#Minuetto
#Rosette EP2 メヌエット
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帰宅途中商店街モールの一角から見える太陽は、熟れてやわらかな果肉のようで、思いふけって歩く觜鷹と、その横で心配そうな顔をする三久とを照らしていた。
「顔色が悪いように見えるけど……本当に大丈夫?」
「寝不足なんだ」
「テレビでも見てたの?あ、それともテスト勉強?あたしなんて真由美さんの料理をお腹いっぱい食べたから、家に帰るなり眠くなって寝ちゃったよ」
「そうか」
「……心配だなあ」
自分のつま先を眺めながら歩いていた觜鷹は、時折すれ違う人影に気が付かず、既に危うく何度か衝突しかけていた。学校から出ると直ぐに三久が駆け寄って来て、そのまま成り行きで帰り道を共にして、それからずっと、觜鷹は上の空だった。
返答のない觜鷹に、三久が目の前でひらひらと手を振っている。明らかに視界に入っているにもかかわらず、觜鷹の反応は無い。三久は呆れて、長く伸びた自分の影を見つめて溜息をついた。
「……あたし、今日はやっぱりひとりで帰るね」
「ああ、気をつけてな」
「そのまま返すね。お兄ちゃんも気をつけて。本当に変だもの、ずっとぼーっとしてる」
「そうか」
「うん……じゃあ、また明日ね」
三久はそう言うと、その場で立ち止まってひとりつかつかと歩いて行く觜鷹の背中をじっと見送った。
觜鷹は振り返りもせずに、目の前の中心街にあるアーケードの中へと消えてゆく。徐行する自転車が迷惑そうに觜鷹の前でブレーキを掛けたが、觜鷹は果たして気づいていない様子だった。
本当に、大丈夫だろうか。三久はその姿が本当に小さくなるまで見送ると、とぼとぼと別の道をひとり歩き出した。
觜鷹の思考を支配していたのは昨夜の事件と、みもりとの会話の主題となった、自分の過去についてだった。時間を忘れて話し込んでしまい、觜鷹が家についた時には夜の十時を回っていた。
みもりが母親に事情を説明しようと提案したが、觜鷹はそれを拒み、みもりの見送りも断って家まで走って帰った。
夕食も入浴も忘れ、部屋に入るなり直ぐにベッドに横になった。みもりのカーディガンを着たままである事や、明日がテストなのだという事も忘れ、気絶するように眠りについた。おそらく、それほど疲れていた。
朝になると、机の上に海苔の巻かれたおにぎりが二つ、更に乗せられて置いてあった。触ってみると、やけに冷たい。昨夜に母親が置いていったのだと思った。
觜鷹は時計を確認し、髪をかき乱し、服を脱ぎながら冷たくなったおにぎりを口へ運んだ。着替えの制服を持って浴室に篭り、身だしなみを整えて、覚醒しきらない頭で学生鞄に支度を詰め込んだ。玄関で靴を履き、母親がまだ寝ている事に気がつく。しんとした家の中に差し込んだ朝日が、宙を漂う埃をきらきらと輝かせていた。
扉を開けると、早朝の夏の匂いがした。
学校へ。
子供の頃に、両親に連れられてディズニーランドへ行ったことがあった。とても楽しかったけれど、帰るときにはひどく寂しくて、泣いた。泣いて疲れて、眠って、ふと目を覚ますと、眠っていた自分を乗せた車が自宅に到着する頃だった。
その時の何とも言い難い喪失感。孤独感。夢を見た後の、余韻が失われてゆく虚しさ。
觜鷹はそれに似たぽっかりと空洞になったかのような胸を抱えながら、見慣れた通学路をひとり、歩き出した。
靴を脱いで靴箱へしまう瞬間。自分の机にテスト用紙が配られる瞬間。問題を解き、解らない問題を飛ばしてゆく瞬間。休み時間に窓から外の景色を眺める瞬間。心の中には、昨夜見た薔薇のちらつきがあった。
一日経って思考が冷静さを取り戻すのか、どうしても余計に夢を見ていた気がしてならなかった。到底、現実ではない体験をした気がした。
白昼夢。幻。
少女が人をくびり殺す、夢。みもりが笑う、夢。何度も繰り返し見ている、くだんの悪夢。全ての存在が曖昧で、溶け合って、ひとつの黒ずんだ塊になってしまいそうな、錯覚。
そして、何より自分の薔薇のことを思うと、心持ちはどうにもならなかった。みもりに見せられた薔薇は、確かにそこに輝いて、少女の持つ薔薇と同じ、異様な存在感を示して具現していた。
何気なく胸のあたりに手を添える事すら、なにとなくこわい。薔薇を掴んでしまいそうで、知らない路地裏に迷い込んだ子供心のように不安が駆り立つ。
薔薇持ち(ロゼット)。その一言がリフレインする度、觜鷹の思考はわずかの瞬間、空となった。
とにかく、今の気持ちをどうにかする必要があった。今のところ何にも集中出来ず、その不快感は永遠とも思える程度につきまとった。
觜鷹は頭を振って、遠心力によって思考回路からノイズを追い出そうと目論む。目を閉じる。血がふっと遠のき、意識が霞んでゆく。
どんという音がして、誰かと肩がぶつかった。觜鷹は慌てて目を見開き、ぶつかった相手に対し口早に「すいません」と口にした。目は合わせなかった。しかしその途端聴こえてきた声と、見慣れた学校指定のローファーを目にして、思わずはっとなる。
「どうしたんだ、篝君」
目の前に、いたく驚いた表情の神崎が立っていた。
肩に学生鞄を掛け、觜鷹と同じ下校途中であるに違いないその姿を見て、觜鷹は思わずしまった、と思った。
