#Absolute Zero
#Rosette EP1 零下459
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觜鷹の目の前で水族館がひっくり返ったような洪水が起きている。
いつまで経っても止まることのないスプリンクラーの銀色の水は、テーブルの上を、皿を、グラスを、全てに溜まり、少女の食べかけのステーキがみるも無惨に濡れ果てていた。
觜鷹が意識を取り戻したのは、濡れて肌の色が透けて見えるほどの肩を何度も揺すられている最中だった。
濡れて額に張り付いた前髪から、口元へ水滴が流れ落ちる。
「篝君!カガリ君!」
やわらかな前髪を水で濡らした、ひどく切迫した表情のみもりが両手で觜鷹の肩を揺すっている。
クリニックから急いで飛び出して来たのだろう、みもりの姿はワンピース調の白衣にえんじ色のカーディガンをはおっただけと「着替える間もなく此処へ遣ってきました」とばかりに簡素極まりない。
觜鷹はいつも病院で目にしているみもりのその格好にうっすらと慣れた安堵を覚え、やがて意識がはっきりとするといつの間にか気絶していた自分に気がついた。
「……気がついた?」
みもりの息遣いのリズムが、觜鷹の心に不思議な現実感を与える。觜鷹よりひとまわり歳の離れたみもりの声色。その感じは、母親のような角のない包容力を持ち合わせていた。
「みもりさん……」
觜鷹の意識が戻った事に気がついたみもりがその表情をふっと緩めると、觜鷹の揺れていた肩が止まる。小さく、安堵の吐息がみもりの口から漏れた。
「大丈夫?どこか怪我はしていない?」
觜鷹の顔についた水滴を指で払いながら、みもりが言った。觜鷹は弱々しい声で「大丈夫です」と応えると、荒れ果てた様子の店内に視線を移した。
崩壊した店内は制服に紺色のレインコートを身に纏った警官で溢れ返り、カシャカシャというカメラのシャッター音がそこかしこから聴こえてくる。
レインコートに着けられた蛍光色の反射板が、カメラのフラッシュを身に受けてぬらりと光った。そしてその被写体、二つのカメラが念入りに撮影を続けているブルーシートの、中身。
觜鷹に見えないように施された、地面に横たわる何者かを覆う無機質なブルーシート。丁度、記憶の途切れる前に覚えていたやくざの男が居た場所だ。
彼等はどうなったんのだろうか。生きている?死んでいる?どちらにせよ、しんとして動かないそのブルーシートからは不吉なものしか感じられなかった。
「みもりさん、あれ……」
觜鷹がブルーシートを指差し、みもりに視線を向ける。
みもりは「あれ」と觜鷹が呼ぶそれをちらと一瞥するも、眉をひそめるだけで何も言わなかった。禁忌。そんな感じだった。みもりは自分の着ていたカーディガンを觜鷹の肩へ掛けると、話題を逸らすように微笑みかけた。
「篝君、冷えるといけないから」
「みもりさん。あの、あのブルーシートの下には、怪我をした男が居ましたよね。彼等は、どうなったんですか」
好奇心からなおもブルーシートの中身を知りたがる觜鷹に、みもりは思わず怪訝な表情を滲ませた。そんな事、知らないほうがいい。そう告げたがるみもりの瞳が、無言の間、それを見た觜鷹の口を噤ませる。
みもりが何が言いたいのか、觜鷹はそれで大方の見当がついた。それ以上聞くまい。思考はそこに終着した。
みもりがポケットからレースの入ったハンカチを取り出し、觜鷹に手渡す。觜鷹は遠慮しつつもそれを受け取ると、冷たく湿った自分の額を軽く拭った。
「すみません、宜しいでしょうか」
不意に觜鷹の視界の外から声がかけられて、くるりとその声に振り向く。
いつから、そこに居たのだろう。体格のいい、それでいて無骨そうな男の警官と、觜鷹の視線がぶつかった。警官の、黒縁の眼鏡越しのなんとも無表情なその瞳が、觜鷹を捉えて瞳孔を拡げた。
警官は「ゴホン」と態とらしい咳払いをひとつした後、レインコートから雫を垂らしながら、あらためて觜鷹の前に姿をあらわした。
警官はどこかから無線機のようなものを取り出すと、「少年の意識が戻りました、どうぞ」と告げて返答を待つ。
誰と話しているのかはよく解らないが、ノイズの利いた男の声が、無線機からダラダラと流れて聴こえたのが、印象的だった。
「落下物による脳震盪かな?」
カツカツという踵の音とともに、目の前の警官に加え、もうひとりの警官が觜鷹の前に姿を見せた。三十代らしい小太りの夫人警官で、パーマのかかったショートヘアから独特の香りを周囲に撒き散らしている。
その厚化粧じみた唇が、ノーシントー?といささか冗談じみた発音をするのに觜鷹が苦い顔をすると、それを見た婦人警官がニヤリと笑った。
「いえ、怪我は無いみたいです。少し、ショックを受けていたみたいで」
脳震盪という仰々(ギョーギョー)しい単語を、みもりが首を左右に振って否定する。傍のみもりが口早にそう応えたせいか、婦人警官はつまらなさそうに「ふーん」と口にした。
「冗談よ。怪我がなくて良かったわね、少年」
婦人警官はそう言うと、医療関係者らしい白衣の女がこの場に居合わせた事を不思議に思ったのか、どこか疑い深いまなざしでみもりをじろじろと観察した。
「ところであなたは?この少年の知り合いでしょうか」
抑揚なく、眼鏡の警官がみもりに尋ねた。
「桜庭みもりと申します。この近くのクリニックに勤める、勤務医です。今日は彼と一緒に此処で食事をする約束になっていたのですが、先に着いた彼だけが、不幸にも事件に巻き込まれてしまったようで」
みもりは己の素性と経緯を簡潔にそう伝えると、不安に満ちた顔で荒れ果てた店内を一望した。
窓ガラスは割れ、照明もそのほとんどが破壊されて火花を落としている。挙句天井のスプリンクラーまで器用に破壊されているなど、常軌を逸した犯行であるのは誰の目にも明らかだった。
「ひどい」
みもりが声を潜めて、呟いた。
「それにしてもねえ、どうしてこんな事になっちゃったのかなあ。誰もが口を揃えて言う『少女』はどこにも見つからないし」
「少女?」
婦人警官が何気なく口にしたその一言に、觜鷹が反応する。
「あら、君も見たでしょう?店員の子にいちゃもん付けてた男達をたったひとりで片付けたっていう、噂のタランティーノガール。もとい、女子高生」
「おい、適当な事を言うな」
この婦人警官はいささか口の軽い性格なのだろう、眼鏡の警官が律儀に釘を刺しても、婦人警官は呑気に「あら、ちゃんとした証言ですよ」などと口にしてへらへらとしている。好奇心に表情を強張らせた觜鷹は、婦人警官の目を見ながら己の意識が覚醒してゆく感覚を覚えていた。
「その少女は、どこに?」
「それが、解らないのよ。レストランのお客は皆その少女を見たって言うけど、私達警察は誰一人その少女を『目撃』していないの。お店の中のどこにも居ないから逃げてしまったのだろうけれど、それにしても足取りひとつ掴ませないのはおかしいわ。裏口にも警察は居たし、どこから逃げたのかも解らない。君はずっとお店の中に居たみたいだから、その少女について色々と訊きたいのは私の方よ」
婦人警官はそう言うと、荒い鼻息を吐いて露骨に腕組みをしてみせた。觜鷹は婦人警官の話を聴きながら、遠い過去のようにも思える少女の動向を、丁寧に、それでいて鮮烈に思い出そうとして息を詰まらせた。
少女は何処へ。少女とは、何だったのか。
加爾基と水と、婦人警官の髪の匂い。息を吸う瞬間にだけ感じるその気配の中で、觜鷹は自分が見たもの全てが真実だったのかどうかすら、現状定かではなかった。
觜鷹が黙り込んでいると、眼鏡の警官が握る無線機から、やはりノイズの利いた声がディストーションをかけたように歪んで聴こえた。眼鏡の警官が表情暗く、それに応答する。
「……了解。少年を保護します」
ぬるく鉄臭いスプリンクラーの水は、ようやく勢いを弱めて小雨に変わりかけていた。
觜鷹は改めて別世界のようになった店内を見渡し、使い物にならなくなった椅子を、壁紙を、そして未だ黒く濁っている床のコーヒー溜まりを見た。
自分がコーヒーなど注文しなければ、あんな事にはならなかったのだろうか。いや、ウエイトレスが持っていたコーヒーが自分の注文したそれである確証などない。
觜鷹は割れて破片だけになったコーヒーカップを眺めながら、そんな事を考えた。
「……あれ」
ふと、床のコーヒーの不自然さに気がついた觜鷹が、小さく声を上げた。
床にひろがる真っ黒なコーヒー。それは本当に正しいのか?コーヒーって、こんな色だったか。でも、そんな気もする。
そもそも、それはコーヒーでは無いんじゃないか。だって、あまりに色が濃い。明かりも落ちている。暗がりにも黒く見えるほど、コーヒーとは黒かったのだろうか。
觜鷹は何故だかそう混乱して、瞬きを数回繰り返す。そして、ようやく解った。この場にいる誰もが知っていただろうに、觜鷹だけが気付くのにこれほど時間が掛かった。それだけに、そのコーヒーらしきドス黒い液体の正体に気がつくと、さっと血の気が引くのを感じた。
「血溜まりだ」
「え、何?」
黒い液体が溜まっている床にそう呟いた觜鷹へ、婦人警官が気の抜けた声で問い返した。
「見なくて良いのよ、そんなもの」
みもりが觜鷹の肩を掴んで、すかさず視線を自分のほうへ移させた。その液体に関わる事があまりにも不吉で不穏なのだと確信するように、みもりは觜鷹の肩を掴んで、その液体を見ることのないように觜鷹を諌めた。
「すみません。篝君を早く安全な場所に避難させてあげて下さい。此処から早く離れたいのです」
「あー、はいはい。いま救急車を手配してるからね。心配しないで。それにしても遅いわね。何やってるのかしら。こっちは室内で雨に降られて、ひどい思いしてるってのに」
雨にふられて。誰に言うでもなく不満を口にした婦人警官の言葉につられて、觜鷹は確かに雨のようだと思い、何気なく天井を見上げた。
「まるでマシンガンでも乱射したみたいじゃない。やる事が違うわね、タランティーノ・ガールは」
無線機を手にしていた眼鏡の警官が、「だから、適当な事を言うんじゃない」と声を荒げる。「だって」と婦人警官が拗ねた。觜鷹はそこで、絶句していた。
クエンティン・タランティーノが血生臭いフィルムを好んで撮る事も、眉間に皺を寄せた警官がよく見れば婦人警官より若そうだと言う事も、ただひたすらに觜鷹を案じるみもりの唇が何かを言おうとして微かに動きかけた事も、今の觜鷹にはどうでも良かった。
「荊棘の、痕だ……」
天井に向いたままの觜鷹の唇が、声帯と共謀して無意識にそんな言葉を紡いでいた。
