#Helix
#Rosette EP1 ら旋
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空に浮かぶおおきな雲のかたまりと、太陽の残り火と。觜鷹の歩く、湿った街並みには、過ぎ行く夏が残した微かな熱がそこかしこに浮遊して居た。
車道を走り去るトラック。騒音を聴き、排気ガスを吸う。甘ったるく、胸が燻される気がする。觜鷹は既に暗くなった帰り道を、一人足早に歩いて居た。
街灯がちらつきはじめ、黒いアスファルトを丸く照らし出す。觜鷹はカバンの中を探り、細かい傷のついた銀色のiPhoneを取り出した。
青白く光る画面を見る。時刻は五時半。着信はおろか、メールの一通も届いてはいない。最早、何のために電話を所持しているのか疑問も覚える。觜鷹にとってそれは、やや大ぶりな時計以外の何物でも無かった。
交差点にさしかかると、歩道に取り付けられた信号がちょうど赤から青に変わるのが見えた。觜鷹は聴き覚えのある電子メロディを耳にしながら、黙々とその交差点を渡り終える。
「あれ、お兄ちゃん」
不意に、甲高い声がした。觜鷹が思わず振り返ると、交差点の向こう側で髪の長い、小柄な少女がぱたぱたと手を振っているのが見えた。
觜鷹と同じ学校の、制服の夏服。少女は觜鷹と目が合うのがわかったのか、にっこりと笑ってその場でトントンと足踏みをはじめた。
觜鷹が目を細める。信号は知らぬ間に赤信号に変わっており、少女は再び青に変わるのを待っている。少女はせわしなく車道を確認し、やがて、青に変わる寸前で待ちきれず交差点に飛び出した。
キィ、と騒々しく車のブレーキ音が轟く。
少女の目の前で、黒のセダンが急停車により後輪を滑らせて停止した。少女はそこで凍りつき、持っていた鞄がどさりと足元に転がった。
「三久!」
觜鷹が叫んだ。三久と呼ばれた少女はその場にへたりと座り込み、威圧感を纏う漆黒のバンパーを見上げて沈黙している。
交差点の信号が青に変わる。一部始終を見て居た周囲の生徒が目を丸くしながら通り過ぎ、誰もが振り返りながらその場を後にした。觜鷹は顔面蒼白としながら三久に駆け寄ると、車の前に膝をついて三久の肩を掴んだ。
「三久!大丈夫か!」
「あ……お兄、ちゃん……」
よほど驚かされたのか、三久は小さく震えながら觜鷹を見た。口が回っていない。觜鷹が「怪我は」と尋ねると、三久は首をふらふらと振って無傷で済んだ事を伝えた。
セダンの運転席が勢い良く開き、車と同じ、漆黒のサングラスをきちりと掛けた男が顔を覗かせた。
車の扉が後手にバタンと閉じられる。觜鷹は車から降りて来たその男の風貌を見て、血管からスウ、と血の引くのを感じた。
時代を逆行するポマード、刈り込みを入れたオールバック、そして喪服と見紛う黒のスーツ。何よりも、日本人離れした体格と顔立ち。
間違いない。関わってはいけない類の人間だと、そう直感した。
觜鷹が絶句する内、男はカツカツと三久に近寄り、表情のまるで見えないサングラス越しの視線を三久に向ける。
ごく、と觜鷹が唾を飲み込む音がした。
どうなる。この場に居た誰もがそう思った瞬間、しかし男は悠然と、且つしなやかに。品性を感じさせる動作でその場に静かに、膝をついた。
「大丈夫ですか。お怪我は」
「……え」
見た目に反し、その男は礼儀正しくそう言った。
「お怪我はありませんか」
「怪我……え、あ、怪我!えっと」
大丈夫です。そう言いたい筈の三久は、目の前の男を見て完全にその単語が飛んでしまったらしい。首をブンブンと上下に振り、自らの健康状態をアピールしてみせた。
「そうですか。それは良かった」
男はそれを聴いて安心したのか、スーツの内ポケットから一枚の名刺を取り出すと、それを三久の前に静かに差し出した。
「もし、後日病院にかかられる事が御座いましたら、こちらへご連絡下さい。治療費を負担させて頂きます」
口をぽかんとあけながら、三久が名刺を受け取る。男はそれを確認すると、周囲で傍観して居た人々の視線を意に介す事もなく、足早に運転席へと戻っていった。
横断者用の信号は丁度、青から赤へと変わるべく点滅して居た。觜鷹は慌てて三久を抱えて立ち上がらせると、もと居た交差点の端まで腕を掴んで連れてゆく。
男を乗せた車は、車両用の信号が青に変わると同時に発進した。硬質なエンジン音と、鼻を突くオイルの香り。觜鷹は思わず遠のく車に向かって頭を下げ、未だ鳴り止まぬ、己の心臓を手で押さえつけた。
「あ……行っちゃった」