「……神崎」
「ちゃんと前を見て歩かないと、危険だろ?」
神崎と解るや否や仏頂面をしてみせる觜鷹に対し、神崎は呆れてそう口にした。
「別に、見てたさ。前くらい」
「そうかな。今日は君に逢いに行けなかったから、珍しく君のほうから構ってくれたのかと思ったよ。以外と寂しがり屋だろう?觜鷹は」
「寂しい?誰が?」
觜鷹が心底苦々しい顔をすると、それを見た神崎が愉快そうに笑った。
この所毎日のように觜鷹の元へ通っていた神崎が今日はめずらしくやって来なかったので、觜鷹はその事について少しだけ疑問を持っていた。
テスト初日という事もあって、流石の神崎も追い込みに追われているのか。そんな事を考えていた。下校時間になってもいよいよ姿を見せなかったのには、認めたくはなかったが、流石の觜鷹も僅かに寂しさを感じていたのは事実だった。
そんな心の弱さや神崎に対する好意を悟られたくないために、觜鷹はやや演技的に大袈裟な悪態をついた。そんな事をしてもこの男には伝わってしまうのだと理解しながら。
「何だ、元気じゃないか。君が落ち込んでいるように見えたのは、俺の気の所為かな」
「……お前に関係ない」
落ち込んでいると言われて、觜鷹は思わず目の前の神崎から視線を逸らした。アーケードの中を通り過ぎてゆく、自転車に乗った生徒達が楽しそうに笑っていた。
「今日はテストもあったし、他にやる事があったから君に逢いに行けなかったのさ。ひとりにして悪かったよ」
「別に逢いたいとも思ってないし、来られても嬉しくなんてない。そうやって友達面するのやめろ」
「友達面?相変わらず辛辣だな、觜鷹は」
觜鷹って呼ぶな。そう言いかけた觜鷹は咄嗟にその言葉を喉の奥へ押し込んで、これ以上神崎の術中に嵌るのを寸前で回避した。神崎は觜鷹が名前を呼ばれる事を嫌がると知っている。毎回それについて言い返すのでは、結局奴の思う壺だと觜鷹も理解していた。
「そういや、テストはどうだった?今日は篝君の得意な古典がなかなか難しかったようだけど」
「……さあな、別にいつもと同じだろ。俺は元からテストなんて興味がない。それにしても、お前も試験前には流石に勉強したりするのな」
「勉強?」
ぴくりと眉を動かして、神崎が言葉を止めた。
神崎はまるで意外といった風に觜鷹を見ていた。何だ?觜鷹がそう怪訝に思う手前で、何かを悟ったような様子の神崎が再び口をひらいた。
「いや、勉強か。そうだよな、確かに」
「何だよ、違うのか?」
神崎は腕を組みながら片手で顎を触り、どこか含み笑いをして觜鷹を見た。その達観に似たある種の余裕とも言える表情に、觜鷹の精神は思わぬ逆撫でをくらった。
「君は、そういう風に捉えるんだね、篝君」
「嫌味な奴だな」
觜鷹はそれだけ言うと鞄を背負い直し、足早に神崎の横を通り抜けようとした。
これ以上神崎と話しているのが、途端に馬鹿馬鹿しく感じられたからだった。加えて、早々にひとりで考える時間に戻りたかった。別れの挨拶もなく立ち去ろうとする觜鷹に対し、神崎の腕は反射的に動いた。觜鷹の鞄の紐を掴まえたため、觜鷹の歩みは半ば強制的に停止させられた。
觜鷹が後ろにのめりながら調子外れな声を上げる。その声が意外に大きかったため、近くを歩いていた通行人がちらりと觜鷹と神崎を見た。
「おい!」
「あ、ごめん」
恥ずかしさと怒りで血を上らせた顔の觜鷹が、神崎に食ってかかる。神崎は悪びれるでもなく、その様子に笑みを吹き出していた。
「素直だな、と思って」
「馬鹿にしてんだろ」
いやいや、と言って神崎が笑う。觜鷹はいよいよこの男を無視して立ち去ろうと決め込んだものの、神崎がふと親指を立てて自分の後ろを指し示していたため、思わずそちらに視線を向けた。
こじんまりとした屋台のような雰囲気の店がひとつ、甘い香りを周囲に降り注ぎながら、神崎の指し示す先にあった。アメリカンナイズされた制服に身を包む女性店員が手早く丸い鉄板に生地のようなものを流して、のばして焼いている。觜鷹の目を引いたのは、その横のショーケースに三段に並んでいる、色鮮やかなクレープの食品サンプルだった。
「折角逢えたのだし、クレープでも食べて帰ろう。男ひとりだと買い難かったんだ」
神崎がそう言って、まるで初めからこれを狙っていたとばかりに、にやりと觜鷹に微笑む。觜鷹はもの言いたげな口を開けたまま放心し、直ぐにはっとして「何でお前なんかと」と言い切った。
「別に良いだろう。あそこの店のクレープは生地に蕎麦粉を使っていてちょっと珍しいんだ。いつも女子高生が沢山並んでいてなかなか食べられないけど、今はほら、誰も並んでない」
「俺は別に食いたくなんてない」
「そう言わずさ。俺の奢り。ほら、早くしないと買う所を誰かに見られるぞ」
觜鷹は相変わらずぶつぶつと文句を言ったが、神崎はとうに耳に入らない様子で、觜鷹の腕を掴んでショーケースの前まですたすたと連れて行った。
どれにしよう、と言ってサンプルを眺める神崎の横で、觜鷹も渋々品定めに加わる。艶やかなたっぷりのクリームにきらきらとイチゴが踊り、その精巧さは蝋細工とわかっていても喉が鳴った。
