#The Briar Rose
#Rosette EP1 白い棘
*
「いらっしゃいませ」
私服に着替えた觜鷹が分厚いガラスの扉を押し開くと、冷房のきいた店内から明るい女性の声が響いて聞こえた。
メニューを手にした女性店員が觜鷹を見て「おひとりですか?」と遠慮がちに尋ねると、觜鷹もまた遠慮がちに「二人になります」と指を二本立てて店員に示した。
「二名様ですね。畏まりました、先にお席までご案内します」
イラッシャイマセ、の一言が店員の口から発せられると、店内のあちこちから同様にイラッシャイマセ、と同じような掛け声が聴こえて来る。
店内は食事時のためか半ば混み合っており、トレイに料理を乗せたウエイトレス達が忙しく店内を駆け回っている。觜鷹は通された角の一席に腰を下ろすと、店員が背を向け立ち去るのを確認して、ほっと息を漏らした。
郊外とはいえ、夜になれば客で賑わう住宅街の貴重なレストラン。枕詞に『ファミリー』が付きはするものの、しかし、そんな事は觜鷹にとってどうでも良い事だった。
下ろし立てのジーンズのポケットからiPhoneを取り出し、眺める。時刻は七時をまわり、約束した時間に間に合った事に胸を撫で下ろす。私服をあれこれと選んでいた觜鷹は、つい家を出るのが遅れてしまい、到着がギリギリになる事を焦っていた。
觜鷹がメールの着信履歴を確認すると、案の定、みもりからのメールが一通届いていた。
『仕事の都合で、少しだけ遅れます。ごめんね』
簡素なその一文のみで構成されたみもりからの便りは、觜鷹が足早に到着を急いだにも拘わらず、しばらくはひとりテーブルに座ってぼうっとしていなければならない事を、無情にもあらわしていた。
「失礼します」
不意に目の前に置かれた水入りのグラスを見て、觜鷹がはっとする。いつの間にかそこに居たウェイターが、メニューも見ずにぼうっとしている觜鷹を不思議そうに見つめていた。
「何か、ご注文されますか?」
「ああ、えっと」
唐突に選択を迫られた觜鷹は口ごもり、慌ててメニューをバタバタと開いてドリンクの欄に目を走らせる。
アイスコークにソーダ水、オレンジジュース。食事と一緒に頼むとお得なドリンクセット。それらが口々に喚き立てるような情報の渦の中、觜鷹は咄嗟に目に付いた『コーヒー』を指差して、もごもごと注文した。
「ホットとアイス、どちらが宜しいですか?」
「あ、いいです」
はあ、と言いたげなウェイターの顔が、若干、面倒臭そうに引き攣った。觜鷹は慌てて「すみません、ホットで」と言い直すと、聞き間違いをした自分の耳をひどく恥じた。
「畏まりました」
ウェイターが背を向け、足早に立ち去ってゆく。觜鷹は一難去って、と言わんばかりに息を吐き出し、慣れない会話のやりとりにまごつく自分の青さに小さく舌を鳴らした。
周囲の全てが、自分を煙たがっているような気分になる。高校生の觜鷹にとって、他人に自分がどう思われているかという事は、たとえ心を遮断してシャッターが下りたとして、やすやすとそれを破壊して乗り込む戦車のように防ぎようがなかった。
レストランにたったひとりでテーブルに座っているなどという事だって、本当は、相手がみもりでなければ絶対に断りたい事柄のひとつだった。尚更、今日の店内はひと目にそうだとわかる位に混み合っている。
そんな場所も、人の気配も、存在も。賑やかな場所に居ればいるほど、とりわけ今日の現在だけは、痛烈な嫌悪感を感じずには居られなかった。
ふと外を見ると、すっかりと暗くなった車道を時たまにサアサアと車が流れてゆく。
駐車場を照らす明かりが遠慮もなく闇を追い払っている。それでも、店内から見る外はぼんやりと暗く、視点を目の前の窓ガラスに移すと、觜鷹は疲れた顔をしている自分の表情に気がついた。
タンクトップに無地のポロシャツを羽織り、胸元には安物のクロムハーツが揺れている。普段は服装に拘らない觜鷹の、ほんの些細な出来心。もとい、お洒落心だった。
あらためてガラスに映った我が身を見てみると、これまたどうして、色彩感覚のない格好だった。觜鷹はとたんに気恥ずかしくなり、クロムハーツの留金を外して、隠すようにシャツの胸ポケットの中へ落とした。
その時、ふいにどこかから「ゴクリ」と何かが飲み込まれる音が觜鷹の耳に聴こえた。
水やミルクティーを無造作に喉に流し込んだ時に得られる、小気味いい嚥下音。
たった一度きり聴こえたその音に気をとられ、端鷹が視線をちらりと店内のほうへ移すと、目の前のガラス越しに、通路を挟んだ向かいの席に座って食事をする制服姿の少女が見えた。
おかっぱ頭のような黒髪が、肉をナイフで切る振動に合わせて小刻みに揺れている。
フォークを遣わず、両手にゆらりと光るナイフを持ち、分厚いステーキを口へするりと運んでは、それを美味しそうに噛んでいる。
まさかな、と、そう思った。
いくら何でも、自分と同い年ほどの少女が、喉を鳴らして肉など飲み込む筈がない。
しかしそんな觜鷹の思い込みを嘲笑うかのように、少女は咀嚼していた肉を、おもむろに、天井を見上げながら「ゴクリ」と飲み込んだ。