名刺を手にしたままの姿で、三久がぽかんとそう言った。
「行っちゃった、じゃないだろ」
くるりと觜鷹が振り向き、三久の顔を睨む。びくりと震えた三久に觜鷹が詰め寄り、周囲に響き渡る声で強く叱責した。
「急に飛び出して、何考えてるんだ」
「でも、怪我は無かったし!お兄ちゃんと早く話したくて、それで、つい」
「そういう問題じゃ無いだろ」
觜鷹はそう言うと、両肩を深く落としてため息をこぼす。目の前の少女、篝三久。ひとつ年下の高校生で、觜鷹の実の従妹だった。
苗字こそ同じものの、生まれ育ちは全く違う。近所に住む叔母の娘で、觜鷹とはほぼ幼馴染の関係にあった。
昔からせっかちで落ち着きがなく、それは高校生になった今も変わっていない。加えて、昔から觜鷹に怒られた時はいつも子猫のように震えて怖がる癖があった。
「だって、お兄ちゃん」
「だって、じゃない。他に言う事があるだろ」
上目遣いに許しを請うような三久の視線。觜鷹はそれにも慣れっこで、ただひたすら言葉の逃げ道を探す三久を腕組みで塞いでいる。
三久はしばらくあれこれ言い訳を口にして居たが、その何れにも觜鷹が折れない所を見て、ついには、ようやく。諦めたのか、細々と反省の色を示してみせた。
「……ごめんなさい」
「最初からそう言えよ。さっきの男の人にだって、お前、何も言ってないだろ」
「ああ。そういえば、そうだねえ」
手に持ったままの名刺をちらと見て、三久が息を吐く。あの人、怖かったな。そう言いたげな三久の表情を見て、觜鷹もあらためて先の人物を頭の中で思い描く。
スーツにサングラス、そして光るエナメル。厳ついルックスにそぐわぬ優雅な振る舞いは、由緒ある屋敷に仕える執事のようでもあった。
剣呑な風貌に一見たじろぎはしたものの、誠実な人間である事には違いない。觜鷹はおのれと三久の幸運に胸を撫で下ろし、気がつけばすっかり誰も居なくなった交差点を見渡して、信号機を仰いだ。
「また、赤になっちゃったね」
「急がば回れ、だな」
觜鷹はそう言うと、現在地からやや離れた場所にある歩道橋へくるりと向き直り、三久に微笑んだ。
三久はそれを見てようやくいつもの優しい觜鷹に戻ったのだと悟り、また元のぱあっとした朗らかな笑顔を取り戻す。
二人は無言で歩道橋へ向かって歩き出すと、觜鷹の一歩後を歩く三久の足音は、自然と、小さく、ぱたりぱたりと、薄闇に溶け込むように、控えめに。觜鷹のもとへと届いた。
「そういや」
前を歩く觜鷹が再びくるりと振り向いて、三久の顔を見る。何かを唐突に思い出した觜鷹の瞳が、きょとんとした表情の三久を捉えた。
「お前、どうして今日はひとりなんだ?」
「どうしてって、明日からテスト週間だから……」
そこまで言って、はっと口を噤んだ三久の様子を、觜鷹は見逃さなかった。
「……テスト週間だから、どうして友達は先に帰るんだ?」
「え、ええと。それはだから……」
ちら、と觜鷹が三久の手元に視線を移す。三久の好きな猫のストラップがついた学生鞄の後ろにこっそりと握られた、小さな黒いビニール袋。
筆記体の英字がつらつらと並ぶその袋に、觜鷹は見覚えがあった。駅前の通りに聳える商業ビル。昼夜問わず喧騒な売り文句を並べ、誰もがその黒いビニール袋を手に嬉々として帰路に着く、その店のロゴマーク。
「お前、まさかまた……」
ひとつの確信を胸に、觜鷹が呟く。
「うん!だって発売日だよ!待ちきれなくて買っちゃった」
三久は嬉しそうにそう言うと、がさがさと音を立てて袋から新品のゲーム・ソフトを取り出した。
瞳をらんらんと輝かせ、まるで初めて玩具を買い与えられた子供のように、三久の笑顔が向日葵のようにぱっと花ひらく。対して、その様子を見た觜鷹は落胆し、がくりと肩を落とした。
「このパッケージ、格好良いよねえ」
「……テスト期間だろ?」
「我慢出来なくて、つい」
学校が終わって直ぐに、わざわざ駅前まで足を伸ばして買いに行ったのだろう。三久がこの時間にたったひとりで帰宅して居たのは、そういった事情のためだった。
三久はソフトのパッケージに描かれた妖艶な女性のキャラクターを指差し、服装がどうだとか、前作との違いはどうだとか、觜鷹の求めてもいない情報を口々に発し続けている。
人の事を言えた義理では無いが、テスト直前になって新作のゲームを買いに走る三久に、觜鷹は親心からやれやれと溜息を吐いた。
「お兄ちゃんも一緒にやるでしょ?」
「やる訳ないだろ」
すっかり呆れた觜鷹は三久にそう言って背を向けると、ずんずんとひとり歩道橋に向かって再び歩き出した。