まるで鋭いトゲを持つ不思議な生き物が天井を這い回った際についた足跡のような、不自然過ぎるその痕跡。觜鷹は天井を見上げて、そこに無数についていた『傷』を見つめ、それに捉われた。
「少女は、ここに居た……。存在したんだ。夢じゃなく。あの荊棘も、実在したんだ」
「どうしたの、篝君」
何かに取り憑かれたように呟く觜鷹の唇を見て、みもりが声を掛けた。
「みもりさん、あの子は……少女は。きっと、ちゃんと此処に居たんだと思います」
「篝君?天井が、……あのヒビが、どうかしたの?」
みもりは天井を見上げて、そう言った。ヒビ、とみもりが言ったそれは細かく無数に天井に広がっている、それぞれが微かな傷跡だった。ともすれば模様のようにも見える。材質の知れないその天井に残る、硬く硬質な傷。觜鷹だけが、それを『痕』と呼んで疑わなかった。
「どうしたの?タランティーノガールについて、何か思い出した?」
觜鷹を心配するみもりをよそに、婦人警官は身を乗り出して何かに気づいたらしい觜鷹にそう尋ねた。みもりがはた迷惑そうに、それを横目で見た。
同時に、警官の持つ無線機からノイズが流れた。
「とりあえず、詳しいお話は後でお伺いします。今は安全な場所に避難して下さい。……救急車が、着いたようです」
眼鏡の警官が指差す先に、救急車の赤い光が店内を剣呑に照らしているのが見えた。サイレンがしない救急車は、こうも静かなのかと觜鷹は驚く。
みもりはそれを確認すると素早く觜鷹の腕に自分の肩をまわし、「行きましょう」と告げた。警官とみもり、二人の腕に支えられた觜鷹のおぼつかない足取りが、踏み歩く度にパリパリと破片の割れる床を進んでいった。
KEEP OUT(立入禁止)などと書かれた黄色いテープが幾重にも張り巡らされている。分厚いガラス扉の入り口は、特にそのテープでパーティー会場のように飾られていた。……詭弁。觜鷹の見た景色はより淡白で、テープ日常的なレストランを非日常に彩る数少ない色彩のひとつに過ぎなかった。
すっかり夜の深まった駐車場に吹く生温い夜風が、觜鷹の湿った頰をひと撫でする。
外に出て眺めた店の外観は想像以上にひどく、今この場にパトカーの明かりがなければ、レストランは廃墟のようにも映った。
先に逃げていた客らが集まり、肩を支えられながら店を出てきた觜鷹に哀れみと興味の視線を向けている。逃げ遅れたのか、可哀想に。大方そんな感じだろうと、觜鷹は思った。
事態の深刻さは既に近隣の住民らにも薄々伝わっているのだろう。騒ぎを聞きつけた野次馬が駐車場に押し寄せるのを、発光する警棒を持った警官らが必死に防いでいた。
「もう、安全ですよ」
警官がそう言って視線を向けた救急車から、厚手の毛布を抱えた救急隊員が二名ほど、觜鷹に駆け寄ってくるのが見えた。
觜鷹は二枚の毛布に肩を包まれると、展開した救急車の後方から車内にあがり、担架で作られた即席の椅子にみもりと共に座らされた。
隊員の男性が觜鷹のカーディガンと共に濡れたポロシャツとタンクトップを脱がし、手早く怪我の有無をチェックする。
「特に、怪我はしていないみたいですね」
「良かった」
それを聴いたみもりが、心からの安堵を表情と声で示した。
觜鷹は上半身が露わにされた気恥ずかしさを隠すように、手元の毛布を肩にかけて肌を覆った。寒くはない。残暑の夏の夜には、むしろ清々しいほどの温度差だった。隣にみもりさえ居なければ、毛布など必要無いと思えた。
どくどくと脈打つ心臓の側へ、觜鷹の手が触れた。未だに、落ち着けては居なかった。夜は暖かいのに、恐怖からなのか、心が凍えているのがわかった。
少女の嗤い声、足のする音、白い荊棘の蠢き声。それら先刻の余韻が、汗の滲む觜鷹の背を冷やし、呼吸を執拗に急き立てている。
苦しくはない。何か、己の目にしたもの、耳にしたものが何かを呼び覚ますべくせめぎ合っているだけで。
思い出したくはない。そう思いながらも、觜鷹は無言でいれば居るほどに、その思考と感覚に支配され、精神が苛まれるのを感じた。
「どうしたの、篝君。どこか痛いの」
下を向いて胸を押さえている觜鷹を見て、みもりが声をかける。觜鷹は小さく「いえ」、と答えて首を振った。
「着替えが必要ね。少し、待っていて。近くのコンビニエンスストアでシャツを買ってくるから」
みもり觜鷹にそう告げ、立ち上がる。今にも救急車を降りようとするその姿を、觜鷹は呼び止めたい衝動に駆られた。
ひとりにしないで。そう言いたげな觜鷹の唇は微かに動き、しかしそれよりも早く、觜鷹の腕が、みもりの腕を掴んで離さなくなった。
「篝君?」
觜鷹の意思を感じたみもりが、振り返る。毛布にくるまりながら、そこから伸びている剥き出しの觜鷹の腕が見えた。
「あ……す、すみません」
自分は何をしているのだと、はっとした様子の觜鷹が慌てて手を引っ込めた。顔が赤い。理性とは裏腹に動く、己の意思を恥じた。
みもりはそれを見て自分の失態に気がついたのか、觜鷹の隣にもう一度腰を下ろすと、毛布越しに、觜鷹の肩に優しく触れた。
体温の感じない、十代の觜鷹の肩。そのあまりの頼りなさを感じながら、みもりは「此処にいるから」と觜鷹に囁いた。
「失礼ですが、あなたは支援の方でしょうか?この少年とはどういったご関係で?」
成り行きを見ていた隊員の男が、被っていたヘルメットを脱ぎながら、みもりに尋ねた。みもりは静かに顔を上げると、自らを包む医療用の白衣をちらと見やり、警官に説明した時と同じ、理路整然ちすた様子で説明をした。
「桜庭みもり。近くのクリニックに勤める心理士です。彼……篝君とはクリニックを通じて面識があり、私は彼の……友人といった所でしょうか。本来ならば私と一緒にこの店に入る予定でしたが、私が遅れてしまったばかりに、彼一人を被害に遭わせてしまいました。本当に、悔やんでなりません」
「ご友人の方でしたか。ご家族ではないのですね。彼のご両親の連絡先はご存知ですか?」
「……母さんに連絡は、しないで下さい」
両親という言葉が出た瞬間、觜鷹が不意に口を挟む。觜鷹は咄嗟に家を出る際、母親に嘘をついて出てきた事を思い出し、バツが悪くなると思い立ってしまった。
みもりに食事に誘われているから。本来であればそう告げるべき所を、觜鷹は母親が三久に告げ口するのを恐れ、「友人の家に遊びに行く」と適当な嘘をついて家を出て来ていた。
真由美の誘いを断った手前、觜鷹は後々、三久にその事を問いただされる事を恐れていた。無論、誘われるような友達など学校には存在しない。実に軽薄で、実に自虐的な嘘をついたものだと、觜鷹は内心後悔と自責を感じていた。
「連絡するなと言われてもねえ。君、未成年でしょ」
隊員が困った顔をして觜鷹に言った。当然だ。此の期に及んで、よくもそんな悪知恵が回るものだと、觜鷹は内心自分に幻滅した。
とはいえ、後々の面倒は避けたかった。觜鷹は怪訝な顔をしている隊員にきつく首を振ると、駄目押しながら、もう一度「連絡は、しないで下さい」と念を押した。
「そう言われてもねえ。無理だよ。それに、君の身に何かあるといけないだろう。今は何ともなくても、後から身体に不調が出ることだってあるんだよ」
「その点については、私が責任をもちますので、どうかお任せ頂けないでしょうか」
隊員が觜鷹の我儘に困っていると、そのやりとりを聴いていたみもりが突然、二人の間に毅然として割って入った。
あなたまで何を言い出すのですか。そう言いたげな隊員に対し、みもりが言葉を続ける。
「元々は私が彼の保護者として同伴する予定でしたので、彼のご両親にも許可を得ています。それで十分かと思いますが」
そう告げるみもりの表情は真剣で、白衣を着ているせいか、その言葉は何かしらの現実味を帯びているように感じられた。「しかし」と言って、隊員が唸る。
みもりは言いながら、問題は觜鷹の体調に限った話ではない事を承知していた。自分の言葉が真実にしろ虚実にしろ、觜鷹の両親に事故の報告をしない理由は無いのだから。
常識や世間体などは敢えて後回し、連絡するなと言う觜鷹の意向に従い、助け舟を出す。それがひとりの大人として正しい判断なのかどうかはこの際どうでも良く、優先すべきは何よりも、觜鷹の心の有りようだと感じていた。
「お願いします。後ほど私から彼のご両親に説明致しますので、どうか今だけは、彼の意思を尊重してあげて頂けませんか」
もう一度強く、みもりが隊員に向かって言った。隊員は相変わらず「そう言われましても」と快諾を渋ったが、今この場でただちに連絡しようとはしない様子だった。
それだけでも、みもりには十分有り難かった。今の觜鷹の様子は、限界まで薄くなった氷の上を渡る子鹿のようで、余計な負荷が加われば、たちまち暗く冷たい水の中へ溺れてしまいそうな気がした。
「……少しだけ、時間が欲しいのです。篝君にはまず、抱えているショックを和らげるための時間が必要なんです。彼が落ち着けるまで、二人だけで話す機会を頂けませんか」
みもりの切迫した様子が隊員にも伝わったのか、救急車の外でこちらを見ていた別の隊員が「少しなら、いいじゃないか」と気の優しい言葉を掛けた。それで気持ちが動いたのか、みもりの申し入れを渋っていた隊員も、ついに首を縦に振った。
「……わかりました、そういう理由でしたら。心理士と仰ってましたよね。おそらく、嘘は無いのだと思いますから」
「信用して下さって、ありがとう」
隊員はみもりに礼を言われると、救急車の中にみもりと觜鷹だけを残し、もうひとりの隊員の居る外へと降りて行った。
「ただし、気持ちが落ち着いたらやはり連絡はして頂きますよ。こちらにも、責任がありますのでね」
「……解りました。それで、構いません」
みもりはそう応え、隊員に向かって軽く頭を下げた。その拍子に、隊員らから離れた場所でこちらを気にしている、眼鏡をかけた警官の姿がちらと視界に入った。
本当なら觜鷹に事情聴取のひとつでもしたい所だろうに、気を遣っているのか、腕を後ろに組んだままその場を動こうとしない。濡れたレインコートも羽織ったままだった。
見護っている。そう言いたげではあったが、内心では二人がどこかへ消えないかと気がかりなのだろう。みもりは警官の存在を意識しつつも、ようやく静かに觜鷹と話せる機会が出来たことに対してほっと胸を撫で下ろした。
「気分はどう?篝君」
觜鷹が顔を上げて、みもりの顔を見た。俯きながら何か考えていたのか、その表情は硬く、不安に満ちていた。
「……みもりさん」
何かを募らせた觜鷹の唇が、ひとりでにみもりの名前を呼んだ。
「どうしたの」