先程と同じ、喉を盛大に鳴らした小気味いい嚥下音が觜鷹の鼓膜を揺らす。少女は皿に乗った白米も、バター付きの麵麭も、気休めのグリーンサラダすらテーブルに並べず、目の前に置かれた分厚い肉の塊を、ひたすらに、美味そうに休みなく口にしていた。
何者だ?率直にそう思った。少し変わった子なのだろう。あるいは、偏食家か、暴食家か。その少女の食べっぷりは、觜鷹がガラス越しに思わず凝視してしまうほど見事で、奇妙だった。
ゴクリ。
またしても、その音が觜鷹の気を捕らえそうになったその時、店内のどこかから団欒を引き裂く、ぎんと鋭い悲鳴が上がった。
同時に響き渡る、ガランという陶器か何かの割れる音。悲鳴の声色は女性のもので、觜鷹も周囲の客らも、みな一様にその音に驚き、音の発生源を確と見やった。
「何やってんだ手前!」
ポタポタと、水か何かが滴る気配。その中で、野太く質の悪い、暴慢な人の声がした。
ウエイトレスのひとりが、制服をコーヒーまみれにして呆然としている。
恐らく、運んでいたコーヒーを客の前で零してしまったのだろう。觜鷹はそう予想した。しかしながら、それにより迷惑をかけた客の性質が、どうやら、運の尽きだったに違いない。
「熱ィ!火傷したかもしれねえ」
そう言って演技じみた動きで指を舐める厳つい男。それを見て、觜鷹の予想は確信に変わった。
「靴に染みが付いただろうが、安物じゃねえんだぞ」
「も、申し訳ありません!」
觜鷹のテーブルから少し離れた場所、『喫煙席』と書かれた板ガラス越しに聴こえるその声は、あからさまに品性の疑わしい限りの喧嘩口調だった。
やくざ。觜鷹の脳裏に、その一言がじわりと滲んだ。
先程まで客の話し声で騒々(ソーゾー)しかった店内の空気がぴたりと冷えて固まり、氷点の別世界になる。
その中でひとり喚き散らす厳つい男は、刈り上げの頭に色付きサングラス、素肌にジャージといった、あまりにも。いかにもな風貌をして、深々と頭を下げるウエイトレスをこれでもかと言わんばかりに睨みつけていた。
「おう、どうするんだ。どうしてくれるんだよ」
「しかし……あの……」
「手前、弁償できるのか。ええ?」
細々と弁明しようとするウエイトレスを、ジャージ男が睨みをきかせて黙らせる。
己の足元を強く指差しているのは、恐らくは、コーヒーで染み付いた靴を意地悪く明示しているに違いない。
近くのテーブルに座っていた中年女性が、その様子を見てヒソと誰かに耳打ちをしている。
あの子、足を掛けられたのよ……。
その一言は觜鷹に、そしてジャージ男にも聴こえたのか、鬼のような形相がギロ、と周囲に向けられた。
ひっ、と言って中年女性が縮こまるのを見て、ジャージ男が「関係ない奴は黙ってろ」と啖呵を切る。
「その辺にして置け」
不意に低く、冷淡で重みのある声が觜鷹の耳に静かに届いた。
よく見れば、ジャージ男が座るテーブルには別に二人、より厳めしい、漆黒のサングラスをかけた男がどっしりと腰を据えている。
その一番奥に座っている、オールバックの、これまた漆黒のスーツを身に纏った男がただの一言を発した途端、喚き散らしていたジャージ男が忠実な飼い犬のように大人しくなる。
いやに強調された開放的な胸元と服装の格差が、一目見るだけで理解できるほどの単純な人間模様。
スーツ男の隣に座っている男は派手なジャケットこそ羽織っているものの、インナーはTシャツかタンクトップというラフな格好だった。
スーツ男は席の最も奥に座っている事からしても、彼等の中での『格』は最も高いに違いない。
「でも、兄貴」
「でも、じゃねえ。喚くな阿呆が。靴が濡れたなら、そう言えば良いだけの事。弁償なり何なりは、その後決める事だ」
兄貴、と呼ばれたスーツ男はそう言うと、テーブルに肘を付いたまま、吸っていた煙草をジリ、と灰皿に押し付けた。
直ぐさま、隣のジャケット男が何処かから新品の煙草を取り出して、スーツ男に手渡し、火を点ける。
シャボ、というジッポライターの音が、静まる店内に響いた。
「しかし困ったもんだ」
スーツ男が、吸いたての煙を愛おしそうに空中に吐き出した。
困ったもんだ。そう言って言葉を留めた唇は邪悪に歪み、自分の言葉ひとつにかかる重圧を楽しむかのように意図的な間を作り出す。
目に見えない筈の空気が重く沈んでいく様子。觜鷹の喉が、ごくりと鳴った。
「その靴、俺が買ってやった物でな。ブランドだか海外製だかで、実を言えば相当な品だ。水で濡れたならまだしも、お嬢さんが零したそれは……」
じろり、とサングラス越しの瞳がウェイトレスの足元に向けられる。
震えながら立ち尽くすウエイトレスがそろそろと視線を下ろした先には、割れたコーヒーカップと、その辺り一面を薄茶色に染めているコーヒーの海があった。
「コーヒー、だよな?」
「あ……あの……本当に……」
違う。そうじゃない。彼女のミスではない。事情を知る周囲の誰もがそう思っても、現状、誰一人としてその場に口を挟める者は居なかった。
せめて自分は巻き込まれないように。そう思い、見て見ぬ振りをするのがやっとに違いない。遠巻きに隠れ見ている觜鷹でさえ、それが賢明だと思った。
もはや涙を流して怯え出すウエイトレスに、スーツ男はなおも冷酷な言葉を告げて追い討ちをかける。
「先ずは責任者、出して貰おうか」