でも、と言いながら三久が後をついて来る。一緒にやるでしょ?そう言ったのは、三久が自分ひとりではクリアできない事を初めから自覚しての一言だった。
所謂、上級者向け。三久は高度なテクニックを要するゲームをわざわざ買っては、最終的に觜鷹に泣きつくのを常として居た。
觜鷹もそれは重々承知の上で、三久が新しいゲームを買う度に繰り返される「泣き縋り」には頭を抱えて居た。何しろ、結局は、觜鷹がいくら拒もうとも、三久が粘りに粘るため、過去に何度も。三久の隣でゲームをクリアさせられる羽目になっている。
今回ばかりは絶対に。決して。觜鷹がそう思っていても、三久の強引な誘いを回避するのは、なかなか如何して難しい。はたして今回も同じ結果になるのだろうと、觜鷹はそこまでの経緯を想像し、既にその肩は重かった。
「あたし一人じゃあ、絶対にクリアできないもの。お願い」
「じゃあ、何でいつも難しそうなやつばかり買うんだよ」
「それは……」
三久はそこで言葉を詰まらせると、もごもごと小さく何かを呟いた。聴きそびれた觜鷹が振り返り「何だって?」と言うと、三久は顔を赤らめ、慌てて首を左右に振る。
「す、好きなジャンルが苦手なジャンルなの」
「なんだよそれ、面倒臭い」
極めて面倒臭そうに、觜鷹がそう呟いた。
二人がようやく歩道橋の上までたどり着くと、足元を轟々(ゴウゴウ)と通り過ぎてゆくトラックや自動車、その脇をすり抜けるバイクの群れが音を置き去りにして通り過ぎてゆく。
地面を揺らす振動が、かすかに足を伝う感触がした。懐かしい。觜鷹は不意にそう感じた。
歩道橋を渡るなんて、いつ以来なのだろう。記憶を探れども、そこから回答を導き出す事はできなかった。
そもそも、觜鷹は昔を思い出す事がひどく苦手だった。記憶障害では?そう言われた事もあった。誰かに……そう、それすらも確かでは無かった。
ただ、こうして歩道橋を歩む時の音や匂い、振動を身に受けて思い出す「感覚」が、觜鷹には何よりの確かな「記憶」だった。自分は前にもこの橋を渡った事がある。その感覚だけで、確信できた。
目の前で、三久が鼻歌まじりにスキップをする。
ゲームソフトの袋を大事そうに握り締めながら、尻尾のように揺れ動くポニーテール。きっと悩み事など何ひとつ無いのだろうと思わせる、無垢な笑顔。
三久もまた、觜鷹にとって大切な「記憶」と「確信」の一部だった。
三久は屈託ない明るい性格で、觜鷹にすれば、従妹というよりは妹のような存在だった。
兄弟も居らず、人見知りの激しかった觜鷹にとって、近所に住んで居た三久は子供時分の数少ない遊び相手だった。
親同士が姉妹のため顔を合わせる事も多く、互いの家にもよく遊びに行った。
しかし中学に進学してからは、觜鷹が相変わらず一緒に遊びたがる三久を煙たがるようになったため、顔を合わせる頻度は徐々に減っていった。
三久はそれが寂しかったのか、觜鷹が高校へ進学する頃にもなると、それまで自分ひとりでは訪ねる事の無かった觜鷹の家を、ゲームソフト片手に遊びに来るようになった。
觜鷹はその過程をぼんやりと思い出しながら、昔と何ひとつ変わっていないように見える三久の背中を少しだけ、眺めた。
たとえ自分が過去を忘れ去ろうとも、三久の存在が、失った自分の過去を補填して繋ぎ止めてくれている気がする。觜鷹はふとそう思い、同時に自分が恥ずかしくなった。
「ねぇ、お兄ちゃん」
三久が数歩先でくるりと振り向いて、觜鷹を呼んだ。
お兄ちゃん、という呼び名に觜鷹がぎょっとして、慌てて周囲を確認する。幸いにも、自分達以外には誰も歩道橋を渡る者は居ないようだった。
「その呼び方は止めろって言ったろ」
「良いじゃない。お兄ちゃんは、お兄ちゃんでしょ?どうしたの今さら」
臆面なく三久が「お兄ちゃん」と口にする度、觜鷹は顔面の表面温度がかっと熱くなるのがわかった。どうして?そう言いたげな三久は、無邪気にふるりと首を傾げてみせた。
「誰かに聞かれたらどうする、恥ずかしいだろ」
「誰も居ないじゃない。大丈夫だよ」
三久はそう言って周囲をぐるりと見渡してみせる。確かに三久の言う通り、二人の周囲に人影はない。足元では気忙しく車が往来を続けている。仮に誰か居たとしても、その騒音にかき消されてしまいそうだった。
しかし觜鷹にとって、いま現在の事はどうでもよかった。三久が未だに觜鷹の事を「お兄ちゃん」と呼ぶのを、觜鷹はこれまで幾度となく止めるよう言い利かせたにも拘らず、三久は頑にその呼び方を貫いている。
