、床から数センチ浮いた足をバタつかせている男子生徒を無造作に、さも可燃ゴミを不潔極まりない路地裏に放り投げるように、極めて不親切に椅子と机の海の中へ放り投げた。

 ドタンバタンと騒々しい音を立てて、男子生徒の身体が周囲の机を倒しながら床に突っ伏した。悲鳴も何もなく、クラスの誰もが当然のように起こった瞬間の出来事に唖然として視線を奪われていた。

「やめたが」

 そう言って、少女は觜鷹へ振り向いた。その表情には常人の持ち得るほんの僅かな罪悪感も浮かんではいなかった。觜鷹の頬に、生ぬるい汗がひと筋伝うのが感触で解った。

周囲のクラスメイト達が倒れた男子生徒に駆け寄り安否を確認する。ゲホゲホと苦しそうに咳をするのを見て、顔色を変えた担任が少女に向かって声を荒げ、慌てて近付こうとする。

「君、一体何をして居るんだ」

「近寄るな」


 少女のその一言で、担任の足はぴたりと停止した。騒がしいクラスの空気が再びぴんと張り詰めたようになり、全員の視線は不動の姿勢で存在している少女へと向けられていた。

 少女は、觜鷹を見ていた。觜鷹もまた少女を見ていた。危険極まりない。いついかなる刺激で暴発するやもしれない不発弾を見るような目で、目の前の少女を見ていた。

「お前、ふざけんなよ」

 倒れている男子生徒を介抱していた生徒のひとりが、怒りを露わにして少女の肩を後ろから掴み掛かる。觜鷹の記憶上、その人物は倒れている男子生徒とよく話している姿を見かける、いわゆる彼の友人に違いなかった。

 その生徒と、振り向いた少女の視線とが交錯する。生徒は怒りにまかせて少女に次の文句をぶつけるべく口を開いたが、少女の蹴りがそれよりも早く下腹部へと叩き込まれたため、野太い声を一瞬だけ上げて後方の机に腰を打ち付けられた。

 生徒はそこで苦悶の表情を浮かべ、ただただ芋虫のように丸まって沈黙した。それでいよいよクラスの中は混乱した。席を立って逃げる者、ただ固まって成り行きを見ている者、笑っている者、携帯電話で写真を撮り始める者。阿鼻叫喚とはこの事かもしれないと、觜鷹は首筋に冷や汗を流した。

 少女は床で悶えている生徒に近づくと、まるで死体でも扱うかのような乱暴さで生徒の頭部を蹴った。がんという硬い音がして生徒の後頭部が教室の床で跳ね、悲鳴とも嗚咽ともつかない鈍い音声が生徒の口から漏れて消えた。


「やめろと言わなくて良いのか?」

 床でうめいている生徒を見下ろしたまま、少女の声が背中越しに觜鷹に届いた。少女は觜鷹の制止を待っていて、尚且つそれに従う機械人形のような姿勢でそこにいる。觜鷹は自分が先のようにやめろと言えば、少女はやめるのだろうかと思い、実際そう口にした。何をやめろと言いたいのかを理解しないままに、そう口にした。

「Non(嫌)」

 少女はそう呟くと、持ち上げた右足に勢いをつけて、まるで資源ゴミを分別する際アルミ缶を踏み潰すように、痛快に、仰向けで転がっている生徒の股間を履いているローファーの踵で踏みつけた。

 ぼりっという尋常ならざる音がして、クラスの中に股間を踏まれた生徒の絶叫が響き渡った。絶叫などという生易しいものでは到底ない、地獄で罪の償いをさせられる亡者の苦痛のような、それ自体が死に直結しているような凄惨な大悲鳴が、誰の鼓膜をも振動させた。

 数秒後、生徒は失神したのか身体をびくびくとさせながら白目をむいて陸に打ち上げられた魚のようになった。それを見て、少女はようやく生徒の股間からローファーの足を上げた。しんとしていた空間に、切迫した担任の声が矢のように放たれた。

「救急車を呼べ!」

 その言葉に誰もが危機を感じ取ったのか、それまで笑っていた生徒らも一様にシリアスな面持ちになって少女から距離をとるべく席を立った。一瞬にして、教室の中は侵入してきたテロリストに怯える集団のようになり、教室内には少女を中心に半円の人だかりが完成した。


