尾上くんはワンってなく
「犬って、いいですよね」
彼女は笑わなかった。
カウンターの向こうで、洗ったばかりのグラスを布巾で拭いている。店の奥では、酔った男がマイクを握り、聞いたことのある古い歌を気持ちよさそうに歌っていた。
『次の曲が予約されました』
カラオケの機械音声が響く。
俺は、溶けかけた氷を眺めた。
「散歩って言われるだけで喜んで、ご飯もらったら幸せそうで。撫でられたら尻尾振って」
「うん」
「それだけでいいじゃないですか」
言ったあとで、急に恥ずかしくなった。
二十一にもなって、今日会ったばかりの女に何を話しているんだろう。
笑ってくれればよかった。酔っ払いのくだらない話として処理してくれたら、俺も笑って誤魔化せた。
でも、彼女は笑わなかった。
グラスを拭く手だけが、ほんの少し止まる。薄い水色の目が一度だけ伏せられ、何かを思い出したようにも見えた。
けれど次の瞬間には、いつもの眠たげな顔へ戻っていた。
「……なんか、いいなって」
俺がそう付け足すと、彼女は拭き終えたグラスを棚へ戻した。
「尾上くん」
「はい」
「ワンって言いなよ」
「……え?」
◇
ブォォォン――。
低く唸る機械音で目が覚めた。
「……うるせぇ」
枕へ顔を押しつける。それでも窓ガラスが微かに震えている。
この時期になると、近くの田んぼをラジコンヘリだかドローンだかが飛び回る。子供の頃から聞いてきた、夏の田舎の音だった。
枕元の時計を見る。
十四時五十分。
「寝すぎたな……」
身体を起こす。頭の奥が鈍く重い。
寝すぎた日は、身体だけ先に目を覚まして、意識がまだ布団の中に残っているような感じがする。
床には昨日脱いだ服。机には半分残ったペットボトル。灰皿には、何本かの吸い殻が押し潰されたまま残っている。
何時に寝たんだっけ。
少し考えたけれど、思い出せなかった。
「煙草……」
窓を開ける。
夏の熱気が、土と草の匂いを連れて部屋へ入ってきた。蝉の声。遠くの農機具。庭の木。その向こうに広がる田んぼ。
煙草を一本咥え、火を点ける。
メンソールの冷たさが喉を通った。
身体に悪いことくらい、自分の意思で選びたかった。
それと。
何か一つ、寄りかかれるものが欲しかった。
人じゃなくてもいい。朝でも夜でも、火を点ければそこにあるもの。
気付けば、もう何年も吸っている。
「……なんもねぇな」
窓の外を見る。
田んぼ。民家。また田んぼ。その向こうに山。
去年までは、ここにはいなかった。
専門学校へ通うため、この町より少しだけ大きな街で一人暮らしをしていた。都会と呼ぶには小さい。でも、夜でも人が歩いていた。駅前には飲み屋があった。古着屋もあった。学校帰りに友達と飯を食って、そのまま誰かの部屋へ行って朝までゲームした。
世界が広かった。
というより、自分にも何かがあるような気がしていた。
三年前。
あの日までは。
学校も卒業した。家へ戻った。仕事もしている。季節だって何度も変わった。
なのに、胸の奥だけは三年前からほとんど景色が変わっていない。
普段は考えないようにしている。
考えなければ仕事もできる。家族とも話せる。笑おうと思えば笑える。
だから大丈夫。
ずっと、そういうことにしていた。
「ワン!」
下の道から犬の声が聞こえた。
窓から覗くと、麦わら帽子を被ったおばちゃんが二匹の小型犬を連れて歩いている。一匹は草むらへ鼻を突っ込み、もう一匹は何がそんなに楽しいのか分からないくらい尻尾を振っていた。
「ほら、行くよ」
リードを引かれる。
犬は嬉しそうについていく。
「……いいなぁ」
思わず口に出た。
散歩へ連れていかれて喜ぶ。
飯をもらって喜ぶ。
名前を呼ばれて喜ぶ。
撫でられて喜ぶ。
誰も犬に、将来どうするのとは聞かない。
何歳までに何をしろとも言わない。
ちゃんとしろとも言わない。
元気に生きているだけで、偉いと言われる。
「いいよな、お前ら」
その時、スマホが震えた。
『湊、今日仕事?』
「わかなちゃんか」
近所に住んでいる高校一年生。俺とは六つ離れている。
『休み』
返信すると、すぐ既読。
