#A rumor
#Rosette EP1 噂
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がくりと肩が落ちて目を覚ます。いつの間に眠ってしまったのだろうか。数学のノートに記された数式が、解答の手前で幾何学模様を残し途絶えている。
眠っている間に授業は終わっていた。既にチャイムも聴こえない。周囲では今日最後の授業を終えた同級生達が荷物をまとめはじめ、帰り支度をする者もいた。
「また……あの夢だ」
篝觜鷹は最近になって、眠る度に繰り返す執拗な悪夢に悩まされる日々を送っていた。
悪夢の内容は決まって同じ内容。幼少期の記憶である事は確かで、しかし、それが事実であるのか、幼い自分の見た幻覚であったのか、区別はつかない。ただいつも、漠然とした恐怖だけが後味となって残された。
「やあ、カガリ君」
不意に声を掛けられた觜鷹が、気怠げに振り返る。この声はと勘繰った矢先、その声の主は觜鷹を見るなりゆるやかな微笑みを見せ、白い歯をちらりと覗かせた。
神崎悠。隣のクラスに所属する、所謂「優男」。マヤカシのような造り笑顔で觜鷹に挨拶をくれると、神崎は觜鷹の目の前に置かれた他人の椅子に勝手に腰掛けた。
「また寝ていたのかい?顔に痕がついているよ」
神崎が觜鷹の顔を指差して笑う。觜鷹は思わず頬を手で隠すと、「どこだよ」と呟いて神崎に尋ねた。
「冗談だよ」
そう言って神崎はあからさまに口の端を持ち上げてみせる。やられた。觜鷹は神崎に揶揄われたと気付いて恨めしく頰から手を離す。毎度の事だが、未だに奴の嘘を見抜けない自分が若干、情けなかった。
神崎は一風変わった男だった。整った顔立ちの裏には、決して己の思考や感情を読ませんとする一線を引いており、飄々(ヒョウヒョウ)として頭の回転が早い。
欠点らしい欠点は人前に出さない、隙のない男。それが觜鷹の持った神崎への最初の印象だった。
これと言い、何の取り柄ない觜鷹の元に、神崎は連日同じ時間に顔を見せに遣って来る。理由や動機はない。というより、わからない。觜鷹が気づいた時には既に、神崎とこうして放課後の僅かな時間を過ごす事が当たり前になってしまっていた。
当初の事。觜鷹は進級して数ヶ月も経とうという初夏を迎え、未だにクラスの誰とも友好的な関係を築けずにいた。
元々、人付き合いは好きでも得意でもなかった。進級して暫くを何となくひとりで過ごす内、いつしか周囲が觜鷹を「唯のクラスメイト」としか見なくなっていた気がした。
居ても居なくても同じ。そんな雰囲気。今さら友達をつくるのも面倒になり、このままひとりで過ごすのも悪くないかと半ば、人間関係に放棄的になっていた。
そんな觜鷹の前に、神崎は出現れた。
沈んだ眼差しでノートを閉じる觜鷹の背に、神崎がベランダから声を掛ける。
「やあ、カガリ君」
何で名前を知ってるんだ?無意識に、そう思った。
ベランダから顔を覗かせる、細身の男。身長は自分と同じくらいだろうか。ブレザーの制服をネクタイまできちんと締めながらも、堅苦しい真面目さはどこにもない。
それでいて風貌の優雅な様は、あたかも彼が優等生である事を証明するかのように付き纏い、不意に声を掛けられた觜鷹の情報量をパンクする寸前まで追い込んだ。
何だ、この男は。
知りもしない、見慣れない他所のクラスからやってきた神崎を見て、觜鷹は完全に停止したまま、自分の置かれた状況を整理、理解しようと必死だった。
「驚かせたかな」
「いや……別に」
「そう、なら良かった」
神崎がヘアワックスで丁寧に整えられた前髪を指で払った。柑橘系の、夏らしい微かな香りが觜鷹の嗅覚に触れ、自分とは立ち位置の違う存在だと、根拠なく、そう思った。
「……何?」
戸惑いの色を露わにする觜鷹の目を、神崎が無言のまま見つめていたので、思わずそう言った。神崎は「いや」と言うと、視線をちらと背けて窓枠に寄り掛かる。