プリンや小さなチョコレートケーキが丸ごと入っているものもあった。その少女性の中に顕在する豪快さが、女子高生を筆頭とする若い女性にはたまらないのだろう。この店のクレープの名前にはそれぞれ「プリンセス」という語尾が必ず入っているのがいやに特徴的だった。
「やはりシンプルにイチゴプリンセスかな。でも、こっちのパンナコッタプリンセスにもそそられる何かがある。篝君はどれが良い?甘い系が嫌いなら、塩味のガレットプリンスもあるよ」
「……別に何でも。お前と同じで良いよ」
「決まった。それじゃあ、イチゴプリンセスふたつ下さい」
神崎はショーケースから顔を上げると、オーダーを待っていた様子の店員に恥ずかしげもなくそう告げた。
ニコニコとした店員が手際よく鉄板に生地を流してゆく。小麦粉とは少し違う、独特の香ばしい匂いがふわっと拡がった。
「よくもまあ、恥ずかしいとも思わず言えるよな」
黒いメニューボードにチョークで書かれた文字を読みながら、觜鷹がぼそりと呟いた。マイフェア・シュゼットと英語で大きく書かれたそれは店の名前だろうか。終わりのほうが少し擦れていて、誰かが触れてしまった痕跡があった。
「事実、恥ずかしいよ。というか、それが女性客のみに狙いを絞るこの店の狙いなんだ。むさい男が何人も並んでる場所に、女性客は並びにくい。その点、クレープの名前がこれなら男はそうそう寄り付かないし、かえってメイン層には受けがいいんだろう」
「成る程な」
「つまり、この店のクレープを食べるという事は、そういう事なんだよ」
そう言って声のトーンを上げる神崎の瞳は、これまでにない程輝いて、はじめて年相応に見えた。
出来上がるまで、觜鷹はひとり店先のテーブルにひとり着いていた。ビニール製のテーブルクロスに頬杖をついていると、しばらくしてたっぷりのクリームとこぼれんばかりのイチゴのつまったクレープを二つ抱えた神崎がいそいそと戻ってきた。
「おまたせ。ここだと邪魔になるだろうから、どこか別の場所で食べよう」
神崎はいつの間にか数人の女性客が並び始めた店先をちらと見てそう言った。觜鷹も勿論この場で食べるつもりなど無かったし、既に女性客の好奇の視線が自分たちに向けられている気がして、足早にこの場から離れることにした。
歩きながら神崎からクレープの片方を差し出された觜鷹は、黙ってそれを受け取った。
礼のひとつも言われないのに、神崎が嬉しそうにするのは相変わらずだった。觜鷹は手に持ったクレープが意外にもずっしりと重いのに驚きを覚えつつ、二人並んでアーケードの中を歩き出した。
「どこか座るかい」
「好きにしろ。言っておくけど、俺はお前が食えって言うから食うだけで、礼なんか言うつもり無いからな」
「それは当然だろう。俺が勝手にした事なんだし、篝君が礼を言う事も無いさ。しかしまずはクレープをひと口食べて貰いたい。話はそれからだ」
神崎はそう言って手に持ったクレープへうっとりと鼻を近づけ、まるで天上に咲く蜜花か何かのように、その香りを胸一杯に吸い込んだ。
焼きたての蕎麦粉生地の香ばしい香りと、ミルク本来の野性味のあるクリームの香り。そこにイチゴの香りが加わって、ただ手に持っているだけなのに、觜鷹はすでにそれを食べ終えたかのような満腹感を覚えた。甘いものは嫌いじゃないが、べつだん好きな訳でも無かった。
「あそこの長椅子に座ろう」
アーケードの中にある雨よけのついた小さな待合を指差して、神崎がそう言った。ふたつあるベンチの片方には数人の子供がランドセルをおろし、各々手に持ったゲーム機を付き合わせて夢中になって遊んでいた。
觜鷹はその長椅子に座ると、自分と神崎との間におもむろに鞄をどさりと置き、それを境界線のようにして脚を組んだ。神崎もまた、同じように脚を組んで座った。
座ってしばらく、二人は無言だった。
人の往来を眺めながら、クレープを齧り、隣の子供達が指示しあい、楽しげに何か言い合うのをぼんやりと耳にしていた。
觜鷹は口の中に拡がるクリームの甘さを溶かしながら、そもそも神崎と一緒に座ってものを食べている状況に疑問を感じはじめていた。並んでクレープだなんて、今時恋人同士でも珍しい。そんな事を考えたら、クレープを握っている右手に少しだけ悪寒が走った。
蕎麦粉を使った焼きたてクレープは、流石に美味しかった。パリッとした生地の食感、口にして気づいたイチゴのコンフィチュール。そしてやけに口当たりの良いクリームは、甘いのが得意でもない觜鷹でも容易に食べ進めることが出来た。二人とも、美味しいともうまいとも言わずに、ただ無心にそれを食べた。
「……良かったら、聞かせてよ」
觜鷹が半分ほど食べ進んでいた所で、ようやく神崎が口をひらいた。
「何を?」
「君の事だよ。目の前にいる俺に気がつけないほど、何か深刻に考え事をしていたんだろう?」
指についたクリームを舌先で舐めとりながら、神崎が觜鷹に振り向いた。
觜鷹は食べる手を止めて、苔の生えているアスファルトの地面の隙間をじっと見つめた。
「別に、お前には関係無い」
「テストに一喜一憂する君でもなさそうだし。昨日の君に比べて、今日の君は明らかに様子が変だ。元気が無いというか、何かに怯えているというか。俺にはそういう風に見えた」
「関係ないだろ。いちいちそうやって首突っ込むの、やめろよ」
