5.旅へ①
ゆさゆさと体をゆすられている感覚がする。だけど、体がうまく動かない。私は今見ているものがただの悪夢だと分かってもなお、動けないままなのか。
ほんの少しの自嘲が込み上げる。しかしそれをぶち壊したのは、誰かが私を呼ぶ声だった。
「…えるふぃー、えるふぃー?起きてよー」
ああ、アルトか。彼が私の名前を呼んでいるのか。そう言えば、いつの間にか愛称で呼ばれるまでになった。
彼を悲しませるような真似は、決してしたくなかった。
「っは…」
急に金縛りが解けたように目が覚める。喉がカラカラになって、全身が嫌な倦怠感に包まれている。
研究をしている間にうたた寝をしてしまったようだ。お陰様で寝覚めは最悪。
…そう言えば、キノコ茶には睡眠作用があった気がする。
恐らくは私があまり寝られていないことを見越したアルトの気配りなのだろうが、正直そこまで世話を焼こうとしなくても良いと思う。私は見た目こそまだ幼さも残るが、年齢的にはおばあちゃんを通り越しているのだから。
「エルフィー…?」
アルトが私を呼ぶ声でまた我に返る。そして、アルトの気配りに八つ当たりしていたことに気がついた。
自分の幼稚さに気付かされる。大人になったつもりになっていたのは私だったのかもしれないなと、思った。
この子には助けられてばかりだと、なぜだか今になって痛感する。…これじゃあまるで私がこれから死ぬみたいだ。
「どうしたの?そんな顔して」
私は気を取り直して彼に問いかける。椅子に座ったままの私に彼は甘えるように擦り寄ってきた。
椅子の横から私を覗き込むようにしてアルトが言った。
「あのねあのね、何だか…嫌な予感がするの」
きゅうっと、可愛らしい眉を顰めて言っている姿に思わず心が和む。アルトは一生懸命 なのだろうが、大変申し訳ないことに、可愛いしか感想が出てこない。
「んーなんでだろうね…」
よしよしと、頭を撫でてやる。すると彼は目を細めてそれを受け入れた。
ふわふわとした子供特有の柔らかい髪の手触りが心地いい。私の心も少しずつ解けていくのを感じた。
と、その時、内臓から体を震わせるほどの爆音があたりに響き渡った。それと同時に一斉に鳥たちが空へと逃げるように飛び立った。
ざわざわと心に不穏な影が濃くなっていく。私たちは身動きすら取れずに、ただお互いの不安そうな顔を見つめていた。アルトは怯えるように、私の体にぴったりとくっついていた。
…こうしてはいられない。子供の安全を確保することが大人の勤めだ。
私は立ち上がると、ヨタヨタとした足取りで窓の方へと近づいた。そして、恐る恐る窓の外を伺うようにして見た。
外の景色を見た私は言葉を失った。
重苦しくも妙に明るい灰色の空。木々はざわめくように揺れ、どこか悶えるような痛みを持っていた。そして何より、森の奥の方から段々と迫る赤い魔の手が、私の目に入り込んできた。まさしく、俄かには信じ難い光景がそこにはあった。
…森が、燃えていた。
ー・ー・ー
僕は小さくお団子みたいにうずくまってガタガタと震えていた。
さっき鳴り響いたあの音によって、思い出しそうになってしまった。
あの時も似た音がした。気がついたら視界が真っ暗なのに真っ白になってて、次に気がついた時には全部なくなっていた。
…また、全部なくなるの?僕、何も悪いことしてないのに、また?