『学校まで迎えきて』
「めんど……」
そう言いながら、断る文章は打たなかった。
今日、家族以外の誰かと話しただろうか。
昨日は。
一昨日は。
家にいると、一日が驚くほど静かに終わることがある。気付けば夜で、何をしたのか思い出せない。
『バイクでいいなら』
『神』
画面を見ながら、少しだけ笑った。
◇
「湊ー!」
校門の前で、制服姿のわかなが大きく手を振った。
「声でけぇよ」
「迎えに来た人への感謝」
「感謝する側が偉そうなの何なんだよ」
予備のヘルメットを渡す。
わかながそれを受け取ると、少し離れたところにいた女子生徒がこっちを見て何か言った。
「何?」
「友達が湊のことかっこいいって」
「嘘つけ」
「ほんと」
「高校生から見た二十一なんておっさんだろ」
「その返しすると思った」
「じゃあ言うなよ」
わかなが笑う。
俺は別に、自分の顔が特別悪いとは思っていない。
でも、かっこいいと言われてもピンとこない。
鏡を見る時に最初に目へ入るのは、寝不足っぽい目だったり、伸びた髪だったり、疲れて見える顔だったりする。
どうせなら、そういうものの方が先に見える。
わかなが後ろへ跨がる。
「出発」
「掴まってろよ」
アクセルを捻る。
エンジン音が大きくなる。
バイクに乗っている時間は好きだった。
アクセル。クラッチ。ブレーキ。
見るべき場所も、やるべきことも決まっている。
前だけ見ていればいい。
それが楽だった。
◇
わかなの家へ着く。
「ありがと」
「はいよ」
ヘルメットを受け取る。
帰ろうとした俺の横に、わかながそのまま立っていた。
「湊」
「ん?」
「最近の人生はどうよ」
「質問でかすぎるだろ」
「いいじゃん」
笑う。
それから、少し考えた。
「……止まってる感じ」
「何が?」
「時間」
口に出してから、自分でも驚いた。
妙にしっくりきた。
「俺だけ、三年前くらいからずっと同じところにいる感じ」
わかなは笑わなかった。
「……そっか」
それだけだった。
こいつは、こういう時に「大丈夫」と言わない。
詳しいことも聞かない。
言いたくなったら言えばいい。
そういう距離だった。
スマホが震える。
専門学校時代のグループLINE。
『明日飲まね?』
「飲み会?」
「うん」
「行けば?」
「病院終わってからな」
「いつもの?」
「いつもの」
「じゃあ楽しんでこい」
「お前は母親か」
「人生の先輩です」
「高校一年生が言うな」
わかなが笑った。
◇
「尾上くん、具合はどうですか?」
「可もなく不可もなくです」
少し考える。
「まあ、不可だと思えば、いくらでも不可にはできますけど」
先生が小さく笑った。
「睡眠は?」
「寝れてます」
「朝は?」
「日によります」
「仕事は?」
「一応」
カタカタと、キーボードを叩く音。
白い壁。整えられた机。何度も来た部屋。
「前みたいに一気に悪くなる感じがあったら、早めに連絡してくださいね。限界まで我慢しないように」
「はい」
限界。
その言葉を聞くと、時々思い出す。
あの頃も、俺は大丈夫だと思っていた。
別れた翌日も学校へ行った。飯も食った。友達と話した。就活もした。不採用のメールを閉じて、次の会社を探した。
まだ行ける。
これくらい普通。
俺より辛い奴なんていくらでもいる。
何度そう思ったのか、もう覚えていない。
大丈夫じゃないと気付いた時には、病院のベッドの上にいた。
「薬は今まで通りでいきましょう」
「ありがとうございます」
診察室を出る。
可もなく不可もなく。
昔から、自分の傷を大したことがないことにするのだけは上手かった。
◇
「かんぱーい!」
ジョッキがぶつかった。
専門学校時代の友達は、驚くほど変わっていなかった。
「湊、お前まだそういう服着てんのな」
「そういうって何だよ」
「なんか洒落たやつ」
「雑すぎるだろ」
今日は少し太めのスラックスに、白いTシャツ。その上から古着の薄手のシャツを羽織っていた。
服だけは昔から好きだった。
「相変わらずモテそうな格好してんな」
「モテねぇよ」
「またまた」