 担任は生徒の人垣を掻き分けて教室の外へ飛び出すと、足音を響かせて廊下を走って行った。救急車、という叫びが觜鷹の耳に何度も反響して届いた。目の前では仁王立ちしている少女と、床に倒れて死んだように動かない男子生徒が二人。そして荒れた机と椅子という尋常ならざる光景が広がっていた。

 クラスメイト達は少女から距離をとりつつも未だ心のどこかで少女に対する執着か非現実感を抱いているのか、外に逃げようとする者は居なかった。男子生徒二人が少女に加害されたとはいえ、その光景があまりにも見世物じみていたり突飛的だったりしたので、何かの冗談だと本気で信じ込んでいる節もあった。

 女子生徒らは倒れている男子生徒らを見やって、あれ大丈夫なの?とひそひそ声を掛け合っていた。騒ぎを聴きつけたのか、隣のクラスの教師が様子を伺いに来た。誰も、真の事の重大さには到底気がついていない。気が付ける筈もない。觜鷹はそう思い、自分ただひとりだけ状況を飲み込めている複雑な事情を疎ましく呪った。

 ふっと振り返った少女の瞳が、觜鷹の表情を捉えた。席についたまま青い顔をしている觜鷹の眼は、混乱と、不安と、冷静さに満ちていた。胸が心拍を上げながらも、凍りついたように固結されている。少女に対する敵意と、わずかばかりの正義心が恐らくはそうさせていた。

 少女は觜鷹に(スミレ)のような笑みを見せると、膝上までの制服のスカートを軽く持ち上げ、会釈した。

「そんな目で見ないで」

 この世で最も残酷で美しい、天使の姿だった。


 バタバタと騒々しく階段を駆け上がる音が廊下からいっせいに聞こえ出した時、教室の扉付近の人垣がわっと裂けて、息を切らした担任を含め五、六人の教師が姿を現した。

「あの子です、取り押さえて下さい」

 額に汗した教頭が少女を指差して、怯えたようにそう告げた。ジャージを着たいかにも体育会系と見える教師らが二人、じりじりと教室内にいる少女を捉えるべく近付いてゆく。まるで凶暴な獣を見据えるように、その眼には若干の恐怖と緊張が浮かんでいた。少女は觜鷹を見つめたままだった。

「私はいつも、ふたりきり」

 何故、どうして。少女はそう言って、觜鷹の前で静かに瞼を閉じた。そうして教師らに背を向けたまま、自分の胸元にゆっくりと指先を這わせてゆく。

「さあChloé、何故こうして日本に訪れたのか、その証明をするのが先か、それとも爪を研ぐのが先か。お前はどちらだと思う?」

 少女がそう独り言らしく小声で呟くのを、觜鷹の耳は捉えた。少女の指先に、ぐっと力が込められる。觜鷹は瞬間、レストランの天井にうごめく大量の荊棘(イバラ)を想像して、それによって殺害された三人の男の死体を思い出した。考えるより早く、少女の腕を掴んでその胸から引き離すべく、飛び出していた。

 ぱちりと少女の瞳がひらいて、觜鷹の顔を見上げた。離せ。声は無かったが、唇はそう動いた。觜鷹は離さなかった。


 觜鷹は少女の腕を掴んだまま、形振り構わず教室からベランダへと通じるガラス戸まで走った。そうして戸を開けて、誰も居ないベランダを無計画に逃げた。曇り空から染みる灰色の空気が目に入って、觜鷹の眼にじわりと涙を滲ませる。少女は觜鷹の手に連れられるまま、共にベランダを走った。

 觜鷹は二つ隣の理科室の窓が開いているのを見つけると、ほぼ無意識に爪先はその場所を選び、勢いをつけて自分の胸ほどもある高さの窓枠に足をかけた。

 慣れない跳躍をしたために、窓枠に膝をぶつけて痛い思いをしながら觜鷹は静閑な理科室の床を踏んだ。続けて、ひらりと少女が降り立った。背後では教師達が觜鷹の名を呼んでいるのが聴こえている。追いつかれてはまずい。觜鷹は直ぐさま床を蹴り走り出した。

 理科室を出た横目に、廊下に出ていたクラスメイトと目が合った。觜鷹はそれに構わず廊下の端にある階段まで一気に走ると、何の計画もなしに上へと続く階段を選んで駆け上がった。

 テストが行われている時間のために、廊下も階段も至って静かで誰の姿もなかった。ただ、逃げる觜鷹と少女との靴音だけが甲高く廊下に(コダマ)した。

 