事の緊張が高まったその瞬間、觜鷹は後方から不意に聴こえてきた足音を感じて、ひとりその方向へ視線を移した。
先ほどひとりで食事をしていた制服姿の少女が、やくざの座るテーブルへのんびりと近づいてゆく。
何故?直感がそう告げた觜鷹の目の前で、自分の通う学校のものとは異なる、古風な制服につけられた後ろ襟がふわりと揺れた。
「ちょっと、待って」
觜鷹の制止に耳も貸さず、少女は視点を一点に定めたまま、かつかつと歩みを進める。
少女の居たテーブルには、ぽつんと残されたステーキの皿がこちらを見ながら、残された肉がナイフと共に鎮座している。
化粧室にでも行くつもりなのだろうか。しかし、この瞬間に?いかな怖いもの知らずであろうと、今この瞬間だけは、食器のこすれ合う僅かな音すらなりを潜めるに違いないと、觜鷹はそう思っていた。
そんな觜鷹の気も知らず、我が道歩まんと闊歩する少女の姿は、果たして、やくざ達のテーブルの前でピタリと停止する。
どうか何かの間違いであってくれ。そう心の中で呟く觜鷹が目を瞑った瞬間、耳に届く「バシャリ」という奇怪なる水の音。
何だ?
觜鷹がゆっくりと目を開ける途中、周囲では「ヒッ」と息をのむ人の声が其処彼処から漏れ出した。
「……は?」
思わず、觜鷹の口からも声が漏れた。
テーブルにどっかりと腰掛けているスーツ男の上半身が、グラスの水でずぶ濡れになっている。
この場に居る誰もが、目の前の光景が飲み込めないという様子で、ただ唖然とした。
ツウ、とスーツ男の前髪から鼻先へ流れた水が、輪郭からぽたぽたと零れる。状況を理解しきれていない様子のスーツ男は、冷たさか驚きからか、声を小刻みに震わせながら、目の前に仁王立ちしている少女に静かに問いかけた。
「……お前、今何をした?」
少女は答えない。無言のまま、恐らくはその冷徹な視線を目の前の三人の男へ向けているのだろう。少女の背姿しか見えない觜鷹にも、その気迫はたちこめる芳香の如く伝わった。
少女の手には、水の滴る空のグラスが握られている。やくざ達のテーブルから水入りのグラスを引っ掴み、中身をぶち撒けた後の、明らかなる物的証拠だった。
何の前触れなく、あまりに突発的で過激な行動に、流石のやくざ達も面食らったに違いない。
一番間近でそれを見ていたジャージ男などは、ぽかんと口を開けたまま、目の前の少女にただ無言を喫していた。
「何をしたのか、だと?」
嗜虐的な笑みを浮かべた少女が、そう言って小さく鼻を鳴らしてみせた。
「貴様等があまりに五月蝿いせいで、私の食事は台無しになった」
「……何だと?」
「本当なら死んで詫びて貰う所だが、今日の私は気分が良い。……特別に、土下座で。許してやる」
床に広がるコーヒーの海に自らの親指を突き立て、そう言い放つ少女はにんまりと白い歯を見せて嗤った。
スーツ男の煙草から、湿った白煙が揺らぐ。あまりの台詞に、誰も言葉が出ない。そんな様子だった。
觜鷹はふと、少女の使う日本語の聴きなれない発音に、日本人ではないのだろうかと思いを巡らせた。
日本語は流暢らしいが、その発音はどこか、昔聴いた西洋人の教師が遣う日本語の発音にそっくりだった。
極道映画のワンシーンのように啖呵をきりながら、少女の体幹は少しも揺るがない。確固たる芯を持ち、その場でやくざ達の応答を待っているように見える。
それが当然だとでも言いたげな、あまりに独裁的な視点。
余程腕に自信があるのか、そうでなければ、ただの世間知らずか命知らずか。どちらにせよ、少女は自ら危険な渦中へと、その足を踏み入れた。
何もかもが突然で。歯車の噛み合わぬ、觜鷹の理解の及ばない世界。
先の展開に、血の流れない保証はなかった。
「土下座……?」
スーツ男のこめかみが、ぴくりと動いて血走った。
「何だ、土下座も知らないのか?日本人の癖に」
コーヒーの海を踏み歩いた少女の靴が、ぱしゃりと僅かに音をたてた。
少女は手近なジャージ男の胸倉をいきなり掴むと、その細腕からは到底想像がつかない腕力を用い、片腕で、ジャージ男を席から床へと音を立てて引摺り下ろした。
「ならば教えてやろう。土下座とはこうするのだ」
少女の怪力がジャージの生地を縄のごとく捩じり上げるのが周囲の客らにもよく見えたのか、数名の女性が恐怖のために押し殺した悲鳴を上げるのが聴こえた。
「おい……やめ……ろ」
引き摺られたジャージ男の声が、窒息しそうな息の根にかすれて響き渡る。
ギリギリという、衣類が立てるとは思えないほどの硬い音。鬱血してゆくジャージ男の顔はハウス栽培のトマトのように赤く、その脚は繁殖期を迎えたペリカンのようにバタバタと床の上を叩いて周囲にコーヒーを撒き散らした。
身長160センチもない少女が身の丈それ以上の男をいとも容易く縊るその様は、異常にして異様。常軌を逸したパフォーマンスのようにすら見えた。
ビシャ、という大きな汚い水の音がした。
少女の足元に、コーヒーのぶち撒けられた床に突っ伏して動かない、哀れなジャージ男の姿が転がった。
その体制は見ようによればまるで土下座のようで、少女のために許しを請う、無力な男の姿だった。しかし両手をだらりと前方に伸ばして腰を折るその姿は、どちらかと言えば、メッカに祈りを捧げる一信徒のようでもあった。