「これから僕が話す事を、信じて貰えますか」
突然そんな事を言う觜鷹に、みもりの顔が少し曇った。
信じて貰えますか。そう告げる觜鷹の表情はいやに真剣で、切羽詰まっていた。言わなければならない。言わずにはいられない。使命感と好奇心の混ざり合った、觜鷹の混濁した表情。みもりは己の胸に觜鷹の言葉を突き刺したまま、何が飛び出すかわからない觜鷹の口元に、そっと耳を寄せた。
「ええ、話してみて」
みもりの握る觜鷹の手が、ぎゅっと強張った。
「多分、ですけど。高校生くらいの……制服姿の、女の子が居たんです」
「女の子……警察の人も言っていた、噂の『少女』のこと?」
こくり、と觜鷹が頷く。
「丁度、僕の隣のテーブルで、その少女は食事していました。たったひとりで、食事して居たんです。それだけで変な子だなと思いました。それから、店の中で騒ぎが起きて……気がつくと、その子が騒ぎを起こした男の首を絞めていました。凄い力で。やくざのような格好で、刃物や銃だって持っていたのに。その子はそんな事どうでも良いって感じで。……何の躊躇いも無く、その男を殺してしまった。……ように見えました」
「……やくざは複数人居たのでしょう?少女はそれにひとりで喧嘩をしかけたと言うの?」
「はい。それも素手で……軍隊のような、訓練された動きに見えました」
うーん、とみもりが感心したように唸った。
「……俄かには、信じがたい話ね」
話を聴き終えたみもりは、怪訝な顔をしてそう呟いた。当然だ。嘘みたいな事実。目の前で繰り広げられた光景を有りのままに話して、これほど創話染みて聴こえるとは。觜鷹はそう思って、我ながらに失笑を零した。
「……信じがたい?その通りです、みもりさん。でも、そんなものじゃない。僕が言いたいのは、つまり……周りに誰も居なくなって、僕だけが見ていたその女の子は。まるで魔法みたいに天井一面に真っ白な荊棘を咲かせて。あぁ、凄く綺麗でした。それで、撃たれた銃弾は、少女の目の前で動いた荊棘に防がれたんです。だから、少女は無傷でした。とてつもなく美しくて、それでいて、ひどく残酷なものでした」
感情の赴くまま、脳内に再生される光景をそのままに、觜鷹は記憶を言葉に変えて、みもりに全てを話した。
「荊棘の絡まったものはまるで、巨人のように見えて。そう思ったら、本当に息をしているように生々しくて。少女が巨人に命令すると、巨人はスプリンクラーを一斉にその腕で壊しました。全てが、まるで映画のようでした。でも一番不思議なのは、その荊棘が見えていたのは、どうやら僕と少女だけだったという事なんです」
「少女と……篝君だけに視えていた?」
「はい。やくざの男達には……多分ですけど。目の前の少女しか、きっと見えていませんでした」
語りながら、觜鷹はあまりにも現実から飛躍しているその内容に、自らの胸の内では半信半疑な気分に陥っていた。
本当に、自分はそれを見たのか?何かの見間違いではないのか。恐怖と混乱に負けて、ありもしない光景を瞳の虹彩は映したのかもしれない。何故なら、そのほうがあまりにも現実的だった。
「幻覚とか、見間違いじゃ無いんです」
自信なくそう言いながら、觜鷹は視線を落として、車内の床をじっと見つめて動かなくなった。
隣のみもりはあまりの内容に呆れてしまっただろうか?それとも、こんな譫言を言うほど症状は悪化してしまったのかと、血相を変えて治療しようとするだろうか。
觜鷹はそんな不安と自己嫌悪に臆する自分と闘いながら、握られている手の感覚だけを頼りに、みもりの相槌を待った。
時間にしてほんの数秒のことなのに、無限にも思えた静寂の苦痛が辛かった。
「それで、どうしたの?」
あまりにも柔らかく、静かなみもりの声が、觜鷹の気を繋いだ。
「スプリンクラーが壊れて、それからどうしたの?」
觜鷹が顔を上げ、みもりの顔を見る。続きは?と言いたげなその表情は、觜鷹の話を否定するでも鵜呑みにするでもなく、ただ、音楽のようにそこに発生する『響き』にのみ重心を置いて、おそらく、聴き入っていた。
觜鷹はそのまま、話を続けた。
「……スプリンクラーが壊れて、店内は雨が振ったように水浸しになりました。僕は、咄嗟にテーブルの下に隠れて。……女の子に見つかるのが、怖かったんです。自分も、殺されてしまうと思ったから。でも、みもりさんから電話が掛かってきて、iPhoneが鳴って。……そこから先は、思い出せません」
言い終えた觜鷹は、どこか後悔にも似た後味の悪さを感じていた。こんな話をみもりに伝えて、一体どうするつもりだったのだろう。結果的に、自分の正気を疑われるだけではないのか。話の通じるみもりとはいえ、元は心理士だ。今この場で唯一の味方まで失ってしまったら、觜鷹は本当に心細くなるに違いなかった。
最終的には気絶したらしく記憶がない、という曖昧さが一層、記憶を疑われる起爆剤になりかねない。基本的に、全てが徹底して疑わしい。しかしそれを聴いてなお、みもりが表情を曇らせるようなことは無かった。
相変わらず聖母のような眼差しを湛えながら、觜鷹の話に静かに耳を傾けていた。
「夢か幻でも見たと思いますか?嘘だと……そう思いますか?思いますよね。普通なら。正直、自分でも何を言っているのか解らなくなってきました。母さんに同じ事を言ったら、きっと漫画やテレビの見過ぎだって言われるんだろうな、きっと。違いない」
觜鷹はそう言って頭を掻き、乾いた笑いを零しながら何となく足元に視線を移した。唐突に、恥ずかしさが込み上げてきた。自分が口にした事の全てが子供っぽく思えてきて、こんな話にみもりを突き合わせているのが、途端に馬鹿らしく思えてくる。
履き古したスニーカーの紐が水を吸って、重そうに垂れていた。今の自分も同じ。濡れたのとショックとで、一時的に心が重くなっているに過ぎない。絞り出して、軽くなりたいだけなのだと。
「怪我がなくて、良かったわね」
「え?」
思い掛けなくみもりがそう言ったので、觜鷹が思わず振り返る。
「怪我がなくて、良かったじゃない」
「みもりさん?」
「レストランがあんな事になってしまって残念だけれど、あなたがこうして無事で居てくれたのだもの。それで十分だわ」
みもりの手が、毛布越しに觜鷹の背に触れる。みもりは目の前に置かれていたタオルに手を伸ばすと、それで未だしっとりと濡れている觜鷹の髪を、そっと拭いた。
「レストランに着いて、その有様を見たときには心臓が止まるかと思ったの。篝君の身に何か起こってしまった。私が、あなたを食事に誘ってしまったばかりに……私が、予定通り此処に着いていれば。今日この夜に誘わなければ。そう、思わずには居られなかった。……本当に、ごめんなさい」
「そんな。みもりさんは何も悪くない」
彗星のように、一筋の涙がみもりの頬を伝った。そんな、やめてくれ。自分の為なんかに泣かないでほしい。觜鷹はどうしようもなく無力な両手をただ握り締め、みもりの涙の行方に視線を奪われた。
「みもりさんが責任を感じることなんて、ありません」
「……ありがとう。でもね、この事故で篝君にもしもの事があったらと思うと。……途方なく恐ろしかった。私なんかはまだ良い。篝君のご両親、友人……その全てに顔向け出来ないほどの事を、してしまっていたかもしれない。事故とはいえ、篝君を誘ったのは私なのだから」
そう言って、みもりは言葉を詰まらせる。觜鷹が思っていた以上に、みもりは自身に責任を深く、重く感じているようだった。觜鷹は何と言うべきか、迷う。迷っている内に、みもりは涙を拭って、小さく微笑んだ。
「生きていてくれて、ありがとう」
みもりの言葉が、觜鷹の心を揺らした。生きているだけで感謝されるなど、觜鷹にとって初めての経験に思えた。
毛布を押さえていた手が緩み、觜鷹の肩からするりと毛布が外れる。露わになった首元を恥じらって、端鷹は慌てて毛布をきつく纏い直した。
みもりは「ごめんね、こんな事を言って」と言って、隅に置かれていたえんじ色のカーディガンを手に取る。膝下で軽く皺をはらうと、隣で赤面している觜鷹の前にさり気なく差し出した。
「取り敢えず、これでも着ていたら。濡れた服や、毛布だけ被っているより少しはマシでしょ」
觜鷹はおずおずとそれを受け取ると、「でも、」と口ごもりながら、しかしそろそろと素肌のままそれに袖を通した。
薄手ではあるが、さらさらとした木綿生地が肌に心地いい。みもりの柔らかな香りも微かに残っている。その余韻が、觜鷹の胸を思わず高鳴らせた。
「そろそろ、宜しいでしょうか」
不意に、聴き覚えのある男の声がした。
遠くに居たはずの警官が、いつの間にか救急車の入り口に手をついて、觜鷹とみもりの方を見ていた。レインコートの水滴が、ナイロンの生地の上をすべって、地面に落ちた。警官は話に割って入った事に遠慮を感じているのか、「ゴホン」という態とらしい咳払いをひとつした。
「失礼。今回の件について、そちらの少年にお話を伺いたいのですが、ご協力願えますか。話を訊く限りでは、店内に残って事の始終を見ていたのが彼ひとりだけなのです」
そう言って眼鏡を光らせる警官に、觜鷹はみもりの雰囲気が警戒から張り詰めてゆくのを感じる。野生の勘に毛を逆立てる獣のような。みもりの勘が、何かを察しているような気がした。
「……その前に。私にも、どうかこの場で何があったのか、お聴かせ願えませんでしょうか。たった今彼の口から一部始終を伺いはしましたが、そちらの検分も知っておきたいのと、それと……間違いがあるといけませんから」
間違い。そう口にしたみもりに、觜鷹は内心少しだけショックを受けた。みもりは自分の話を信じてくれていないのだろうか。恐怖や混乱から滲み出た妄言と、聴き流しにしていたのだろうか。
そんな事を考えるべきではないとは思いながらも、觜鷹の心はみもりの言葉によって揺れ、萎むのがわかった。
「あなたは……確か、ご友人でしたね。桜庭さんといいましたか。間違いとはつまり、どういう意味でしょうか」
警官の眉がぴくりと動いて、みもりを見つめる眼差しに疑念の色がさす。觜鷹の目にはそう映った。
「彼……篝觜鷹君は、一種の記憶障害を抱えています。実を言うと、現在私が担当する患者のひとりなのです。篝君はショックの強い出来事に遭遇すると、過去の記憶がフラッシュバックして現在の記憶と混合させてしまう事があります。それは本人の意思とは関係なく起こり、混合したか否かの判断は、本人にはつきません。ですから、今回のように事件に巻き込まれた場合、その証言は整合性を欠いている可能性があるのです」
