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#Prelude

#Rosette


 遠くで滝の音がしている。辺りは山の葉が生い茂り、地面には真上から降り注ぐ太陽の光が若葉の切り絵を映し出していた。

 夏の虫が忙しく鳴き、吹き抜ける風の()相俟(アイマ)って、その日は遠目(トーメ)に蜃気楼を描くほど、じわりと暑い空気が山道を駆け抜けてゆく。

 拾った樫の枝をもて遊び、ひとりの少年が地面に線を(エガ)く。螺旋、直線、波模様。歩みに合わせて時折表情を変える地上絵は、今まさに渦中たる少年の心を的確に表していた。

 黒のタンクトップから覗く両腕は陽に焼けて浅黒く、無造作に伸びた黒髪は、洗いたての夜空を切り取ったような瑞々(ミズミズ)しいしい黒をしていた。

 黒は良い。(エガ)(スベ)ての失態や後悔の色を覆い隠し、それでいて潔い。

 黒、黒、黒。自分の名前の一部にもなるその色を、少年は(タッタ)今こよなく愛していた。

觜鷹(ハシタカ)、お前は帰れよ」

 ぽつり……。少年が雲に語りかける。それを聴いて、同じ空の下、後を歩く、陽に焼けた背中を眺めていたもうひとりの少年が歩みを止めた。

 觜鷹。そう呟かれた名前は雲ではなく、その少年のものだった。

 無彩色。雪の朝、無垢。それらの形容詞をひとまとめにしたような、儚げな少年。

 汗のしたたる襟足までの黒髪が、やわらかく、ひたりと首元にくっ付く。汗ばむ気温は、觜鷹の白いTシャツの背中を彼の肌色に透かしてみせた。


「お前の誕生日だろ、俺に付き合う事ないぜ」

誠二(セージ)君」

 誠二と呼ばれた少年が不意に振り返る。逆光に肌を露出させて佇むその姿は例えて夏の偶像(グウゾウ)のようで、その眩しさに、觜鷹は思わず目を細めた。

 泣き腫らした後のような、誠二の濡れた瞳。むき出しの二つの小さな肩は、自分の発する言葉に敏感に、かすかに震えていた。

 言葉の強さとはうらはらに、今の誠二はひどく儚げに見えた。

「今朝、姉貴と喧嘩したんだ。俺の事が嫌いだってさ」

「……」

 觜鷹は何と言うべきか、迷った。

 その返答を待たずして誠二が再び前を向いた瞬間、觜鷹が慌てて口を動かす。

「僕が、一緒に行って、謝ってあげるよ」

 声が震えた。誠二は背を向けたまま、静かに頭を左右に振った。


「やめろよ、そういうの」

 それだけ言って、誠二は再び歩き出した。背中を見つめ、觜鷹は気をぬくと遠くなってしまうその姿を追う。

 二人はそうして静かに、しばらくは、無言で、山道を登った。話そうと思えば、いくらでも話題はあった。

 テレビの話。小学校の友人の話。宿題の話。ことさらに。今は夏休みだった。

 浮かれるべき。それなのに、どんな話題も今この場には不釣り合いで、尚且(ナオカ)つ。不要だった。二人の共有する沈黙。子供ながらに、その静寂こそが、いま現在もっとも有効で、雄弁な、互いへのコミュニケーションだった。

 

