14話 物語に気づかれた日
午後の行軍が再開して、しばらく経ったころだった。
森の道は細く、馬車が通るたびに枝葉が擦れ合う音が続く。乾いた葉が踏みしめられ、鎧の金具が小さく鳴る。遠征隊は一定の速度を保ったまま、静かに列を伸ばしていた。
私は最後尾近くを歩きながら、補給袋の紐を結び直していた。
いつも通りの仕事。
いつも通りの景色。
それなのに――落ち着かない。
風の流れが妙だった。
頬を撫でたはずの風が、ほんの一拍遅れて葉を揺らす。誰かの足音も、音だけが少し遅れて届く気がする。
気のせいだと思おうとした。
疲れているだけだと、自分に言い聞かせる。
けれど胸の奥のざわつきは消えなかった。
まるで――誰かに見られているような感覚。
思わず振り返る。
そこには何もない。
兵士たちが歩き、馬が鼻を鳴らし、遠くでアルトさんの指示が響いているだけ。
普通だ。
何も、おかしくない。
それでも、足が止まった。
視界の端が、わずかに白く滲む。
「……?」
瞬きをすると、景色は元に戻る。
だが次の瞬間、奇妙なことが起きた。
前を歩いていた兵士の荷袋が、紐から外れ、落ちかける。
私は反射的に思った。
――落ちないで。
その瞬間。
世界が、止まった。
音が消える。
風が凍る。
足音が途中で切り取られたように静止する。
揺れていた葉が空中で止まり、砂埃が宙に浮いたまま動かない。
呼吸をしようとして、気づく。
自分の心臓の音だけが、遅れて響いていた。
一拍。
……もう一拍。
世界から、私だけがずれている。
そして、
――確認
声がした。
耳元ではない。
頭の中でもない。
もっと遠く。
世界そのものの外側から、記録を読み上げるような無機質な響き。
意味はわからない。
けれど、理解だけが先に届く。
見られている。
次の瞬間、時間が戻った。
風が吹き抜け、音が雪崩れ込む。
荷袋は兵士の手元で止まり、何事もなかったように揺れた。
「危なっ」
兵士は笑いながら持ち直し、そのまま歩き去る。
誰も気づいていない。
今の異変に。
私だけが立ち尽くしていた。
心臓が早鐘のように鳴る。
今のは、何?
偶然?
それとも――。
背筋に冷たいものが走る。
思い出そうとして――できない。
さっき聞こえたはずの感覚が、指の隙間から零れる水のように消えていく。
まるで、思い出すことを許されていないみたいに。
「リナさん?」
声に振り向くと、エリシアさんが立っていた。
少し心配そうな顔でこちらを見ている。
「顔色が……少し悪いですよ」
「あ、いえ……大丈夫です」
そう答えると、彼女は小さく息を吐いた。
その瞬間。
さっきまで身体を締めつけていた圧迫感が、すっと薄れる。
空気が柔らかくなる。
胸のざわつきが静まる。
理由はわからない。
ただ――エリシアさんが近くにいると、あの“何か”が遠ざかる気がした。
私は小さく首を振り、再び歩き出す。
気のせいだ。
きっと疲れているだけ。
そう思おうとした。
けれど。
行軍の列の後方。
誰にも見えない空間で、ほんのわずかに空気が歪んだ。
観測するように揺らぎ、形のない視線だけがそこに残る。
そして静かに消えた。
――誤差微小、続行可能
意味だけが残り、世界は何事もなかったかのように進み続ける。
私は知らない。
この日。
世界が初めて、私を「背景」ではなく――認識したことを。