みもりが觜鷹のほうを見ずに、淡白な横顔と口調で警官に説明をする。それはみもりがクリニックの中ですら見せることのない、どこか冷たくて、事務的な姿だった。
警官は難しい顔をして首を捻っている。
「つまり、今回の件について、彼の証言はあてにならないと?」
「そうは言ってません。今回のようにショックの強い事故ですと、普通の人でも記憶があいまいになるなどの反応が出やすいものです。自己防衛機能と言っても良いでしょう。強すぎる不安やストレスから逃れるために、脳が自発的に記憶を組み替えてストレスから逃れようとするのです。ただ、とりわけ篝君の場合はその影響が顕著ですから、彼の証言をはじめから箇条書きにするのではなく、第三者の視点を交えて、より事実を明解にしてゆく必要があると思うのです。唯一の目撃者が篝君だと言うのなら、その工程は不可欠な筈です」
「……成る程。それで間違い、という訳ですか。しかし弱りました。過去の記憶と混濁させてしまう病気だなんて。これではまともな証言は得られないかもしれないなあ」
警官はそう言って困った様子を見せると、明らかな憐れみの視線を觜鷹へちらと向けた。どうして、そんな目で見るんだ?失礼な男め。觜鷹の中で、憤慨の芽が頭を出した。
「病気ではありません。彼にはそういった特徴がある。そう言っているだけですよ」
「これは失敬。とはいえこちらも調査中なので、詳しい事はお伝えできません。はっきりと何があった、とも言えません。被害にあった他の方々からの証言と、現場の状況からある程度の推測をしたまでです。それでも宜しければ、お話し致しましょう」
「構いません。お願いします」
みもりがそう応えると、警官は「解りました」と口にして救急車の中に背を屈めて乗り込んだ。
救急車の中に設置されている同伴者用の椅子に腰掛けると、入り口付近に人影の無いのを確かめ、着ていたレインコートのボタンを外して、脱いで足元に丸めて置いた。
觜鷹はその間、そんな警官の話などは不要だと、内心とても不服だった。觜鷹は自分の持つ精神的特徴をよく理解していたが、今回の件については自分の記憶が間違いでないと絶対の自信があったし、何よりこの場でみもりに患者扱いされるのが嫌だった。
「みもりさん。どうして信じてくれないんですか。見間違いとか、記憶違いとかじゃないんです。確かに俺の症状はみもりさんの言う通りだけど、でも」
「篝君、静かにして」
でも、と言葉を続けようとした觜鷹を、みもりの一言がぴしゃりと遮断する。先ほどの慈愛に満ちたみもりとはまるで別人のような、突き放した一言だった。
「教えてください。此処で何があったのか」
「……あくまで推測、ですよ。はじめにこの店の客から、暴力団関係者らしき人物と、学生らしき少女が喧嘩しているとの通報があったのです。話を聴く限りでは、その少女はやくざのひとりを殺害したらしく。……店内には確かにその『痕跡』がありました。あなたも、見たと思いますが。状況は極めて危険な状態にあったようです」
警官が表情ひとつ変えずに話すのを聴いて、觜鷹が「ほら、合ってるでしょう」と小声でみもりに囁いた。
みもりは聴こえているのかいないのか、何やら考え込んでいる様子で、そっと自らの顎に手を添えた。
「暴力団の男が銃を所持していたようで、逃げ出した人によると、銃声は何度か繰り返し聴こえていたようです。恐らくは、少女に向けてのものでしょう。信じがたい事に、少女は凶器を持った男三人相手に素手で立ち向かい、一方的に殺害したと言われています。……しかし解らないのは、その少女が事件後、その姿を完全に暗ましてしまった事です」
「姿を……暗ました?」
はい、と言って、警官が目深く被っている帽子のつばを直した。
「警察官の誰もが、店内に居たという『少女』を誰も目にして居ないのです。照明が割られていたとはいえ、完全な暗闇ではありません。銃声がやみ、我々が突入した際、店内には負傷、あるいは死亡した暴力団関係者らと篝少年以外、少女などは勿論、誰ひとり見つける事は出来ませんでした」
「そんな馬鹿な!」
警官が言葉を言い終わらないうちに、觜鷹が立ち上がって叫んだ。担架の椅子が、きしんだ音を立てる。そんな馬鹿な。そんな筈はない。警官の言葉を否定してやまない觜鷹の感情が、思わず、口を滑って出た。
「死因は何ですか?」
立ち上がった觜鷹に意を介さず、落ち着いた様子のみもりがぽつりと警官に言った。
「……え?」
「少女に殺されたという、男の死因は何ですか。本当に、男たちの死に少女が関与したという証拠があるのでしょうか」
みもりにそう言われて、警官は無言のまま上着のポケットから警察手帳を取り出た。頁をペラペラと捲り、咳払いをする。刑事ドラマのような、生のワンシーンだった。
「ひとりは頸髄損傷。首の骨が折れています。ひとりは出血多量。何故か両手両足の『指』が切断されており、こちらは直ぐに病院へ搬送されましたが、先ほど死亡が確認されたようです。……そして三人目。頭部に損傷を負っており、床に溜まった液体に顔をつけたまま溺死しています」
「……それら全てを、ひとりの女の子が?」
警官の口から淡々と語られる凄惨な死因の陳列に、みもりが暗く眉をひそめた。あまりにも大仰しく、出来過ぎた死因たち。安物のスプラッタ映画の煽り文にすら起用できそうな文面を読み終えた警官は、顔を上げて「はぁ」と息を吐いた。
「我々が少女の存在自体を疑うのもご納得頂けましょう。大人の男でも不可能に近い事を、少女はたったひとりで短時間の内にしてみせたのだと言います。どう考えても、有り得ない話です。指を切断された男の傷口はひどく鋭利に切られていて、まるで日本刀にでもスッパリ斬られたようなものでした。少女がどんな凶器を使ったのか?どのように隠し持って居たのか?そもそも、本当にそんな事実があったのか?全てが不明瞭です。……ご丁寧に店内はスプリンクラーによって水浸しにされているため、指紋ひとつ採取するのも一苦労の有り様です。全く、猟奇的としか言いようがない。自己防衛にしてもあまりに度が過ぎています。これは、あまりに異常です」
悪趣味なスプラッタ映画を無理矢理見せられてしまったような、苦く青ざめた顔をして、警官が頭を抱えた。警官の言う通り、今回の事件にはあまりにも現実性がない。それに店内のあの濡れようでは捜査も難航するに違いない。指紋は人間の皮脂に過ぎないのだから、案外、水で流れ落ちてしまいやすいものなのかもしれない。
あの少女はそこまで計算して、スプリンクラーを破壊したとでも言うのだろうか?そんな風には思えなかったが、觜鷹の中で、少女に対する興味は一段に強まってゆくのがわかった。
衝動的な犯行ではなく、あれが計画的なものだったとしたら?觜鷹の中の疑惑と妄想が、空中で渦を巻く黒煙のように香った。
「成る程、解りました。確かに今回の一件は常軌を逸したおぞましい内容で、解決には一部始終を目にしていた筈の篝君の証言が必要不可欠のようですね」
考えに詰まった觜鷹の横で、みもりがふっと口を開いた。
「少女の行方が、問題なのです。現状の問題の全てがそこにあると言っても過言ではありません。少女はどこへ消えたのか?どのように我々の目を潜り抜けたのか?それを知っているのは、店内にひとり残されていた。その少年だけが知っているのです」
「……知っているのです、ね。あなた方警察のお気持ちは解ります。……しかし、残念ながらそれは違うようですわ」
唐突に。はっきりとした口調で、話を聴いていたみもりが甘やかに、微笑めいてそう言った。
「……はっ?」
間の抜けた声を発する警官と目を丸くした觜鷹が、同様にみもりの顔を見る。みもりはどこか残念そうに「はぁ」と言って、深窓の令嬢を思わせるような、細くたおやかな指を頬にかけて胸を痛めた風な表情をみせていた。
「実は」と言って、みもりが直立したままの觜鷹を静かに見上げた。
「篝君は確かに店内に居たようです。それは確かです。周囲の人々が逃げ惑う中、ひとり逃げるタイミングを失って、騒動から身を隠して居たのです。……しかし彼が言うには、少女は周囲の人間を見境なく攻撃していた様子だったので、咄嗟にテーブルの下に身を隠し、ただ息を潜めていたそうなのです」
みもりは何を言い出すのか。先ほど觜鷹の口にした内容にはあえて触れず、ただ隠れていただけなのだ……と嘘をつくみもりに、觜鷹は思わず当惑してしまいそうになった。
しかし目の前の警官がそれ以上に当惑した顔を見せたので、觜鷹はみもりの発言には何か意図があるのだと、既の所で理解する事が可能になった。表情を引き締めた觜鷹は、みもりの無言の同意を求める感覚に従い、第六感のおもむくままに、下手な口出しはしない事に決めた。
「例の少女が何処へ消えたのかも、殺害の瞬間も、何も見ていないと?そう、仰るのですか」
「はい。何も見ていない、そんな余裕はどこにも無かったと。そう口にしておりました。冷静に考えれば、至極当然のことと思います。目の前で突然人が殺されるような局面に出くわせば、誰だって好奇心より、恐怖の方が先に立ちます。自分の身を護るのに精一杯だと言われて、何を疑う必要がありましょうか」
みもりがそう言い切ってみせると、警官は何かに打ち拉がれたようにしばし沈黙した。……本当なのか?とばかりに、警官の疑いに濁った眼差しが、觜鷹の渇いた表情に縋っている。唯一の希望を目の前で砕かれた人間の顔。觜鷹は嘘を吐く罪悪感に胸をきりきりさせながらも、みもりの狙いを信じて何も言わなかった。
「そうは言っても、何か、気づいた事があるでしょう?少女の足音や、会話の内容だって聴こえていた筈です。聴いたでしょう?幾ら何でも、耳まで塞いでいたって事は考え難い。少女の声、発言、何でも良いんです。手掛かりになる事が、ほんの僅かでも欲しいのです」
警官の口調が焦りからか、若干早まって饒舌になる。みもりはそれにも僅かにも表情を崩す事はなく、なおも「残念ですが」と言った様子で、静かに、首を横に振った。
「確かに銃声は聴いたようですが、言い争う内容までは聴き取れなかったみたいですね。篝君の席は禁煙席で、少女が居たのは少し離れた喫煙席のあたりだと聞いています。少女の行方についてですが、篝君の記憶は途中で途切れており解りません。気を失ってしまったのでしょうね」
「気を失った?そんな、馬鹿な……」
警官はそう呟き、口を開けたまま、あからさまに落胆した。警察手帳を握ったまま、魂が抜けかけているように、瞬きもなしに觜鷹の顔を見た。
失望、疑念、怒り。そういった感情の混合物を宿した警官の表情はその瞬間にひどく疲れてしまっていて、思わず、觜鷹は少し怯えた。胸倉を掴んででも、真相を言わせてやろうか。そう、思われている気がした。