 そんな二人の前に、しばらくすると、夏らしく青々、鬱蒼とした森林への入り口と、それを阻む「警告!」と書かれた標識が吊るされた黄色と黒のロープが見えた。

 警戒色。その意味を知らずとも、スズメバチの腹部を模したようなその色合いを見て、心安らぐ人間もいないだろう。

 しかし二人の少年はその意味を知ってなお、この場所を求めて歩いてきたのだった。

「やっぱり、危ないよ」

 觜鷹が不安そうに呟く。フェードアウトする觜鷹の声を無視して、誠二は勇猛果敢に警戒色のロープをまたぐ。

「怒られるよ」

 觜鷹の声が焦った。誠二はそれに面倒臭そうな顔をすると、ロープに跨ったままで觜鷹を手で追いやった。

「じゃあお前は帰れよ。俺はひとりで行くから」

「でも……」

 そう言い淀む觜鷹に一瞥をくれると、誠二はロープをまたぎ終え、棒で草をかきわけてさっさと森の中へと進んでいってしまう。

 觜鷹は待って、と言うことも出来ず、どうしたものかとひとり狼狽えていたが、結局は、自分もロープの下をくぐり抜け、まごつきながらも誠二の後につづいた。

 誠二は振り返りざまにその姿を見てにやりと笑うと、手に持った枝をバットのように振り、静寂な森の気配にヒュンと音色をたてた。

「この先にすげえ滝があるんだ」

「滝?」

「音が聞こえるだろ。滝の霧がこの辺りにまで届くから、夏でもきっと涼しいんだ」


 ひやりとした露を感じる山の森林は、真昼の日差しを所々に落として舞う土埃をキラキラと輝かせている。

 觜鷹は背中の汗が冷えてゆくのを感じてほっと息を吐き、吸い込む空気の清らさに快感を覚えた。

 昼の森が映す、開放的な木々の迷宮。七歳になったばかりの觜鷹の目に、その非日常的な景色はどうあっても興奮と冒険心を煽る。それは誠二も同じようで、彼の鼻息がいつもより荒くなっているのは容易にわかった。


「秘密の場所だぜ」と言って誠二が得意げな顔をする。その表情を見て、觜鷹はどこか気持ちが軽くなる。

 先までの重苦しい雰囲気が嘘のようだった。二人とも、既に数分前のことなどは忘れてしまった。

 それで良かった。傷口に消毒液をかけあうようなツラい激痛は、いらない。今はただ、自然がくれる確かな感性に身を任せ、ひたすらに、歩んだ。

「誰にも言うなよ。噂だと、その滝には飛び込み自殺した人間の霊が居て、近付いた奴を滝壺に引きずり込むらしいぜ」

 誠二が枝を振りながら、低く囁くような声で話す。觜鷹がまさか、と言って話に相槌を打った。

「噂だけどな。でも噂があるからには何か理由があるんだぜ、きっと。本当に居たりしてな、幽霊……」

「こんな昼間に、幽霊なんか、出ないよね?」

 觜鷹の声が少し震えた。誠二が「怖いか?」とからかうと、觜鷹は首をブンブン振って気丈なふりを見せた。

 滝の音はまだ聴こえてはこない。觜鷹はいつかテレビで見た、日本の巨大な滝を想像する。自分の家の近くにも、あんな感じの、落下する途中で虹の見える、雄大で荘厳な景色がひろがっていつのだろうか。

 胸にはいつしか、恐怖のそれではない、興奮からなる微細な高鳴りがあることに気がついていた。


「ほら、見えたぜ」

 五分も歩くと、やがて清廉な水の音が間近ではっきりと聴こえるようになった。

 木々の隙間がひかっている。その先まで一歩足を踏み入れると、暗がりだった森が目の前で一気に明るくひらけた。差し込んだ陽の光がむき出しの岩肌に反射して、ビカビカと輝いている。

 すごい。思わずそう口が動いた。山の木々がぽっかりと口をあけた、誰も居ない森の陽だまり。

 木漏れ日の中に苔むした岩が並び、その間を流れるこの上なく透明な小川の水は、今直ぐにでも飛び込みたい欲求を觜鷹につのらせた。

 そしてその奥にたたずむ、岩肌を滑り落ちる謙虚な白い飛沫。

 想像したものよりずっと小さく頼りない。しかしそれがこの水辺に存在する唯一の「滝」だとわかると、觜鷹はほんの少しだけ、心の中で落胆した。

 テレビの中の滝がこんな所にあるわけがない。そんな事を考えていた自分が、少しだけ可笑しかった。しかし、目の前の華奢(キャシャ)な滝は想像をはるかに超えて美しく、苔と巌、緑と黒のコントラストが真夏の景色にいかにも涼しげだった。