エルフィーに拾われてから僕は洗濯もお茶汲みもできるようになったし、好き嫌いも全然してない。…にんじんだけはやっぱり無理だったけど。
でも、ぼくは断然いい子になってた。昔のことがあの時以来そんなによく思い出せないようになってしまったけれど、それだけは確かだった。
「え、えるふぃー…?」
僕は彼女の方へ目を向けた。ついさっき窓の方にふらふら行ったきり、帰ってこないから。
僕の声に反応したのか、僕のことをやっと思い出したのか、彼女がゆっくりと振り返った。
僕たちの視線が、ばちっと絡み合った。星が散るように、一瞬だけ。
彼女の目は、これまで見たことのないぐらい目がこぼれ落ちそうな程に見開いていた。それに、確かに目と目が合っているはずなのに、彼女の目はどこか虚ろに揺れていて、僕のことなんて視界に入っていないみたいだった。
…僕たちはきっと同じような顔をしていたと思う。彼女のことをうまく見れていなかったのは僕も同じだったから。
僕たちは目の焦点も定まらないまま、お互いに助けを求めるように、固まったまま動けないでいた。
最初に動き出したのは、エルフィーだった。
「行かなきゃ…」
何か見えないものに引きずられるみたいにして、彼女はまたふらふらと動き出した。
それに、何かうわ言を呟いていた。
「神樹さまのところに行かなきゃ。行かなきゃ、守らなきゃ…」
僕は彼女の綺麗な蜂蜜色の瞳が濁っていく錯覚を見た。つやつやした宝石みたいな瞳に泥が混じる。それはどんどんどんどん彼女を侵食していった。
「ま、待ってよ…」
僕は思わず手を伸ばした。彼女の服の裾をきゅっと掴む。今、彼女を行かせてしまったらだめだと、頭の中でわんわん警報が鳴り響いていた。
しかしにべもなく彼女は、僕の手を雑に振り払った。予測できていなかった僕は、そのまま尻餅をついた。鈍い痛みが、お尻に広がる。
彼女は僕の方を一瞥もせずに、変なうわ言をまだ口走りながら。
「行かなきゃ。神樹さま、守ら、なきゃ…」
僕の中にあった何かがぶつんと、切れる音がした。お腹の中に溜まった透明なのに気持ち悪い何かが束になって溢れ出した。
「…ゃだ」
気がついたら僕は彼女の腕を掴んでいた。全体重をかけるようにして、なんとか彼女を引き留めようとする。
「いやだ、いやだいやだいやだ!!なんで一緒に来てくれないの!?一人なんてやだよ!行かないでよ!!僕よりそっちの方が大事なの!?ねえなんでなんでなんで!!?」
途中から、僕は泣いていた。彼女の腕を引っ張ることも忘れて、とめどなく溢れてくる涙を一心不乱に拭っていた。でもそれと同時に、どこかふわふわとした掴めない気持ちでいた。
ずっとめがみさまか何かだと思っていた彼女が、どんな時でも口元の笑みを絶やさなかった彼女が、とても人間らしく見えたから。
…エルフィーも、人間なんだ。
視界は涙でぼやけているはずなのに、何か大切なものが見えた気がした。理解していた気になっていたけれど、本当は分かっていなかったのかもしれない。
ふらふらと移動していたエルフィーがドアノブに手をかける。上手く体が動かないのか、がちゃがちゃと不規則に捻り続けている。それでも体だけは先に行こうとしているから、何度もドアにぶつかっている。
正気でないことは誰の目に見ても確かだったけれど、その姿は気味の悪さより痛々しさが強かった。僕の心まで、ぎゅっと、痛んだ。
涙まだ止まらないままだった。だけど僕は涙を垂れ流しながらエルフィーの方へ近づいた。
僕はエルフィーのドアノブを捻っている手にそっと僕の手を重ねた。エルフィーの手の勢いがほんの一瞬だけ、緩んだような気がした。
それは僕の気のせいだったかもしれない。でも、そんなことはどうでも良かった。
どうにかして彼女に伝えたかったから。僕の心の底から、溢れ出した気持ちを。
靄みたいな何かに捕まってしまった彼女に届くぐらいの、気持ちを込めて。
彼女の虚ろな瞳が一瞬、ふいにこちらに向いたように見えた。僕はその一瞬を逃すことなく、彼女の頬を両手で包んだ。
そして僕は言葉を繋げた。しっかりと彼女の内側まで届くことを願って、小さいけれどはっきりとした声で。
「逃げよう」




