悪役令嬢ですが、推しが幸せなら断罪されても構いません
断罪は、いつも劇場から始まる。
赤い絨毯。天井の高い大広間。壁際に整列した近衛騎士。貴族席には扇子で口元を隠した令嬢たちが並び、男たちは酒宴の余韻を残した目で舞台を待っている。
――王立学園、年末舞踏会。ここは乙女ゲーム『ルミナス・クラウン』で、悪役令嬢が退場する“名物イベント”の会場だ。
「レティシア・フォン・アルベール。貴様は聖女マリアンヌを虐げ、陛下より賜った婚約を笠に着て学園内で横暴の限りを尽くした。その罪、ここに裁く!」
第一王子エドワード・ルミナスが指を突きつける。怒りと正義感に震える声はよく通り、場の熱を煽った。
隣で白いドレスの少女が俯いている。こぼれる涙、震える肩。けれど折れない芯が、立ち姿に残る。
――マリアンヌ。
私の“最推し”だ。
前世の私は、ただのオタクだった。画面の向こうの誰かを応援して、幸せになってほしいと願って、推しの笑顔ひとつで今日を生き延びるような人間。
転生したと気づいた瞬間、私は運命の残酷さより先に歓喜に息を詰まらせた。
推しが、現実にいる。
それだけで十分だった。だから私は背筋を伸ばす。ここから先は、私がずっと決めていた“役割”を果たすだけ。
推しが幸せなら、断罪されても構わない。
◇
私が自分の立場に気づいたのは七歳の冬だった。鏡の中の少女は銀糸の髪を揺らし、澄ました青い瞳でこちらを見返していた。アルベール公爵家の長女、レティシア。礼儀作法も社交も魔法も、最初から「できて当然」を求められる人生。そしてなにより、悪役令嬢。
原作のレティシアは聖女を妬み、嫌がらせを重ね、最後は断罪される。プレイヤーの多くは「可哀想」と言ったが、私は違った。私が愛したのは悪役令嬢ではなく、主人公の聖女マリアンヌだった。
地方の小教会で育った少女が、神の加護を得て学園に招かれ、王子に愛され、聖女として称えられ、苦難の末に幸せになる。私はその“幸福曲線”を何度も見返して救われた。
だから決めた。私は影役を引き受けよう。光を眩しくする影。ただし、推しに傷をつけない影で。
表では冷淡で高慢、近寄りがたい。裏では推しが困らないよう、誰にも気づかれない程度に周囲を整える。名付けるなら「悪役令嬢の推し活」だ。
◇
マリアンヌが学園に入学した日、貴族社会の空気は想像以上に冷たかった。
「平民が聖女候補? 神殿は本気かしら」
「王家も落ちぶれたものね。聖女に縋るなんて」
令嬢たちの囁きは薄く鋭い刃になる。姿勢、発音、食器の持ち方――“違い”はすべて攻撃の種だ。
原作ではここで、悪役令嬢が取り巻きを連れて彼女を嘲笑する。だから私は、嘲笑の“場”だけを作り、矛先を変えた。
「まあ、聖女候補ですって? 王家も落ちぶれたものね」
わざと通る声で言うと、取り巻きが笑う。周囲も釣られる。矛先がマリアンヌ本人に向く――その直前、私は扇子を閉じて続けた。
「聖女とは神殿が勝手に祭り上げる偶像よ。王家はそれに縋るしかないほど弱っている。……本当に嘆かわしい」
嘲笑はマリアンヌから外れ、神殿と政治に向く。貴族は政治の話に弱い。難しい単語を混ぜれば口を閉じる。
最後に私は冷たく言い捨てた。
「聖女候補そのものを笑うのは品位に欠けるわ。貴族なら、矛先くらい選びなさい」
その日から露骨な虐めは減った。完全には消えない。だが初日に折られる最悪は避けられた。
◇
それから私は、地味な推し活を積み重ねた。
授業で必要な参考書が高価で手に入らないと聞けば、図書室に“寄贈”されるよう手配する。寮の食堂で平民向けの粗末な食事が出されそうになれば、給仕長に「学園の評判に関わる」と圧をかけて差し替えさせる。舞踏会のドレスの仕立てが間に合わないと噂になれば、匿名で腕の良い仕立て屋を紹介する。
もちろん、表向きは冷たい。
「聖女様、廊下で立ち止まらないで。通行の邪魔よ」
「はい……すみません」
「謝罪は結構。次から気をつければいいわ」