ジャージ男が暴れたために、夥しいコーヒーの飛沫が床を、天井を濡らしていた。少女の靴を、テーブルの足を、ウエイトレスの頬を濡らし、すっかり冷えてしまったコーヒーの香りがそこらじゅうを漂い、やがて舞って死んだ。
「あ……」
放心しながら成り行きを目にしていたウエイトレスの指が、自らの頬に伝う一滴のコーヒーに触れた。
「珈琲心中」
少女がひとり、ウエイトレスに呟いて笑った。
痙攣ひとつしないジャージ男が足元にだらりと横たわり、コーヒーまみれになっている惨状を目にして、ウエイトレスの中の何かが堰をきって崩れたのだろう。
わなわなと震えた後に、口をいっぱいに開いたウエイトレスが、恐怖と嫌悪の限りを悲鳴に変えて、店の隅々にまでエンと叫んだ。
「誰か!警察!」
どこかから、誰かが叫んだ。店内はついに慌てふためき、誰もがもはや隠す事なく恐怖の雄叫びを上げながら席を後にした。
子供の泣き叫ぶ声、人々の逃げ惑う足音、反して淡々と流れ続けるBGM。それら全ての環境音が混乱に混乱を重ね、もはや周囲は戦地の如く、むごたらしい狂乱の不協和音に包まれた。
テーブルから皿が落ちて、割れる。
その拍子に、席に座っていたジャケット男が胸ポケットから刃物を取り出し、少女を捕らえるべくテーブルの上へと躍り出た。
グラスと灰皿が引っくり返り、ジャケット男の握る刃物が少女の喉笛へ牙を伸ばす。
実に俊敏な身動きだった。喧嘩慣れしているであろうジャケット男の見事なひと突きも、少女はまるで予期していたかのように身動ぎひとつせず受け流し、反対に、突き出されたジャケット男の手首をがっしりと掴んでみせた。
「行儀の悪い手だ」
ボリ、と嫌な音がした。少女がジャケット男の腕を掴むと同時に、その腕は少女の怪力によっていとも容易くへし折られる。
周囲の雑音に、ジャケット男の悲鳴がセブンスコードで加わった。
少女は続けて、折ったその腕を背負い投げのように強く抱え込むと、テーブルの上から店の床めがけて、ジャケット男を物か何かのように慈悲なく叩きつけた。
無情にも頭から落とされたジャケット男は首が地面に触れる瞬間、手首が折れるよりもひどい音を奏でながら、ジャージ男同様コーヒーの海に無言で沈められる。
「諸行無常」
やけにカタコトなその一言が少女の口から飛び出すと、ドサリと音を立てて、ジャケット男の身体がこれまた土下座しているように、少女の足元へとひれ伏せる。
「さあ」
スウ、と深く息をしながら、少女が振り返った。
息ひとつ乱さぬ一撃必殺を見舞う少女の視線の先には、湿った煙草を咥えたまま少女を見ている、不動なるスーツ男の姿があった。
「次は貴様の番だ」
そう告げた少女の舌が、少女の唇を艶めかしく、獲物を見据えた孤高なる獣のように、たらりと舐めた。
煙の出ない煙草をテーブルに押し付けながら、それを見ていたスーツ男が皮肉らしく口を挟む。
「そんな物は土下座とは言わねえ」
「捨て置け」
足元に転がる二つの背中を蹴飛ばし、少女は静かに言い放つ。すっかりコーヒーの染みたジャージとジャケットを纏うやくざ達はもはや岩のように動かず、死んでしまったのではないかとも思えるその様子に、觜鷹はひとり恐怖した。
あの少女は、一体何者なのか。その思いだけが、混乱の最中に冷えてゆく觜鷹の思考を支配していた。
「随分と腕が立つらしいが、如何せん調子に乗りすぎだ嬢ちゃん。空手か柔道か知らんが、そんな脅しで俺が頭を垂れるとでも思うのか」
冷えた怒りを湛えながら、スーツ男が少女に語りかける。
「思うさ。次いでに小便なり何なり垂れ流すがいい」
「口の減らねえ子供だな」
カチカチとライターを鳴らし、取り出した新品の煙草に火をつけながら、スーツ男は苦々しく口にした。
煙を吸い、フゥ、とスーツ男が一服するまで、二人は互いにその場で微動だにせず、待った。じりじりと高まる緊張感はまるで侍の決闘における最初の一太刀のようで、それを傍観する觜鷹の胸もまた、拍数が高まるのがわかった。
スーツ男が煙を吐き終えて、二人の拮抗が解かれようとしたその瞬間。厨房から逃げ遅れた従業員らしき男が飛び出して、足元の食器をガシャガシャと踏み鳴らしながら逃げるのが見えた。
「た、助けて!」
觜鷹がその声に気を取られ、一瞬視線を逸らした瞬間。恐らくは、少女もそうしたのだろう。スーツ男が驚くべき速さで胸元から黒光りする何かを取り出し、立ち上がり、少女の横顔へと突きつけた。
「……余所見をしたな?」
「……それがどうした?」
「だから手前は子供だって言うんだよ」
カチリ、とスーツ男の握った何かが、小さな音を立てた。その物体を見た瞬間、未だ店の入り口で我先に外へ逃げようとする客の顔色が、いよいよ青ざめる。
実物を見たことのない觜鷹でも、一目でそれが何なのか識別し、肝が冷えるのを感じた。
「銃か」
少女はそう呟きながら、今まさに引き金の引かれようとしている、男の手の中の銃を見た。
「撃てるのか?貴様に」
「抜かせ。ここまでコケにされて、手前の首ひとつ取らずに帰れる訳がねえ」
ゆっくりとテーブルを回って少女に近づいたスーツ男は、銃口を少女のこめかみに向けながら、掛けていたサングラスを外して床に投げ捨てた。