觜鷹がきっぱりとそう告げると、神崎は珍しく少しだけ悲しそうな顔をした。觜鷹は気まずくなったのを隠すために、がぶりと大口を開けてクレープに噛み付いた。あふれたクリームが口元からぽたりと落ちて、觜鷹の制服をわずかに汚した。
「ほら」
神崎が素早くポケットティッシュを取り出して、觜鷹に差し出した。
「さっきそこで貰ったやつ。役に立つとは思いもしなかったけど、こうして持っておいて良かった」
神崎がいやに恩着せがましくそう言うので、觜鷹はその好意を素直に受け取る事を躊躇った。觜鷹が無言で固まっていると、見かねた神崎がティッシュを一枚取り出して觜鷹の制服に落ちたクリームを素早く拭った。
「やめろよ」
「動くな、シミが拡がる」
ポンポンと叩くようにしてクリームを拭き取る神崎の指の感触が觜鷹の腿に伝わる。はじめ脚を引っ込めようとしていた觜鷹も、まるで母親がするようなその動作についうっかり見入ってしまった。
見入った後に、我に返って、嫌悪した。
「何で俺に構うんだよ」
汚れたティッシュを手の中で丸めている神崎に向かって、觜鷹が視線を合わせないでそう言った。
「何で、って?」
「解るだろ。何でお前みたいな奴が俺にそう付き纏うんだ。俺が迷惑してるのがわからないのか?友達が居なくて可哀想だからとか、そんな風に思ってるんじゃないだろうな」
「違うよ」
激しい目つきをしている觜鷹を見て、神崎は悲しげに頬をかいた。
「君と一緒に居るには、何か理由が無くちゃ駄目なのかい」
「そうじゃない。俺が言いたいのは、つまりお前が俺なんかと一緒に居たら、お前に迷惑が掛かるんだよ。俺はお前の事を友達だなんて思った事はないし、なってくれと頼んだ覚えもない。お前が善人ぶって、人助けか何かのつもりで俺に構ってるのだとしたら、大きなお世話だって、そう言ってるんだ」
觜鷹の握るクレープの包み紙に皺がより、乾いた音を立てた。
近くでゲームに集中していた小学生達が觜鷹の様子をちらと見て、ひそひそ言い合いながらその場を離れてゆく。自分の声が大きくなって居たことに觜鷹が気づく余裕は無かった。
「篝君は、そう捉えるんだね」
しばしの沈黙の後、クレープをひと口食べた神崎がそう言った。
「残念だな。俺はもう君とすっかり仲良くなれた気で居たのに。俺が君と一緒に居る理由なんてものを、今一度考えなくっちゃならないなんて。篝君、君は今、ひどく非生産的な言葉を口にしている事に気が付いているかい?」
「……何だって?」
「非生産的。つまり、君のその感情や思いは全て無駄なんだ。君がどんなに俺を疎んでも、俺は毎日のように君に会いに行っただろう?君がどんなに皮肉を言ったって、俺は気にもしなかっただろう?だから非生産的。無意味な考えだ。君がどんなに俺を嫌っても、俺の方は絶対に君を嫌いになんてなれないのだから」
「何言ってるんだ」
「君が好きだって言ってるんだよ」
「ぶん殴るぞ」
「人間的に、だよ。恋愛感情じゃない」
クレープを握りしめたままの觜鷹が拳をふりあげるも、やけに真面目な顔をしている神崎の視線に気づいて、思わず戸惑いを覚える。
冷ややかで切れた瞳、鼻筋の通った端正な顔立ち。決して嘘を言っていないとわかる硬派な唇。いつもなら神崎の冗談でおわるべき会話が、単なるシリアスに移ろいでしまおうとしていた。
觜鷹にとって、その時間はいやに静かで、冷静になるだけの猶予などはいくらでもあった筈だった。にもかかわらず面倒臭くもあり、半ば自棄になった觜鷹はただやみくもに、投げやりに神崎を殴ろうとした。
「ふざけんな」
「いや、君だよ、篝君」
神崎の顔の横で、觜鷹の握りしめたクレープからぼたぼたとクリームが垂れて、神崎の肩を汚していた。
觜鷹は殴る直前になって、無意識的にクレープを持っていたほうの手で神崎に殴りかかっていた。その結果、クレープは見るも無惨に潰れて原型を失う。神崎はそれを一瞥して、やはり真面目な顔をして觜鷹を見た。
「どういう理屈なんだ、それ」
「本当は滅茶苦茶お前の事殴りたかったんだよ」
そう言って、觜鷹はクリームまみれになった己の右手を見てうらめしそうな顔をした。
神崎の尋ねた理屈などは、存在しうる筈も無かった。殴りたいから殴った。実際はそれだけだった。本当は殴りたくなんて無かったから、代わりにクレープで汚してやりたくなった。事実はこうだった。
「折角のクレープが台無しだ」
神崎はそう言うと、自分の肩についたクリームを指ですくって、ぱくりと口に入れた。
神崎は制服を無惨に汚されながらも、それを全く気にする素振りは見せなかった。
「もう解るだろう、篝君。俺は君にいくら煙たがられようと、君に殴られようと、君の人間性を気に入ってるのだから君が何をしようと意味がない。君の実はキレやすい所とか、厭世的な所とか、こうして殴るつもりで俺の肩にクリームをぶち撒けちゃう所とか、そういった不安定な要素を全部含めて、君を認めているんだ。これを好きと言わずに、何と言えばいいんだ」
「何ていうか、もう、変態だな」
「ああうん。君に限っては、そうかもしれないよね」
神崎はそう言って、あははと笑った。つられて、觜鷹も仕方なしに笑った。
「水道を探そう。流石にこれは、ティッシュでどうにかなるレベルじゃない」
「確かに」
「確かにって、君がやったんだからな」
神崎と觜鷹はそう言い合って、再び笑った。