 

「なんだよ、やっぱり噂は噂か」

 誠二が両腕で後頭部をかかえ、苦笑いを見せる。

「こんな小さな滝じゃ、自殺なんてできっこない」

 觜鷹と誠二は水辺に近寄ると、自分達の足首ほどもない深さの水底を覗いてはぁ、とため息をついた。一番深そうな所でもきっと、背丈の半分ほどの深さもないだろう。誠二の言う通り、底は浅く、自殺などはしたくても到底できそうにない。

 加えて、川幅も狭い。おそらく、ここは上流なのだろうと觜鷹は誠二に告げた。誠二はどうでも良いといったふうにそれを聴き流すと、岩肌を滑り落ちる唯一の滝に近づき、棒の先で水を弾いてみていた。

「もっとでかい滝だと思ったんだけどなあ」

 誠二はそう呟いて、手に持った棒を適当に放り投げる。水面に落ちて飛沫が涼しげに舞い、觜鷹のサンダルから飛び出す爪先を濡らした。

「誠二君、あれは何だろう」

 觜鷹が指をさす。ふと目を向けた先に、川に埋まるような形で石で出来た屋根のようなものがある事に気がついた。

 黒っぽく風化した石は深緑の苔に覆われており、人目をはばかるようにひっそりと水と岩の間に埋もれている。觜鷹が近づいて観察すると、それはどうやら風化したお地蔵様のお(ヤシロ)であることがわかった。

 学校の通学路にあるものにそっくりで、觜鷹は毎朝、近所のお年寄りが手を合わせて通り過ぎてゆくのを思い出した。大切な神様(カミサマ)。子供心に意味はわからずとも、人々がそうする理由だけは、なんとなく感じとれていた。