 觜鷹は階段を上っている最中、ふと誰も訪れないような不潔な屋上がこの学校にある事を思い出した。

 屋上ならば、しばらくは身を隠せていられるかもしれない。觜鷹は無言で手を引かれている少女の顔を一瞥して、「屋上だ」と簡単に行き先を告げた。

 少女は頷きもせず、觜鷹の目を見た。

 やがて踊り場に古く劣化したダンボール箱が積まれているのを横目に屋上へと続く扉の前まで辿り着くと、埃臭い空気の中、觜鷹の息はそこでいっせいに切れた。

 それまで息を潜めていた汗の玉がぽろぽろと前髪の隙間から床に落ちてゆく。觜鷹はそれに構わず、屋上のドアノブに手をかけて鍵の掛かっていない事に安息を覚えた。

 隙間から吹き込んできた風に目を細めると、屋上の周囲に張り巡らされたフェンスの緑色が見えた。曇り空の下、数日前の雨の乾ききらない、湿ったコンクリイトの床。空調の室外機が甘ったるい香りが、ぐっすりと觜鷹の鼻先に漂った。

「トウヒコウ」

 觜鷹の背後で、少女の声がぽつりと聴こえた。

 少女は自分のその一言が可笑しくてたまらないとでも言いたげに、クスクスと乾いた笑いを立てていた。

 觜鷹は屋上の中まで少女を引っ張ると、乱暴に少女を自分の前へ突き出した。そうして、悪戯に笑うその目をきつと睨んだ。


「何のつもりだ」

「何、って?」

「惚けるな」

 觜鷹の問いかけに少女は小首をかしげてさも愛らしい仕草を見せた。仕草は愛らしくとも、その瞳は野生の獣のようで、りんと光って觜鷹の眼を捉えている。觜鷹の喉が鳴った。

「お前がフランスからの転校生だなんて、俺が信じるとでも思ってるのか?」

 觜鷹は肩で息をしながら、冷たくそう言い放った。少女は何も言わない。どきどきと未だ鳴り止まない心臓を抑えながら觜鷹がもう一度少女を問い詰めようとした時、ようやく少女は空を見つめてぼんやりと口をきいた。

「雨が降りそうな空ね」

「何だって」

「私が折角Collier(コリエ)を返しに来たのに、君はアリガトウさえ言わないのね」

 少女は觜鷹の乱れた胸元に視線を落としながら、そう言った。觜鷹の胸元には下手に巻かれたクロムハーツのネックレスが揺れている。少女が言うCollier(コリエ)とはこれの事かと觜鷹が勘付くと、觜鷹はそれを力任せに引き千切り、乱暴に投げ捨てた。


 軽い音を立てて床を滑って行くクロムハーツを、少女は悲しげな瞳で見送った。

「こんなものどうだっていい」

 觜鷹がそう言って少女に一歩近づいた瞬間、ただでさえ薄暗い太陽を鉛のような雲が覆い、辺りの明度がふっと下がった。

 少女の姿はその瞬間、觜鷹の目の前から光のように消えた。影に蕩けて薄まって微細な粒子となって宙を彷徨うように、目に追えない速度を伴って、少女は消えた。

 觜鷹の鼻に、突然少女の髪の匂いが強く香った。いつの間にか自分のほぼ正面、ゼロ距離に位置していた少女の姿を視認したことにより、その香りは少女の髪の匂いなのだと判明した。

 少女は觜鷹の胸元を掴み上げると、そのまま屋上のフェンスに向かって乱暴に投げ捨てた。觜鷹は自分の身体がフェンスにぶつかって大きな音を立てた瞬間、嗅覚を刺激した少女の香りの残り香に半分意識を奪われていた。

 白檀に似た厳かな香り。甘く冷たい、バニラの香り。香水でも付けているのか、少女のその香りは無機質な屋上の香りの中で特に映えた。

 

 觜鷹は床に腰を打ち付け、その鈍く激しい痛みにしばし悶絶した。思わず目を瞑っていると、暗闇の中で少女の手が自分の喉元に伸びて、強く締め上げる。少女の爪が觜鷹の汗ばんだ喉に食い込んで、そこに赤い半月の印をつけた。