***
しばらくして、觜鷹と神崎はアーケードの中にある喫茶店の自動ドアから揃って外へ出た。
喫茶店のトイレで制服を洗っていた神崎の抱えるそれを見て、すっかり気持ちの落ち着いた觜鷹は店を出るなり「悪かったな」と呟いた。
制服の白いシャツを纏った神崎はそれを聞いて不思議そうに振り返った。
「何のこと」
「だから、制服」
「良いよ。直ぐに洗ったからシミにはならないだろう。それよりも、俺にとっては君との思い出が出来てラッキーだった」
神崎がそう言って揶揄うも、觜鷹にはもうそれに言い返す気力を持ち合わせて居なかった。神崎がトイレで制服の汚れを落としている間、冷静になった觜鷹は店の片隅で先の自分の行動に深い後悔と反省を抱いていた。
「俺、何やってるんだろ」
「気にするなよ。たかが制服だろう。そうやって萎らしいのは、実に篝君らしくないな。もっと普段みたいに、お前が悪いんだからな!とでも言ってみればいい」
「俺って、そんなに正確悪い奴だったのか?」
溜息を吐きながら歩く觜鷹の足取りは重く、喫茶店から少し歩いた処で歩みが止まった。その様子に神崎が振り向き、「どうした」と声を掛ける。
「さっきも言ったけど、俺は本当に篝君の事を良い奴だと思ってるんだよ」
「よせよ」
「嘘じゃない。篝君は気がついていないだけなんだ。自分の本当の良さに。才能に。周りの人間にはない、何か特別なものを持ってる。少なくとも俺は、それに惹きつけられる」
「特別な、才能……?」
才能。神崎の言うその言葉が、觜鷹の胸に反響して何かと結びつくのを感じた。
昨夜のみもりの言葉が、ふいに脳裏に甦った気がした。普通じゃないこと。感受性の高さゆえの儚さ。脆さ。そして危うさ。
觜鷹は自分がそれについて悩んでいた事実をすっかり忘れていたことに気がついた。
「なぁ、神崎。お前は幽霊って信じるか?」
突然、觜鷹は己の内に沸き起こった質問を思ったままに口に出した。まるで脈絡なく始まった觜鷹の問いかけに、神崎はおもむろに変な顔をしてみせた。
「また唐突だな。君、オカルトもいける口なのかい」
「答えてくれ。信じるのか、信じないのか」
そう言って瞳を真剣にする觜鷹を見て、神崎はどうしたんだといった苦笑いをみせた。まるでテレビのチャンネルを切り替えたように始まった談義に、神崎は姿勢を正して少しの間をつくった後、静かに口を開いた。
「信じる信じないで言えば、まぁ、信じていると言って良いだろう」
「そうか」
「まさか君、俺の言った噂を気に病んでいたのかい」
「そんなんじゃないさ」
觜鷹はそう否定すると、ぼんやりと視線を外してアーケードを吹き抜ける風の音を聴いた。
神崎の言う『噂』なんてものは、今耳にするまでとっくに忘れていた過去の一節にすぎなかった。觜鷹が幽霊について話を切り出す目的のわからない神崎は「じゃあ、何?」と言って觜鷹の応答を待った。
「なぁ神崎。お前が幽霊を信じるなら、人の胸に薔薇の花が植わってるなんて絵空事も、同じように信じられるのか?」
「何だいそれ」
「言った通りだよ。自分の胸にある日突然薔薇が咲くんだ。ただの薔薇じゃない。幽霊みたいに見たくても見えない、薔薇の形をした何か」
「……質問の意図がわからないな」
神崎は珍しく難しい顔をして、觜鷹の言葉に腕組みをした。そうして觜鷹の言葉の意味を測りかねていた。觜鷹が神崎を固い表情で捉え、逆に、神崎の視線は眠るように閉じられる。
「難しく考えるなよ。思った通りに答えてくれれば良い」
「しかし……君の冗談にしては、些か妙に凝りすぎている。それはこの質問が君にとって、非常に重要な意味を持っているものだからじゃないのか」
何故だと尋ねる觜鷹に、神崎は目を開けて、教師が教え子にそうするように腕組みをしながら説明した。
「君は簡単に答えろと言うが、この質問は君にとって何か重要な意味を持っている。おそらくは比喩の話なんだろうが、この質問が今日一日の君の気分を左右していると言っても過言でない気がする。そんな気がする」
難しく笑った神崎が、觜鷹の視線を捉えた。
妙に確信を突かれた気のした觜鷹は、ただ黙ってその視線に捉われた。神崎は、大人の目をしていた。
「今日の君は、やはりどこか変だ。一体何があったんだい?昨日はなんとも無かったのに、今日の君は少しやつれているし、表情も暗い。昨日の夜、何かあったんだろう」
「あったとして、だから何だ。俺が今知りたいのは、お前が目に見えないものの存在を認められるのか、どうかって事だけだ」
「何を拘っているんだ?ムキにならないでくれよ。目に見えないものの存在?篝君の気にしているものは幽霊に似た何かなのか?つまり君は、何を言いたいんだ?」
神崎にそう問われて、觜鷹はつい言葉に詰まった。自分は何を言いたいのだろうか。自分のことなのに、それは自分でも解らなくなってしまいそうだった。
二人の間に、沈黙が流れた。觜鷹はその間頭の中に奔流する言葉の群れを区画整理し、なんとか理路整然とした本質を紡ぎだそうと努力した。自分が本当に知りたい、聞きたい答えに見合うよう言葉を研ぎ澄ます必要があった。
それは一を聞いて十を知る神崎を相手にしても必要な事だった。あまりに現実離れした話をするならば、現実離れした話術が必要だった。残念ながら、觜鷹はそうしたものを持ち合わせていなかった。それでもやがて、觜鷹は静かに口を開いた。