やさしく言えばいいのに、と思う自分もいる。けれど、やさしさは誤解を生む。私の役割は“嫌われ役”だ。嫌われ役が嫌われなければ、物語が歪む。物語が歪めば、推しの幸せの行き先が読めなくなる。
――推しが幸せなら、それでいい。
そのためなら、私は悪役でいい。
◇
厄介だったのは、王子だった。
第一王子エドワード・ルミナス。原作の攻略対象で、マリアンヌの運命の相手。優しい顔をしているのに、思い込みが強く、正義感の向きがたまに危うい。私は彼が好きではなかった。だが、推しが彼を好きなら話は別だ。
だから私は婚約者としての役割を果たした。政務の助言、派閥調整、失言のフォロー。王子の“正しさ”が暴走しないよう、裏で舵を取った。
「レティシア、神殿の寄付金の件だが」
「断れば反発が強まります。受け入れ方を変えましょう。名目を救貧ではなく学園整備に。神殿が口を出しにくくなります」
「……君は本当に、頼りになるな」
その言葉に、私は心の中でため息をついた。
あなたに頼られたいわけではない。私が見たいのは、あなたが推しに微笑む場面だけなのに。
だが皮肉なことに、私が優秀であればあるほど、王子は私を「理解者」だと思い込んでいく。そして、マリアンヌへの感情を“婚約者に気兼ねしながら芽生える恋”として美談に仕立てていく。
原作のように、私が愚かなら、彼はもっと早く私を嫌ったはずだ。
私は賢くなりすぎた。推し活のつもりが、物語の歯車に別の油を差している。
◇
そんなある日、図書室でマリアンヌが私に頭を下げた。
「レティシア様。いつも……ありがとうございます」
「……何のこと?」
「わたし、気づいていないふりをしていました。でも、わかるんです。わたしが困る前に空気が変わる。誰かが止めてくれている」
胸がきゅっと痛んだ。推しに認知されるのは嬉しいはずなのに、それは私の“嫌われ役”としての立ち位置を危うくする。
推しが私を嫌えなくなれば断罪が甘くなる。断罪が甘くなれば物語が変わる。物語が変われば、推しの未来が読めなくなる。
私は扇子で口元を隠して冷たく返した。
「勘違いよ。あなたが勝手にそう思っているだけ」
「……そう、ですか」
「そう。邪魔よ。そこをどいて」
彼女は悲しそうに目を伏せた。けれど、その目は諦めていない。
――推しは、強い。原作の彼女も強い。だから私は、彼女の強さの材料になる痛みを奪ってはいけない。そう思い込もうとした。
◇
秋、事件が起きた。神殿から献上された「祝福の杯」が盗まれたのだ。儀式用の聖具で、触れた者の魔力を増幅させるとされる。学園の展示室に保管されていたが、ある朝忽然と消えた。
疑われるのは、聖女と、悪役令嬢。
マリアンヌは杯に触れることを許されていた数少ない生徒の一人。王子は即座に「犯人は別にいる」と宣言した。推しを守るための正義。
そして“別の候補”として名が挙がったのが、私だった。
公爵家の令嬢で展示室に出入りできる。王子の婚約者として顔が利く。魔力が高い。なにより、聖女を妬んでいるという評判。
噂は燃えやすい乾草みたいに広がった。私は静かに状況を観察した。
原作では黒幕は神殿側の工作員だ。杯を盗み、聖女の力を試し、王家を揺さぶる。なら私がすべきは、自分の潔白を叫ぶことではない。推しを巻き込まない形で、神殿の糸口を掴むこと。
私は父の人脈を使い、展示室の警備配置を洗い直した。夜間の交代に一度だけ不自然な空白がある。神殿関係者が入れる時間帯がある。
だが証拠が足りない。決定打がない。神殿は、責任の押しつけ先さえ用意できればいい。真犯人の正体など、誰も求めない。
◇
杯盗難の翌週、学園は“静かな戦場”になった。
表向きは授業が続く。けれど廊下の視線は鋭く、挨拶は少なく、噂だけが増えていく。「公爵令嬢が犯人だ」「聖女が怪しい」「神殿が隠している」――どれも確証のないまま、信じたいものだけが信じられる。
私は噂を押し返すのではなく、流れを変えた。貴族は“事実”より“体裁”を重んじる。なら体裁を整えればいい。