「Chloé(クロエ)に謝れ」

 悪魔のような顔をした少女が、そこに居た。

「どうした、早くしろ」

 觜鷹の身体は少女の腕によってフェンスに押し付けられ、次第に足が浮いて爪先立ちになった。

 觜鷹は両手で必死に少女の腕にしがみ付き、薄れゆく意識をこれ以上進行させないよう気道を確保するのに全力を尽くしたが、少女の腕の力は微塵も弱まりはしなかった。

「ねえ、止めて黒江(クロエ)。この子が死んでしまう」

 ぼそぼそと少女が何かを言うのを、觜鷹は薄れゆく意識の中に聴いた気がした。その瞬間、觜鷹の身体は少女の束縛を逃れ、どさりと音を立てて床に崩れ落ちた。

 久しくその仕方を忘れていたように芳醇な酸素を吸い込んだ觜鷹の肺と喉は、鉄臭い血の味がした。觜鷹はゼイゼイと咳き込んで、自分の喉がそこに存在するのを確かめるように手で抑えていた。


「ねえ黒江(クロエ)、貴女はいつもそう。一体何人殺せば気が済むというの」

「Chloé(クロエ)、お前が優し過ぎる。私が居なければ死んでいたのはお前なのかもしれないと言うのに」

 觜鷹の頭上で少女の独り言が聴こえた。会話のようなその声に觜鷹が顔を上げると、そこでは不機嫌な顔をした少女が首を振って立っていた。

 觜鷹は気味の悪さを覚えて少女の顔をじっと見た。少女はそれからも声色を少し変えながら、自分の中の誰かと会話しているように独り言を言い続けた。

 その様子は少女の気が変になってしまった印象を与えるではなく、むしろ觜鷹にとっては一種の安堵感を覚えさせられた。少女の意識が自分ではなく、何か別の目に見えないものに向いている事に対する根拠なき安堵だった。

「本当にこの男が知っているのなら、腕の一本でも切り落として仕舞えば済む事」

「これは拷問ではない。今日は天気が悪いからあなたが苛立っているだけ。お願いだから、死なせないで」

「相手次第だ」

 そこまでの全てを少女が言って、少女の唇は静まり返った。不機嫌そうな瞳が足元に転がっている觜鷹にグルリと注がれる。觜鷹はまるで自分が捕食されるべき虫か獣になったような錯覚を覚えた。


「名前は?」

 少女がそう言った。觜鷹は呆気に取られていて、直ぐに答える事が出来なかった。

「聴こえていないのか?」

「……篝」

「カガリ?Chloéには言い難い名前だ。まあ良い。カガリ、単刀直入に言う。貴様は薔薇持ち(ロゼット)だろう?」

 どきりと觜鷹の心臓が跳ねた気がした。觜鷹は少女を見据えたまま、何と答えるべきか迷った。それは一秒にも満たない刹那的な思考時間ではあったものの、少女が觜鷹の返答を待つ事は無かった。

「どうした?隠し事ならやめておくがいい。Chloéの鼻に間違いはない。お前と云う存在から、薔薇の香がするのに気が付かぬ筈も無い」

「薔薇の香?」

「性格には香りではない。薔薇持ち(ロゼット)の持つ独特な気配とでも言うべきか。Chloéの鼻は例え残り香からでも持ち主を特定する。お前の落としたCollier(コリエ)から、その香りがしたのだ」

 觜鷹は無意識に自分の腕を鼻に近づけ、嗅いでみた。制服の糸の匂いがするのみで、当然薔薇の香りなどはしない。少女はそれを見て呆れて「香りではないと言ったろう」と口にした。


「私とChloéはある目的の為、遥々海を越えて仏蘭西(フランス)から日本へ遣って来た。あるひとりの薔薇持ち(ロゼット)に逢う為に。私はChloéの鼻を頼りに人を探し、邪魔者を殺し、そして今日に辿り着いた。気の遠くなるような時の流れの果てに、私はようやくこの街に私の求める薔薇持ち(ロゼット)が居る事を知った。そしてカガリ、あの夜、お前に出逢った。無論、私の目的はお前ではない。しかし何か妙な気配がする。お前から、私の求める真理に到達しそうな気配が。私に協力しろカガリ。お前は現在(イマ)から私の(イヌ)になるのだ」

