48、儒に囚われた者
武芸大会が盛り上がっていた頃、一人の男が座敷牢の中にいた。薄汚れた服の男はまっすぐに正面を見据える。神谷助兵衛吉久、水野家の筆頭家老であったが、捕えられた男だった。傍らには史書や軍学書の類いが積み上がっていた。囚人と言いながらも、本の差し入れを受けている助兵衛にとって、この牢は不思議と居心地のいい空間であった。
「……む。外は楽しそうよの」
世捨て人のようになった助兵衛がぽつりと呟く。家臣団のほとんどは千代丸軍に編入されたが、助兵衛自身は断固として降ることをしなかった。助兵衛には意地があった。
音がした。小さな足音だった。
「おお。元気であったか。助兵衛殿」
顔を綻ばせたのは童子・織田千代丸である。隣の大男は忍びだろう。助兵衛は覚悟した。殺される、そう恐怖を感じた。
「滝川八郎とともに軍師として迎えたい。そうじゃな。二百石を与える。大高城下に屋敷も用意しよう。嫌なら今川にでも降るが良い」
千代丸の口からは信じられない言葉が飛び出してくる。助兵衛は目を丸くする。
「貴殿は敵であるそれがしに仕えよと申されるか。それがしは忠臣は新しい主君に仕えぬと思っておる。かの孔君子の如きは逆賊曹操なる強欲私心の人を痛烈に罵った故事がある。孔君子は如何にしたかご存知か」
「然り。言葉にせずとも存じている」
助兵衛はたじろいだ。目の前の童子をまじまじと見る。
「お、お……そ、そなたは曹操なる君側の奸、北条義時の如き悪逆の輩をどう思うか。賊だ。彼奴らは」
「早計で浅薄なり。曹操は力なき帝を廃し、その後も領地を与えた。帝の娘を愛し、儒を能わず。これ尋常の才に非ず。これ聖王の所業なり。凡夫、神谷助兵衛、これ知るべきなり。また、北条義時に至っては愚かなる後鳥羽上皇らを排し、国の安寧を第一に考えたり、これ人物に他あらんや。また、子孫の北条時宗、蒙古の大軍打ち払い神国日本を守り給う、時の亀山帝、時宗公を賞す。これ義時公の深謀遠慮に他ならず」
「……ぐぅ」
助兵衛は唸り声を上げる。童子の言っていることは筋が通っていた。
「曹操の善政、北条氏の善政見習う所多い。さて、助兵衛よ。己の才を生かせ。民のためにだ。国を興し、民を富ませるのだ。つまらぬ儒に囚われるな」
助兵衛はかっと目を見開いた。
「おお、おおおお! 何たる大器か! この神谷助兵衛、身を粉にしてお仕しましょうぞ! おおおおおっ!」
助兵衛は涙を流し、怪物との出会いに感動の涙を流す。牢の鍵が開く。
「嬉しいぞ、助兵衛。側にいよ」
童子はニッコリと笑ってかつての敵将に声をかけるのだった。