「君がとても寂しそうにしているものだから、つい」
「……はぁ?」
神崎が觜鷹の顔を見て、ふっと笑いを吹き出した。余程ヘンな顔をしていたのだろうか。觜鷹は予期せぬ苛立ちと驚き、そして羞恥心とに苛まれ、それ以上の言葉が見つからなかった。
「あはは、ごめん、ごめん。何を言っているのかな俺は。でも本当だよ。君の姿を目にしたら、声を掛けらずには居られなかったのさ」
「……大きなお世話だよ。気持ち悪いな」
「うん、そうだよな」
やけに律儀で、意味がわからない。自分が現在置かれている状況には、圧倒的に情報量が足りていない。
人付き合いに乏しい觜鷹にとって、窓越しに語る神崎との会話はあまりに出し抜けで、久しくて、それでいて刹那的だった。学校中に休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。觜鷹ははっとして、未だノートを握ったままの両手をそっと机に置いた。
「神崎悠」
「……え?」
「俺の名前。また話そう、カガリ君」
神崎はそれだけ言うと、觜鷹の返答を待たずに自分の教室へと戻っていった。觜鷹は一瞬放心した後に窓の外を振り返るも、ベランダは初めから誰も居なかったとでも言いたげな静寂だけを湛えている。
不意に吹いた風に香る、柑橘めいた香り。残された微かな整髪料の香りだけが、今先ここに彼が存在した唯一の証明となった。
それからというもの、神崎はこうして同じ時間になると鳩時計のように決まって觜鷹の前に姿を現した。
初めのうちは警戒し訝しんでいた觜鷹も、毎日のように神崎と顔を突き合わせるうち次第に気が緩み、今では臆面なく神崎に物が言えるほどになった。
この関係をなんと呼べばいいのか、正直、わからなかった。
世間サマで言うところの「友達」なのか「友人」なのか。間違っても「親友」ではない。しかし「知り合い」でもない。
初対面からこれ以上ない特例の組み合わせ。最近になって觜鷹は偶然手にした本の内容から、いたく気に入った呼称をひとつ見つけていた。
まさに、と言うべきものでもないが、今はこれで間に合わせても構わないだろう。觜鷹はそう思い、心の中で神崎との関係について考える度、その呼称を使う事にした。
『悪友』。母音と子音の組み合わせすら、それは実に見事だった。
「寝ていたのは本当だったみたいだね」
「何だよ神崎、何か用か」
觜鷹は慌てた様子でノートを閉じると、それを無造作に鞄に詰め込む。目を細め、わざと悪態をつく。神崎は煙たがられながらも、いつもと同じく全く気にしない様子を見せた。
神崎に用などない事は解っていた。たまの休み時間にふらりとやって来ては、自分の冗談を聴かせたり、勉強の話など、たわいもない話をして帰ってゆく。
觜鷹があからさまに無関心な態度を取ったとしても、神崎は気にせず楽しそうに話し続けるのが常だった。
「用ってほどの事は無いんだけれど」
「じゃあ、何のつもりでわざわざ他所の教室まで来るんだよ」
意図せず、觜鷹は急にその真意が知りたくなって神崎に尋ねてみることにした。
こんな事を言われれば歓迎されていないのは誰にでもわかる。しかし神崎はそれに微塵も屈することなく、「ん?」と不思議そうな顔をして微笑むのだった。
「君と話しに」
屈託のない声で、神崎がするりと言ってのける。顔色ひとつ変えず、よくもそんな科白が吐けたものだと觜鷹は逆に感心した。
「話し相手くらい、自分のクラスに居るだろ」
「折角、君と話しに来てるのにそれはないだろう」
「ホモなのか?」
觜鷹の言葉に、神崎は声を出して笑ってみせた。
「かもね」
「冗談だろ」
觜鷹は大きな溜息をひとつ吐いてみせると、脱力し、頬杖をついて窓の外をちらと眺めた。
夏の終わりを感じさせる空は澄んでいて、どこか低く寂しい。太陽はすでに溶けたか沈んだか、地平線の切れ間から細々としたオレンジ色を覗かせている。