誰も言葉を発する事ができないまま、救急車の中に即席の沈黙が訪れる。外から聴こえる人の声が、微かに喧しかった。觜鷹が唇を噛む。早く帰りたい。濡れた服を着替えたいし、この場所から早く遠ざかりたい。
みもりの狙いは既に明らかだった。一刻も早く解放されたい。そう願っている自分を案じて、無関係である事を強調したのだろう。少女は魔法使いでした、なんて話を正直に話した所で意味はない。長々と、詰問され続けるだけだ。そう思い至ったら、みもりの判断は今この場では最適なものに思えた。
警官が頭を掻きながら手帳を捲っている。果たして、納得してくれただろうか。觜鷹は解放されるまで何も知らない自分を決め込むと、胸の中で警官が諦めてくれることを願っていた。
警官が無線機を手にして、誰かと連絡を取ろうとする。その時だった。聴き覚えのある声が突然響いて、車内の誰もが、その明朗とした口調に振り向いた。
「馬鹿ね、そんな筈ないじゃない。騙されちゃって」
ショートヘアにパーマをあてた派手な婦人警官が、明らかに不機嫌な顔をして、腕を組んで、いつの間にか、救急車の入り口に立って腕を組んでいた。
觜鷹の鼻に、覚えのある髪の匂いがふわりと漂った。
「何も見てない、何も聴いてないなんて、そんな馬鹿な話あるものですか。あなたどうして男の子から直接話を訊かないのよ?その女は当事者でも何でもない部外者でしょう?うまいこと言って、面倒を避けるつもりなのよ。あなたは知らないかもしれないけど、その男の子言ってたわよ。お店の中で、少女はこの場所に居たんだ!って。イバラがどうとかも言っていたわね。君、本当は何か見たんでしょう?どうして嘘を吐くの?」
「……何だって?嘘?」
婦人警官の発言に、車内の空気がざわつくのがわかった。捲し立てる婦人警官の顔が、嫌らしく勝ち誇っている。警官が途端に疑いの目をぎろり、と觜鷹に向けたので、觜鷹は慌てて視線を逸らした。平静を、と思いつつ乾く舌の根で、冷え切った唾をごくりと飲み込んだ。
「もう一度、話を伺いましょう。今度は桜庭ではなく、そちらの少年に」
「待って下さい!今の話に、嘘なんてありません。僕は本当に、少女の事なんて何も……」
警官は既に、自分の思い込みを恥じて決意めいた表情をしていた。肩をいからせて、觜鷹との距離を詰めようと中腰で立ち上がる。觜鷹が慌てて弁明するのも意に介さず、警官は目の前に立ち塞がるみもりに無言の圧力をかけた。
「桜庭は外へ。当事者の彼と、直接お話がしたいのです」
「……」
一時は誤魔化せたと思ったが、甘かった。觜鷹はサディスティックな婦人警官の笑みが自分に向いているのに気づいて、思わず恐怖した。舐めるんじゃないわよ。そう言いたげな瞳だった。
みもりは黙ったまま婦人警官のほうを見つめ、何かを考えているようだった。いや、考えているというよりは、状況に困惑してしまったのかもしれない。ただの一言で状況を一転させてみせた婦人警官に、みもりといえど、次の一手には慎重にならざるを得ないだろう。
とはいえ、結局は嘘を嘘で塗り固めるだけの構成では目の前の警官達をやり過ごせるとも、もはや思わなかった。かといって真実も役に立たない。逃げ場がない、そう思った。
わずか数秒の張り詰めた空気に耐え切れなくなった觜鷹が思わず「すみません」などと口走ってしまいそうになった瞬間、音もなく、至って静かに。ついに、みもりが担架の椅子からふわりと立ち上がった。
「あぁ、やっぱりー」
パン、と渇いた音がした。両手を胸の前で合わせたみもりが桜色の歓声をあげて、目を輝かせていた。
この場にいる誰もが、みもりのこの行動に、完全に瞬間凍結した。液体窒素でもぶち撒けられて固まったかのような、時間と思考そのものが停止していた。みもりが婦人警官に駆け寄って、まるで少女めいた声色で、恐ろしく楽しそうに、言った。
「その靴、Louboutinですよね?素敵!私、そのブランドの靴、大好きなんです。あぁ、可愛い!もしかして、新作ですか?」
「何、どうしたの、いきなり」
婦人警官の履いている黒いパンプスを指差して、みもりは言葉を弾ませた。
それはあまりに予想外で唐突な行動だったのか、自分のペースをおもむろに崩された婦人警官がたじろぎ、微笑みかけてくるみもりから数歩後ずさりをした。
「裏地にさりげなくあしらわれた個性的な深紅。細身ながらも頑丈で美しい踵。エナメルでもスウェイドでもない靴本来の輝き。間違いなく、ChristianLouboutinにしか出せないこの風格。品性の高さを伺わせるばかりか、大人の質感と少女性を併せ持った完璧なる一足。なんて羨ましい。脚そのものが芸術品であるかのように、完全に調和しておいでですね」
「ちょっと、いやだ、貴女、見る目あるじゃない?」
手放しに自分の靴を褒められた婦人警官が頬を染め、まんざらでもない様子で頬を綻ばせている。そんな、馬鹿な。觜鷹が頬をつねりたくなる気持ちを堪えている間もみもりの賞賛は止むことなく、アパレル店員顔負けの賛辞をこれでもかと華咲かせていた。
「お前、何だその靴。仕事にブランド品なんて履いて来ているのか」
表情を堅くした警官がみもりの後ろから婦人警官を睨んで、ひどく辟易した声を掛けた。
「あら別に良いでしょう。靴くらい。こんな男勝りな仕事しているんだから、足元くらいオシャレしたって良いじゃない。それにこの靴、ヒールはあるけどすごく歩きやすいのよ」
「そんな事は訊いていない!指定の靴はどうした?一体何を考えているんだ?警察官としてあるまじき、呆れた考えだ!全く情けない、理解が出来ない!女というやつはこれだから嫌なんだ!」
「何ですって?あんたみたいな奴にどうしてそんな物言いされなきゃいけないのよ?」
唐突に。熱した油に水を垂らしたようにして始まった口論に、觜鷹は唖然としてただそれを見つめるしかなかった。婦人警官がああだこうだと自分の靴や女性についての意見や正当性を息継ぎもなく述べ、警官は自身の持つ価値観や精神論を般若心境が如く捲し立てている。
その横で、完全に放っておかれたみもりがくるりと觜鷹のほうへ向いて、音もなしにその唇を動かした。
い・ま・の・う・ち。
觜鷹の目が、その唇からそんな言葉を読み取った。状況は飲み込めていない。それでも、手は勝手に動いていた。濡れたまま放置されている自分の服をそっと抱えると、觜鷹は手招きしているみもりにそろそろと続いた。
みもりが觜鷹の手を握り、警官たちの横をするりと通り抜ける。觜鷹が横目で警官達を見たが、口論に火がついた様子の二人は全く気がつかず、視線すら向けられることは無かった。
まるで幽霊になったような、気持ちの良い錯覚。心なしか自分の足音さえも透明になっている気がした。みもりに手を引かれるままに救急車から降りたって、觜鷹は懐かしい夜風を身体の中に吸い込んだ。
そこから先は、ワルツのように自然で、優美で、何とも不思議だった。
二人は救急車を後にすると、パトカーが照射するライトの隙間を縫うように、暗がりだけを選んで足早に通り抜けて行く。
焦りや不安など微塵も感じさせないその足取りが見る者に不信感を抱かせないとでも言いたげに、歩幅は大きく一定のリズムを刻んだ。事実、すれ違う誰もがみもりや觜鷹に声を掛けることはなく、一瞥すらされなかった。
みもりはそうして野次馬が群がっている人並みに向かうと、木の葉を隠すなら森の中と言わんばかりに、その中へするりと潜り込む。
流石に無理がある。觜鷹は人並みの中に入るのを一瞬、躊躇った。しかし入ってみれば、誰も二人を気にするどころか、隣を人が通過したことにすら気づいていない様子だった。誰もが目の前の景色に心奪われているかのように視線を上げて、殺人事件らしいぞ、とか、明日のニュースに流れるかしら、なんて興奮して囁きあっていた。
白衣の女と、濡れ髪にカーディガンの少年。パスタを頼んだのに箸を渡されたような奇妙な取り合わせなのに、誰ひとりとして気にする様子がない。觜鷹は自分の感覚がおかしいのだろうか、なんて心配をしながら、しかし堪らなく澄み渡る気分を覚えて、今までの憂鬱がみるみる溶けていくのを感じていた。
やがてその人混みすらも通り抜け、周囲から聴こえていた様々な音がぴたりと静まった時、觜鷹は自分たちが事件のあった現場から完全に抜け出している事に気がついた。
振り返ると、人々の背が見えた。やはり誰もその場から被害者がこっそりと抜け出している事には、全く気がついていない様子だった。
「どうして、気付かれないんですか」
觜鷹が我慢していた質問を、みもりにそっと呟いてみた。
「静かに。まだ喋っては駄目」
みもりが振り向いて、口元に指をあてながらそう囁く。その仕草が妙に女性らしく、觜鷹は自然と目をそらし、無口になった。
夜風に吹かれながら、みもりと觜鷹は住宅街の路地へと歩みを進めて行く。騒ぎの届かない、見慣れた閑静な住宅街。ちらほらと明かりの灯っている家の窓から、夕食の香りがふわりと漂っている。觜鷹は未だ空腹な自分の胃袋を思い出し、結局何も食べられなかったのだと、それだけを残念に思った。
「さぁ、ここまで来れば大丈夫でしょう」
辺りがすっかり静まって、暗い夜道を一本の街路灯がしんと照らす通りにさしかかった時、ようやく、みもりが歩みを止めて振り返った。
その瞬間、觜鷹の周囲にあった薄い透明な膜が剥がれ落ちるようにして、はじめて、自分の存在はきちんと存在したのだという実感が湧いた。
風が、気配が、幽霊でない自分の身体に当たって通り抜けて行く。みもりが觜鷹の手を離した瞬間、その感覚はよりはっきりと感じられた気がした。
「みもりさん、さっきのは一体」
觜鷹の口の中に留めてあった質問が、堰を切って飛び出した。目の前のみもりが微笑んでいる。聞きたいことは色々あった。色々ありすぎて、頭にはそのひとつしか、思い浮かばなかった。
「あはは、バックレちゃったね」
「そうじゃなくて。さっきの人達、誰も俺たちに気がついていないみたいでした。警察も、街の人達も……どういう事なんでしょうか」
みもりはそう言われてあからさまな作り笑いを止め、真剣な様子の觜鷹を見た。
「うん。どこかに座って、話そっか」
みもりがそう言ったので、二人は暗い夜道を横に並んで、ひっそりと歩きはじめた。
「お腹空いたね」
みもりはそう言うと、夜道をぽつんと照らしている自動販売機に駆け寄り、小銭を入れて缶入りのコーンスープを二つ、買った。そのひとつを觜鷹に手渡すと、その熱が觜鷹の冷えた指に伝わって、じんわりと身体が温まった。