三久もまた兄弟の居ない家庭で育ったためか、ひとつ年上の觜鷹を兄と慕う事を喜びと感じているのかも知れなかった。
「先もお前、俺の事、大声でそう呼んだよな」
「そうだっけ?覚えてないかも」
ごめんね、お兄ちゃん。そう口にして舌を出す三久の姿に、觜鷹はいよいよ自分が折れるしか道は無いのだと、内心肩を落とした。
三久が空を仰ぐ。「空が低くなったね」と言って指差す雲のひとかけらが、薄闇の中で風に飛ばされ砕けてゆく。
間も無く陽が落ちる。重々しい夜の帳が辺りを覆い始めるまで、そう時間はかからないだろう。
觜鷹はそうなる前に家にたどり着くべく、少しだけ歩みを早めようと右足を強く踏み出した。
三久の影を踏み、追い越す。不意に遠くから踏切の閉じる音が聴こえて、ギュウと不安になる。どうしてあの音は、あんなにも人を不安にさせる音色をしているのだろう。
お兄ちゃん。三久の声が背後から聴こえる。不安を緩衝させる、静かな肉声。觜鷹はその瞬間、はっと頭を過ぎった一言を、三久に訊ねたくて堪らなくなった。
「なあ三久、お前、あの噂知ってるか」
「あの噂?」
觜鷹が放ったその一言に、三久が意外そうな顔をする。
あれだよ、ほら。と言って勿体つける觜鷹に、三久はいきなり何を言いだすのだろうと訝し気だったが、歩きながら考える内、思いあたる噂の羅列からひとつを選んで口にした。
「鈴木先生が結婚するかもしれない噂?」
「違う」
「じゃあ、杉浦先生がキャバクラに通ってるかもしれない噂?」
違う。そう言う觜鷹の即答が面白いのか、三久はこめかみに指を押し当てながら網羅された学校の噂を片っ端から口にした。
「校舎裏の倉庫に死んだノラ猫の幽霊が出るって噂?」
「うーん、惜しい」
何度繰り返したのか曖昧な問答の末、ついに三久の口から觜鷹の意中の噂が飛び出す事は無かった。
三久が口を尖らせて「じゃあ、何なの」と訴えるも、前を歩く觜鷹は既に別の考えに思考の矛先を向けて居た。態とらしく憤慨する三久をよそに、觜鷹は放課後の神崎の一件について考えを巡らせる。
噂好きの三久ですら知らないような噂を神崎がわざわざ伝えに遣って来たのには、何の意味があったのか。
単純だ、意味なんて無い。神崎お得意の口から出任せ、嘘八百。自分を脅かすための偽の噂。觜鷹はそう確信して、いかにも信憑に足る表情で語る神崎に心の中で舌打ちした。
「知らないなら、いい」
觜鷹がぶっきらぼうにそう言うと、三久は「ええ?」と言って觜鷹の腕を後ろから掴んだ。
「そこまで言っておいて、それは無いでしょ」
「離せって。知らないなら別に良いんだよ」
話をうやむやにしようとする觜鷹に、三久は掴む腕を離さずに不満の限りを口にする。歩みを止めない觜鷹に引きずられるように繋がる三久との格好は、状況を知らない他者が見れば、実に仲のいい友人同士か、あるいはそれ以上の関係に見えたに違いない。
何もかも、子供の頃の延長線上にあった。三久をからかう觜鷹と、からかわれる三久。その関係性は時を経た今も変わらず、いたく自然だった。
「神崎の奴……」
觜鷹はそう言うと、突然三久の腕を引き寄せ、その手を拘束するようにしっかりと上から握った。
「え、ちょっと、お兄ちゃん」
騒がしかった三久が、觜鷹のその行動にぎょっとして大人しくなる。
顔から発火したように赤面し、恥ずかしいよ、と小声で呟きながらリードを繋がれた子犬のように従順に後ろを歩いた。
觜鷹は無意識で掴んだ手の事に一切関心なく、ひとり誰の声も届かない、完全なる思考の渦の中に居た。神崎の顔を思い出し、親指の爪を噛む。
三久が口にする呼び名以上の恥じらいも、周囲からの目線もなにも気にならない。三久の知る觜鷹という男は、たまにこういう行動を起こすのが実に得意だった。
夜道で誰かに名前を呼ばれても、振り向いちゃいけないだって?馬鹿馬鹿しい。自分は何を怖れて居たのだろう。いや、怖れてなんて居ない。觜鷹はそう心で呟いきながら、ずんずんと歩く速度を速めていった。
アンダンテにアクセルがかかり、歩道橋の階段を刻むように降りてゆく。無言の觜鷹に、手を引かれるがままの三久。歩道橋がはるか後方に下がって見えるまで、二人は訳もなくそのまま歩き続けて居た。
「あら、觜鷹君、三久ちゃん」
街角の、小さな花屋の前を通りがかった時、不意に声を掛けられた觜鷹と三久は思わずびくりとして足を止めた。
「あ、ごめんなさい。邪魔したかしら」
申し訳なさそうな女性の声がする。觜鷹がそろそろと声の方向へ顔を向けると、ひとりの女性が腕の中に薔薇を抱えながらこちらを見て居た。