「脳漿ぶち撒けてやるよ。死体は川が好いか?ドブが好いか?」
スーツ男がそう言った瞬間、觜鷹の目に、何やら黒い靄のようなものがゆらりと映った。
幻覚か?座席の影から様子を伺っていた觜鷹は、慌てて目を擦り、目の前の惨状を再度確認する。
「何だ……あれ」
目を擦っても、觜鷹の視界には黒い何かがゆらゆらと風もなく漂っているのが、はっきりと曖昧に見えた。それはまるでスーツ男に惹かれるようにしてゆっくりと近づいて行き、見方によっては小さな羽虫の集合体のようにも見えた。
やがてスーツ男の元に接近した黒い靄は、握られた銃や指に纏わりつくように停滞し、そこを動かなくなる。瞬きをしても同じだった。いつの間にか現れたそれは、まるで幽霊のように、スーツ男の両腕に取り付いている。
「やはり来たか」
ぽつり、と少女が呟いた。
「何?」
「貴様に見えないのも無理はない。何しろ、この荊棘とて、貴様の目にははじめから映っては居なかったのだから」
少女はそう言うと、突然頭上の何もない空間を愛おしそうに眺め、ふぅ、と感嘆の溜息をついてみせた。
何か飛び切り美しいものを見つけたような、うっとりとした表情。何かを目で追うように、少女の瞳は店内の其処彼処を映していた。
「何言ってんだ、手前」
少女の様子を訝しんだスーツ男が、眉を顰めて怪訝な顔をする。
「急に怖くなって、気でも違ったか」
「莫迦を言うな。貴様にあるまいし」
目も合わせず言い返す少女の一言に、いよいよ怒りが我慢の限界を迎えたのか、スーツ男は銃口を直接少女のこめかみに押し当てる。
少女の黒髪を掴んだスーツ男の指が、少女の頭を乱暴に揺らした。
「熟々(ツクヅク)、口の減らねえ子供だぜ」
ブルブルと、スーツ男の銃を持つ手が震える。
殺すと息巻いてはいても、実際に頭を撃ち抜くのは流石に躊躇いがあるのだろうか。
「どうした?撃たないのか」
死を突きつけられてなお、声ひとつ震わせない少女が挑発するようにそう口にする。
この状況においても、少女のほうに優位性があるように見えるのは、二人の気迫の違いか、あるいは自分の酔狂なのか。
あまりにも常識からかけ離れていて、あまりに現実味が無い。觜鷹はその狂気を肌で感じながら、こんな現実は夢ですらあって欲しくないと切に願った。
「ああ、撃つさ……」
ドクドクと、觜鷹の耳にスーツ男の心臓が音を響かせる気がした。
「撃ってやる……」
スーツ男の口から、煙草がこぼれて落ちて、床のコーヒーに触れて濡れた。
ジュウ、という音が微かに聴こえて、煙の余韻がほどけて消えて、そして、時間が止まった。
「撃ってやるよ。舐め腐った手前のその顔ごと!」
スーツ男が叫んだ。
引き金に力が込められて、スーツ男は意識の中で完全に発砲し、觜鷹は咄嗟に目を強く瞑って視界を遮断した。
想像の中で、少女の頭部を、銃弾がこめかみから撃ち抜いている。
それを見ていた誰もがその瞬間、少女の命は奪われたのだと確信したに違いない。
ゼロ距離からの弾丸は少女の頭蓋骨を貫き、血管を突き破り、辺りに夥しい少女の体液を飛び散らせる。
あまりにも、最悪な幕引き。
想像の中で、勝手に少女の死を描いていた觜鷹の耳には、しかし、いつまで経っても銃の撃たれる発砲音は聴こえてこなかった。
何故銃声は未だ聴こえてこないのかと、恐ろしく思いながら觜鷹はそうっと目を開き、スーツ男を見た。
「撃てと言ったのに」
少女の声がした。
「何で……何で撃てねえんだよ」
続いて聴こえたスーツ男の声はひどく絶望し、震えて声の定まらぬ音色が觜鷹にそっと届いた。
バシャ、と何かが落ちて、水の跳ねる音がする。
スーツ男の持っていた銃が落下して、足元のコーヒー溜まりが飛沫を上げていた。
一体、どうして。觜鷹が思わず息を止めて見つめた先には、震えながら己の両手を見つめる、変わり果てたスーツ男の姿があった。
「あれ……アハハ、いつの間に、え?アハハ。俺の指……」
笑いながら、どこか狂ったようにブツブツと独り言を言うスーツ男の両手は、觜鷹の見た限り、全ての指が根元から切断されて、そこから先が理由なく失われていた。
「何か、失くしたのか?」
「指……俺の指……」
ボタボタと血を流し、溢れた涙と鼻水で濡れたスーツ男の顔が、あまりに冷酷な、微笑んでさえいる少女のその表情へと向けられた。
四足歩行の動物が無理やり二足で立たされた時の、おぼつかない体制と足取り。そんな連想をさせるスーツ男の姿は、少女がもたらす恐怖によって、瞬きのうちに支配されてしまったように見えた。
「そうか、指が無いのか。可哀想に」
「手前……一体何をした……」
「そのままではバランスが悪い事だろう。安心するがいい。直ぐに整えてやる」
スーツ男の言葉など耳に入らないのか、少女はひとりで勝手に話を続けると、今まで見せたことのないような嬉々とした表情で、スーツ男の背後に向かって何かを口ずさんだ。
少女が右手の人差し指をくい、と小さく曲げると、空間のどこからか鞭のしなるような、何かが勢い良く風を切る音が觜鷹の耳まで届く。
何だ?そう思った次の瞬間、べりり、と嫌な音をたててスーツ男の靴が脱げ、宙に舞うのが見えた。
宙に舞う?