本当にモテないと思っているから言っているのに、こういう時は謙遜に聞こえるらしい。
酒が進む。
仕事。給料。東京へ行った奴。彼女ができた奴。もう結婚の話をしている奴。
「湊は最近どうなん?」
向かいの友達が聞いた。
「地元戻ったんだろ?」
「うん」
「仕事は?」
「家の仕事」
「どう?」
本当は。
朝起きるだけで疲れる日がある。
何もしない日なのに、息苦しいことがある。
こいつらの仕事や恋人の話を聞くと、羨ましいと思う。
なんで俺だけ。
そう考えて、そんな自分が嫌になる。
全部言おうと思えば言えた。
「普通だよ」
笑った。
「地元で仕事して、飯食って、寝て。たまにこうやって飲んで」
「なんだ、普通じゃん」
「だろ?」
普通。
便利な言葉だった。
昔から、自分が大丈夫じゃないことを隠す時に、一番よく使った。
◇
「俺ら二軒目行くけど、湊どうする?」
「俺帰るわ」
「まじ?」
「また今度」
「じゃあな」
「おう」
友達の背中が、駅の方へ消えていく。
一人になる。
煙草へ火を点けた。
夜の街。
居酒屋の看板。
コンビニ。
信号。
昔住んでいた街。
そして、あいつと歩いた街。
この交差点を一緒に渡った。
あのコンビニでアイスを買った。
冬には、ポケットの中で手を繋いだ。
何でもない記憶ばかりだった。
だから厄介だった。
何でもない日常ほど、忘れるきっかけがない。
「……来るんじゃなかったな」
煙草を強く吸う。
「よっ、そこのお兄さん」
女の声がした。
振り返る。
最初に見えたのは、白い煙だった。
街灯の光の中で、ゆっくり形を崩している。
その向こうに、一人の女が立っていた。
淡い銀色の髪。
胸元まで伸びた髪は、毛先だけ緩く波打っている。
耳にはいくつものピアス。
細い指には煙草。
そして、目。
色の薄い、水色の瞳。
眠たげで、少し気怠そうなのに、目が合うと不思議なくらい逸らしづらかった。
綺麗だった。
というより。
夜の中で、その人だけ妙に輪郭が濃かった。
「一人?」
「……見れば分かるでしょ」
「そうだね」
女は煙草を吸う。
吐いた煙が、二人の間を通る。
「うち、すぐそこなんだけど。飲んでかない?」
「店?」
「スナック」
「キャッチじゃん」
「まあね」
「素直だな」
女が少し笑う。
「来る?」
「…………」
本当なら、断ればよかった。
知らない女。
知らない店。
帰って寝ればいい。
でも。
女の目が、妙に気になった。
「……一杯だけ」
「うん」
女が先に歩き出す。
何歩か進んでから振り返った。
「来ないの?」
「行きますよ」
淡い髪が夜風に揺れた。
その背中を追った。
◇
「いらっしゃーい」
店へ入った瞬間、外とは別の空気に包まれた。
カラオケ。笑い声。煙草。香水。酒。安っぽい色のライト。
「澪、お客さん?」
「うん」
カウンターの奥から、ママらしい女が顔を出す。
そこで初めて名前を知った。
澪。
「座って」
言われるまま、カウンター席へ腰を下ろす。
「何飲む?」
「ハイボール」
「了解」
氷を入れる。
ウイスキー。
炭酸。
「はい」
「どうも」
一口。
「うま」
「良かった」
さっき外で話した時より、声が少し静かだった。
「名前」
「え?」
「まだ聞いてない」
「ああ。尾上湊」
「尾上くんね」
「そっちは澪?」
「聞いてたんだ」
「さっきママが」
「そう。林澪」
二十七歳。
俺より六つ上。
それだけ聞いて、年齢の話は終わった。
「前、この辺住んでた?」
「何で分かるんですか」
「見たことある気がする」
「俺を?」
「たぶん」
少しだけ俺の顔を見る。
「あの頃より髪伸びたね」
「……そうですか」
「うん。今の方が似合ってる」
「それ、営業ですか」
反射的に言った。
澪さんが少し目を細める。
「違うよ」
「そういう営業もありそう」
「褒められるの苦手?」
「別に」
「ふーん」
それ以上、追及しない。
ありがたかった。
でも。
髪が似合っている。
それだけの言葉が、妙に胸へ残った。
最近の俺は、病院では患者。家では息子や孫。仕事では人手。
何かの役割の後ろに、自分がいる感じがする。
だから。