「公園があるね。ブランコも。ねぇ篝君、あそこに座ろうか」
みもりが指差す先に、砂場とブランコが物寂しく並んだ小さな公園があった。公園と言うよりは、むしろ小さな庭のような場所だった。住宅街の中に箱庭のように存在する、ブランコと砂場しかない、物寂しい空間。
それでも、陽の出ている時間には近所の子供の唯一の遊び場になっているのかもしれない。身体の成長した觜鷹にとって、そこは不思議と心落ち着く窮屈さがあった。砂場に忘れられた黄色のシャベルが光っている。二人は公園の中に入ると、都合よく二つ並んでいる華奢なブランコに揃って腰を下ろした。
「ええと、何から話せばいいのかな」
コーンスープ缶を手の中で転がしながら、みもりが呟いた。
「どうして気づかれなかったのか、ですよ」
「うん、その事なんだけど……先ず、どうして篝君は自分が気づかれて居ないと思ったのかしら」
「どうしてって……それは」
みもりの問いに、觜鷹は一瞬言葉を詰まらせ、思考する。どうしても何も、誰ひとりとして自分たちに声を掛けることは無かったし、視線すら、向けることは無かった。
あの人混みを誰の気も引く事なく通り抜ける事などは、到底、不可能に思えてならなかった。きっと誰もがそう思うに違いないのに、みもりに改めて問われた觜鷹は、ふと、自分のその感覚に疑問を覚えてしまい、二の句を紡ぎ出す事を躊躇った。
「どうして、なんて言われても困ります。だって、僕達は明らかに見た目被害者ですし、警察官の人達だっていくら喧嘩に夢中になったとしても、気がつかない筈が無いじゃないですか」
「それは、篝君の想像の中の話よ。人間は篝君が思っている以上に、他の人の事なんてどうでもいいもの。そもそも、見ていないのよ。私達がたとえどんな姿であろうと、多くの人にとって、それは気体や風のように、在って無きものなの。目に映るもの全てを認識できる訳じゃない。目の前で何か大きな事故があったり、同僚が規則を破っていたりしていたら、それ以上の事なんて、なにも考えられないのよ」
みもりはそう言ったが、觜鷹は納得できず、無言のまま熱いコーンスープをひと口、空っぽの胃へと流し込んだ。
食道を通り抜けてゆくあたたかな液体が、胃に入って溜まるのが、熱の動きで、わかる。目には見えないけれど、わかる。みもりの言う『在って無きもの』とはこういう事を言いたいのだろうか?何にせよ、みもりの説明は腑に落ちなかった。
「……イマイチ、納得できません」
「まあ、良いじゃないそんな事。原因や理由を知った所で、結果に変わりは無いのだから。……今夜の事件みたいにね」
事件。みもりがそう言ったので、觜鷹は抜け出してきた事件現場を思った。
「……今頃、僕達を探しているでしょうか」
「かもね。でも心配しなくて大丈夫。篝君は何も見ていないんだから、何も言う必要が無いもの。悪いことは何ひとつしていない。篝君も今夜の事は早く忘れて、いつも通りの生活を取り戻すべきだわ」
そう告げたみもりの言葉が、不穏で、何かを隠したがる冷たい皮膚に覆われている気がして、觜鷹は違和感を覚えた。
コーンスープを飲んでいるみもりの表情は落ち着いていて、何も変わった様子などないのに、觜鷹はどこか突き放されているような、根拠なき疎外感を感じていた。そういった不謹慎な感情を表に出すべきではないと解っていながら、ぐっと込み上げる思いは言葉になって、觜鷹の口をついた。
「みもりさんは、僕の記憶を疑って居るんですか」
「どうして、そんな事を言うの?」
「……だって!」
思わず、叫んでしまった。ブランコの鎖がギイギイと軋んだ音を立て、静寂な夜の公園に、ひっそりと響いて消えた。
觜鷹はとっさに冷静を取り戻すと、小さな声で「すみません」と口にした。みもりの瞳が、ゆっくりと伏せられた。
「ごめんね。私、冷たいよね。篝君がこんなにも苦しんでいるのに、私は篝君の気持ちを真摯に受け止めていない。私はあなたの友達という立場以上に、自分の医師としての立場を重視してしまっている。大人としての責任に寄りかかってしまっている。ひどく利己的で、不親切だわ。……ご免なさい」
みもりの肩が、憤りを押し殺すようにして、小さく震えた。
「いや、俺だって……みもりさんが心配してくれるのを解って居るのに。気持ちがわけわかんなくて。整理がつかなくて。頼れるのはみもりさんしか居ないから……だから」
そう告げた觜鷹が心底申し訳なさそうな顔をするのに、みもりが「うん」と返事をして振り向いた。
「篝君、本当は自分の事を俺って呼ぶのね」
「えっ、あ、すみません」
不意に話題を変えるみもりに、觜鷹は何となく、謝ってしまった。同時に、年上のみもりに対しては礼儀正しくと思っていたのに、つい口が滑った自分を恥じた。そんな事は承知の上、といったみもりが、「別に怒ったんじゃないのよ」と言って笑った。
「私はあなたの友達なんだから、気にしないで。それに、俺って言う篝君のほうが格好良いと思う」
「そう、ですかね」
「うん。男らしくて良いじゃない」
みもりはそう言うと、ちらほらと星の輝き始めている薄墨の空を何気なく見上げた。周囲に大した灯りのない公園の青い薄闇の中で、みもりの横顔は白く映えた。
歳の差を感じさせないその純粋な肌の白さに、觜鷹は思わず目を奪われて見とれた。いくつなんだっけ、と記憶の片隅に置いておいた情報を、今更に引っ張り出して、探した。
昼間逢った、誠二の姉の真由美が、二十三。弟とは年の離れた、大人びた姉だった。その真由美と比べても、みもりの姿は遜色なく若く、美しい。
觜鷹は真由美の抱えていた深紅の薔薇を思い出し、その鮮やかな色合いはみもりにもよく似合いそうだと、下心ではなく、そう思った
「薔薇か」
ぽつりと口をついて、そんな言葉が出た。
真由美の抱えた赤い薔薇の花とは異なる、異常なまでに白くおぞましい少女の薔薇。
頭の中に描いてしまったその対比が、忘れかけていたレストランの惨事を、悪夢を甦らせた。
「……何?篝君」
觜鷹の独り言を聴いたみもりが、不思議そうな顔をして振り向いた。觜鷹は「何でもありません」と言おうとして口を開きかけ、そその瞬間、落雷を受けるようにして、ひとつの単語が脳裏を駆け巡るのに、ひどい頭痛を覚えた。
「ロゼット?」
「……え?」
「あ、いや。何でもないんです。レストランの中で少女が言った、言葉が気になって。気にしないで下さい。思わず口走っちゃって。あの子がそう言うと、心臓が、胸が、心がどうにかなってしまいそうで……何を言ってるんだ僕は?」
自分の頭に手を当てた觜鷹が、引きつった笑いを見せながらはっと視線を落とした。心臓の動きが、早まっていた。早まっているのがわかった。熱い。
みもりが觜鷹の背に手を添えて「大丈夫?」と心配をする。大丈夫じゃない。明らかに、觜鷹の様子は変だった。それでも、觜鷹の唇は「大丈夫です」と嘘をついた。
「みもりさん」
「……何?」
「ロゼット、って……何だと思いますか」
呼吸が荒くなる。額に汗をかいた觜鷹がそう告げた瞬間、みもりの表情がすうっと堅くなった気がした。
「……ロゼット?」
「女の子です。レストランに居た例の……少女が。そう言ったんです。僕はその言葉が嫌で嫌で……どうして、嫌なんでしょうか?あ、いえ、そんな事はどうでも良いんです。どうしてか、その言葉が気になるんです。耳に残って、今ふと、頭の中に響いたんです。みもりさん、どう思いますか。……何でも良いです。言ってください」
頭を抱えながらそう口走る觜鷹に、みもりが深刻そうな表情で、何かを考えていた。病気の心配をされてしまっただろうか?觜鷹は内心そう焦ったが、唐突に始まった記憶のフラッシュバックから抜け出すことは出来なかった。
觜鷹の脳内で、少女が、薔薇まみれに嗤っていた。
「……その子はこうも言っていたでしょう。『視えている?』って」
「……言ったような気もしますけど、どうして?」
「篝君が見たものは全て、夢や幻でない、現実に起きた事実だからよ」
「みもりさん……?」
事実?みもりの言葉が、觜鷹の脳に何度も反復した。みもりは何かの決意を固めるように、真剣な眼差しで觜鷹を見ていた。
「どういう事ですか。みもりさんは、本当に俺の話を信じているんですか」
「……信じるも何も、私は一度だってあなたの話を疑ったつもりは無いわ。あの場所であなたが目にした事の全て。それが本物なんだって教えてくれたのは篝君がじゃない。篝君こそ、私が信用していないって、疑っていたのね?」
「そんな事は……だって、みもりさんは」
警察の人に、ああ言ったじゃないか。その一言が觜鷹の喉元に詰まって、思わず飛び出しそうになる。
「あの時、篝君の話をそのまま話していたら、私達は今頃良くて長時間拘束か、悪くて疑いの目を向けられたかもしれない」
みもりが心苦しげにそう口にしたので、觜鷹はそれ以上の言葉を紡ぐのをやめて「なぜ。」という顔をした。
「あの事件は、つまり常識上で生きているいたく健全な人達にとっては、例えてマホウのような理解しがたい不確定要素を鵜呑みにしない限り、真相に辿り着く事は決してない、いわば完全犯罪なのよ。篝君は少女がバラを使うのを見たと言う。でもその証拠はどこにあるの?あの状況でそういう妄想じみた事を発言するのは、自分で自分を疑わしいと誇示しているようなものよ。それが何を意味するのか、想像出来る?」
じんわりと、觜鷹の握る手に汗が滲んだ。何を意味するのか?みもりにそう問われた觜鷹は、今ここでようやく、みもりの行動の根底にある「ねらい」に気がつき、おそれをなした。
まさか、そんな、有り得ない。
そう信じるべき希望などは、その後ろからだくだくと流れ出て止まらない鈍色の恐怖に塗り潰されて、もはや跡形もない。
「警察は、誰かひとりを犯人に当て嵌められればそれで良いの。篝君が少女の共犯者という事にして、その場凌ぎの結果を出しさえすれば事は収まるのだもの」
みもりの言葉が、無情にも思えるほどの鋭利を纏って、觜鷹の胸に突き立てられた。
「警察が、そんな事を本当にするでしょうか」
「在り得る話。警察だって組織なのよ。どれだけ表面で毅然としていようと、中身は取り繕いかもしれない。あのね、篝君。今回の事件はあまりに度が過ぎている。常識の中で全てを見極めるにはあまりにも現実の領分を越えているのだから、事実に直面したとはいえ、あなたが責任を感じる必要なんてないのよ」
現実の領分を超える。それは確かに、全くその通りだった。