觜鷹はそう見えた自分の両目を軽く擦り、床に落ちたその靴に目を凝らした。
觜鷹が靴と思ったそれは、実際にはスーツ男の履いていた、靴の爪先部分だけであることがわかった。
わかった所で、理解は到底出来ていなかった。綺麗に爪先部分だけ切り取られたその靴の中からは、スーツ男のものと見られる『足の指』が、ごろりと転がった。
スーツ男が、声にならない絶叫を上げて床に転がった。
「これで、指は綺麗さっぱり無くなった」
そう言って笑う少女は、いつの間にか、両手に液体のしたたる何かを握ってひどく嬉しそうにしていた。
ぽたぽたと赤黒い、それはまぎれもない血液。少女は両手いっぱいに切断された『指』を握って、床に転がって悶えている男にそれを見せつけていた。
「あ……あ……!俺の指……!」
「ん?指がどうした?」
「返せ……!」
うねうねと床をミミズのようにのたうちながら、スーツ男が少女に涙を流して哀願する。もはや見る影すらないその姿に、事の有り様を見ていた觜鷹でも、ショックのあまり目を逸らさずには居られなかった。
「良いだろう。返してやる」
少女はそう言うと、近くのテーブルにあった食べかけのフライドポテトの皿に『指』を全て乗せ、丁寧にケチャップを満遍なくかけてからパセリを飾った。
それをにこやかにスーツ男の前の床に起き、小さな声で「お食べ」と言うと、まるで飼い主が飼い犬にそうするように、手を叩いてスーツ男の気を引いて見せた。
「そら。返したぞ」
「ふざけるな……」
「ケチャップは嫌いか?味に五月蝿い奴め」
目の前に差し出された、ケチャップまみれの自分の指を見て、スーツ男の表情が、完全に獣のそれになった。
怒りまかせに少女に向かって咬みつこうと暴れ、もがき、叫びと唸りを上げる。
しかし足の指が無いためにバランスを取れないのか、スーツ男は立ち上がる事すら出来ずにのたうちまわるばかりだった。床を己の血で汚しながら、少女に対する殺意だけをガソリンに、スーツ男は壊れた機械人形のように、滑稽に、暴れ続けた。
「無様だな」
そう言って、満足そうに、少女は嘲った。
觜鷹がその光景に心身を疲弊させていると、どこからともなく、けたたましいサイレンの音が、遠くから聴こえているのに気が付いた。
音は段々と大きくなって聴こえている。逃げた客のうちの誰かが、警察に通報してくれたのだろう。ふと店内を見渡せば、残っているのは自分と少女と、地面に転がっているやくざの男達だけになっていた。
すっかり逃げるタイミングを逃した觜鷹はこれからどうするべきか迷いつつも、少女の事が恐怖心に勝り、気になった。
自分の身の安全など保障できやしないが、それでもあの異質な少女には、理屈なき、興味をそそられる何かがあった。
觜鷹がそうしている間も、スーツ男の声は断続的に觜鷹の耳に届いていた。大人の男の泣き声とは、どうしてこうも哀れで、苦くて、耳に残るのだろう。
觜鷹は見たくないのだと自分に言い聞かせながらも、しかし、スーツ男が最後まで少女に抵抗しようとする様子を、少女への好奇心のために視界に入れざるを得なかった。
「……え……?」
またも、目を疑った。コーヒーと血に塗れるスーツ男の身体全体が、先に見た黒い靄のようなもので濃く覆われている。
まるで生き物のように時折どくんと脈打ち、胎動のようにも見えるそれはどこか不気味で、不快で、禍々しい。
觜鷹は吐き気すら覚えそうなその光景に口を手で覆い、なおも集まり続ける黒い靄から視線を逸らすべく少女の方へと視点を移した。
「警察か……」
ひとり立ち尽くす少女が、ぽつりとそう口にする。
窓から見える景色の向こうに、赤いパトランプが爛々と光っているのが見える。警察がここに来るのは、時間の問題だろう。
「食事をする気も、失せてしまった。折角、奮発して高い肉を注文したと言うのに」
そう言って、少女は溜息をひとつ吐く。その様子を目にしていた觜鷹は、改めて少女の顔立ちがどこか西洋人らしいものである事、そして、まるで白く美しい薔薇の花弁のような、透き通った肌をしている事に気がついた。
黒くさらりとした髪はおかっぱというよりは、もっと洗練された……所謂、ボブという髪型なのかもしれない。少女は嗜虐的で冷酷な性格の割には、人形のような大きな瞳と、美しく華奢な容姿を持っていた。
「それにしても、この珈琲」
思わず見とれていた觜鷹は、少女が床のコーヒー溜まりを見ながらそう呟くのを聴いて、はっと我に帰る。
いくら美しい顔立ちとは言え、中身は残虐申し分ない事には変わりない。觜鷹は一瞬、それを忘れそうになった自分に恐怖を覚えた。