「真由美さん!」
三久が喜びと驚きの入り混じった声色で、その女性の名前を呼んだ。
花屋の明かりが逆光になり、女性の姿は影を浴びて人物の特定をわずかに遅らせた。
三久のその一言を聴いて、觜鷹はその女性が近所に住む知り合いの黒田真由美だと気がついた。三久は真由美に一歩近づくと、子供がそうするように、ぱたりと腰を折って頭を下げた。
「相変わらず、仲が良いのね」
「え?」
くすくすと真由美がおかしそうに笑うのを見て、三久はようやく自分が未だ觜鷹と手を繋いだままである事に気がついたのか、慌てて觜鷹の手から自分の手を引き抜いた。
それを見て、觜鷹もはっと我に返る。無意識に三久の手を握って居た事を知って、觜鷹はその場で消滅してしまいそうな程の羞恥心を覚えた。
「まるで、恋人同士ね」
汗が滲み、喉が熱される。真由美のその一言に、觜鷹は完全に自分のしでかした失態を悟り、思わずわーっと叫んでしまいたい気に駆られた。
「違うんです、これは、その、つまり、事故で」
「あら、隠さなくても良いじゃない。ねぇ、三久ちゃん?」
真由美にウィンクされた三久はもごもごと言い淀み、その頬を上気させた。
その反応が更なる誤解を招きそうで、面倒で、居た堪れなくて、觜鷹はもはや言い逃れ出来ないのかと絶望し、焦燥し、何かの間違いで発射されたミサイルがこの場に落ちてくれないかとさえ願った。現状はあまりに残酷で、青々しい。觜鷹は目の前で朗らかに笑う大人に為す術なく、やがて白旗を掲げた。
「勘弁して下さい、真由美さん……」
「心配しなくても、誰にも言ったりしないわよ」
そう言って真由美はいたずらな笑みを抱えた薔薇の奥から覗かせた。
薄闇にとろけるような、深紅をたたえる薔薇の束。つややかな髪を耳元で緩く縛り、片方の肩から垂らしている真由美は、美醜にあまり関心の無い觜鷹でさえも目を見張るような艶やかさを身につけて居た。
「薔薇ですか」
觜鷹が真由美の抱える薔薇を見て、そっと呟く。真由美は「うん」と言って、その花弁を優しく指先で触れて撫でた。
「綺麗ですねー。誰かへのプレゼントですか?」
「うん。誠二への、ね」
誠二。その一言に、三久ははっとして口元を手で覆う。
真由美がふっと目を細めたのを見て、三久は禁忌に触れてしまったとでも言いたげな、悲しい表情を浮かべた。
觜鷹は真由美の抱える薔薇と、三久が咄嗟に口を噤んだ意味に気がついて居た。初めからそうだった訳ではなく、風のない薄闇に、そっと浮かぶ深紅の薔薇を目にして、発作的に。それは記憶の水面をしな垂れた柳の枝がひと撫でするように。
しまい込まれた過去の壁画。吹きかけられた息により表面の埃が払われるように。香らない薔薇を目にして、ひとつの面影を、觜鷹は脳裏に甦らせて居た。
誠二。觜鷹はその名を耳にする時、自らの胸に深く棘の刺さる思いになる。
幼少時代、事故で亡くした友人、黒田誠二。真由美の唯一無二の弟であり、掛け替えのない家族だった。
「ごめんなさい。あたし、誠二君の事……」
瞳を湿らせた三久が、言葉をそこで詰まらせる。真由美が慌てて首を左右に振ると、要らぬ気を遣わせてしまったとばかりに、優しく三久の肩に触れた。
「やだ、謝らないで。あの子が亡くなってからもう十年だもの。私だって忘れそうになるくらい。寧ろ、三久ちゃんが未だに誠二の事を覚えていてくれるだけで、私は嬉しい」
「十年……」
觜鷹がそう言って言葉を失う。誠二は十年前の或る夏の日、ダムの放水に巻き込まれてこの世を去った。觜鷹と誠二、そして三久の三人は互いに幼馴染として育ち、小さい頃は三久と誠二の喧嘩で互いの親が駆り出される事も珍しくなかった。
觜鷹は喧嘩こそしなかったものの、気の強い誠二とは毎日のように遊び、時間を共にし、それこそ親友と呼ぶべき仲だった。
同じ学校に通い、同じ机で勉強した。休みの日には互いの家に泊まり、一緒に夜の街へ抜け出した事もあった。
互いの親に兄弟のように叱られて、觜鷹が泣いて、誠二が逃げて。思い返すだけでその場面が甦るような気さえするのに、いまの觜鷹にはその実感がまるで感じられなかった。
記憶が記憶でないような。フィクションなのか夢なのか。幼い時分の記憶は、觜鷹にとって他人が書いた小説を読んで得た経験のようなものにしか、感じられなくなって居た。
「あの子の命日はまだ先だけど、今日はこの薔薇がとても綺麗に見えたものだから」
つい買ってしまったのだと、真由美は笑う。毎年、誠二の命日には墓前にたくさんの薔薇を供えにいく真由美を、觜鷹は知って居た。
