5話 勇者は間違えない
彼が倒れたのは、出発訓練の三日目だった。
「次! もう一度だ!」
訓練場に教官の声が響く。
朝から続く模擬戦。兵士たちが円を作り、その中心でアルトさんが剣を構えていた。
額から汗が落ちる。呼吸も荒い。それでも彼は剣を下ろさない。
「休憩を、入れた方がいいんじゃ……」
私は物資箱の横で小さく呟いた。
隣の兵士がけらけらと笑う。
「勇者様に限ってそれはないよ」
「え?」
「加護持ちは疲労が軽減されるんだ。特に勇者は別格さ」
そう言われた直後だった。
ガン、と鈍い音が訓練場に響く。
アルトさんの剣が弾かれ、体勢が崩れる。そのまま、膝が地面についた。
「勇者様?」
ざわめきが広がる。
アルトさんは立ち上がろうとして――失敗した。
どさり、と倒れる。
「医療班を!」
誰かが大声で叫ぶ。
私は反射的にアルトさんの元へ走っていた。
「アルトさん!」
近づくと、顔色が真っ青だった。呼吸が浅い。手が震えている。
「……大丈夫、だ」
その声はかすれていて、とうてい大丈夫そうには聞こえない。
「立てますか?」
「まだ、やれる」
アルトさんは必死で起き上がろうとする。でも腕に力が入らないようで、そのまま横たわっていた。
「おかしいな……」
「勇者の加護なら疲労は……」
周囲の兵士たちは困惑していた。
まるで“ありえない現象”を見ている顔。
そのとき。
頭の奥が、ちり、と痛んだ。
――修正開始
まただ。頭の中に無機質な声が響いてくる。
空気が重くなる。風が止まる。
世界が一瞬、息を止めたみたいだった。
そして――
「……あれ?」
アルトさんが顔を上げた。呼吸が整っている。震えが消えている。
先程までの様子が嘘みたいに、アルトさんはすんなりと立ち上がった。
「すまない、少し足を滑らせただけみたいだ」
周囲が安堵の声を上げる。
「驚かせないでくださいよ、勇者様!」
「やっぱり勇者は違うな!」
笑い声。
訓練再開の空気。
――でも。
「……違う」
思わず声が漏れた。
さっきまで、確かに限界だったはずだ。あれは演技なんかじゃない。転んだだけでもない。
“変わった”んだ。
「リナ?」
アルトさんがこちらを見る。
いつも通りの顔。
先程の疲れなんて最初からなかったみたいに。
「本当に大丈夫ですか?」
「心配しすぎだって」
彼は苦笑した。
「勇者だからな、俺」
その言葉に、なぜか寒気がした。
勇者だから。
だから倒れない?
それは能力なんかじゃなくて、決まり事みたいだった。
訓練が再開される。
剣が打ち合わされる音と歓声。
正常に戻った世界。
でも私の視界だけが、少しズレている。
地面を見る。
さっきアルトさんが倒れた場所。
そこに――血が一滴だけ残っていた。
誰も気づかない。踏まれて、砂に消えていく。
「……修正って、なに」
小さく呟く。
その瞬間。背後から、低い声がした。
「君も聞こえるのか?」
振り返る。
黒髪の青年――賢者が立っていた。
彼は訓練場を見つめたまま言った。
「なら、気をつけた方がいい」
静かな声。
「この世界は、“間違い”を許さないらしい」
風が再び吹き始める。旗が揺れる。
勇者の剣が光を反射する。
完璧な物語の光景。
私だけが取り残されて、置き去りになったみたいだった。