「……考え過ぎか」
少女はそう言うと何か考え事をしていたらしいのを止め、ひとり頭を振った。
その時突然少女が觜鷹のほうへ向かって歩き出したため、觜鷹は心臓が止まりそうになりながら、慌てて顔を引っ込めた。
気づかれただろうか。いや、そもそも今まで気づかれて居なかったとでも?どちらにせよ、觜鷹の席の隣は少女が元々座っていた席なのだから、少女がそこへ戻るのに何ら不思議はない。
觜鷹の存在には、嫌でも気がつく筈だった。気付かれたらどうなるのだろう?スーツ男と同じく、わけもわからないままに殺されてしまうのだろうか。
どうする。どうすればいい。突然の窮地にどうする事も出来ず、觜鷹はもはや、人生これまでか。そう思った瞬間、カツカツと聴こえていた少女の足音が、ある地点でぴたりと止まり、何も聴こえなくなった。
「……見ていたのか」
どくり、と心臓が跳ねた。
話しかけられているのだろうか。觜鷹は背中に冷や汗が流れるのを感じ、返答するかしまいか、きつく悩んだ。
「……待ちやがれ」
聴き覚えのある、男の声がした。
「……大人しく、転がっていれば良いものを」
少女が言う。別の誰かと話しているのか。觜鷹はそれに気がつくと、わずかに安堵し、胸を撫で下ろした。
「生きて帰れると思うなよ」
そう告げた声は息苦しそうに掠れていたが、間違いない。声の主は最初に少女によって沈黙させられた、やくざのジャージ男だった。觜鷹が細心の注意を払いながら様子を覗き見ると、スーツ男の落とした銃を拾って構える、ジャージ男の姿があった。
「どんな手を遣ったのか知らねえが……手前は、正気じゃねえ。子供だと思って舐めてたのが間違いだった」
銃口をガタガタと震えさせながら、ジャージ男が少女に銃の照準を定める。既に、安全装置は外されている。引金にかけた指を引けば、込められた弾丸は少女目掛けて貫きにかかるだろう。
「外には警察、兄貴は手足が使えねえ。この店に入ったのが運の尽きよ。これから東京まで帰る予定も、何もかもが代無しだ」
「そうか、それで?」
間髪入れず、少女が無感情に返答をする。それを聴いて、さもおかしそうに、ジャージ男は自虐的な笑いを零した。
「俺ももう自棄だって言ってるんだよ」
その言葉を皮切りに、ジャージ男は表情をぎらりと変えて、罵声を上げながら少女に銃を乱射した。
聴き慣れない発砲音。騒音の刹那。觜鷹が目にしたのは、撃ち出された筈の銃弾が少女の目の前で停止し、宙に浮かんでいる光景だった。
「どうなってる……超能力か?」
「超能力?」
ジャージ男が怯えながらそう言うのを聴いて、少女が不満そうに問い返す。
「つまらん憶測だ」
少女はそう言うと、目の前に浮かんでいる銃弾を愛おしそうに、まるで熟した赤い果実を指でそっと摘むように手に取ると、事も無げに足元へぽとりと落とす。
「殺す前に教えて置いてやろう。私の#(ナンバー)は……薔薇持ち(ロゼット)」
ずきり、と短い頭痛が觜鷹に走った。
薔薇持ち(ロゼット)。その言葉を聴いた瞬間、何かが觜鷹の中を駆け巡るのがわかった。何か、の正体はわからない。
觜鷹はそうして目の前で、あたかも踊るように優雅な手つきで空中を撫でる少女の姿に目を奪われる。
少女の撫でた空間に、美しい、棘の生えた白い荊棘が見え出した。まるで魔法のように。それまで見えていなかった物の存在に改めて気付かされた風に。觜鷹は息を飲んだ。
「Carte Blanche」
愛しい人の名前を呼ぶように、少女の唇がそう、動いた。
刮目とは、今まさにこの瞬間のために存在する言葉なのだろうと、高鳴る胸を押さえ、觜鷹は思った。
何度目を擦っても、それは其処に存在した。恐ろしくも、美しく、残虐で、真白い。取り留めなくグロテスクな、白薔薇のカタマリ。
少女は天井を見上げて、恍惚の笑みを零していた。店の天井一杯に張り巡らされた荊棘と、そこから繋がる、ジャージ男の後ろに佇んでいる、人型の、巨大な白薔薇と荊棘の塊。その薔薇の巨人が、まるで生物のようにゆらゆらと動き、呼吸すらしているように見えた。
「Carte Blanche。純白の紙片の、淑やかな花弁には、汚れた返り血すら染めるには至らない」
「何を……言ってやがる」
ジャージ男が銃を構え、発砲された二発の弾丸が再度少女を襲う。少女は動かない。代わりに少女の目の前を荊棘が覆い、襲いかかる銃弾を受け流す。流れ弾は、店内の照明の幾つかに当たってそれを破壊した。
「どうして当たらねえんだよ!」
「貴様のような凡夫に、理由はわかるまい」