「ここの神様かな」

「汚いな。なんでこんな所にあるんだ?」

 誠二は先程投げた枝を拾い上げると、その枝でお社をコツと叩いてみせた。

 辺りに乾いた音が響いて、木々の間をエコーしながら通り抜ける。誠二はその様子が面白かったのか、続けて何度も力任せに叩いてみせた。觜鷹が驚き、顔を引きつらせる。

「やめなよ」

「別に良いだろ。こんな汚い神様見た事ねえよ」

「だからって……」

 くい、と誠二が觜鷹に枝を差し出す。お前もやれば?そう、言っているように見えた。

 觜鷹は言葉を失い、思わず誠二の視線から顔を逸らしてしまう。

「なんだよ、ビビリ」

 誠二はそう言って鼻を鳴らすと、觜鷹を一瞥(イチベツ)して川辺にある大きな岩に腰を下ろした。

「うわ、なんだよここ。表面がすげぇ湿ってる」

「昨日雨が降ったから、それがまだ乾いて居ないんじゃないかな。ねぇ誠二君、それよりも……」


 觜鷹が言いかけた時、ふと誠二が何かに気がついたような素振りを見せて、すくと立ち上がる。

 両耳に手をあて、何かの音を不意に探しているように見えた。

「どうしたの?」

「しっ、黙れ」

 觜鷹は面食らって言いかけた言葉を飲み込んだ。誠二は目を開いたまま、四方を向いて音のする方向を探り当てようとする。

「お前、何も聴こえないのか?」

「聴こえるって、何が?」

「この音だよ。何かの鳴き声みたいな……サイレンみたいな音がさ、さっき急に聴こえたんだ。ウワーンって……」

「サイレン?」

 觜鷹はその音を探るべく、耳に手を当て目を閉じる。

 誠二が言うには音は継続して鳴っているようだが、何故か觜鷹の耳にはそんな音はかすかにも聴こえる様子がなかった。

「ちゃんと聴けよ。ほら、今も」

 少し苛立った誠二が眉をひそめて觜鷹を睨んだ。しかし、聴こえないものは聴こえない。觜鷹は困り果て、不安な様子で誠二を見返した。


「救急車の音じゃないかな……家の近くに病院があるし」

「そうだとして、何でお前は聴こえないんだよ」

 わからないよ、と言って觜鷹が首を振る。ひょっとして、自分は耳が悪いのだろうか。

 当たり前のように誠二が音を聴き取っている(サマ)を見て、觜鷹はひとり自分の耳に手を触れながら気を落としてしまった。

「……あれ?」

 ちらと觜鷹が滝を見ると、気のせいか、滝の姿が先程から少し変化しているような気がした。

 一体何が変わったのか。よく見れば、水量が少しだけ増しているような気がする。気に留める程の差ではないものの、小川に落ちる水の音は少しだけ、ほんの少しだけ……微々たる度合いで大きくなっているのがわかった。

 大きくなっている?