 はぁ、と気の抜けた声が觜鷹の口から漏れた。いやに仰々しい言葉遣いをする少女の言葉と相まって、冗談じみて聴こえた最後の一言が觜鷹の思考をやや停止させた。

「ちょっと待て。何を言っているのか良く解らない」

「頭が悪いようだから簡潔に述べてやろう。死にたくなければ私に従え」

 いや、だから。そう言う觜鷹を無視して、少女はひとり物思いにふけるように空を仰ぎ、まるでその先に居る何者かを想うように静かに瞳を閉じた。


「もう少しだChloé(クロエ)。もう少しで私達は本来在るべき姿に還れる」

 少女は両腕で自分の肩を抱くと、それをきわめて愛おしいもののように優しく撫でた。そうして、少しだけ哀しく目を潤ませた。

「悪いけど、俺は人殺しに従うつもりはない」

「何だと?」

 少女の瞳がきっと見開かれる。觜鷹は腰を両手ではたきながらゆっくりと立ち上がる所だった。

「忘れたとは言わせない。俺はお前がやくざ達を殺した所をその場で見たんだ。お前はその上警察から逃げた。俺が犯罪者に手を貸すとでも思うのか?俺はてっきり、お前が事件の口封じに俺を殺しに来たのだと思っていた。例えそうだとしても、俺だけ殺した所で無駄だ。俺と同じ、お前の薔薇が見える人がこの街に居る。その人は薔薇持ち(ロゼット)だ。未熟な俺と違って、その人はお前みたいな奴に簡単に殺されたりはしない」

 もうひとり。少女はその言葉を聴いて一瞬、目を見開いたように見えた。驚きや意外性ではなく、喜色や好奇といった色がそこに映ったのを觜鷹は見て取った。

「そいつの名は?」

「知って、どうするつもりだ」

 少女がじり、と觜鷹に一歩歩み寄り、言え、と無言の圧力を掛ける。觜鷹は少女に再び襲い掛かられるのを警戒しつつ、その反応に神経を傾けて観察をした。


「桜庭みもり」

 えっ、と言いかけて、觜鷹の思考回路に歪みが生じる。少女が表情を変えないまま言葉を続けた。

「そういう名前ではないか?その薔薇持ち(ロゼット)は」

 觜鷹は何とも応えなかった。しかしその無言と表情が少女には思惑通りであったらしく、觜鷹の図星を抉り取るようにして察知し、唇の端をニイと持ち上げた。

「喜べChloé(クロエ)!点と線は繋がった。今まさに!長い夜は明け、迎えうる朝日が私たちの頭上へ昇ろうとしている」

 両手を空へと広げ、まるで輝かしい何かの降臨を待つ教徒のような眼差しをする少女を見て、觜鷹は自分の失言を認めた。少女が探していたのは、あの、みもりなのか。

 觜鷹は絶望と公開とが混同する液体が全身を覆ってゆく気分に陥り、できる事なら今すぐ言葉を取り消したい。そう思った。

 少女はやはり、自分以外の何者かに話しかけている。そういう節がある。それが何を意味するのかは解らない。しかし觜鷹にとって今思考を支配されているのは、何故この少女がみもりの名前を知っているのかどうかという点に尽きた。

 全てが後手に、悪手に至っている気がした。目の前の少女の腹の底が固形物のようでいて、掴めない液体となり指の間をすり抜けてゆく。觜鷹の脳内で次に発する一言が何か定まらぬ混乱の内、うっかり口をついて出たのは「さっきから何をひとりで言っているんだ」という一言だった。


 少女は気分爽快といわんばかりの澄み渡る目をして、觜鷹を見た。觜鷹は心の震えを抑えながら、息を細切れに吸い込みながら、「気持ちが悪いんだよ」と言った。少女は首を傾げた。

「一体誰と話してる」

「誰と?決まっているだろう、私の中の私とだ」

 少女はそう言って、理解できないといった様子の觜鷹に説明を加えた。

黒江(クロエ)の私。そしてChloé(クロエ)の私。気分が良いから特別に教えてやろう。カガリ、私は己の内の薔薇に目覚めてから、自己とは別にあるもうひとつの生命に気がついたのだ。それは私と共に成長し、ついには私の精神を二つに分割するまでになった。それは決して不幸なことではない。非常に尊い命を授かったと言うに相応しい、神秘的な事実だ。何故なら、黒江の私もChloéの私も、どちらとも結果的には全て私で、失うものなどは何も無かったからだ」

「二重人格?」

 觜鷹の言葉に、少女は鼻を鳴らして「下らない」と応えた。

「人格ではない。Chloé(クロエ)は私の中にしか存在しないが、確固たる人物として存在したのだ。その証拠に、私は彼女を愛している。黒江ではない、Chloé(クロエ) Rosenstock(ローゼンストク)として私は彼女の存在を確信したのだ」


 觜鷹の目の前で、少女の表情が変化する。鋭く研いだ刃物のような顔立ちがわずかだが柔らかく、どこか陰って見えるようになった気がした。頭上の太陽が雲から離れ、またはかなげな光を屋上に注いだ折だった。