髪が似合うなんて、どうでもいいところを見てもらったことが、少し嬉しかった。
◇
「澪ちゃーん」
「はーい」
店の奥から男に呼ばれる。
澪さんが立つ。
さっきまでとは違う声で、明るく笑う。
男の隣へ座る。酒を作る。話を聞く。肩へ触れられても、自然に笑っている。
仕事だ。
分かっている。
なのに、少し気になった。
意味が分からなかった。
まだ名前を知って十分も経っていない女だ。
しばらくして、澪さんが戻ってくる。
「お待たせ」
「人気なんですね」
「仕事だからね」
椅子へ座る。
さっきまで客へ向けていた笑顔が、すっと薄くなる。
無愛想ではない。
ただ、力が抜ける。
「疲れません?」
「疲れるよ」
あっさり言った。
「笑いたくない時も笑うし。聞きたくない話も聞く」
「辞めたくならない?」
「たまに」
「辞めないんですね」
「尾上くんも仕事辞めたい日あるでしょ」
「ありますね」
「でも明日も行くでしょ」
「……多分」
「そんな感じ」
その言い方が、少し好きだった。
頑張ってるとも、偉いとも言わない。
ただ。
そういう日もあると言っているだけだった。
◇
澪さんが煙草を一本取り出した。
唇へ咥える。
カチッ。
小さな炎が一瞬だけ顔を照らした。薄い水色の目と長い睫毛、白い肌に火の色が映り、すぐ消える。
澪さんはゆっくり煙を吸い、白い煙を二人の間へ吐いた。
それを見ていたら、俺も吸いたくなった。
煙草を一本咥える。
ライターを鳴らす。
カチッ。
「……あれ」
もう一度。
カチッ。
「ガス切れか」
澪さんが俺を見る。
「貸して」
「ライター?」
「煙草」
「え?」
「こっち」
言われるまま、煙草を咥え直す。
澪さんが何気なく身を乗り出した。
そのまま、顔が近づいてくる。
思わず息を止めた。
煙草の先が触れる。
「吸って」
小さな声だった。
店の音に紛れて、俺にだけ届く。
息を吸う。
澪さんの煙草の先が赤く灯る。
その赤が、ゆっくり俺の煙草へ移ってくる。
顔を上げる。
目が合った。
近い。
眠たげな薄い水色。
煙草の匂い。
酒。
少し甘い香水。
呼吸。
それまで、綺麗な人だと思っていた。
その距離まで来て初めて。
女の人だ。
そう思った。
胸が一度だけ大きく鳴った。
目を逸らしたら、意識していることがばれそうで。
でも見つめ続けるのもおかしい。
どうしていいか分からないまま、火だけが移った。
その瞬間。
澪さんの視線が、ほんの少しだけ揺れた気がした。
「……ついた」
先に顔を離す。
「どうも」
自分の声が少し掠れていた。
澪さんは何も言わない。
ただ、少しだけ笑った。
それが余計に恥ずかしかった。
煙草を吸う。
いつものメンソール。
味が変わるはずなんてない。
それでも、その一本だけは妙に捨てるのが惜しい気がした。
◇
少しして、俺はトイレへ立った。
戻る途中。
店の奥の小さな勝手口が少し開いている。
その向こうに、澪さんがいた。
一人で煙草を吸っている。
さっきまでの笑顔はない。
無表情だった。
夜の暗さを見ながら、ただ煙を吐いている。
誰かを待っているようにも。
何かを思い出しているようにも見えた。
声をかけるか迷う。
その時、澪さんがこちらへ気付いた。
ほんの一瞬。
目が合う。
次の瞬間には、いつもの顔へ戻っていた。
「何?」
「……いや」
「トイレそっち」
「帰る途中です」
「じゃあ戻れば」
「はい」
それだけ。
何だったのか、聞かなかった。
たぶん。
聞かない方がいい気がした。
◇
しばらくして、カラオケから知っている曲が流れた。
指が止まる。
あいつが好きだった曲。
付き合っていた頃、何度も車の中で流れていた。
次にどんなメロディが来るのか。
全部分かる。
「…………」
「尾上くん」
「はい」
「この曲、嫌い?」
「逆です」
「好き?」
「昔好きだった人が好きでした」
口にしてから、少し驚いた。
初対面の人に、こんなことを話すつもりじゃなかった。
「そっか」
澪さんは、それだけ。
可哀想そうにも。
詳しく聞いてもこない。
曲はそのまま流れている。