濃厚な夏の浮き雲が、その光を身に浴びて輝き、翳り、そのコントラストはいかにも写真映えしそうな光景を、觜鷹の瞳に投影していた。
「顔色が優れないね」
神崎が觜鷹の表情を見つめながら、ぽつりと口にした。
繰り返し見る悪夢のために、十分な睡眠を取れていない觜鷹の顔には、照らされる雲のように薄っすらと「クマ」が出来ていた。
観察力の鋭い神崎は、他人の身体の変化や特徴を見抜く才能が嫌らしいほどに優れている。觜鷹は少しだけ冷たくなった自分の瞼に触れ、目を閉じ、心の中の言葉が勝手に出口を求めて彷徨うのを感じた。
「……最近、夢を見るんだ」
「夢?」
神崎が絶妙な音程と間隔でそう繰り返し、觜鷹の言葉を誘う。觜鷹も、それに気付いていた。
「……嫌な夢。子供の頃の思い出が、そのまま夢になったような」
「子供の頃の?それがどうして嫌なんだい」
神崎は指で自分の口元に触れ、少しだけ、神妙な面持ちになった。まるでカウンセリングのように、神崎の緩やかな動作や言葉は人の言葉を引き出させる力が在るように感じる。
それを神崎が意識してやっているのかどうかまでは、觜鷹にはわからない。しかし今だけは、神崎のその「能力」が、觜鷹にとってたまらなく疎ましいと感じるのだった。
觜鷹が振り向き、神崎と目が合う。ちらと覗き込んだ水面が、ぽっかりと口をあける底なしの海溝だったような、そんな気分がした。
透明で、濁っていて、光っている。底が見えず、暗く、しかし明るい。こちらの不安など全てお見通しといった感覚。神崎の目は、そんな瞳だ。それは觜鷹が最も苦手とする、神崎の一部だった。
「お前に話す義理はないだろう」
觜鷹は再び窓の外を眺めると、神崎の目を見ないようにして話を続ける。神崎は身体を傾け、觜鷹の様子をうかがう素振りを見せた。
「嫌なこと、辛い体験は時に誰かに話したほうがずっと楽になる事もあるものさ。毎日、眠れてないんだろ?明日もそうして居眠りするつもりかい?俺でよければ、力になるのに」
觜鷹は黙って空を眺める。神崎は何故ここまで自分に構おうとするのだろうか。内心そう考えていた。
別に、他人に猜疑心を持っているつもりはない。神崎の言葉は道理が通っているし、良識を感じさせる実直な言葉かもしれない。
しかし、何かが引っ掛かる。
神崎は決して慈善や慈愛を前に出して行動するタイプの人間ではない。何か自分に有益な、実のある事に対して鼻が効くタイプだと、觜鷹はいつからか確信していた。
証拠はない。唯の直感だった。だからこそ、こうして神崎の来訪に慣れ始めている自分を感じて、觜鷹はそれを嫌悪してしまうのだった。
ふと、誰かの話し声が耳につく。觜鷹が視線だけで周囲を探ると、女子生徒がふたり、神崎の姿を背後から見て嬉しそうに目を細めていた。
篝君の友達、やっぱり恰好良くない?そんな言葉が微かに聴こえて来た。
神崎は聴こえている癖に、何も反応を示そうとはしない。微笑のポーカーフェイスを湛えたまま、觜鷹だけに視線向けていた。
気障なやつ。觜鷹は内心こっそりと、舌打ちした。
「休み時間、終わるぞ。そろそろ帰れよ」
教卓の上に据えてある時計を見て、觜鷹が言った。
「つれないな、ハシタカは」
「ハシタカって呼ぶな」
少しむきになった觜鷹を見て、神崎が楽しそうに笑った。チャイムが鳴り響き、周囲では生徒たちが談笑を止めて各々の席に戻りだした。
神崎はそれを見て名残惜しそうに席から立ち上がる。ようやく帰るのか。觜鷹がそう思ったその時、神崎は何かを思い出したように「そうだ」と言って手を打った。
「今日はこれを伝えに来たのを忘れていた」
神崎は觜鷹に向き直ると、周囲には聴かれたく無いのか少しだけ声のボリュームを下げ、片手を口元に当てながら觜鷹の耳元に近づいた。
「何だよ」
「幽霊の噂、知ってるかい」