「私達はMimoriを探します。心を二つに。私達が共にいながら同じ時間を過ごせるように。それが出来るのは、薔薇持ち(ロゼット)である彼女(みもり)だけだから」

「心を二つに……?まさか、そんな事が……」

「可能だ」

 瞬きの後に再び雲に隠れた太陽の落とす影が少女にかかった時、少女の口調はまたも堅苦しいものに変化していた。觜鷹は少女を見ていたが、外見的にはやはり何の変化はない。ただ、少女の内部で何かが切り替わった。それは人間が演技によって人格を変える事とは全く趣の異なる、微かな違和感や態とらしささえ与えないごく透明無比の、神秘たる変化だった。

「さあ教えるがいいカガリ。桜庭みもりは何処に居る?」

「仮に知っていたとして、教えるとでも思うのか」

 既にみもりの存在が発覚した現状においても、觜鷹はあえてその存在をぼかす発言をした。それが少女に対する唯一の、最後の抵抗であると知りながら、同時に確信した少女には何の意味も持たない事を理解していた。

 少女は愉快そうに歯を見せて嗤う。

「思うさ」


 少女はブラウスの首元の(ボタン)を二つほど外すと、露わになった白い胸元にそっと陶器のような指先を這わせた。

 觜鷹が瞬きをするより速く、少女の指はそこにあらわれた一輪の白薔薇を抱擁していた。たおやかな指先に大輪の白い花弁をふんだんに咲かせながら抱かれているその薔薇は、純潔とも無垢とも違う抑圧的な高潔さを周囲に惜しみなく解放していた。

「Carte Blanche(カルト・ブランシュ)

 少女のその一声と共に、白薔薇は美しく棘の無数についた荊棘状の鞭へと変貌した。持ち手の部分は西洋の騎士を思わせる柄がついており、さながら刺突剣(レイピア)のようでもあった。

「貴様がこれよりひとつ隠し事をする度、この鞭は貴様の肌を切り裂こう」

 觜鷹の喉が、恐怖と戦慄によりごくりと鳴った。少女の手からだらりと床まで垂れ下がる鞭にはあまりに鋭い銀色の棘が觜鷹へ向いてぎらぎらと光っており、蔓薔薇のようにしなやかな蔓は雪化粧をするよりも白く清潔な色をしていた。

 レストランで見たものと同じものには違いない。しかし陽の光のもと、間近で鮮明に目にしたそれはまるで装飾具のように美しく残酷な富に満ち満ちていた。觜鷹は少女が次の言葉を紡ぎ終わるまで、その美しさと恐怖とに目を奪われ、単に凝視していた。


「桜庭みもりは何処に居る?」

「知らない」

 バチンという風船の弾けたような音がして、觜鷹は胸元に焼け石でも押し当てられたかのような燃えさかる痛みを覚えた。觜鷹が危険を察するより速く振るわれた鞭の先端は、虎に爪を立てて飛びかかられたような荒々しい傷を觜鷹に与え、肌の上に流星のような傷跡を袈裟がけに残していた。

 シャツとネクタイが破れている。觜鷹は己の身体についた傷を見て、やがて息を潜めてやってきた激しい痛みを覚え低く悲鳴を上げた。胸元を両手で押さえ、屋上の床に膝をついた。

「桜庭みもりは何処に居る?」

 少女の声が視界の外から觜鷹へと響いた。偽れない。觜鷹はみもりの身の安全を重視するべき理性と、己の痛みに耐えうる本能との狭間で苦悩した。想像よりもはるかに激しい痛みをもたらす傷を見て、膝が震えていた。

「さっさと答えろ。別にお前が答えずともこれまでの情報があれば探し出すのは訳もないが、手間が省けるには違いない。別に私はどちらでも構わないのだ。だがお前は違う。お前に与えられているのは選択肢ではなく、飼い犬に対する(シツケ)なのだから。主人の機嫌を損ねるような犬に存在価値は無い。お前は従順か?カガリよ」

「黙れ……殺人鬼め」


 觜鷹の頬に下から吹き上げる突風のような一撃が加えられる。觜鷹の顔の皮膚が爪跡のように裂け、鮮血が数滴床に垂れた。静閑な屋上に、觜鷹の悲鳴だけが息をする獣のように駆け巡った。

