29話 届かぬ距離
改稿していたら投稿が遅れました
これからは少しペースを落として更新します
夜の闇が安息地を覆い、焚き火の赤い光がゆらゆらと揺れている。
遠征隊は一日の行軍を終え、静かな休息の時間に入っていた。遠くで夜鳥が鳴き、微かな風が木々の葉をさらさらと揺らしている。
その光景を、アルトは少し離れた場所から見ていた。
剣を背に立ったまま、視線の先にいる一人の少女を見つめている。
焚き火の向こう側。
リナが、荷袋を抱えて座っていた。
焚き火の明かりがその横顔を淡く照らし、小さな影が地面に落ちている。長い行軍の疲れか、肩はわずかに落ち、指先は荷袋の紐をぎゅっと握りしめていた。
その姿を見ていると、胸の奥がじわりと重くなる。
アルトは一歩踏み出しかけた。
だが――足が止まる。
ほんの数歩の距離。
それだけなのに、どうしても踏み出せなかった。
アルトは小さく息を吐く。
――なぜ、近づけないのだろう。
昨日までなら、こんなことはなかった。
自然に声をかけ、隣に座り、何気ない会話をすることもできたはずだ。補給の手伝いをしたこともあるし、荷袋を持ってやったことだってある。
それなのに。今は、体が動かない。
足が地面に縫い付けられたように、前に進まない。
アルトは眉を寄せる。
――俺は、何か間違ったことをしたのか。
思い返しても、心当たりはない。
リナと話したのは昨日の昼だ。いつも通りの会話だった。補給の話をして、遠征の準備をして、それだけだ。
なのに、今は声をかけることさえ躊躇している。
理由が分からない。ただ胸の奥に、妙な感覚だけが残っていた。
リナの背中を見る。小さな肩が、わずかに震えている。
寒いのだろうか。それとも、疲れているだけか。分からない。
だが、あの背中を見ていると、放っておくことができなかった。
助けたい。安心させたい。
勇者だからではない。ただ、一人の人間としてそう思う。
それなのに、アルトは一歩も動けない。
焚き火がぱちりと弾ける。
火の粉が夜空に舞い上がり、すぐに消えた。
アルトはその光を目で追いながら、ふと首を傾げる。
――おかしい。
胸の奥で、微かな違和感が揺れている。戦場で何度も感じてきた感覚だ。
敵の気配。
危険の兆し。
あるいは――言葉にできない、世界の歪み。
ほんの一瞬。空気が揺れたような気がした。
目には見えない。音もない。
だが、確かに何かがそこにある。
アルトはゆっくりと視線を上げる。
焚き火の向こう。リナはまだ同じ場所に座っている。
何も変わらない。
けれど、その距離が、妙に遠く感じた。
ほんの数歩。
それだけなのに、手を伸ばしても届かないほど、遠い。
アルトは小さく息を吐く。
自分でも、どうしてこんなことを考えているのか分からない。
ただ一つ、確かなことがあった。
――この距離は、正しいはずなのにおかしい。
勇者としての勘が、そう告げている。
理由は分からない。説明もできない。だが、何かが引っかかる。
アルトは剣の柄に手を置く。
冷たい感触が掌に伝わる。それだけで、少しだけ心が落ち着いた。
視線をもう一度リナへ向ける。
焚き火の光が彼女の髪を淡く照らしている。
触れれば、きっと温かい。それは分かっている。
それでも、足は動かなかった。
アルトはしばらく黙って立っていた。
風が吹く。
木々の葉が揺れ、夜の匂いが静かに流れていく。
遠征隊の誰も、この小さな違和感には気づいていない。
世界は、いつも通りに回っている。
それなのに、ほんのわずかに何かが変わってしまった。
アルトは小さく目を閉じた。
考えても答えは出ない。
ならば、せめて。
言葉だけでも残しておこうと思った。
「……リナ、」
声は小さく、焚き火の音に紛れるほどだった。
「どうか、無事でいてほしい」
それは命令でも誓いでもない。ただの願いだった。
届くかどうかも分からない。それでも、言わずにはいられなかった。
そのとき、焚き火が、ぱちりと大きく弾けた。
火の粉が夜空へ舞い上がる。
リナの手が、ふと止まる。
荷袋の紐を握ったまま、動かなくなる。
そして、ゆっくりと、肩越しに振り向いた。
焚き火の光が彼女の横顔を照らす。
けれど、その視線はアルトには向いていない。
ただ、夜の闇の中を探すように、ほんの一瞬だけ揺れた。
まるで、誰かの視線を感じたかのように。
だが、すぐに首をかしげる。
そして何事もなかったかのように、また前を向いた。
リナは荷袋の紐を握り直し、焚き火を見つめている。
アルトは動かなかった。
ただ、静かに息を吐く。
今の一瞬。
もしかしたら、こちらを見たのかもしれない。
いや――
ただの気のせいかもしれない。
それでも、胸の奥に、ほんの少しだけ温かいものが残った。
届かない距離は、まだそこにある。
けれど、完全に断たれているわけではない。そんな気がした。
アルトは再び剣の柄を握る。
焚き火の光が揺れ、リナの影が静かに伸びる。
火の粉が一つ、二人の間をゆっくりと落ちていった。
アルトはただ、届かない願いを胸に抱えながら、静かな夜の中で少女の背中を見守り続けていた。