俺も、止めてほしいとは言わなかった。
少しして。
澪さんがグラスを拭きながら、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
その表情が、さっき勝手口で一人煙草を吸っていた時と少し似ていた。
何かあるのかもしれない。
そう思った。
でも。
やっぱり聞かなかった。
◇
それからは、どうでもいい話をした。
古着。
漫画。
映画。
コンビニで一番うまいアイス。
最初は短く答えていたはずなのに、気付けば俺の方がよく喋っていた。
「その店、駅裏ですよね」
「そうそう」
「あそこ俺も行きます」
「何買うの?」
「古着。最近は見るだけですけど」
「見るだけ?」
「金ないんで」
「現実的」
「服好きなんですよ」
「分かる」
「分かるんですか」
「今日ちゃんとしてるし」
「それまた営業じゃないですか」
「疑い深いなぁ」
澪さんが笑う。
気付いた時には、最初よりだいぶ話しやすくなっていた。
誰にでもそうなるわけじゃない。
昔から、知らない人にはあまり喋らない。
でも。
この人いいかも。
そう思った相手には、自分でも驚くくらい喋る。
わかなに、犬みたいだと言われたことがあった。
最初は警戒するくせに。
慣れると急にうるさい。
今なら、少し分かる。
「尾上くん」
「はい」
「将来、何になりたい?」
急だった。
「何ですか急に」
「なんとなく」
「澪さんは?」
「私?」
少し考える。
「分かんない」
「二十七でも?」
「二十七だから何でも分かると思うなよ」
「すみません」
澪さんは笑う。
それから、俺を見る。
「尾上くんは?」
何になりたい。
その言葉を、頭の中で転がす。
昔なら、何か答えられたかもしれない。
都会で働く。
好きなことをする。
結婚する。
普通に幸せになる。
でも今は、何も出てこなかった。
代わりに、昼間に見た犬が浮かぶ。
「……犬」
「ん?」
「犬になりたいです」
言ってから、やっぱり馬鹿だと思った。
普通なら笑う。
俺だって誰かに言われたら、笑うかもしれない。
でも。
澪さんは笑わなかった。
拭いていたグラスを持つ手が、ほんの少しだけ止まる。
「犬って、いいですよね」
「うん」
「散歩って言われるだけで喜んで、ご飯もらったら幸せそうで。撫でられたら尻尾振って」
「うん」
「将来どうすんだとか。何歳までに何しろとか。ちゃんと働けとか。いつまでそのままでいるんだとか」
言っているうちに、犬の話じゃなくなっていることに気付いた。
でも。
止められなかった。
「そういうの何もなくて。ただ生きてるだけで、偉いねって言われて」
声が少し掠れる。
恥ずかしくなって、笑おうとした。
「……なんか、いいなって」
上手く笑えなかった。
澪さんは、まだ笑わない。
薄い水色の目を、少しだけ伏せた。
ほんの数秒。
その顔が、また勝手口で見た無表情と重なる。
何か言いかけたように見えた。
でも。
何も言わなかった。
代わりに。
「尾上くん」
「はい」
「ワンって言いなよ」
「……え?」
「犬になりたいんでしょ」
「そういう意味じゃないです」
「違うの?」
「……違わないですけど」
「じゃ、一回だけ」
「嫌です」
「そっか」
あっさり引く。
「もっと粘らないんですか」
「嫌なんでしょ」
「まあ」
「ならいいじゃん」
澪さんが煙草へ手を伸ばす。
「今日は犬ってことで」
「勝手だな」
「明日からまた人間やればいいよ」
「…………」
軽い声だった。
深いことを言っているようには聞こえない。
だからこそ、妙に残った。
明日からまた人間やればいい。
今日だけ。
少しくらい。
ちゃんとしなくてもいい。
そう言われたような気がした。
それより何より。
犬になりたい。
そんな馬鹿みたいな話を、澪さんは笑わなかった。
そのことが、火を移してもらった時とは別の意味で、少しだけ胸に引っかかった。
◇
閉店が近づく。
客も少なくなった。
俺は会計を済ませ、店を出た。
「ありがとうございましたー」
ママの声。
「気をつけてね」
澪さんが言う。
「大丈夫です」
反射的に答えた。