まず、展示室の管理責任を学園側から神殿側へ半分だけ移すよう、学園長に提案した。
「聖具は神殿の管轄です。学園が預かるなら監査権を神殿に渡すのが筋。逆に神殿が監査するなら、学園にも閲覧権が必要です」
学園長は眉を寄せたが、断れなかった。神殿に貸しを作らず、学園の体面も保てる“折衷案”だからだ。
結果、神殿関係者の出入り記録が形式上は残るようになった。私が欲しかったのはそれだけ。
次に、私は父に短い手紙を送った。
『杯盗難は神殿の工作の可能性が高い。追放は織り込み済み。だが聖女を囲わせないため、舞踏会での誓約を取りたい。宰相に「合理的」と言わせる段取りをお願いしたい』
返事は翌日に来た。父はいつも端的だ。
『了解。宰相は動く。お前は感情で動くな。相手は「正義」を武器にする。お前は「手続き」で刺せ』
私はその一文で、背筋が伸びた。父は私の推し活の本質を知らない。だが、私のやり方を否定しない。それだけで十分だった。
その晩、私は展示室の出入り記録を確認しに行った。鍵は学園長の許可で借りてある。夜の廊下は冷え、足音がやけに響く。
展示室の前で、私は不意に気配を感じた。柱の陰。黒いローブ。神殿の下級神官だ。彼は私を見ると、慌てて祈りの言葉を唱えるふりをした。
「そこで何を?」
「……清掃の確認を」
「展示室の前で?」
「聖具は清浄であるべきです。汚れがあっては――」
「あなた、名前は?」
神官は口をつぐむ。私は笑った。こういう者ほど、名前を出したくない。名を出せば組織に繋がる。繋がれば責任が生まれる。
私は一歩近づき、囁いた。
「明日の朝、学園長に報告します。夜間の巡回を神殿がしていると。――それだけで、あなたの上司は顔色を変えるわ」
神官の喉が鳴った。私が脅している? いいえ。私は事実を“手続き”に落とし込んでいるだけだ。
そのとき、遠くから足音が来た。誰かがこちらに向かっている。
神官は小さく舌打ちし、闇に溶けるように去った。
私は息を吐いた。
決定打はない。だが、神殿が動いている確信は強まった。そして確信が強まるほど、私は分かる。
――この事件は、最初から「犯人を作る」ための舞台だ。
なら、私は舞台装置として断罪される。
でも、推しを檻に入れる舞台装置にはさせない。
そんなとき、取り巻きのカトリーヌが耳打ちした。
「レティシア様。聖女が、夜に展示室の近くにいたと……」
「……誰が言ったの?」
「神殿の侍女が。『聖女様はお祈りに行かれた』と」
甘い毒だった。その噂が広がれば矛先は推しに向く。握り潰すしかない。けれど同時に私は理解した。神殿が意図的に情報を流している。
「その話はここで終わり。誰にも言わないで」
「ですが……」
「あなたが本当に聖女を憎んでいるなら言いふらせばいい。でも私は違う。……わかるわね」
取り巻きは息を呑んだ。私は“悪役”として君臨しながら、推しへの直接攻撃を禁じた。
この矛盾を、いつか誰かが見抜くだろう。その誰かは、推し本人かもしれない。
◇
王子エドワードは、疲れていた。
事件、神殿の圧力、父王からの叱責。「婚約者の管理がなっていない」と暗に言われる。彼は思う――レティシアは賢い。だからこそ厄介だ。
彼女はいつも正しい助言をする。王家の利益を損なわない。外面も整っている。だが冷たい。特にマリアンヌに対して。
「面倒」「邪魔」「規律」――口から出るのはそんな言葉ばかり。しかし行動は違う。マリアンヌが孤立しそうになれば空気が変わる。物資が届く。噂が鎮まる。タイミングが良すぎる。
エドワードは結論づける。
レティシアは計算でやっている。善意ではない。支配欲だ。聖女を“飼いならす”ための策略だ。
そんな彼の耳に入った報告がある。
――展示室近くで、夜にレティシアが見られた。
目撃者は神殿の侍女。信用できる相手ではないが、無視できない。そして彼は心のどこかで期待してしまった。「やはりレティシアが悪いのだ」と。そうなれば婚約破棄の正当性が立つ。正義が形を持つ。
