#04-2
「ただいまー……」
出原家の玄関ドアを開けた僕は、伺うように声を出して中に入った。
その後を、アカ姉が続く。
「お邪魔しまーす♪」
「……お帰りなさーい……」
一階の奥から、サチの声が力なく響いた。
靴を脱いだ僕らは、声のする方向へ歩いていった。
リビングに入ってみると、もみくちゃになったカーペットの上で、サチがさめざめと泣いていた。
「おや、アカネちゃん。こんばんは……」
痛みに悶えていたのか、サチが足の方を押さえながら振り返った。
「……信子は?」
コンビニの袋をテーブルに置きながら、この場にいない人間について尋ねた。
「私を虐待した後、自分のお部屋で眠りにつきましたよ……あいたた……!」
「サチさん、大丈夫?」
足を押さえて痛がるサチに、アカ姉が心配そうに話しかけた。
「あの子も強くなりました……フッ」
無茶苦茶に歪んだカーペットを戻そうとする僕の横で、サチがカッコつけるように笑った──早くどけ。
「まさか『足緘』を使ってくるとは……いつの間にあんな技を覚えたのか」
足緘って確か……柔道の禁止技じゃなかったっけ? 『相手の片足に自分の両足を絡ませて膝を極める』とか何とか……見たことないけど。
僕も普段サチに関節技を極めているけど、信子のヤツそんな技をどこで習得したんだ?
記憶では、払い腰が得意技だったと思ったんだけど……。
僕の疑問をよそに、アカ姉がサチに手を伸ばし、助け起こそうとする。
「サチさん、足が痛むの? 立てる?」
「何とか……いたた。アカネちゃんは優しいですねぇ」
「違うわよ。片づけするから早く手伝って」
「……アカネちゃんはさらっと冷たいですねぇ」
二人のやりとりを聞いた後、僕はリビングのドアから顔を出し、声を張り上げて信子を呼んだ。
「信子ッ! お前も散らかしたんだから、手伝え! アカ姉も来てるんだぞ!」
言い捨てて、リビングに視線を戻す──そこで、異常に気づいた。
「……?」
テーブルの上を見ると、さっき置いたはずのコンビニ袋がない。『トッピ』や『ホムチキ』が入っているはずの袋が、影も形も無くなっていた。
──おかしいな……確かにここに置いたはずだけど?
テーブルの下を覗きこみ、椅子の上も確認して、袋を見つけられなかった僕は、カーペットを直している二人を振り返った。
「おい、サチ」
「何か?」
呼ばれたサチが、カーペットを引っ張りながら顔を上げた。
「今ここに袋置いたの見たよな?」
問われたサチは、僕が指さす方を見て首を傾げた。
「袋ですか……? カサって置く音は聞いたやうな」
「消えてるんだけど」
「あ、ホントだッ!」
「…………」
アカ姉が声を上げる一方で、サチの表情が不自然に曇った。
「き、気のせいではないでせうか? 他の場所に置いたとか?」
「いや、確かにここに置いたよ」
「と、途中で落としたとか?」
……?