觜鷹の目の前で起きたことは、皆一様に道理を欠いていて、それだけに、言葉にすればするほど真実味が無くなってゆく。それは、あの少女も同じだった。どこへ消え、今頃何をしているのだろうか。少女の存在の証明さえ可能ならば、こんな思いはしなくて済んだものを。觜鷹は込み上げる悔しさを胸に、ただ唇を噛んだ。
「敵は。薔薇持ち(ロゼット)よ」
「その、ロゼットって一体何なんですか。みもりさんは、少女を知っているんですか?」
「知らない。知らないけれど、確信はある。何故なら、私の中にも薔薇があるから、わかるの。端的に言えば、私は少女と同じ、薔薇持ち(ロゼット)だから」
「……今、なんて?」
みもりが空になったコーンスープ缶を地面にカラリと転がして、ブランコから静かに立ち上がった。
どこか決意めいた表情をしている。呼吸の音すら死んだような静寂の気配を纏い、目の前のみもりが大人めいた、知らない顔をしていた。
何だろう、この感じ。
觜鷹は次にみもりが発する言葉を聴きたいような、聴きたくないような、どちらにも振れない心の針を両手で支えながら、風化すべきその会話のエッセンスに身が毒される気がした。
「薔薇持ち(ロゼット)とは、心に薔薇を持つ人間の呼び名。……口にすると、どうしてこうも安っぽくなるのか不思議だけど、霊能者とか、超能力者とか、そんな類のプレシャスでワンダフルなフレディ・マーキュリーもショック死するびっくり人間よ」
みもりは真面目な顔でそう言い放つと、口をぽかんとあけた觜鷹を見下ろして、得意げに目を閉じた。
シリアスなのかユーモラスなのか判別のつかないその不思議な言葉選びは、静聴する觜鷹の脳内を静かに散らかした。
「その昔。人は物を考えたり感じたりする役割は心臓にあると信じて疑わなかった。目に見えない、『心』という存在。それは概念ではなく、例えば古代エジプトでは人の胸に位置する臓器、心臓はミイラ作りにおいて魂の還る場所として、何よりも丁重に弔われた。脳はその逆で、科学や医学が発達するまではただの詰め物か何かと思われて捨てられていたの。わかる?古代において、心臓とは心であり、心とはその人を支配する全てでもあったのよ」
みもりが自分の頭に指を押し付けて電動ドリルのようにグリグリとやり、穴を開けて脳ミソを流し出すような仕草をした。觜鷹は相変わらず、様相を変えずにそれを見ていた。
「今でこそ、人の肉体に『心』なんてものは存在しないのだと結論付けられてしまったけれど、その呼び名はそのまま残っている。それは心というものが形而上ではなく、なにかもっと、確信を持って実在すると言える事の裏付けだと、私は思っている。人は心で感じ、心で思考する生き物なのだと。『心』は存在するのだと」
みもりが胸元のボタンを外し、白衣の前を開いてみせる。白い首元と細い鎖骨があらわれ、みもりはその場所にそっと手を差し込んだ。
觜鷹がみもりの胸元から目を逸らす事すら忘れさせるように、みもりの手が、指が、腕が、手首の位置までするすると身体の中へ差し込まれてゆく。
皮膚は避けていない。傷はなく、血も出ない。しかしみもりの腕は胸との境目を感じさせないままに奥へ奥へと沈んでゆき、やがてみもりがその胸元から腕を取り出した時。その手には、真紅に色づく、恐ろしいほどに美しい、まばゆき一輪の薔薇が握られていた。
「みもりさん……それって」
「紛れもない、私の『薔薇』よ。ひどくあえかな、気持ちの結晶。篝君が見た少女と同じ、存在する筈のない、薔薇の形をなした人の心。唯一無二の、悲しみ、喜び、苦悩する掛け替えのない機関」
みもりの手にする薔薇から、赤い光の粒子がちらちらと舞っている。闇を照らすでもなく降り落ちるその粒子は、薔薇から溢れた花粉だろうか。
觜鷹は目の前のあまりにも驚くべき現実に、ひたすら言葉を失い、絶句し、立ち尽くした。そうするしか無かったし、そうするべきだとも思った。記憶の中の少女の荊棘が、目の前のみもりの薔薇に重なってゆく。
あまりに幻想的で、どうしようもなかった。
「……理解が、追いつきません。どういう事ですか?あの少女とみもりさんとの間に、何か関係があるんですか?あの少女は……みもりさんは、何者なんですか?なぜ、どうして。どうしてこんな……」
觜鷹の中で溢れ出る源泉のように、疑問が次から次へと口から飛び出て来る。
何もかもが幻で、自分を惑わせるためだけの存在に思えてならない。虚実。目の前のみもりでさえも。觜鷹の感情と心が、拒絶しかけるのがわかった。
「夢でも見ているとしか思えない」
そう呟く觜鷹の方に、ひどく優しく、みもりの手が触れた。
「考えても解らない事なんて、いくらでも存在るのが私達の居る現実でしょう。理解なんて、しなくてもいい。ただ、感じ取って欲しいの。顔を上げて?篝君」
言われて顔を上げ、不安が不安を呼んで重なった觜鷹の瞳がみもりの表情をとらえる。その中で、視界の端で。みもりの持つ真紅の薔薇が、きらきらと光った。
「みもりさんは、少女を知っていたんですか」
震える声で、觜鷹がそう言った。それに対して、みもりがきっぱりと首を振って否定する。
「違う、そうじゃない。確かに私と少女には共通項がある。互いに薔薇持ち(ロゼット)と呼ばれる、心を用いて特殊な力を遣うことの出来る人間という点に置いて。それ以上の関係はない。だからこそ、最初篝君の話を聴いて、私は耳を疑った。良識のある薔薇持ち(ロゼット)であれば、無関係の人を襲うなんて事は有り得ない。私の知る薔薇持ち(ロゼット)に、少なくとも、そんな人間は居ない。その『少女』は、恐らく私も知らない別のどこかからやって来た可能性が高いの」
「別の、どこか」
思わず繰り返したその言葉には、まるで少女が別世界から現れたかのような趣を与えた。
「篝君と少女にも、おそらく共通項があると思ったけど」
「共通項。それって、つまり」
つまり。そこで言葉を切って、觜鷹は自分の胸に手を当て、視線をそこに向けてみた。
まさか、自分も。口には出さなくとも、みもりにはその考えが伝わったようだった。
「……私の仕事を覚えてる?」
「……心理士、でしたっけ」
「正解。もっと詳しく言えば、療法士。カウンセリングをはじめとする心理療法が主な仕事よ。流石は篝君、よくご存知ね」
「俺も患者でしたから」
そうね、と言いながら軽く拍手をしているみもりを見て、觜鷹はみもりに治療を受けていた過去をさりげなく思い出していた。
物腰柔らかく、知的で、それでいて行動力のあるみもりの性格は人に安心を与え、人見知りのする觜鷹にとっても、非常に相談しやすい相手だった事をよく覚えている。
「実は、薔薇持ち(ロゼット)には普通の人にはない特徴が三つほど存在するの。私は治療を行う際に、ついでと言っては何だけど……患者さんにその特徴があるかどうかをチェックしているのよ」
「特徴……凄く残忍な性格を持っている、とか?」
觜鷹はレストランでの少女のことを思い返し、思いつきに、そう言ってみた。みもりは首を振る。
「そんなのは単に加虐趣向か精神病質でしょう。もっと日常的で、本当に単純な特徴よ。ひとつ目は……『金縛りによく遭う』」
「……金縛り?」
「簡単に言えば、『霊感がある』って事ね。薔薇持ち(ロゼット)にとっての前提条件と言ってもいい。目に見えない物を見る才能。これがなければ、バラを像として見ることも、掴むことも出来ない」
觜鷹はそう言われて、指揮棒のように指先で薔薇を握っているみもりの手を見た。
その薔薇は『目に見えないもの』と言われても納得できないほどによく見え、光っている。それを掴んでいるみもりはつまり、霊感があるという事だろうが、それを見ている自分もまた、霊感とやらがあるのだろうか。
今まで生きてきて、気にしたことも無かった。觜鷹はそんな事を考えながら、静かに薔薇を見つめていた。
「二つ目。『身近な人の死を経験している事』。最低でも物心ついた頃の経験が必要。これはつまり、唯一無二な『死の匂い』と『悼む心』を知っているかどうかなの。人の心には元々存在しない感情がひとつだけある。追悼……死を嘆き、悲しむ心よ。人の死を経験して、はじめて私達は死への理解を深められる」
身近な人の死。その言葉を聴いて、觜鷹は誠二の事を思い出してならなくなった。
幼い頃に友達を亡くす喪失感は、確かに体験しなければわからないようなものかもしれない。觜鷹はその経験を通して、死というものをはっきりと、身近に感じられていた感覚があった。
「今の所、俺はどっちにも当て嵌まるみたいです」
「当て嵌まるというか、篝君はもう私のバラが見えているのだから、検証しなくとも才能がある事は確定しているのよ」
「才能って……歌やスポーツみたいに言わないで下さい。確かに俺には少女の薔薇も、みもりさんの薔薇も見えていますけど、だからって……全てが決まった訳じゃない」
決まった訳じゃない。そうだ、まだ、わからない。心の中でそう呟く觜鷹の、その僅かな希望と呼ぶべき葛藤を振り払うかのように、みもりが静かに觜鷹を見て、息を整えた。
「あなたにも、バラはあるのよ。篝君」
嘘だ。
觜鷹は目をギュッと瞑り、頭を左右に振ってその言葉を大きく否定した。そんな訳は無い。いくら信頼するみもりの言葉といえど、その一言には、何故か、ナイフで胸をひと突きにするような鋭さと、絶望があった。
「薔薇持ち(ロゼット)の特徴、その三。……薔薇持ち(ロゼット)は決して『夢を見ない』」
「……え……?」
觜鷹がゆっくりと顔を上げ、みもりの顔を見た。みもりの瞳に、外灯の光が吸い込まれて、きらきらと光っていた。
「薔薇持ち(ロゼット)は眠る時に夢を見ない。これは推測だけれど、薔薇持ち(ロゼット)は思考を心で行うため脳への負担が軽く、レム睡眠と呼ばれる浅い眠りに落ちやすくなるの。だからその代わり、別のものを見る時がある」
「別のもの……それは何ですか」
觜鷹の背に、温い汗が一筋伝って腰のあたりまで落ちるのがわかった。汗を吸わないカーディガンは汗ばんだ肌にひたひたとくっついて、気持ちが悪い。觜鷹はその瞬間、自分が思った以上に汗をかいている事に、今更に気がついた。
「『過去の記憶』よ」
がん、とみもりの言葉に觜鷹は頭を打たれた気持ちになった。過去の記憶?そんな馬鹿な。だとすると、だとすると。ああ、考えたくない。そんな筈もない。
みもりが話を続けるも、觜鷹の耳には半分も入らない気持ちだった。
「過去に体験した喜び、悲しみ、恐怖、怒り……そういった感情の昂りは、心に焼きついて離れない事がある。眠って心が無の状態になった時、ふと眠りの中にその光景が顕れるの。夢との大きな違いは、目覚めた後にはっきりと思い出せる事。そして、何度も同じ内容で繰り返される事」