彼は気づかなかった。その正義の輪郭が、誰かの小さな嘘で描かれていることに。
◇
舞踏会が近づく。原作ではここで断罪が発生する。杯盗難は「レティシアが犯人」という形で決着させられ、婚約破棄と追放が宣告される。
私は覚悟していた。推しが幸せなら、それでいい。
ただ、杯が神殿の工作なら、推しの未来に不安が残る。王子と結ばれても神殿に利用される可能性がある。原作は「愛と奇跡」で乗り切るが、現実は甘くない。
だから私は保険を打った。父に頼み、追放先の辺境領に小さな屋敷を整えさせた。追放が避けられないなら、生存と安全だけは確保する。
舞踏会の前夜。私は学園寮の自室で荷造りをしていた。扉が静かに叩かれる。
「……誰?」
「マリアンヌです。少し、お時間をいただけますか」
胸が跳ねた。推しが自分の部屋に来る。前世なら画面越しのイベントだ。でも、喜んでいい立場ではない。
扉を開けると、白いケープの彼女が真っ直ぐ私を見た。
「明日、あなたが断罪されるって……皆が言っています」
「そう」
「……あなた、何も言わないんですか? 否定しないんですか?」
私は淡々と返す。
「否定しても無駄よ。皆は“悪役令嬢”を必要としている。物語を終わらせるために」
言ってしまってから自分で驚いた。“物語”などと。
マリアンヌは眉を寄せる。
「物語……?」
「あなたは幸せになる。王子と結ばれ、聖女として愛される。それでいい」
彼女の目が揺れた。
「それでいい、なんて……あなたの人生は?」
「私は悪役令嬢として生まれた。それだけ」
彼女は一歩踏み込む。
「レティシア様は、わたしを嫌っているふりをしているだけです」
「違うわ」
「違いません。わたし、見てきました。あなたが、わたしが傷つく前に空気を変えていたこと。噂を止めていたこと」
胸が痛い。否定したいのに、否定できない。
マリアンヌは静かに言う。
「明日、わたしは――あなたを見捨てません」
私は心のどこかで強く拒んだ。推しが私に肩入れすれば物語が変わる。推しの幸せが読めなくなる。
でも同時に、胸の奥が温かい。推しが、私を見捨てないと言った。私は弱くなりそうだった。
◇
舞踏会当日。貴族たちの視線が刺さる中、王子は壇上で声を張り上げた。
「諸君。本日はこの場を借りて、重大な罪を犯した者を裁く!」
罪状が読み上げられる。聖具盗難、聖女への嫌がらせ、王子の名誉を傷つけた諸々。
私は黙って聞いた。反論しない。証拠は作られている。ここで争うほど推しの立場を揺らす。
そして王子は宣告した。
「レティシア・フォン・アルベール。君との婚約を、ここに破棄する。……君を、愛することはない」
会場が沸く。令嬢たちは扇子で口元を隠し、男たちは面白がって囁く。正義が勝ち、悪が裁かれる舞台。
私は一歩前に出た。
「殿下。謹んで、お受けいたします」
ざわめきが止まる。王子が眉をひそめた。
「……何?」
「婚約破棄を。断罪を」
私はマリアンヌを見る。推しはここで救われる。悪役令嬢が退場し、光が残る。
「聖女マリアンヌ様。どうか、お幸せに」
心からの言葉だった。――なのに。
「待ってください!」
マリアンヌが声を上げた。原作にはない声だ。大広間の空気が凍る。彼女は壇上に上がり、王子の前に立った。
「レティシア様は、わたしを虐げていません! むしろ――守ってくれていました!」
「マリアンヌ、君は優しすぎる。レティシアに利用されているだけだ」
「違います! わたしは、わたしの目で見てきました!」
彼女は震える手で紙束を取り出す。寄付の記録。匿名の寄贈品の送り状。展示室警備の不自然な交代表の写し。
――私が念のために保管していたもの。
「昨夜、レティシア様のお部屋で見ました。荷物の中にあった。……あなたは何も言わずに去るつもりだった」
私は目を閉じた。推しが私の推し活を暴露している。物語が壊れる。
その瞬間、壇上の奥から神官が一歩進み出た。