 觜鷹は自分の聴覚が微細な水流の変化に気づいた事を知って、先の誠二の言葉に疑問を抱いた。

 目の前の音に気がつけても、遠くの音は聴こえない。それは一体どういう事なのだろう。

 いや、それよりも、誠二の聴いた音とは本当に鳴っているのだろうか。彼の聴き間違いである可能性だってある。

 誠二はきっと、この水流の変化には気がついていない。とすれば、ありもしない音を聴いたと言う誠二のほうがおかしいという事にはならないか。

 觜鷹が黙って考え込んでいると、誠二は急に觜鷹に振り向いてきっと目を怒らせた。


「おい、やめろよ」

 突然、誠二がそう言ったので、觜鷹は目を丸くした。

「どうしたの」

「お前、俺に水かけただろ」

「かけてないよ」

 なんだと、と言って誠二が觜鷹に詰め寄る。急に何を言い出すのかと、觜鷹は内心戸惑いつつ誠二の視線に囚われた。

「あれ」

 誠二が自分の頰に触れ、動きを止める

「……濡れてねえ」

 自分の手を見つめた誠二は存在しない水を探して自分の身体を探り出した。その様子に、觜鷹はさすがに怪訝な顔をしてみせる。

「ねぇ誠二君、先から一体どうしたの」

「確かに濡らされたぞ。今誰かが俺の顔を濡れた手で触った」

「また怖い話?悪いけどもう騙されないよ」

 觜鷹はおそらく誠二が自分を驚かそうとして一連の行動を取っているのだと気がつき、笑っておどけた様子を見せた。

 しかし誠二はそれを見ようともせず、未だ自分の頬に触れては存在しない水滴の感触を指で確かめている。

 どういう事なのか。誠二の行動の意図が、觜鷹にはわからなくなっていた。

「本当に、本当にお前じゃないのか?」

「しつこいな。大体、誠二君のほうが川に近かったじゃないか。知らずに水を触ったんじゃないの」

「……」


 誠二はそこで黙ると、うつむいて何か考えはじめた。觜鷹が滝をもう一度見ると、滝は更に先程より少し水量を増しているような気がした。

 水量が徐々に増えている。しかし、そのほうが滝らしくもあった。きっと、水の流れには緩急があるのだろうと想像し、警戒よりは、滝に対する興味のほうが強くなった。

「帰ろうぜ」

 誠二の表情が、突然何かに怯える様子を見せた。

「どうしたの」

「いいから、帰ろうぜ。此処に居たく無い」

 觜鷹は急に弱気になった誠二に驚き、その変化に違和感を感じた。しかし、逆に先までの強気な誠二を思い出し、同時に少しだけからかってやりたくもなった。

「もしかして、怖いの?」

 觜鷹がにやりと笑う。誠二は何も応えず、首を左右に振っただけだった。

「意外だな。誠二君て実は怖がりだったんだ」

「いいから、早く帰ろうぜ」


 このチャンスを逃したら一生(イッショウ)誠二をからかってやれない気がした觜鷹は、わざと意地悪く誠二の腕を取って、水辺に近づいた。

「遊ぼうよ誠二君。こんなに暑い日だから、濡れたってすぐに乾くよ」

「やめろ、水に触るな!」

 水に足をつけようとする觜鷹を、誠二が慌てて引き止める。誠二は水を見たくもないのか、恐怖に怯えて両目をピタリと閉じてしまった。

 觜鷹は我慢できずに笑いを吹き出すと、誠二の腕を引っ張ってサンダルのまま水の中へ足を踏み入れた。

 あっ、と言って誠二の顔が凍りつく。今にも泣き出しそうになる誠二と裏腹に、冷たい水は足の指をくすぐって心地よい涼を二人に与えた。

 觜鷹が快感に息を吐く。しかし、握る誠二の腕はまるで氷水に浸したようにカタカタと震えている。觜鷹は誠二を安心させるべく、にこりと口元で笑ってみせた。


「ほら、何ともないよ。冷たいなー。サンダルを履いてきて良かったね」

「……」

 誠二は無言のまま、表情かたく水面に立ち尽くしていた。觜鷹はそんな誠二の様子にさすがにバツが悪くなったが、普段の誠二の態度や行いを考えたら、たまにはこんな誠二も悪くないと思えた。

「本当にどうしたの、誠二君」

 觜鷹はまさか体調でも悪いのではと、その表情を観察する。誠二は先程と同じく何かに怯えた様子をみせ、強張った表情は血色が引いて見えた。

「もしかして、体調が悪いの?やっぱり、もう帰ろうか」

 觜鷹が気を遣って窺うも、誠二は何も応えない。その視線は觜鷹ではなく、水に浸かった自分の足首をじっと見つめていた。

 まるでそこに何かがいるように、ひたすらじっと視線を注ぐ誠二を見て、觜鷹はいよいよ気味が悪くなる。


「ねえ、誠二君?」

「動けない」

 ぼそりと誠二の口が動いた。……え?……觜鷹が聴き返す。

「何かに足を掴まれた。……足だけじゃない。肩も腕も、指も、首も、お前の腕のほかに、沢山」

「何言ってるの、誠二君」

 恐る恐る、觜鷹が口を開く。

「助けて、觜鷹」

 誠二の目が、泣き出しそうに潤んだり赤くなって觜鷹を見た。

 ふと見ると、誠二の衣服が水か何かでじっとりと濡れている。……何故?觜鷹がそう思った瞬間、ストン、と氷のように冷たい雫が雨粒のように觜鷹の腕を伝った。

 いつの間にか、誠二は夥しい量の汗をかきながら、気化熱によって奪われゆく己の体温に震えていた。誠二はまるで冬の川にでも浸かっているかのようにガチガチと歯を鳴らし、その唇が紫に変色してゆく。

「誠二君……!ねえ、どうしたの、誠二君」


 ばしゃり、と滝から水の塊が落ちた。

 觜鷹が振り向く。滝は僅かの間に、先程とは比べものにならないほどその水量を増していた。

 一体、いつの間に?

 觜鷹は焦り、急いで陸に上がるべく掴んだままの誠二の腕を引いた。

「誠二君、陸に上がらないと」

「……寒い……」

 觜鷹が必死に誠二の腕を引っ張ろうと、誠二の身体はそこに根付いたかのように微動だにしない。誠二の唇がついには青く染まり、身体は凍え死にそうな程にギリギリと震え出していた。