觜鷹も最初の数年こそ真由美と墓参りに訪れて居たが、真由美が働き始めてからは互いの予定が噛み合わず、次第にその行事は忘れ去られてしまった。
觜鷹はひとりで誠二の墓を訪れようかとも考えた。しかし、いざゆこうと考えたあかつきにはどうしても二の足を踏み、結果、先延ばしにして訪れなかった年もあった。
誠二の命日。觜鷹は忘れかけて居たその期日を思い返し、ああ、それは明後日なのだと気がついて、想いを馳せる。
「誠二が居なくなって、十年……」
觜鷹のその言葉に、三久が「うん」と呟く。
身近な人物を失っても、時はそこで流れを止めたりはせず、ただひたすらに流れ行く。それは河のように。時に落下する滝のように。あまりに長いその流れは、いつしか誠二の存在や死因さえも侵食される岩肌のようにすり減ってしまうのではないかと、觜鷹は危惧したものだった。
そしてそれは今や現実のものとなった。
あまりに辛い体験をすると、人の脳は意識的にその記憶から逃れようとはたらくらしい。記憶の差し替えや正当化が行われ、まるで他人の体験のように自らとは乖離されて蘇る。
その一例が觜鷹の身にも起こっている。最も誠二の死を身近で体感した觜鷹は、未だどこかで誠二が生き延びている気にさえなる。
「あの、誠二君の遺体って、まだ確か……」
おずおずと三久が口にした言葉に、真由美の肩がほんの少しだけ、揺れる。
思い出したくない事を不意に耳にしてしまったような、悲しみと、後悔が、真由美の瞳にあらわれる。
「まだ、見つかってないの」
真由美はそう言って目を伏せ、俯く。三久がやはり言うべきではなかったとばかりに慌てふためくと、真由美が顔を上げて「いいのよ」と言う。その瞳にあった感傷は、もう消えて居た。
「昔にうんと探して、それでも遺体があがらなかったんだから。もう諦めたわ。十年もすれば、あの子の骨すら、もう見つけてあげられないかもしれない」
骨、という単語が三久の表情に影を落とす。見つからない、誠二の遺体。今は既に大地の一部となっているのか、あるいは。真相は誰にもわからない。誠二は目の届かない遠くまで流され、埋もれてしまったのだとされ、ついに靴の片方すら見つかる事はなかった。
「真由美さん……」
「でもね……時々思うの」
觜鷹の言葉を遮るように、真由美が言葉を続ける。抱えた薔薇を少しだけ強く握りしめ、ふと笑顔を見せた。
「あれだけ探して見つからなかったのなら、誠二は本当は、生きていて。どこかで暮らしているんじゃないかって。最近、そう思うの」
「……それは」
あまりにも儚い希望。真由美の口から飛び出した一言は、觜鷹と三久の心を僅かにかき乱した。
涙を堪えて笑うかのような、真由美の表情。そして微細な声の震えは、もう十年と言って諦めをつけた筈の真由美の姿を、そうではなく、未だに諦めきれていない、思い何かを引き摺ったまま生きているひとりの女性として捉えさせた。
思わず言葉を失った觜鷹に、真由美が微笑む。「冗談よ」と言って、手元の薔薇に視線を移した。
「本当はそんな事、考えるべきじゃないのはわかってる。けれど……私は。あの子に、誠二に。何の償いもできないまま終わってしまったから。それが本当に心残りで、悔しかったから。一言、ごめんねって謝れたら……。そう、思わずには居られない」
「……誠二君には、真由美さんの気持ち、届いていると思いますよ」
三久がそう口にして、真由美に優しい表情を見せる。薔薇を見つめたままの真由美は、小さく「ありがとう」と呟いた。
三久は何も知らない。何も知らされて居ない。真由美の心に根付く本当の悔恨を、想像すらできないその大きさを、当時幼すぎた三久には、誰ひとりとして語る事は無かった。
公には、誠二は危険を顧みずダムの川がはしる山へ遊びに行き、不運にも放水事故に巻き込まれて亡くなった事になっている。
事故が起きた日はひどい残暑に見舞われた一日で、觜鷹の誕生日でもあった。
誠二は小さな揉め事で真由美と喧嘩をした事をきっかけに外へ飛び出し、真由美から逃げるように自宅から遠く離れた山まで走ったのだと言う。
誠二と一緒に事故に遭った幼い觜鷹は、そう口にした。
なぜ事故は起きたのか?なぜ觜鷹だけが助かったのか等、当時は様々な人間がその真相を追い求めて奔走して居た。
觜鷹がその時感じた恐怖や喪失も今では風化しつつあるもののひとつだったが、それでも、真由美が今でも自分との喧嘩が原因で弟を死なせてしまったのだと自分を深く責めている事を、觜鷹は良く知って居た。