「聖女様。おやめください。真実は神がご存知です」
「神殿の方……」
「レティシア様が善人であろうと悪人であろうと、聖具盗難は事実。責任を取るのが秩序です」
その言葉で私は理解した。神殿が断罪を必要としている。悪役令嬢が退場し、聖女が王子と結ばれる。その“筋書き”を神殿が利用する。聖女を象徴として囲い、王家を従わせる。
推しの幸せが、檻の中に用意されている。
私は決めた。
推しが幸せなら断罪されても構わない――そう思っていた。でも、推しの幸せが檻の中にあるなら、それは私の望む幸せではない。
私は壇上に上がり、マリアンヌの隣に立った。
「殿下。断罪は受けます」
会場がざわつく。
「ただし、条件があります」
王子が睨む。
「条件だと?」
「聖女マリアンヌ様を、神殿の管理下に置かないこと。彼女は王家の庇護のもと、自由に生きるべきです」
「何を言っている。聖女は神殿の――」
「聖女は“人”です」
私は冷たく言い切った。
「殿下が本当に彼女を守りたいなら、神殿の鎖から引き剥がすべきです。……できないのなら、あなたは彼女を愛しているのではなく、利用しているだけ」
王子の顔が赤くなる。怒りと羞恥と、否定できない不安。
私は続けた。
「私は罪人として扱っても構いません。ですが、聖女を守る誓約をここで交わしてください。王家の名で」
政治の話に持ち込めば貴族は黙る。神官は嫌がる。王子は逃げられない。
宰相が低い声で助け舟を出した。
「殿下。ここで誓いを立てれば、神殿は口を挟みにくい。政治的に合理的です」
王子は歯噛みし、最後に絞り出した。
「……わかった。誓う。マリアンヌを神殿の檻に入れない」
神官が顔色を変えた。私はその瞬間だけ、心から安堵した。推しは檻に入らない。推しが自分で選べる未来が残る。
私は笑って、頭を下げた。
「では、断罪を受けましょう」
◇
追放先は北の辺境領。雪の匂いがする空気と、土の匂いと、薪の煙。
私は小さな屋敷を与えられた。最低限の使用人。農地の一角。生活費は雀の涙。
それでも私は満足していた。推しは自由を得た。王子との関係がどうなるかは分からないが、少なくとも神殿に囲われない。推しが自分で選べる未来が残った。私はそれが見たかった。
辺境での生活は案外忙しい。薪割り、畑、雪かき。手に豆ができ、指先が荒れる。だが痛みは心地よかった。身体が「生きている」と主張する。
夜、星が多い空を見上げると、ふと笑ってしまう。
前世の私は推しの幸せを願うだけで、自分の幸せを考えなかった。今世も同じだと思っていた。
でも、静けさの中で気づく。私は、十分に満たされている。
推しが幸せなら、それでいい。それ以上を望んではいけない。
そう言い聞かせて日々を過ごした。
◇
最初の冬は、正直に言って地獄だった。
屋敷は小さいとはいえ、王都の暖かさとは比べ物にならない。壁の隙間から風が入り、夜は水差しの水が薄く凍った。使用人たちも慣れていないから、薪の管理一つで揉める。
私は「公爵令嬢の手を汚すな」と言われて育った手で、普通に薪を割った。手が震えて刃がずれ、指先を切って血が滲む。布で巻いて終わり。痛いが、死ぬよりましだ。
ある晩、屋敷の裏手で狼の遠吠えがした。村の猟師が駆け込んでくる。
「お嬢様、獣が下りてきます。子どもが一人、森の方へ……!」
私は外套を掴んで外へ出た。護衛の騎士は付いていない。追放者にそんな贅沢はない。だが私は魔力だけは奪われていない。
雪の森は視界が白く、息が痛い。足跡を辿ると、小さな影が倒れていた。村の少年だ。足を滑らせたのだろう。泣き声はもう出ない。唇が紫になっている。
その背後で、獣の気配が動いた。
私は一歩前に立ち、掌を上げた。
「――下がりなさい」
風が渦を巻き、雪が舞い上がる。公爵家の血筋は古い。攻撃魔法は得意ではないが、私は“結界”なら扱える。音も匂いも遮断する薄い壁を張り、狼の鼻先を逸らす。
獣は苛立ったように唸り、だが踏み込めず、やがて森の奥へ消えた。