サチの受け答えに、僕は違和感を覚え始めた。
訝しむ僕の代わりに、サチの反対側でカーペットを直していたアカ姉が断言する。
「うぅん、コーちゃん、ここに着くまでずっと袋持ってたよ?」
「っていうか、今『音聞いた』ってお前言ったじゃん」
「……えーと……」
僕らにツッコまれたサチは言い淀み、目を泳がせ始めた。
おかしい……僕は消えた袋について聞いただけなのに、サチは妙に僕の過失を推してくる。僕は、別にサチのことを疑ってるワケではないのに、だ。
しかし、サチはアカ姉とカーペットを直していたため、テーブルには一切近づいていない。
僕が袋から目を離した僅かな間に動かすとは、とても考えられない。
それに、サチがコンビニ袋に何かする理由がわからない。大体、盗み食いをするにしても──
「きゃあああああああああああああああッ!」
つんざくような叫び声が空気を震わせた。
「きゃッ!」
「な、何だ?」
突然の悲鳴にアカ姉が動転し、僕とサチも悲鳴の聞こえた辺りを見上げた。
この声は聞き間違えようがない、妹の声だ。
僕は消えた袋のことを忘れ、リビングを飛び出した。
声がしたのは上方向、二階からだ。二階には、信子と僕の部屋がある。
階段を駆け上がって、廊下を見る──床の上に、信子がうずくまっていた。
「信子! 大丈夫か!」
信子の傍らに駆け寄って呼びかける。
「ぉ、お兄ちゃぁん……ッ!」
僕を見上げた信子の声は上ずっていた。どうやら、腰を抜かしているようだ。
悲鳴に竦んでいたアカ姉が、遅れて階段を上がってきた。
「信子ちゃん、何があったの?」
アカ姉の問いかけに、信子は震える手で階段を指さした。
「い、今……その階段のトコ、何か横切った……!」
「え……?」
僕らは信子の言葉に耳を疑った。
階段の方を振り返る──たった今上がってきたサチと目が合った。
「……何もいなかったぞ?」
「そうよ。私たち、その階段上がってきたんだから」
アカ姉も、僕に続いた。
僕は叫び声を聞いて階段を駆け上がったが、信子が言うようなモノは見ていない。アカ姉も、それは同じようだ。
「でも……でも……確かに見たの……何か……犬みたいな大きさの何かが……!」
「何かと見間違えたのではないでせうか?」
食い下がる信子に、今度はサチが口を挟んだ。
「うぅんッ! 絶対いたってッ! 見たんだもんッ!」
疑う僕らに、信子が声を張り上げた──直後、廊下の灯りが消えた。
「ぅわッ!」
「きゃあッ!」
急な消灯に、僕らは口々に声を漏らす。
しかし、電気が消えた以降は何も起こらず静寂だけが流れた。
「……停電?」
アカ姉の声が、僕の隣で響いた。
気のせいか、暗くなる前より近い気がする。
「何でいきなり……?」
正面から信子の声。やはり、唐突な事態に戸惑っている。
「こ、コーちゃん……?」
アカ姉が、僕の腕にすがりつく──柔らかい感触を腕に感じる。
「ぶ、ブレーカーが落ちたんじゃないかな……?」
声が上ずったのは、暗闇の怖さかアカ姉の感触か。
「雷でもないのに?」
窓を振り返る。
今日は朝からの快晴。雷どころか雨すら降っている気配はない。
「い、いや……どこかでうっかり使い過ぎたんじゃないか? 空調とか」
「今は五月だよ! そんなの点けてないよ!」
──カサ……!
「……え?」
小さな、かすかな音が耳に入った。
「今、何か音がしなかった……?」
「し、した……!」
アカ姉と信子も聞き取ったようだ。
「な、何が起きてるんだ、サチ……?」
僕はサチに意見を求めた。サチは家にとりつく精霊だ。家の中で起きてる異常なら、サチが把握できてるはずだ。
「……?」
僕の問いに、サチからの返答はなかった。
「サチ……? 聞いてるのか……?」
僕はサチがいるはずの方を振り返った。
まだ暗闇に慣れていない目でサチを探す……サチの気配はなかった──暗闇でもわかるほどに。
サチは空間から消失していた。
「え……さ、サチさん……?」
「ど、どこ行ったのよぉ……!」
──ギシ……ッ!
「ひッ……!」
床が軋む音。
何かが廊下を歩く……そんな気配を感じた。
僕は、消えたサチが何かしていると思い、気配に呼びかけてみた。
「さ、サチか? いきなりどうしたんだよ? 悪ふざけならやめろよ……!」
……返答ナシ。
何だ、この事態は?