「黙れ!」
我を忘れたように、ジャージ男は込められた銃弾の限りを、少女に向けて発砲した。
雷のように店内に轟く銃声と、次々に割れてゆく照明や窓ガラス。辺りにそれらの破片が舞い、觜鷹は慌ててテーブルの下へと身を隠した。
少女に襲いかかる銃弾の全ては、相も変わらず少女を護る白き荊棘によって防がれる。ジャージ男はそれが見えていないのか、ひたすら一心不乱に引金を引き続けた。
やがて銃声が止み、店内にはカチカチと弾切れを起こした銃を虚しく鳴らす音だけが残る。ジャージ男は「クソッ」と叫び、使い物にならなくなった銃を、床に投げ捨てた。
「火遊びは終わりか?」
「何だよ……何なんだよ手前はよ……」
為す術なく、がくりと床に膝をつくジャージ男を見て、自分の爪を気にしていた少女は詰まらなさそうに呟いた。
「折角日本まで出向いたというのに、練習台がこれでは少々物足りないな」
そう言って少女は小さな溜息をひとつ吐くと、ゆったりと、膝をついたまま項垂れているジャージ男に近づいた。
「……靴だけで済めば、良かったな?」
ジャージ男の履く、見るからに安物の革靴についた小さな染みを見た少女が笑う。ジャージ男は応えもせず、牙を抜かれた獣のように、ただ、目の前のより凶悪な獣の前に、精神を平伏していた。
「……何だ……」
觜鷹の目に、またも黒い靄のようなものが映り込む。先程から痛みに悶えているスーツ男と同様、ジャージ男の身体にも黒い靄が纏わり付いている。
何とも不気味な、得体の知れない物体だった。気がつけば、靄は、ジャージ男の奥で床に倒れているジャケット男の身体にも拡散がっていた。
その時、外から拡声器を通して警察が呼びかける声が店内に轟いた。
武器を捨てろ、大人しくしろ……そういった類の言葉が、テーブルの下で身を縮める觜鷹の耳に届く。激しい銃声を聴いて、駆けつけた警察が何事かと息巻いているのだろう。
「貴様らに似合いの迎えが来た様だ」
少女はそう言うと、やくざ達の姿を残念そうな表情で見つめた。
「もっと愉しみたかったのに」
やくざ達の身体は既に黒い靄で覆い尽くされ、目鼻立ちもわからないほどに黒く染まっていた。
少女はそれが見えているのか居ないのか、唇の端を僅かに持ち上げ、店内を一瞥し、ふっと息を吐いた。
窓の外に光る、何台ものパトカーの赤いパトランプ。荒れた店内に、警察がやけに明るいライトを差し込んだ。
眩しそうに、少女が目を細める。蛍光灯の破片が踏まれ、薄暗い店内を照らす明かりに塵埃が舞う。
「見ていたのだろう?」
ぽつりと、少女が言う。
誰にそう言った?觜鷹は少しづつ近づいてくる少女の足音を感じながら、見つからないようにその身をテーブルの奥へと隠す。
「私の薔薇を」
コツコツという少女の足音が、觜鷹の目の前で止まる。テーブルの下から見える、少女の細い足首、黒いローファー。
頼むから、覗き込まないでくれ。そう願いながら、觜鷹は身を縮めてテーブルの奥へ奥へと身体を捩じ込んだ。
そんな行動に意味はないと感じつつも、そうせざるを得なかった。そうしなければ、少女の放つ何かによって、觜鷹の心は飴細工のように、いとも容易く握りつぶされてしまいそうな気がした。
その瞬間、何ともタイミング悪く、觜鷹のジーンズのポケットに入っているiPhoneが、けたたましい着信音を鳴り響かせる。
ぶわり、と嫌な汗が全身から吹き出し、觜鷹は慌ててiPhoneの電源を切ろうとした。
切る寸前に見えた、『みもりさん』という文字。ああ、どうか今だけは。ここへ来る事も電話をかける事もしないで欲しい。どうか今だけは。そう願いながら、觜鷹はぴたりと動かない少女の足首に視線を奪われたまま、押し寄せる絶望の波を必死に押し留めていた。
少女の気配が近づく。少女の顔が、今にもテーブルの上から覗きそうで……どうしようもなく、恐ろしかった。
「腹が、減ったな」
唐突に。少女はそう言うと、觜鷹の姿を確認しないまま、テーブルの前を通り過ぎていった。そしてそのすぐ後に、店内に降り注ぐ大量の雨。
幾重にも絡り合う白薔薇の巨人の腕が店内のスプリンクラーを破壊して、豪雨のように。店内を消火用の水で滅茶苦茶に濡らしてゆく。
水をはじいた白薔薇が、荊棘とともに少女の歩みに引き摺られてゆく。この荊棘の全ては、あの少女のもの。それだけが、難解と異質を極める全てにおいて、たったひとつ理解できる事実だった。
「見えてる癖に」
少女の声がする。
觜鷹はひとり、テーブルの下に隠れて震えていた。見たくないものを見せられた、小さな子供がそうするように。