23話 世界が止められなかった一歩
遠征隊は森の奥へと進んでいた。
木々は高く、陽の光は細く裂けるように地面へ落ちる。視界は悪く、兵士たちは自然と隊列を詰めて歩いていた。
私は補給班として最後尾近くを歩き、揺れる荷馬車の横で荷物が崩れないよう押さえている。
静かな行軍だった。
けれど――胸の奥が、落ち着かない。
ざわり、とした感覚。
理由はわからない。ただ、空気が重い。
「……なんだろ」
小さく呟いた瞬間だった。
森の奥から、音が消えた。
鳥の声が途切れる。
風も止まる。
次の瞬間――
「敵襲!!」
前方の兵士の叫びが響いた。
地面が弾け、魔物が飛び出す。
黒い影が隊列へ突っ込み、兵士たちが一斉に武器を構えた。
剣戟の音。怒号。土煙。
私は反射的に荷馬車の影へ身を寄せる。
補給班は戦えない。
邪魔にならないことが、唯一の役割。
分かっているのに、心臓が早鐘を打つ。
――近い。
嫌な予感が強くなる。
その時、魔物の一体が戦線をすり抜けた。
兵士ではなく、後方へ。
こちらへ向かってくる。
「っ……!」
足が動かなかった。
逃げなきゃいけないのに、身体が硬直する。
視界の端で、兵士たちは前線に集中している。誰も気づいていない。
魔物が跳躍した。
爪が振り上げられる。
――間に合わない。
そう思った瞬間。
白い光が割り込んだ。
鈍い衝撃音。
魔物の身体が弾かれ、横へ吹き飛ぶ。
私は呆然と顔を上げた。
目の前に立っていたのは――
「エリシア、さん……?」
聖女だった。
本来、前線に立つはずのない彼女が、私の前に立っている。
杖を両手で握り、息を乱して。
防護の光が、私と彼女を包んでいた。
自分でも驚いたように、エリシアさんは瞬きをする。
「……あれ……?」
小さく呟く。
まるで、自分がここにいる理由が分からないかのように。
兵士が駆け寄り、魔物を討ち取った。
戦闘はすぐに収束していく。
けれど私は動けなかった。
「どうして……」
思わず口に出る。聖女は守られる側で、危険地帯へ出る理由なんてない。
エリシアさんは少し困ったように笑った。
「……分からないんです」
視線が揺れる。
「気づいたら、体が動いていて」
彼女は自分の手を見る。
まだ微かに震えている。
「誰かが危ないって、強く思って……」
そこで言葉を止め、私を見る。
目が合った瞬間、彼女の表情が少し柔らかくなった。
「……リナさん、だったんですね」
私は何も言えない。
胸の奥が妙に熱い。
その時、頭の奥でざわりとした感覚が走った。
――何かが、軋んだ。
見えない圧力。
空気が一瞬だけ重くなる。
まるで世界そのものが「違う」と言ったような、不快な感覚。
けれど次の瞬間、それは消えた。
何事もなかったかのように。
エリシアさんは小さく息を吐く。
「……不思議ですね」
「え?」
「怖かったはずなのに、ここに来たとき、あまり苦しくなかったんです」
彼女は少し首を傾げる。
「前なら、きっと動けなかった気がするのに」
その言葉の意味は分からない。
でも、なぜか胸がざわつく。
私は視線を落とす。
荷物は無事だった。
何も壊れていない。
まるで最初から守られていたみたいに。
兵士たちが隊列を立て直し、行軍再開の声がかかる。
エリシアさんは一歩下がり、いつもの聖女の位置へ戻ろうとする。
けれど去り際、小さく言った。
「……さっき、少しだけ安心しました」
振り返らずに。
「理由は分からないんですけど」
白いローブが揺れ、彼女は隊列の前方へ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、胸を押さえる。
偶然だったのだろうか。
それとも、ほんの少しだけ――物語の流れが、予定と違う方向へ動いたのだろうか。
森の奥で風が吹く。
誰にも気づかれないまま。
聖女は、本来守られる側であるはずなのに。
ただ一人、無意識に。
物語の外側にいる私を、選んで守った。