「二度目だ。仏の顔は三度までという諺がある。私もそれに倣うとしよう。次の鞭は貴様の指……上下合わせて二十本を奪うものとする」

 少女が鞭の手元で弄びながら、痛快と言わんばかりに少女の声は踊っていた。觜鷹は心臓の異常な高鳴りを体内から聴き、そしてうつろに聴こえる少女の声に怒りと畏れの感情を抱いた。

 少女は三度目の質問を口にしていた。一度目、二度目と全く同じ質問内容はその口調さえも一律で、尋問官のようにドライな舌の根を駆使して紡ぎ出された一言だった。

 觜鷹は俯いて黙っていた。今更、みもりについて何か話す気には到底なれなかった。話したとして、それにより助かる我が身には何の価値も見出せそうになかった。

 それは一種の英雄感情(ヒロイズム)なのかもしれないし、情動的な過ちなのかもしれない。何が正しいのか、觜鷹がそれを導き出すには、現状あまりにも時間的余裕を欠いていた。死んでも良いとは思わない。一秒でも二秒でも、少女による執行への猶予が欲しかった。そのため沈黙していた。ただもう限界だった。觜鷹が何も言わず黙秘を貫けば、それがそのまま回答と見なされて少女の鞭が觜鷹の指を切り落としてゆくだろう。

 觜鷹は無限にも思える長い葛藤の末、頭上で少女の憂鬱な溜息を聴いた。耳元で死を囁かれるような、甘い淀みだった。


「残念だ。貴様はもっと利口な男だと思っていた」

 觜鷹の耳に鞭のしなる音が聴こえ始めた。觜鷹は顔を上げずに、ただ自分の胸元に手を置いて目を閉じた。

 先ずは足だ。少女がそう言った瞬間、觜鷹ははっとしてその顔を上げた。そうして、自分の胸元から一輪の薔薇を掴み取っていた。コバルトブルーに淡く輝く、觜鷹自身の薔薇だった。

「刺せ」

 唇と舌だけを動かして、觜鷹がそう告げた。觜鷹は手に持った薔薇を少女の前へと突き出し、その先端を見ていた。少女も、それを見ていた。

 二人の視線の先で、薔薇は瞬間液体のようにその(カタチ)を維持しなくなった。溢れるでもなく、滴るでもなく、全く固形的な流動を繰り返し、觜鷹の手の中でそれは硝子のように透明で美しい刃を持つ刀へと変貌を遂げた。

 いつしか銀色の柄を握っていた觜鷹の手に剣先から一滴の血がするすると伝わり、小指から手首にかけ流れてそこで(シタタ)った。刀の切っ先は少女の右肩に刺さっていて、滴った血は少女から流れたものだった。

 少女の肩が震える。少女が一歩後ろへ下がると、ずるりと音がして少女の肩から刀の先が抜けた。少女は息を荒げて、想定外のものを目にした驚きと、肩の痛みとにひどく混乱しているようだった。切っ先が抜けた傷口は制服のブラウスの白を赤く汚しはじめたが、次第にパリパリと音がして傷口は凍結しはじめ、少女の右肩全体にうっすらと霜がおりた。

 凍った少女の腕は、そこで動かすことが難しくなった。


「これは……何だ?」

 目の前で刃を突き出したままの觜鷹を見て、少女は力なくそう口にした。傷口を押さえる手の甲にも霜が広がり、まるで少女の傷口そのものから冷気が発せられているような光景だった。

 少女は甲高くまた自らの薔薇の名を宙へ叫んだ。それははじめ薔薇を鞭に変えた時の静かな声色とは違い、明らかに感情的で怒りに震えた声をしていた。少女の持つ鞭がうごめき、荊棘が先端から(ワカ)れて幾重にも伸びてゆく。それらの荊棘は觜鷹の目の前でひとつの大きな混み入った塊となると、縦長に伸びてレストランで目にしたような白薔薇の咲く巨大な人型を模した。

 いつの間にか觜鷹の周囲には黒い(モヤ)が漂いはじめ、それは觜鷹の身体を包み込むように周囲を浮遊していた。間近で見ると、それはどうやら極小の黒い羽虫のようなものであることがわかった。

霊障(ペスト)が見えるか?貴様の周囲を取り囲む、不幸の先達(センダツ)だ。それに目を付けられたら最後、貴様は必ず死に至る」

 白薔薇の巨人が頭を少しづつ揺らし始めたのを見て、少女が嗤った。觜鷹は目の前の黒い羽虫の群れが少女の言う霊障(ペスト)なのかと思案した。

「正直少し見縊っていた。カガリ、貴様と桜庭みもりは想像以上に関係が深まっていたらしい。薔薇を昇華(トランス)させた上、不意打ちで私に反撃するとは見直した。この傷口は凍結して、安易に治療は出来ないかもしれない。私の平静を脅かす一手。実に見事だ」