「何度も、同じ、内容……」
やめてくれ。確信に、変わる。そう思った。
つい最近学校で見たあの悪夢が夢でなく、本物の記憶だったなんて、信じたくもない。
みもりさんは一体何を言っているんだ?理解していながら、理解していない自分を装う。觜鷹は恐怖していた。
「篝君、最近、子供の頃の夢を見ると言っていたわね」
「……それは」
「何度も同じ夢を繰り返し見る、って。言っていたじゃない。その相談を受けて、まさかとは思った。今日は、その事について話そうと思って居たから……。私の薔薇を見せて、と思ったけど、レストランで別の薔薇持ち(ロゼット)のバラを見たと聴いて、私は確信したわ。篝君、やはりあなたは」
「違う!俺はそんなんじゃない!」
みもりの言葉が、觜鷹の声によって途切れる。
はっとして、大声を上げてしまった事を後悔した觜鷹が、罰の悪そうに目をみもりから逸らし、唇を噛む。
自分は何から逃避しているのか。その想いだけが、胸焼けのようにジクジクと心のどこかで燻っていた。
「……辛いよね。少女と同じになるのが怖いのでしょう?だけどそれは違う。篝君が薔薇持ち(ロゼット)として生きる事は、篝君の人生を救う手立てになるかもしれないの」
みもりが相槌もない觜鷹に向かい、ひとり話を続けた。觜鷹は黙っている。
「レストランで、見たでしょう?薔薇持ち(ロゼット)のバラは、使いこなせばどんな武器より恐ろしく、人を殺める事だって容易い。けれど同時に、それは心の強さにもなり得るのよ」
「そんなもの、俺には必要ありませんから」
觜鷹が目も合わせずそう呟くのを聴いて、みもりが少しだけ、何かを考えるように口を噤んだ。
どこまで言うべきか、何と伝えるべきか。選択肢の無数にある言語の流れかれ、觜鷹を傷つけすぎないよう、最善の注意を払いながら、言葉を紡いでいる。そんな風だった。
「……さっきは三つ、と言ったけど」
「……え?」
「薔薇持ち(ロゼット)の特徴に、本当に重要なものが、もうひとつだけある」
みもりと觜鷹の目が合う。何かを期待するような瞳と、何かを秘めてくすんだ瞳。みもりは己の薔薇に指で触れ、その香りを確かめるように、静かに口元へ運んだ。
「バラに触れない薔薇持ち(ロゼット)は、決まって短命である。その感受性の高さゆえに苦心し、苦悩し、絶望の中で破滅してしまうから。……四つ目の特徴、それは高い『感受性』。バラを手にするということは即ち、心を統制するという事よ」
「……感受性?そんなもの、俺には無縁ですよ。悩んだりする事なんて、ありません」
觜鷹の言葉に、みもりが静かに首を振る。嘘。そう言いたげな様子だった。
「……本当にそう?だとしたら、どうして篝君は子供の頃の事を、思い出せないと言うの?」
「それは。……気持ちとは関係の無いことです」
「いいえ違う。篝君はただ、自分にとって都合の悪いことをひたすらに思い出したくないだけ。思い出すと辛くて、居た堪れなくて。だから、思い出せない。思い出さない。心が壊れてしまいそうになるから。そう思い込んで、ひたすらに怖いのだわ」
「……心外です。みもりさんが、そんな風に思っていたなんて」
思わず、觜鷹の言葉が固くなった。みもりの言葉を聴いて、觜鷹はまるで落石事故にでも遭ったかのような衝撃を全身に感じ、顔が熱くなった。
「心外でも何でも良い。篝君、よく聴いて。あなたは今のままでは、決して幸せになんてなれやしない。自分で自分の過去を清算しない限り、あなたの持つ後ろめたさはいつまでも。……それこそ、死んでしまうその瞬間にさえ、付き纏う。……あなたの感受性の高さ故に」
「……何も知らない癖に、勝手な事を言わないで下さい!」
最早、勢いでも何でもなく、觜鷹はただ己の内に湧き上がる怒りにまかせて叫んでいた。
煩い。五月蝿い。みもりさんがこんな人だとは思わなかった。一体何を言い出すかと思えば、後ろめたさ?他人でしかないみもりさんが何を知っているというのか。
觜鷹の握られた両手に、汗が滲んだ。
「何も知らない?少なくとも、私は篝君の本性がどんなものかは知っているわ。あなたは自分本位で、狡くて、他人から嫌われる勇気すらない、ただの臆病者よ。違う?PTSDなんて都合のいい言葉で誤魔化して、隠れて、過去から逃げようとしているだけ。そんなあなたが、気持ちをどうにか出来るですって?毎日を憂鬱そうな顔で過ごしているあなたが?」
みもりの声が、荒々しく歪んでゆく。今まで見たこともない、みもりの表情。激しくて、それでいて、痛いくらいに真っ直ぐだった。
觜鷹は何も言わず、口を結ぶばかりで、みもりと目を合わせることすらも出来なかった。
全てが、胸に突き刺さる。そんな事ないと、一言言いたいのに。唇は動かない。
觜鷹には解っていた。どうして何も言い返せないのか。全てが正論で、全てが正しいと、心のどこかで理解しているからだ。そして、それがどうにも悔しくて、腹立たしかった。
觜鷹がみもりに背を向け、公園の出口へと歩き出す。
「どこへ行くの」
みもりの声が、觜鷹の歩みを止めた。
「そうやって自分の過去からいつまで逃げるつもり?」
觜鷹は、答えなかった。じっとその場で固まって、数秒の時を何度も噛み締めた。
正直、泣き出したかった。
「応えて」
みもりの声が、先に泣き出しそうだった。
「……本当は」
静寂の中に、觜鷹の声がした。
「……本当は解ってたんです。自分でも、逃げているんだって……。本当の事を口にすれば、皆、俺のことを恨むだろうって、そう思ったから。出来なかった。怖かった。今だって。……繰り返すのが嫌で、友達も作らなかった。本当は欲しかった。でも、逃げるほうが、何となく楽だった。毎日が嫌なものでなければ、それで十分だと思った。それが幸せなんだって思ってた」
背を向けながらそう言った觜鷹はそこで言葉を止めると、しんとした公園の空気にみもりの気配を感じながら、次の言葉を、氷の中に閉じ込め過ぎていた酸素を溶かし出すように。その行程で、ひどく息を吸った。
「本当は誰かに打ち明けたくて仕方がなかった。でも、俺は。その弱さ故に、誰からも許しを得られないままに大人になってしまったんだ」
觜鷹の右手が、觜鷹の胸部へと伸びた。
カーディガンを羽織っただけの胸元は大きく開いていて、素肌に指が触れた瞬間、僅かに汗ばんだそこから、この世のものとは思えぬほどの青く、美しい薔薇が姿をあらわした。
夜風に光っている。
「……これで満足ですか」
振り向いた觜鷹の手には、觜鷹の薔薇持ち(ロゼット)としての、恐ろしいまでに美しいコバルトブルーが握られていた。棘のついた茎。そこから広がる優雅な花弁が、わが名もなき一輪の薔薇であると自らを雄々しく誇っているかのようだった。
「綺麗なバラね。あなたの心そのものを切り取ったかのような、深く澄み切った青だわ」
觜鷹の握る薔薇を見て、みもりがそう口にした。
「そう、それがあなたの薔薇」
「みもりさんの薔薇は……真紅いんですね」
「十人十色。同じ色なんて、人の心と同じく存在しないものよ」
みもりが自らの薔薇を静かに差し出す。暗闇に、真紅と濡れ落ちる青の輝きが二つ、粒子を散らしている。みもりが友達としてではなく、仲間に向けるべき笑顔を湛えて、觜鷹を見た。
「ようこそ、薔薇持ち(ロゼット)の庭へ。そして、……ありがとう。こんな形でしか、あなたを救えない私を許して。……いいえ、許してくれなくても良い。今はただ、信じたい。私の知っている篝君が、決して弱い人間でない事を、死ぬほどに信じて居たいの」
「みもりさん」
そう呟いた觜鷹の元に、みもりが静かに歩み寄る。みもりの髪が夜風に揺れ、照らされた二人の影が、砂場の地面にうっすらとした黒い線を伸ばした。
「でもね、ひとつだけ訂正させて」
みもりの手が、觜鷹の肩に触れる。微かに震えたままの觜鷹の肩は、觜鷹が思っている以上に脆く、頼りない。未だに自分の発言が及ぼす衝撃に対処がつかず、気持ちに整理がつかないまま、必死に存在していた。
柔らかなみもりの手のひらはそれを承知で触れたのか、觜鷹の動揺を鎮めようとばかりに、その体温をそっと伝わせた。
「あなたはまだ、人生の半分も生きていない子供なの。大人になってしまった、だなんて嘆かなくて良いのよ。人生は一度きり。だけどそれは十分過ぎるほどに長く、気の遠くなる道のり。私だってそれは同じよ。だからこそ、後悔のないように、何度だってやり直して、精一杯生きなければならないの。それがたとえ、辛い過去や感受性という重荷を背負っていたとしてもよ」
「感受性、か」
諦めに似た嘲笑いが、觜鷹の口の端から漏れた。薔薇を持つ人間は、舗装される筈のない道路を無理矢理に歩かされてゆくのだという、悲観。同時に沸き起こる、だからこその道中を楽しもうという楽観。
觜鷹の薔薇は、觜鷹のそんな期待を感じたかのように、青い光が僅かばかり強まって見えた。
「座って、篝君」
みもりが後ろ手にブランコを指差しながら、觜鷹を呼んだ。
「もう一度、篝君と話をしなくちゃ。篝君がずっと秘密にしていた、過去のこと。話せる範囲で構わないから、教えて欲しい。それから、レストランで消えた少女のこと。そして、これからの、篝君のこと。議題は山積みね。ああそれと、新しいコーンスープを買って来なくちゃ」
「まだ、残ってますよ」
觜鷹がブランコに置いたまま放置されている缶を指差して、言った。みもりは首を振って「冷めてるでしょ」とポケットをまさぐって小銭を数える。
チャリチャリと小銭の擦れる音を聴きながら、觜鷹は手に持った薔薇を静かに眺めていた。
今まで生きてきた中で、これほど胸の澄んだ時はなかったと思えるほど、今の自分の心は透明で澄み切っているような気がした。そんな感覚だった。
薔薇が光っている。
蛍光色のようでそうでなく、鈍く、鋭く、冷たく、優しい。これが自分の心だのだと思うと、憎らしくて、恐ろしくて、そして愛おしかった。
夜が深まってゆく。觜鷹はこれから語るべく自分の過去、例の連続する悪夢を思い出そうとしながら、そこから聴こえる僅かな悲鳴に耳をそばだてる。
何度塗りつぶしても、滲み出す記憶。
長く凍結していた氷河期の氷をゆるやかな火にかけるように、少しずつ、融かしてゆく感触。
みもりという存在が真紅の炎となり、觜鷹を取り巻く氷点下をゼロに近づけるべく、その身を照らす感触。
ひどくあたたかで、ひどく人間らしい、おかしな気分だった。
「それとも、おしることかのほうが良いかしら」
みもりが楽観的にそう言った。觜鷹が笑う。
「まだ、季節は夏ですよ」