僕は暗闇の中で事態を整理しようとする──冷静に、懸命に。
信子が階段を横切る『何か』を見た──犬みたいな大きさ。階段を駆け上がった僕らは、それを見ていない。
家中の電気が突然落ちた──雷などブレーカーが落ちる要因はなかったのに。
傍にいたはずのサチが消えた──呼びかけても返事せず。
これだけ聞くと、いつもなら『またサチの仕業か』と考えて、自前の関節技のレパートリーを確認するところだ。
サチなら、ヤツが持つ不思議パワーでこんな仕掛けをするくらい朝飯前のはずだ。
しかし、おかしい──サチは、家に関することなら何でもできると常日頃言っているが、こんな誰かを脅かすようなホラーじみた真似はしたことがない。
アイツは、いつだって悪意を持って『不思議パワー』を使ったことはないのだ。家出だって、アイツにとっては家人への悪意などこれっぽっちもない──その結果、僕らに迷惑がかかるのは変わりないのだが。
じゃあ、どういうことだ? サチはこの異常事態に関係していないのか?
だとするなら──そこまで考えて、背筋に冷たいモノが走った。
サチが今不思議パワーを行使していないのであれば……それ以外の存在が、今家の中で何かしているということだ──恐らく、悪意を持って。
「こ、コーちゃん……!」
「お兄ちゃん、こわいよぉ……!」
両腕に絡みついている女性二人から、声が上がる。
僕だって怖いよ──そう言いたいのをグッと堪えて、二人が落ち着くように声をしぼり出す。
「だ、大丈夫だよ……今の音は、えーと……」
今の音を何て言えば、落ち着くだろうか?
考えあぐねた末に、一つだけ言葉を見出す。
「今のは、ただの……ラップ音だよ」
「え?」
「らッ……!」
──僕の選択は、失敗だったようだ。
「ら、ラップ音って……心霊現象だよね……?」
僕の両隣で、さらに動揺が走る。
しまった……これはどうしようもない失言だ……!
「い、いや、あの……サチだって、家鳴りさせるじゃない? アレだってラップ音だし……」
取りつくろうとするが、もう何を言っても意味がない。
「今のがサチの仕業だって言うの? 何でサチがそんなことするのよ!」
「いや、その……」
逆上しかけた信子に責められ、言い淀んでしまう。
その隙に入りこむように、また床が軋む音がした。
──ギシ……ッ!
「ひゃぁあッ!」
アカ姉が声をあげて、身を捩らせる。
彼女の体はすでに僕と完全に密着していたが、正直今は喜べない。
「あ、アカ姉落ち着いて……」
恐怖と劣情とが混ざった声で、僕は彼女に囁いた。
しかし、アカ姉の恐怖は収まりそうもなく、涙混じりの声で僕に言い返してくる。
「でも、でも……何かが近くにいるのよ……!」
──ギシ……ッ! ギシ……ッ!
またもや床音。今度は連続だ。
──ギシ、ギシ……ッ! ドタッ……!
……『ドタッ』?
最後に聞こえた音は、それまでの足音めいた響きとは違っていた。
まるで、何か大きくて柔らかそうなモノが倒れたような……?
「いやぁぁぁぁぁぁッ!」
僕の隣で、一際大きな叫び声があがった。
耳をつんざく声に不意をつかれ、片方の腕から気配が離れた──信子だ!
「あ、信子ちゃんッ! 待ってッ!」
反対側の耳に、信子を呼び止めるアカ姉の声が響く。
信子が廊下を走り、階段を勢い良く駆け下りていく。
「待て、信子ッ! 迂闊に離れるなッ!」
僕も信子を呼び戻そうと叫ぶ──こういう時、真っ先に逃げたヤツから犠牲になるんだぞ!
しかし、信子の足音は一階の玄関まで淀みなく走りぬけ、最後に玄関のドアを開ける音がした。
「……あぁ───ん、怖かったよーぅ……!」
家の外から、信子が泣き叫ぶ声がした。
どうやら、僕の死亡フラグ知識は信子に当てはまらなかったようだ。
かくして、信子は勢いに任せて家の外に避難し、迂闊に動かなかった僕とアカ姉は、何者かが蠢く二階の廊下に取り残された。