「昨日の夜、視たんだ。見えない筈のもの……幽霊みたいにおぼろな、自分の薔薇を」
「……何だって?」
神崎が怪訝にそう聞き返したので、觜鷹は「だから」と言って、もう一度同じ言葉で繰り返した。
「篝君の悩みとはつまり、幽霊が視えるって事なのかい?だとしたら、羨ましい悩みだな」
「羨ましくなんてない。こっちは本気で悩んでるんだ」
はにかんで表情を緩めた神崎に、觜鷹はつい言葉に角を立てる。とはいえ、神崎の言うとおり常識では気楽にとれる悩みなのかもしれなかった。
「つまり君は幽霊を視てしまう事について悩んでいる。でも、それが本当に幽霊なのかは解らない。だから俺の意見を聞いて裏付けが欲しかったんだろう?それは理解できるとして、じゃあ、君がさっき口にした薔薇が胸に植わっている、というのは何の比喩?」
比喩、といえば比喩だった。觜鷹はみもりの言った『薔薇とは人の心そのもの』という一節に従い、そう考えた。しかし目にした実際はそうではない。棘のついた瑞々しい茎にひらいた、蠱惑的な花。そのまま口にするとあまりに真実味を欠くため、觜鷹は何と言っていいものか、再び言葉に詰まった。
「いや……比喩じゃない。薔薇は確かに薔薇だった。つまり……」
「いや、やめよう。これ以上を聞いても俺にはどうしようもない。篝君、君はどうやらとても複雑な事情を抱えているみたいだ。複雑すぎて、君を困らせてしまう程に」
神崎がそう言って言葉を遮り、觜鷹の言葉の続きを拒んだ。その様子が觜鷹にはどこか面倒なものを扱う時のそれに見えたので、思わずむっとしてしまう。
「あのな、俺が真剣なのが解らないのか」
「わかるよ。だからこうして一度に全てを聞いてしまいたく無いんだ。しかし君が苦悩するに至った過程はともかく、君を悩ませている原因は解った。ところで篝君。君はもしかして、噂のとおりに、つまりは夜道で名前を呼ばれて振り返ったのかい」
「だから、お前の噂は関係ないと言ったろ。それとも何だ、あの噂は本当だとでも言いたいのか」
觜鷹がそう言って眉をひそめるのに、神崎はどこか納得のいかなそうな表情をして腕を組んでいる。神崎が「いや、」と言うと、その声色は少し曇らせたように聴こえた。
「別に、噂は噂だけれど……昨日の今日で君が幽霊と言うので、俺はてっきり」
「なんだよ、本当じゃないのか?」
觜鷹がそう言って不服な表情になるのを、神崎はどこか罰の悪そうな顔で見つめていた。
神崎が何か言いたげで、しかし言うべきではない何かを抱えていそうな様子を見せたため、觜鷹はそれを追求するべく詰め寄った。しかしその拍子に神崎が「その話はいい」と言って傍に置いたため、觜鷹は二の句を紡ぎだすのを躊躇われた。
「しかし、何だか聞けば聞くほど解らないな。篝君、君は意外にロマンチストらしい。その薔薇というのはつまり、一体何を意味しているのだろうね」
「だから、薔薇だよ」
「それは花屋で売っている薔薇のこと?その薔薇というのが、事のつまり俺にはさっぱりなんだよな」
どうにも煮え切らない觜鷹の話に神崎が溜息をついたため、觜鷹は苛立って最早、口で言うより実際に見せるべきだとそう判断せざるを得なかった。それ意外に手は無いように思えた。
自分が薔薇を目にして初めてその存在に気づいたように、薔薇は異常なまでに絶対的で、あたかも強烈な個性を放っていた。
おそらく神崎にも視えるのではないか。そして視てしまいさえすれば、この苦悩も共有できるのだと決め込んで、觜鷹は制服の上から自分の胸にそっと手を押し当てた。
「何してるんだ?」
「静かにしろ。今、実物を見せてやる」
觜鷹はそう言って胸に手を当てたまま、目を閉じてアーケードに吹く風を背中に感じた。
目を開けば、昨夜見たあの薔薇が握られている。そう信じていた。昨夜見た薔薇の輝きに誓って、そう思えた。ところが、そろそろと目を開いた觜鷹の瞳には、その手に有るはずの薔薇などは、影すらも映らなかった。
そんな筈はない。觜鷹はすぐさま同じ動作をして、胸から薔薇を掴み出すイメージをより強くした。あの不思議でたまらない、コバルトブルーの薔薇が手の中でひかっている光景を必死に思い出した。
しかし再度目を開けて觜鷹が見たものは、やはり何も握られていない、乾いた空気を握る虚な右手でしかなかった。
「昨日はあんなにはっきり視えたじゃないか!」
「篝君、一体どうしたんだ?」
觜鷹は躍起になって制服の上着を脱ぐと、鞄をどさりと足元に落として、その上に制服も丸めて落とした。胸元を留めるシャツの釦を苛立たしく外し、自分の露わになった胸の上へ再び手をかざした。
少しだけ汗ばんでいる素肌の上に、焦る指が触れる。觜鷹は目を閉じた。掴め。掴まえてくれ。今ここで証明しなくては。觜鷹がそう強く念じても、果たして結果は同じだった。
シャツをはだけてまで再現しようとした状況はいとも簡単に水疱に帰してしまった。觜鷹は理不尽なこの状況に怒りとも悲しみともとれる心情に説明がつかず、消え入りそうな声で「そんな」と口にした。
それを黙って見ていた神崎は足元の觜鷹の上着を拾って、片手で叩いて埃を払う。そうして、そっと觜鷹の前に差し出した。
「ほら、篝」
だらりと下げられた觜鷹の腕はそれを受け取ろうとせず、また、気持ちもシャツの胸元もそのままだった。