それから、自分で少しおかしくなる。
大丈夫。
昔から、よく言う。
「じゃあ」
「うん」
店を出た。
◇
繁華街を離れるにつれて、街は少しずつ静かになった。
酔っている。
でも。
頭の中は妙に冴えていた。
さっきまで、楽しかった。
知らない女と話した。
煙草の火をもらった。
犬になりたいなんて言った。
恥ずかしい。
でも。
嫌じゃなかった。
歩く。
昔の街。
コンビニ。
交差点。
自販機。
何でもない景色。
記憶は、場所を選ばず戻ってくる。
あいつと別れた翌日。
あいつは泣きながら戻ってきた。
もう一度付き合いたいと言った。
だから。
信じた。
この人とは結局離れないんだと。
その数日後。
また振られた。
理由も、よく分からなかった。
苦しいと伝えた俺に返ってきたのは。
『一生そのまま被害者ヅラして生きてけば』
その一文だった。
「…………」
今でも。
そこだけは妙に鮮明に思い出せる。
あの日から。
傷ついたと言うことが、少し怖くなった。
俺が苦しいって言うのは、被害者ヅラなのかもしれない。
俺にも悪いところはあった。
なら。
苦しいなんて言う資格はないのかもしれない。
翌朝も学校へ行った。
教室で笑った。
履歴書を書いた。
不採用のメールを閉じて、また次の会社を探した。
まだ大丈夫。
まだ行ける。
何度そう思ったのか、もう覚えていない。
大丈夫じゃないと認めた時には、全部消えてしまえばいいと考えるところまで来ていた。
入院した。
薬を飲んだ。
学校へ戻った。
卒業した。
家へ帰った。
それでも。
あいつへの感情だけは、綺麗にならなかった。
好きだった。
許せなかった。
会いたくなかった。
それなのに、幸せだった頃だけは戻ってほしかった。
愛情と憎しみが、同じ人の顔をしていた。
「……疲れたな」
道端のガードポールへ背中を預ける。
そのまま、座り込む。
空を見る。
繁華街の明かりが遠ざかって、星が少し見えた。
夏の終わりの風が、頬を撫でる。
気付けば、涙が出ていた。
「……くっそ」
拭う。
また出る。
「ずっと一緒って……」
そこから先は、言えなかった。
煙草を一本咥える。
ライターを出す。
カチッ。
火はつかない。
「あ」
そうだった。
店でガスが切れた。
それでも、もう一度。
カチッ。
当然、火は出ない。
「そりゃそうだよな……」
たったそれだけで。
余計に泣きたくなった。
◇
「――いた」
遠くから声。
顔を上げる。
澪さんだった。
最初は、少し笑っていた。
こっちへ歩きながら。
「尾上くん、こんなところで――」
途中で、言葉が止まる。
俺の顔を見たからだ。
目元。
頬。
隠せる状態じゃなかった。
澪さんの表情から、さっきまでの軽さが消えた。
ゆっくり近づいてくる。
「……寒くない?」
最初に言ったのは、それだった。
「夏ですよ」
「夜は冷えるでしょ」
「まあ」
澪さんは俺の口元を見る。
「それ、火ついてないじゃん」
「ライター死んでるんで」
「知ってる」
ポケットからライターを取り出す。
カチッ。
火が灯る。
「ほら」
「……ありがとうございます」
煙草へ火を点ける。
普通の火。
なのに。
さっき店で、澪さんの煙草から火をもらった時のことを思い出した。
近かった目。
香水。
呼吸。
まだ、あいつのことで泣いている。
そのくせ。
別の女のことを思い出している。
少しだけ、変な気分だった。
澪さんは何も聞かず、俺の隣へ座った。
距離は、近すぎない。
遠すぎない。
煙草一本分くらい。
しばらく、二人で煙を吐いた。
「澪さん」
「ん?」
「俺さ」
少し迷う。
「三年前から、時間止まってるんです」
「……そっか」
それだけ。
何があったの。
誰と。
なんで。
聞かない。
「周りは進んでるのに。仕事して、恋人できて、結婚して」
「うん」
「俺だけ、ずっと同じところにいる感じで」
澪さんは煙草の灰を軽く落とす。
「今日も友達に、普通だよって言いました」
「普通?」
「最近どうって聞かれて。地元で働いて、飯食って、寝て。普通だって」
「そっか」
「全然普通じゃないのに」