それでもなお、自分が悪夢に繰り返し見るあの光景が本物なのか、偽りなのかすら、今の觜鷹にはわからなかった。
記憶は思い出せば思い出す程に錯綜し、混濁してゆく……。なぜ自分は助かったのか。なぜ誠二だけが亡くなったのか。なぜその事を忘れてしまったのか。考えれば考えるほど、頭の中には何も無くなった。
それを悔やむ気持ちすら、十年後の觜鷹にはほとんど残されてはいなかった。
思い返そうとするだけで、胸は傷ついた。
「觜鷹君?」
不意に真由美に名前を呼ばれて、觜鷹ははっと我に返った。真由美の心配そうな顔を目にして、觜鷹は自分が無言のままぼーっとして居た事に気がついた。
「あ……すみません。」
「顔色が悪いみたい。大丈夫?」
「平気です。すみません、色々思い出してしまって」
「ちょっとお兄ちゃん、どうしたの」
何でもない。そう言って、觜鷹は三久から顔を背けた。十年前の事故の後、觜鷹にはPTSDと呼ばれる後遺症が残った。数年の治療でそれは解消されていったものの、今でもたまにこうして、思い出話に気分が悪くなってしまう事がある。
それを知る真由美は自分の失態に気づくと、慌てて「ご免なさい」と口にした。
「こんな事、言うつもりじゃ無かったのだけど……ご免なさい。觜鷹君にも辛い思い出なのに」
「気にしないで下さい。俺は、大丈夫ですから」
觜鷹が気丈な笑みを見せると、真由美は申し訳なさそうに視線を落とした。
「この話はもう、しないほうが良いのかしらね」
真由美の言葉に、三久が「えっ」と短く呟いた。
「十年も前の話をこうして話していても、仕方がない。誠二はもう居ないのだし……私も、それを受け入れるべき。本当はもっと早く、そうするべきだった」
「でも……良いんですか?」
觜鷹の言葉に、真由美がこくりと頷いた。
「誰も救われないもの。さっきも言ったように、あの子の事をたまに思い出せれば、それでいい。だから」
この話は二度としない。真由美はそう言って、言葉にピリオドを打った。
「ねえ良かったら二人とも、久しぶりにうちにご飯でも食べに来ない?」
「えっ?ご飯?」
唐突に真由美がぱっと声色明るく二人に訊ねたので、三久が目を丸くして言葉尻に疑問符をつけた。
「そう、ご飯。最近あんまり合わなくなっちゃったし、いい機会だから、久しぶりに遊びに来なさいな」
「確かに、真由美さんの手料理、食べてないかも」
「でしょう?」
指おり数えながら、三久が真由美に前回招かれた日を思い出そうとしている。真由美はまるで先ほどまでの雰囲気から無理やり脱しようとしているかのように、嬉々として三久に相槌をうつ。
「觜鷹君も、良いでしょう?」
「え、あ、俺は……」
觜鷹が思わず言葉を詰まらせる。何故か、今だけは真由美の家に行きたくはなかった。何か、自分が恐れている何かに触れてしまいそうな気がして、不思議と、そうしたくなかった。
久しぶりに誠二の名前を耳にしたからか、別な理由なのか、自分でもわからない。しかし、今の気持ちをそのまま口にするのも憚られた。
とはいえ、真由美の誘いを断る理由も無い。明日からテストとはいえ、三久は觜鷹の賛同を心待ちにして目を輝かせている。付き合う他、ない。觜鷹はそう直感した。
觜鷹が諦めて首を縦に振ろうとした瞬間、iPhoneの着信音が鞄の中から空間を突き刺すように流れ出す。
はっとして、觜鷹が自分の鞄に手を入れる。慌てて取り出したiPhoneの画面を確認すると、見知った名前が画面に表示され、觜鷹の応答を待っている。
好機かもしれない。觜鷹にふと、着信を理由にこの場から逃げてしまおうかという企みが芽生える。連続する機械音。決断を迫られ、しかし迷う暇もない。觜鷹は咄嗟の判断でこの着信に出る事を決めると、目の前の真由美に頭を下げた。
「すみません!俺、夜は予定が……俺、これで失礼します」
觜鷹は早口でそう捲し立てると、余裕なく、挨拶もそぞろに真由美の横を走り抜けていった。
「え、ちょ、ちょっとお兄ちゃん!?」
背後で三久が自分を呼んでいるのが聞こえる。觜鷹は振り向かず、三久の声が届かなくなる所までひたすら走ると、路地に入り、周囲を見渡して誰の視線からも逃れた事を確認する。
息を切らして握ったままのiPhoneを確認すると、すでに着信は切れてしまって居た。觜鷹はすかさず着信履歴から電話を掛け直しすと、高鳴る胸を押さえながら相手が応答するのを待った。
1コール、2コール……まだ電話を手にして居たのか、その相手は3コールに入る前にすんなりと声をみせた。