篝と呼び捨てにされたのに口に出さない意味があるのだと受け取った觜鷹は、その上着を見つめたまま両手をじりと握り締めた。
「神崎、あのさ」
「もう帰ろう。そろそろ陽が落ちるし、君も疲れただろう。明日もテストがあるんだから、今日はしっかりと勉強をして……」
「神崎!」
上着を神崎の腕から奪い取るようにして掴んだ觜鷹は、思わずそう声を荒げた。隣を通り過ぎた老人のひとりが、驚いて觜鷹を一瞥し、落雷にあった樹木でも見るような顔で通り過ぎて行った。
急に余所余所しくなったように思えた神崎の態度が、觜鷹の神経をやけに逆立て、慌てさせる。神崎の表情は落ち着き払っていて、それが觜鷹の気持ちに拍車をかけた。
「俺が、どうかしてると思ってるんだろう」
「そんなんじゃない。ただ、君が必死だったからかける言葉が見つからなかった」
神崎はそう言うと、いきり立つ觜鷹から身を躱すようにして視線を逸らした。その言葉が真実である事は、觜鷹も解っていた。解っていながら、しかし飲み込めずいつまでも言葉の意味を咀嚼し続けた。そうして、皮肉や同情といった余計な意味まで味わった。
とたんに自分がひどくみじめな生き物として感ぜられた觜鷹は、目の前の神崎という存在が否応もなく不敵な存在に思えてならなかった。
それまで邪魔者扱いしていたにもかかわらず、神崎ならどうにか出来るだろうと知恵を拝借しようという甘えた考えが觜鷹の心を支配した。今更ながら、誰かの助けが欲しい自分に気がついていた。
「……俺は、どうすれば良い?」
弱々しく顔を上げた觜鷹を見て、神崎は少しだけ、觜鷹を憐れむような表情を見せた。そうして何も言わず觜鷹に向き直ると、自分の濡れたままの上着をばさりと羽織り、それに袖を通した。
神崎は觜鷹の手に握られたままの制服を奪うと、それを萎縮した觜鷹の肩に羽織らせた。そうして觜鷹の胸元の釦を留めてやるなり、足元に転がっている觜鷹の鞄を掴んで、ぐい、と突き出した。
「帰ろう、篝君」
「神崎」
「どうすれば良い、なんて俺に頼るのは君らしくないな」
きっぱりとそう告げる神崎の瞳は、見知らぬ他人を思わせる気高い色を纏っていた。それは觜鷹に対する軽蔑でも失望でもなく、どちらかと言えば、不服を思わせる色をしていた。
神崎はその瞳で活力を失いかけている觜鷹の瞳を捉え、無言のまま首を左右に振った。君らしくない、という神崎の言葉に否定された觜鷹の感情が、その場で燻った。
「解ってるよ、君の悩みが深刻なことくらい。君の顔を見た時から。まるで死人のようだったから。それでも、先の君は誰に頼るでもなく、むしろ手を差し伸べた俺を拒んだ。それは単なる強がりじゃない。全てを諦めた失意からの行動でもない。君の有する、強靭な理性だ。そして今君が口にした言葉は、君のその理性を否定するものだった。だから俺は嫌悪した。君が君でなくなる気がしたから。俺は君の全てを認めたと言ったけど、君でないものを認めたくはない。君と俺は対等じゃなくっちゃいけない。君は強い人間なのだから。どうすれば良いかは、自分でいくらでも決められる筈なんだ」
自分で決める。神崎の言葉の最後に添えられたその言葉が、まるで生命を持っているかのごとく飛び立って、觜鷹のあばらに刺さった。
神崎の言葉は叱責のようで、激励のようで、全てを一度に聞かされた觜鷹にはその意味を完全に理解するには及ばなかった。
しかし、何が言いたいのかは解る。自分が思わず不安や失意に呑まれそうになった事が、神崎は許せないのだろう。そう思った。觜鷹は自分の失態に気づくと、それを覆い隠すように羽織っていた制服に袖を通した。
「ごめん。君が必死に説明してくれようとしてるのは解るんだ。それを理解してやれない自分にも腹が立った。そこへ君が泣き言を言うものだから、ついかっとなった。謝るよ」
神崎は先の自分の言動が礼を欠いたと感じたのか、表情を緩めて僅かに恥じらった。觜鷹はそれを見て「なんだよ」と言うと、急に年相応に見え始めた神崎の肩をわざとらしく小突いた。
「お前こそ、謝るなんてらしくない。俺の知ってる神崎はそんな善人じゃないからな」
「ああ、切れ味が復活したね」
神崎はそう言うと、にっと歯を見せて笑った。
神崎が行こうかと口にしたので、二人はそれから並んでアーケードの出口を目指して再び歩き出した。
どちらも、無言になった。けれども、先の会話の余韻が残ったその静寂は気まずいものでもなく、どこか突き抜けた開放感があった。
觜鷹の中の問題は相変わらずそのままだったが、少なくとも周囲を取り巻いていた黒煙のような不安からは解放された気がしていた。それは感じていた恐怖が消えたというよりは、恐怖に対抗する武器を手にいれたような自信だった。
それでも、まだ弱い。
觜鷹は決め手となる最後の一押しが必要な気がして、自分の胸の中を探ってみた。みもりに話した、自分の過去のこと。レストランでの事件、少女のこと。薔薇のこと。そして薔薇持ち(ロゼット)と呼ばれる自分の存在。目立った内容物は、そんな所だった。それら全てが觜鷹の心を性急に駆り立てるものの、今はその声が鳴りを潜めている。
アーケードを出て仰いだ空は、すっかり暗くなってしまっていた。時間の感覚はすっかり鈍っていたに違いない。觜鷹が空の色に気を取られていると、神崎がふいにぽつりと何かを言ったため觜鷹は「何だ?」と言って聞き返した。