ユーレイ?思わず繰り返した觜鷹の顔が白けた表情になる。神崎は構わず「そう」と言って頷くと、今日一番ではないかと思えるほどの神妙な面持ちをしてみせた。
「……『夜道で誰かに名前を呼ばれても、振り向いちゃいけない』……最近、こんな話が学校で囁かれてる」
神崎は雄弁に語るも、觜鷹はそんな噂を耳にした事すら無かった。神崎の顔を見ると、相変わらず真面目な顔をして立っていたために少し面食らう。
觜鷹は慌てて「それで?」と相槌を打った。
「どうやら、知らないみたいだね」
「先生が来るぞ」
話を勿体ぶる様子をみせる神崎に対し、觜鷹は微かに苛立ちを覚える。神崎は「まあまあ」と觜鷹をなだめると、次の言葉を低く、しかし丁寧で聴き取りやすい声色を遣って口にした。
「話はまだ続くよ。振り向いちゃいけない……何故なら『声の先には死人が待ってる』から。死人、つまり幽霊は振り向いたその人をあの世に連れていく。特に、過去に親しい人を亡くしている人は呼ばれやすいらしい」
「何だよ……ソレ」
思った以上に不気味な話になり、觜鷹は半信半疑で眉をひそめた。親しい人の幽霊が、生きている人間を殺す?要約すればそういう事だった。
「結構有名な噂だから、カガリ君も知っていると思っていたけど」
「悪かったな、知らなくて」
どうせ学校での話し相手は神崎ぐらいのものだ。そう皮肉を込めて、觜鷹は鼻を鳴らした。神崎がわざとらしく「すまない」と口にしたので、觜鷹は余計に腹が立った。
「それで?その噂と俺と、何の関係が有るんだ?」
「関係?」
噂話の続きと目的とを期待した觜鷹が、ぽかんと口をあける。神崎はさも意外そうな顔をして、觜鷹に問い返した。
「まさか、それだけ?」
「それだけだよ。カガリ君はひとりで帰るのが好きみたいだから、教えておこうと思ってね」
「余計な御世話だ!」
思わず声が大きくなり、周囲の生徒が不思議そうに觜鷹を見た。思わず顔が赤くなった觜鷹は身を竦めると、何でもない、と言った風に首を左右に振ってみせる。
「じゃあ、またね。カガリ君」
神崎の声が、觜鷹の後方から聴こえた。觜鷹が振り向くと、ベランダでニコリと笑って手を振る神崎の姿が見える。
いつの間に。觜鷹が神崎に恥をかかされた文句を言おうとする間に、神崎は颯爽と背を向けて自分のクラスへ戻ってゆく。後には、ただ空回りした觜鷹だけが残された。
觜鷹は前に向き直ると、腕を組みつつ机に伏して「なんだよ」と呟いた。
死人に出会う?幽霊の噂など、学校という名の閉鎖空間で生きていればそう珍しいものでもない。ファッションのように生まれては消え、時代に合わせてアレンジされてゆく。たわいなく。
そんなもので、まさか神崎は自分を驚かすつもりだったのだろうかと、觜鷹はひとり思案しつつ不服を覚える。神崎の真意を読み取ることは、恐らく数学のテストで満点を連続で取るよりも難しいに違いなかった。
ようやくして、担任の教師が教室の扉を開けて入って来たらしい。扉を開けるガラガラという音、周囲で話をしていた生徒がぴたりと静かになるのが聴こえた。
「起立」
号令を聴き、礼をする。觜鷹は色んな思いが回りだす頭を抱えながら、男の担任が大きな咳払いするのをぼーっと見ていた。
明日からはテスト期間。各々しっかり勉強して挑むように……そんな言葉が觜鷹に届くも、どうでもいい。そう感じてしまう自分がいた。
業務連絡のように淡々と伝えられる言葉の列。それを片耳で受け取りながら、觜鷹は先ほどよりも更に暗く変化した窓の外をふらりと眺める。
太陽が沈む。無言で居ると考える、神崎の話した噂。死人に出会う、夜道で振り向いてはいけない……馬鹿げているとは思いつつも、教室を出るまでの時間、觜鷹はずっとその事を考えてながら過ごしていた。
「ありえないだろ……そんなこと」
誰に語りかけるでもなく、觜鷹がそっと口にする。廊下を吹き抜けた生温い空の吐息が觜鷹の横顔にかかり、前髪を揺らして消えた。