「篝君?」
「もしもし、みもりさんですか?」
聴きなれた大人の声。互いに互いの名前を呼んで確認しあい、觜鷹は安堵する。觜鷹がみもり、と呼んだその女性が電話口でくすりと笑うと、その鈴の音のような声が觜鷹の持つiPhoneから微かに聴こえた。
「ご免なさい、急に連絡してしまって。まだ、学校だったかしら」
「いや、もう終わりました。こっちこそ直ぐに出られなくて……その」
觜鷹は思わず言葉を濁し、誰も居ない空間に向かって頭を下げる真似をする。
無意味だと、決して相手には見えないとわかっていながら、年上のみもりに対して、觜鷹は腰を低くせずにはいられなかった。
「気にしないで。それより、今は話しても大丈夫?」
「大丈夫です。何かありましたか?この時間に電話なんて、珍しいですね」
觜鷹がそう訊ねると、みもりは艶やかな声色で「あのね」と言った。言葉を切り、次のひと言までの僅かな間隔がしんとする。
その仕草、目に見えないためらいに、少しだけ胸の高鳴りを覚えた觜鷹は思わず自制心をはたらかせる。
「今夜なんだけど、もし予定がなければ、一緒に食事に行かない?」
食事?思い掛けず、觜鷹はそう繰り返した。
「久しぶりに時間ができたから、たまにはゆっくり、篝君と話をしなければと思って。……急だったかしら?」
話。少しだけ声を顰めたみもりが口にしたその言葉に、觜鷹はつい二つ返事で応えそうになったが、先の真由美からの誘いを断った事が頭を過ぎり、飛び出しかけた言葉を一瞬、押し留めた。
言いようのない罪悪感。嘘までついて真由美の誘いを断っておきながら、自分は違う人間と約束をするのか。
そんな感情がふつふつと觜鷹の心に溢れ出したものの、やはり、みもりの誘いは断れない。
それはみもりに対する気持ちや心証のせいでなく、みもりという女性が、觜鷹にとって特別な存在である事を示して居た。
「……いえ。大丈夫です。行きます」
「ありがとう」
優しく礼を口にしたみもりが場所と時間を指定する。觜鷹の家からそう遠くない場所にある、小さなファミリーレストラン。みもりはそれだけ言うと、満足そうに「じゃあ、また夜に」と言って静かに通話を切った。
近所のクリニックで心理士として働くみもりは、觜鷹の抱えるPTSDの治療を担当したカウンセラーだった。仕事が忙しいのか、通院以外ではめったに姿を見ることはない。
他人を何より重んじるみもりは、プライベートの時間を自分の患者のために割くことも多かった。治療をスムーズにするための方法だと言い、特に、觜鷹に対してそれは顕著だった。
無償で話を聴き、觜鷹の日々の悩みにも真摯に向き合うみもりの姿。それはいつしか、觜鷹が心を許すことの出来る、数少ない友人のひとりとなっていた。
通話の切れたiPhoneを眺める。約束の時間までは二時間以上も猶予があり、家に帰って服を着替えるには十分な時間だった。
觜鷹はすっかり暗くなった路地からそろそろと顔をだし、どうか真由美と三久にだけは出くわすまいと、細心の注意を払って路地から抜け出した。
いつもの帰り道を、ひとり足早に歩いて行く。多忙なみもりと逢うためとはいえ、真由美の誘いが未だに胸に残って居た。
「ごめん……真由美さん」
誰も居ない暗闇に、觜鷹が思わず呟いた。見慣れた住宅街が、影を落として明かりを灯す。
どこからか温かな夕食の匂いがする。早く帰らなくては……。觜鷹は姿勢を正し、完全に暗くなる前にと、歩く速度をわずかに早めた。
「今日はこの薔薇がとても綺麗に見えたものだから」
不意に、真由美の言葉が聴こえた気がした。
振り向いても誰も居ない。当然だ。真由美が此処に居るわけがなかった。そもそも、声が違った。
「声?」
觜鷹が自分の喉に手を当てて、ひどく驚愕した表情をみせた。
喉をさすり、今聴いた音が自分の喉から発せられた事を自覚する。そんな馬鹿な。觜鷹は無意識の内に発して居た自分の声に気づかず、まるで誰かが背後から話しかけてきた声と錯覚した。
そんな事があるはずもないと頭を振りながら、觜鷹はぐんぐんと歩みを進める速度を早めていった。
早めて、早めて。歩行はやがて走りに変わった。風が耳元でヒュウと唸り、周囲の音を聴かせまいと聴覚を奪う。
何てことはない。今夜はみもりさんと逢えるのだから。觜鷹はそう考えて、無理やりにでも心を軽くしようと努めた。
そうしなければ、また聴きたくもない声が喉から、背後から。どうしようもない、自分の想いが口をついて出てしまう気がした。
「薔薇なんて本当は見たくもない」
街灯が嗤う。