「何が……何が見事だ」

 觜鷹は刀を突き出していた右腕に左手を添え、震える切っ先を少女に向けたまま浅い呼吸をしていた。目の前では荊棘が波打ち、黒い羽虫の群れがどんどん増殖してゆく。羽虫はどこから湧いて来るのか解らないが、目の前の白薔薇の巨人が揺れ動く度、その羽音が増幅してゆくような気がした。

「私の薔薇は少し特殊な癖を持っている。霊障(ペスト)をおびき寄せ、それを支配するのだ。今貴様の周囲に集まっている霊障(ペスト)の量は晩年に不治を患って伏している病人のそれに等しい。私に……いや、Chloéに危害を加えた者はこうして殺してやるのだ。遺伝子の一片にまで侵蝕させ、死体さえも遺らぬようにしてやる」

 少女はそこまで言うと、觜鷹の顔をひどく嗜虐的な目で睨みつけ、白薔薇の巨人を形作っていた大量の荊棘を幻のようにふっと消失させた。

 少女の手の中には元の白薔薇が一輪握られていた。少女がそれに軽く息を吹きかけると同じく薔薇も消失し、まるで全てが夢であったように少女を残して全て消えた。少女は校舎へと続く屋上の扉へ爪先を向けると、いまだ刀を持ち警戒している觜鷹を一瞥した。


「今日はさよなら。死ななくて良かったね」

 少女はまた独特のたどたどしい日本語を使い、觜鷹にそう言った。觜鷹は彼女こそがChloéなのだと、黒江の残忍な表情を思い浮かべて比較していた。

 頭上では、既に雲が去っていた。觜鷹の背後にうっすらと影が差し、また周囲の霊障(ペスト)もいつしか消えていた。

 觜鷹は何も言わなかった。むしろ、何も言いたくはなかった。目の前のChloé、若しくは黒江という少女に対して限りない憎悪を瞳に宿したまま、歯を噛み締めて獣のようにその身を固めていた。少女は扉まで歩いて行くと、後手に扉を閉める直前、もう一度だけ、觜鷹へ振り返った。

 憐れみとも同情ともとれるその表情に先ほどまでの嗜虐的な色は浮かんでいなかったが、その顔は寸分の違いなくその少女のものであり、間違えようもなかった。

 少女が扉を閉めて屋上を去ると、その足音が聴こえなくなるまで、觜鷹はその姿勢を維持していなければならなかった。少しでも気を抜けば、觜鷹の身体は崩落し、二度と少女には立ち向かえない気がした。

 そうして周囲に何の音もしなくなって、はじめて觜鷹は屋上の床にどさりと横向きに倒れた。握っていた刀が地面に触れた瞬間、それは瞬時に元のコバルトブルーの薔薇に戻って、そして消えた。觜鷹は傷が痛むのも忘れて、ただ湿った床に血のにじむ頰をつけた。


 どこからかチャイムの音がしている。觜鷹はその音を聴いてはじめて今この世界が時の流れを以ってして流動する現実なのだと思い出した気がした。それまでは、まるで悪夢の延長であるか隔離された世界であったような気がした。

 意識が穏やかになるにつれて、傷は痛み、血が流れた。觜鷹はぼろぼろの身体をやっとの思いで立ち上がらせると、覚束ない足取りでよろよろと校舎へ続く扉に向かって行った。

 頭の中には何の思考すら無い。ただ両足の赴くまま、放心に限りなく近い状態を維持して、元の世界に帰りたがった。

 クラスにある自分の席、白紙のテスト、教科書から発するインクの匂い。そういった物を感じて、早く少女という悪夢から逃れたかった。忘れたかった。そうして、ぬるいステンレスのドアノブを捻った。

 乱れた胸元が屋内の空気に触れてわずかに震えた。なんとも重苦しい暗がりの階段を見て、觜鷹は足を滑らさないよう手すりに体重を預けて慎重に一段ずつ降りて行った。

 興奮物質(アドレナリン)の完全に切れた身体は気が狂いそうになるほどに重く、まるで胃が鉛を飲み込んでいるようだった。今日の空の色に作用して、今の自分自身が鉛雲のように消失しない事を切に願いながら、觜鷹は現実へと続く下り階段へそのつま先を閑寂におろしていった。

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