「俺って、冷たいかな」
神崎がそう言って足を止めたため、觜鷹も同様にその場で停止した。神崎は遠くの交差点を見ていた。どこか哀愁を帯びているその目に、觜鷹は思わず見入っていた。
「残酷にも、君を疑ったと思うかい?」
「思ったさ」
「うん、君はそう捉えると思った」
足元のアスファルトを踏んだ靴が、じりりと砂利の擦れる音を立てた。神崎が姿勢ごと觜鷹に向き直って、いつもの表情の上に真剣な眼差しをのせていた。
「違うよ」
やわらかに、神崎の唇が動いた。
「俺は何も疑ってない。君の言葉を全て信用してる。君をおかしいとも思わないし、嘘吐きとも思わない。君は、ただ致命的に説明が下手なだけだ。感受性のあるくせに、それを発信する能力に欠けているんだ」
真面目な顔をして神崎がそう言ったので、觜鷹は思わずむっとして「おい」と口に出した。
「君を取り巻く現状はつまり、幽霊のように実体がなく、それでいて薔薇のように美しく謎めいているって事なんだろう。百聞は一見にしかずとの言葉通り、君の体験したことがらは俺も実際に体験してみないと解らないのだろう」
けれど、と言って神崎が言葉を切った。自分の水で濡れた肩を見つめて、そこに起こった出来事を回想するように目を細めた。
「君は悩んでいる。とても正直に。真面目に。だから、俺は君に協力したくなる。君の話が聴きたくなる。君を煩わせてしまいたくなる。君はひどく魅力的だ。男としてではなく、人として。その悩み多き人生が羨ましく思える程に。これはもしかすると、恋かもしれない」
「また生クリームをぶち撒けられたいか?」
「それはノーセンキュー」
觜鷹の高圧的な文句に、神崎はそう言ってひどく真面目に頷いた。
「負けるなよ、觜鷹」
神崎がそう言った瞬間、急に辺りがしんとした気がした。
觜鷹は自分が名前で呼ばれることに少しだけ抵抗を覚えながら、何も言わなかった。それほど、神崎の瞳が急に真剣だった。
「君は強い。そしてもっと強くなれる。だから負けるな。負けそうでも、負けるな。そして最後には、勝ってくれ」
「それは、何かの比喩か?」
照れを帯びた觜鷹の言葉が、空気感を纏って神崎の唇を綻ばせた。神崎が笑って、「そうだ」と言った。
「気をつけて帰りなよ。夜道で名前を呼ばれて振り返ると、君が怖がっているものに出逢うかもしれないから」
「馬鹿にするな」
觜鷹と神崎はそう言い合って、しどろに笑った。街灯に照らされた二人の影がすっかり長く伸びて、薄れて溶け合っている。神崎は目の前の信号輝く交差点を見て、名残おしそうに「それじゃあ」と言った。
「また明日。君はそこの交差点を越えていくだろう。俺の家はもう近くなんだ。だからまた明日。今夜はせいぜい頑張って、テスト勉強に勤しむといいよ。学生らしく」
「お前も同じ学生だろう」
「俺は特別」
神崎はそう言い残すと、まるで風にのった枯葉のように「じゃあな」と口にして足早に駆けて行った。
交差点から車の行き交う騒がしき音の群れの中に、その姿が消えてゆく。觜鷹は何も言わず、その姿が見えなくなるまで、神崎の背姿を眺めていた。
そうしてようやくひとりになったのだと気付いた時、觜鷹はすっかり暗くなった空を見上げて、大きく浮かんだ鉛色の雲を仰いだ。
ついさっき見た空と全く同じ空なのに、その景色は確かに何かが違って見えた。黒い紙にくっきりとした白のラインが真一文字に引かれたような、開放的で、明暗に満ちた変化。それが空ではなく、自分の心の変化なのだと気付いた時、觜鷹ははじめて鼻から息を大きく吸い込む深呼吸をした。
身体の中の酸素が全く新鮮なものに変わって、ひどく心地よくなる気がした。鬱屈とした空気は肺を絞って、全て口から出した。
觜鷹はひとり自分の家に向かう帰路を歩きはじめた。暗い夜道で見えにくくなった電柱や人影も、ぶつからずに難なく躱すことが可能だった。
帰ったら、みもりにメールを打とう。不意にそう思いついて、觜鷹は足を速めた。歩きながら、その文面を頭の中であれこれ考えた。
その中で、最初の一行はこれにしようという決定事項は既に心の中にあった。觜鷹はその一行を思わず声に出してみた。
出してみて、清々しいような、恐ろしいような、不安定な気持ちを覚えた。一瞬、そう書くのはやめにしようかとも思った。
ところが、もう後には引きたくない。その一行を書かずにはいられない衝動が、今まさに指先から、胸元から飛び出すのを堪えている程だった。
觜鷹は胸元の釦を外し、その素肌に指を添わせた。ちくりと小さな棘が指にふれた気がして、慌てて手を離した。
さっきはどんなに望んでも掴めなかった、コバルトブルーの薔薇が手の中にあった。觜鷹が一度瞬きをすると、しかしその薔薇は消えた。
觜鷹は誰もいない背後を振り返った。幽霊は居ない。そもそも名前も呼ばれていない。
觜鷹は歩くのを再開した。iPhoneで音楽でも聴きながら帰ろうかとも思ったが、やめた。何故だか、今だけはそんなに気に入った音楽も邪魔になる気がした。
自身を取り巻く渦と、その周囲に根付く薔薇の一株。それに背を向けて立つみもりの姿を描いて、觜鷹は静寂の中呟いた。最初の一行は。
「誠二のこと、真由美さんに話すって、決めました」