少し笑う。
「普通って何だろうなって」
澪さんは少しだけ考える。
それから、空を見る。
「分かんない」
「適当ですね」
「だって」
こっちを見る。
「私、尾上くんのこと今日しか知らないし」
「まあ」
「三年前のことだって知らない」
「はい」
「だから」
ほんの少し、肩をすくめる。
「分かったようなこと言えないじゃん」
「…………」
胸の奥へ、静かに落ちた。
今まで。
色んなことを言われた。
時間が解決する。
前を向け。
忘れろ。
次へ行け。
もっと大変な人もいる。
頑張れ。
全部、間違ってはいない。
でも。
俺が何を感じているか。
勝手に決められているような気がする時があった。
分かったようなこと言えない。
何も解決していない。
何の答えにもなっていない。
なのに。
少し楽だった。
「何か言ってくれるかと思いました」
「例えば?」
「前向きなやつ」
「頑張れ、とか?」
「そういうの」
「嫌でしょ」
「……まあ」
「じゃあ言わない」
煙草を吸う。
白い煙が夜へ溶ける。
「今日」
澪さんが言う。
「楽しかった?」
「店ですか」
「うん」
「……まあ」
「まあ?」
「ちょっと」
「じゃあ」
煙草を咥えたまま、小さく笑う。
「今日はそれでいいんじゃない」
「それだけ?」
「それだけ」
澪さんは立ち上がった。
「明日のことは、明日起きてから考えれば」
「俺、起きるの昼ですよ」
「じゃあ昼から考えれば」
「甘いなぁ」
「私の人生じゃないからね」
「ひど」
少し笑う。
俺も、少しだけ笑った。
◇
「帰れる?」
「子供じゃないですよ」
「さっき道端で泣いてた人が言ってもね」
「見なかったことにしてください」
「検討します」
「そこは即答でお願いします」
二人で歩く。
深夜の街は、さっきより静かだった。
店の看板は消え始めている。
車も少ない。
聞こえるのは、遠くのエンジン音と虫の声。
二人分の靴音。
「澪さん」
「何」
「なんで俺に声かけたんですか」
「ああ」
少し考える。
「捨て犬みたいだったから」
「……は?」
「一人で煙草吸ってて。寂しそうで」
「褒めてないですよね」
「全然」
「ひど」
澪さんが笑う。
「犬になりたいって言ってたし。ちょうどよかったね」
「何がちょうどいいんですか」
俺も笑った。
歩く。
不思議だった。
知らない人とは、あまり喋らない。
でも今は。
黙っていることも。
喋ることも。
どっちも嫌じゃなかった。
途中。
道が分かれた。
澪さんが立ち止まる。
「私こっちだから」
「あ、はい」
「ちゃんと帰ってね」
「帰りますよ」
「じゃ」
軽く手を上げる。
そのまま歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
淡い髪が、街灯の下を遠ざかっていく。
呼び止めようとは思わなかった。
連絡先も聞かなかった。
また会いたい。
そこまで、まだ思わない。
ただ。
次に会うことがあっても。
悪くないかもしれない。
そのくらい。
ポケットへ手を入れる。
指先に、火の切れたライターが触れた。
取り出す。
カチッ。
やっぱり。
火はつかない。
「……そうだった」
少し笑う。
コンビニで新しいのを買えばいい。
それだけなのに。
なぜか、すぐにはそっちへ歩き出さなかった。
煙草を一本咥えたまま、少しだけ夜空を見る。
さっき、澪さんの煙草から火をもらった時のことを思い出す。
薄い水色の目。
近すぎた距離。
メンソールの向こうに混じった、甘い香水。
次にあの店の前を通ったら。
また入ってもいいかな、と。
少しだけ思った。
煙草には、まだ火がついていなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は短編として書きましたが、
湊と澪が少しずつ距離を縮めて、やがて恋仲になっていくところまで描いてみたい気持ちもあります。
もしこの二人を「もう少し見ていたい」と思っていただけたら、
連載として続きを書くかもしれません。
感想などいただけたら嬉しいです。