 觜鷹の頭の中で、様々な思いが駆け巡った。どうすれば良い。何故こんな事に?誠二は何かの病気なのか?いや、そんな筈もない。

 滝の水は次第に落ち葉や枝などが混ざるようになり、透明だった水色は悪質なカフェオレ色に変貌している。

 不規則に水面を叩く水の塊が不気味な和音を響かせ、それは立ち尽くす二人を脅かすように、訥々と鳴り響いた。


 太陽が雲に隠れ、辺りが不意に暗くなった瞬間だった。木漏れ日を失った滝の周囲。觜鷹はまるで皆既日食でも起きたような錯覚に見舞われた。

 翳りの中で震える誠二の両足を掬う水。流れはその瞬間に膨れ上がり、うねり、押し寄せ、回転する。

 水が命を奪うべく猛獣のように牙を剥き、爆発しながら目の前に佇む二人を飲み込もうと大口を開けて覆い被さった。

 觜鷹が声に鳴らない悲鳴を上げる。

 穏やかな滝はすでに怒涛の波へと変貌し、今まで立っていた陸地の全てを濁った川へと変えてしまった。

 あまりに早すぎる増水だった。逃げる間もなく二人は水の流れに飲み込まれ、そのまま下流へと流されてゆく。

 轟々という水の唸り声が、耳という耳から怪物の雄叫びのように鳴り響き、全身を支配した。


「誠二!」

 必死に水面に顔を出した觜鷹が、声にならない声を上げて誠二の名を呼んだ。

 既に掴んでいた腕はなく、水中で誠二と離されてしまった。誠二の姿を探す余裕などは無かった。ひたすらに足を動かそうと、腕を動かそうともがくも、もがけない。あまりに早い水流。その中で奇跡的に、岸から伸びていた長い木の枝を発見すると、全身全霊の力を込めて、觜鷹はその枝にしがみ付く事に成功した。

「……觜鷹……!」

 不意に、傍から声が聴こえた。

 觜鷹が振り向くと、自分と同じように岸から伸びた枝に捕まっている誠二の姿がそこにあった。

「誠二君!」

「助けて、觜鷹……」

 誠二は端鷹に助けを求めていた。見れば、誠二の摑まっている枝は觜鷹の枝に比べ、あまりに細く頼りない。

 このまま水流にさらされれば、千切れるのは時間の問題だった。

「觜鷹……」

 誠二の手が、端鷹に向かって伸ばされる。觜鷹の枝に摑まりたいのだろう。觜鷹も同じく手を差し出し、誠二を助けるべく行動に移す筈だった。


「觜鷹……?」

 觜鷹は、手を伸ばさなかった。伸ばせなかった。

 誠二が同じ枝に摑まれば、枝が千切れ、二人とも川に流されてしまいそうな気がした。

 流されるに、違いない。

 死にたくない。觜鷹の目が、誠二を捉えた。

「せい、じ……」

 唇が震えている。寒さのため、恐怖のため、そして、これから犯す罪のため。

 觜鷹を見る誠二の表情が、死人のように青ざめた。

「何で」

 誠二の声がした。

「何で腕を伸ばさないんだよ、觜鷹」

「……」

「なあ、何で……」


 その瞬間、誠二の枝は千切れて落ちた。

 なおも勢いを増している川に飲み込まれた誠二の身体は、一瞬でどこにも見つけることが出来なくなった。

 觜鷹はひたすらに枝にしがみつき、震える唇を強く噛み締めた。鉄の味が口いっぱいに広がり、絶え間ない頭痛に似た痛覚を刺激する何かが胸を、心を、全身の隅々を襲う。

 誰の助けを待つでもなく、悲鳴をあげるでもなく、觜鷹はひたすらにただ枝にしがみ付いたままで居た。

 水流が觜鷹の靴を奪う。感覚はないが、きっと服も流されている。生きている心地はしなかった。冷たく、痛い。


 目を閉じる。

 このまま流されればどうなるのだろう。思考は不思議と冷えて冷静になりつつあった。死を傍に据えて、今まさに全身の細胞は生き残る事に全ての力を振り絞っている。

 そして、それとは別の場所にある思考する機関が、今まさに麻痺しながら目覚め、覚醒の時を迎えていた。

 脳ではなく、心。考えるではなく想う機関が目を覚まし、觜鷹の胸を揺らした。

 自分の目の前で消え去った友の遺言を聴き取るため、無情に、残酷にもリフレインするゼロの感情。

 認めたくない。理解したくない。最早どうしようもない。子供の頭ではどうにもならない「それ」は、焼きつくような記憶となって觜鷹の心に深く刻印される。

「お前の所為だ」

 誠二がそう言っている。

 目の前で見殺しにした誠二がそう告げている。川の音が轟々轟々と鳴り響いている。嗚呼煩い!耳を傾けられない。どうして。

 彼は死んだ。自分の差し出さなかった手によって。

 別れに前触れは無かった。誠二が喚いている。

「お前の所為だ。」

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