27話 消えゆく安息
――逸脱率、上昇
その声は、風のざわめきと混ざり、耳の奥に響いた。思わず手を止め、馬車の横で立ち止まった。
心拍が高まり、息がひそかに乱れる。周囲を見回しても、もちろん誰もいない。冷たい空気だけが体を包む。
遠征隊は森を抜け、開けた平地に差し掛かっていた。木々の影が長く伸び、乾いた土と草の匂いが鼻をくすぐる。
ここは、これまで微かに安息を感じられた場所だった。しかし、今は違う。昨日までの穏やかさは消え、空気は張り詰めている。
補給馬車の側で、荷袋の紐を締め直し、荷物を整える。乾燥肉、保存パン、水筒――いつもと同じ順番で並べ直す。習慣のように手を動かしても、心は落ち着かない。
――修正開始
前方では、アルトさんとエリシアさんが並んで歩いている。だが、二人の視線は私に向かず、言葉もなく、距離を置いて進んでいる。いつもはあったはずのわずかな視線の交わりすらもなくなっていた。
――修正開始
視界の端で兵士たちの動きが乱れた。先ほどまでスムーズに進行していた道が、突然、行き止まりのように閉ざされる。馬車の車輪が砂利に嵌まり、倒木や土砂が道を塞ぐ。必死に押す兵士の足取りも鈍い。
私は馬車の陰に身を寄せ、ただ手元の荷袋に触れる。
無力感が胸を圧迫する。世界の端に押しやられた自分は、進行を止めることも、救うこともできない。できることは、ただ感じ取ることだけ。
――修正開始
次の瞬間、どこかから魔物の呻きが響き渡る。前線の兵士たちは武器を構え、剣戟と怒号が飛び交う。土煙が立ち、視界が揺れる。
兵士たちが次々と倒れていく。盾も剣も間に合わず、ただ地面に沈む。手足をもがく者も、叫ぶ者も、風にかき消される。息絶えた声が胸の奥に重くのしかかる。
倒れた者の数は数え切れない。昨日まで笑い声を交わしていた仲間も、無言のまま土に沈む。世界は私を置き去りにして、冷酷に物語を進める。
アルトさんとエリシアさんは無傷のまま指示を出す。動かない私に声をかけることもなく、二人との距離はさらに遠い。視線も、笑みも、かつての安心感も失われた。
私は座り込み、震える手で荷袋を抱き締める。視界の端で倒れた者の姿が揺れるたび、胸の奥が冷たく沈む。
何をしても、変えられない。
だが、微かにでも何かを感じ取らなければ、次の犠牲はさらに大きくなる。
どのくらい経っただろうか、魔物のうめきがようやく遠ざかる。戦闘は収まった。しかし倒れた者たちの姿は揺るがない。世界は完璧に中心を守るが、犠牲を伴う冷たさは変わらない。
肩越しに振り返ると、アルトさんとエリシアさんとの距離はさらに開き、二人は私に何も告げずに前進していた。
そして、ふと耳に届いたのは、あの声の再来だった。
――修正対象、確認
今度は微かに震えるように、しかし明確に、私の存在を指し示す響きだった。
世界は、端に押しやられた私を見逃してはいない。中心の秩序だけでなく、私という存在すらも、次の物語の収束のために“修正”しようとしているのだろうか。
胸の奥でざわめきが強くなる。手元の荷袋をぎゅっと握り、微かに震える指先を感じながら、私は覚悟する。
次にこの世界が差し出すもの――それが何であれ、もはや逃れられない。