私は少年を抱き上げ、屋敷へ運んだ。暖炉の前で毛布に包み、湯を飲ませる。村の者たちが、私を見る目を少しだけ変えた。
追放された悪役令嬢でも、人は助ける。――その事実が、ここでは効いた。
その夜、私はふと思った。
もし推しがここにいたら、こんな寒さに耐えられるだろうか。
耐えられる。きっと。彼女は強いから。
でも、耐えさせたくない。
私は初めて、「推しの幸せ」と同じくらい「推しの快適さ」を願ってしまった。
◇
春先、神殿の使者が来た。
白い法衣、丁寧な言葉、柔らかい笑み。だが目は冷たい。権威の匂いがする。
「レティシア・フォン・アルベール殿。あなたが保護している聖女様――いや、元聖女候補のマリアンヌ殿について、話し合いに参りました」
私はまだマリアンヌが来る前だったから、彼らの言い草に眉を動かしただけで済んだ。
「保護? 誰の許可でそんな言葉を?」
「神はすべてをご存知です。聖女の力は神殿のもの。王家が誓約を立てたとしても、神の意思は――」
「神の意思を代弁するのがあなたの仕事? 便利ね」
使者の笑みが僅かに硬くなる。私は続けた。
「帰りなさい。ここはアルベール家の領地。あなた方に行政権はない」
「追放者が領地を語りますか」
「追放は名誉の剥奪であって、土地の地縁の消滅ではない。……法律を学んでから来なさい」
使者は言い返せず、最後にこう吐いた。
「聖女がここへ来るなら、必ず取り戻します。神殿は、必要とあらば“救済”を行う」
救済。甘い言葉で、暴力を包むときに使う単語。
私はその背中を見送りながら、胃の奥が冷えるのを感じた。
推しを檻に入れないと誓わせた。だが、誓いは万能ではない。誓いを破る方法はいくらでもある。たとえば「本人の意思」を捻じ曲げるとか。「本人の安全」を盾にするとか。
だから、推しが来たとき――私はもう一度、選ばなければならない。
影役ではなく、当事者として。
春の終わり、村に王都仕様の馬車が入ってきた。村人がざわめく。嫌な予感と、ありえない期待が同時に胸を締め付ける。
馬車の扉が開き、降りてきたのは――マリアンヌだった。
推しが、現実に来た。
「レティシア様!」
彼女は迷いなく駆け寄り、私の手を取った。指先が温かい。涙が出そうになって私は慌てて視線を逸らす。
「……どうして、ここに」
「会いに来ました」
その声は王都で聞いた儚げな響きではない。強く、意志がある。
「王都を出たの?」
「はい。……わたし、神殿とも王家とも距離を置きました」
「王子殿下は?」
「わたしと殿下は、婚約しません」
胸がざわつく。原作の幸せは王子との恋の成就だと思っていた。けれど現実の推しは別の道を選んだ。
マリアンヌは私を見上げた。
「レティシア様。あなたは、わたしの幸せのために自分を犠牲にした。……でもそれは、わたしが望んだ幸せじゃない」
「私は……」
「望んでいないなら、なおさらです」
彼女は一歩近づく。
「あなたは誰かのために頑張りすぎる。自分の幸せを、いつも後回しにする」
図星だった。私は冷たく言おうとした。いつものように壁を作ろうとした。でも、推しの目が真っ直ぐで逃げられない。
「わたしは、レティシア様と一緒にいたい」
「……感謝から来る錯覚よ」
「違います」
彼女は首を振る。
「感謝なら、もっと早く言えた。わたしが今ここに来たのは、レティシア様が“わたしの推し”だからです」
私は固まった。この世界でその言葉を聞くなんて。
マリアンヌは少し照れくさそうに笑う。
「あなたが冷たく振る舞いながら、誰よりも周りを見て、誰よりも人を守っていたこと。あなたが傷つくのが、ずっと嫌だった」
「……私は、あなたを守るために」
「だから今度はわたしが、あなたの幸せを願います。あなたの隣に居てもいいですか」
私は初めて自分の幸せを考えた。そして怖くなった。近くにいて、失ったらどうする。現実の推しは画面の向こうみたいに「絶対に失わない」存在じゃない。
私は震える息を吐いた。
「……私は、悪役令嬢よ」
「知っています」
「世間は私を許さない」
「世間がなんですか」
彼女は強く言った。
「わたしは、あなたを許すために来たんじゃない。あなたを選びに来たんです」
その瞬間、私は笑ってしまった。推しが強い。原作よりずっと。
◇
マリアンヌが屋敷に滞在し始めてから数日、私は落ち着かなかった。
朝、台所からパンの焼ける匂いがする。彼女が勝手に起きて、勝手に仕事を覚えているのだ。聖女が、追放者の台所で粉まみれになっている光景は、あまりに現実味がなくて、何度も頬をつねった。
「レティシア様、塩はどこですか?」
「棚の左……違う、右。いや、あなた、火傷するわよ」
「大丈夫です。……あ、熱っ」
大丈夫ではない。私は慌てて彼女の指を水に浸け、布で包んだ。触れた指先が細くて、胸が妙にざわつく。
推しは、画面の向こうの存在だったはずだ。触れてはいけないはずだ。なのに今、私の手の中にいる。
その夜、村の子どもが屋敷に押しかけてきた。「聖女さまって本当にいるの?」と無遠慮に覗き込む。マリアンヌは笑って膝を折り、同じ目線で答えた。
「いるよ。でもね、ここでは“マリアンヌ”でいいの」
子どもたちが一斉に笑う。その輪の中心にいる彼女は、王都の舞台よりずっと自然で、ずっと眩しかった。
私は気づく。私が守りたかったのは、物語の中の“聖女”ではない。目の前で笑う、この人そのものだ。
数日後、王都から一通の手紙が届いた。差出人はエドワード王子。
封を切ると、簡素で不器用な謝意と後悔が綴られていた。婚約破棄と追放は秩序のためだったこと。神殿の圧力を甘く見ていたこと。マリアンヌを守ると言いながら利用していたこと。彼女が王都を去ったこと。
最後にこうあった――君たちは幸せになってくれ。
私は手紙を畳み、暖炉の横に置いた。
「罪状の撤回、どうしますか?」とマリアンヌが尋ねる。
「いらない」と私は即答した。
「世間の評価で生きない。私は、私の場所で生きる」
マリアンヌが微笑む。
「それが、あなたの選んだ幸せですね」
「……そうかもしれない」
私は少し視線を逸らし、付け足した。
「あなたが隣にいるなら、なおさら」
推しが嬉しそうに笑った。その笑顔を見て私は思う。
推しが幸せなら、それでいい。でも、推しが私の幸せを願うなら――私は、幸せになってもいい。
◇
辺境の屋敷は少しずつ変わっていった。マリアンヌは畑仕事を覚え、村の子どもたちに読み書きを教えた。彼女が祈ると作物の育ちが良くなる。村人は最初こそ怯えたが、すぐに慣れた。彼女が“聖女”ではなく“人”として笑って怒って失敗するのを見たからだ。
私は隣で生活を整えた。帳簿を付け、取引をし、冬に備えて保存食を作る。公爵家の教育がこんなところで役に立つとは思わなかった。
たまに王都から使者が来る。神殿は私たちを取り戻したがるが、王家は介入しない。舞踏会で交わした誓約が効いているのだろう。
ある夜、暖炉の前でマリアンヌがぽつりと言った。
「レティシア様。どうして、わたしの幸せを願ってくれたんですか」
私は少し考え、そして正直に言った。
「……あなたが、眩しかったから」
推しだから、とは言わない。それでも本質は同じだ。
マリアンヌは嬉しそうに目を細めた。
「わたしもです。あなたが、眩しい」
私は照れ隠しに薪をくべた。火がぱちりと弾ける。
悪役令嬢として断罪される。それが私の運命だと思っていた。
でも、運命は物語の筋書きじゃない。誰かが選び直せるものだ。
推しが幸せなら、断罪されても構わない。
そう思っていた私が、最後に得た答えは――
推しが幸せで、私も幸せなら、もっといい。
暖炉の火の揺らぎの中で、私は推しの横顔を見つめる。
この世界に来て、初めて。
私は、心から笑った。
笑いながら、私は思う。もう私は、推しのためだけの影ではない。推しと並んで歩く、同じ地面の上の人間だ。そう認めた瞬間、世界は少しだけ優しくなった。




