13、上名和(かみなわ)の戦い①
美濃川手城。織田千代丸の調略に乗ったのは長井越中守という男であった。美濃土岐家において最大の実力者と見なされる男である。
「千代丸殿の申す通り、尾張へは兵を出さぬ」
越中守は白くなった顎髭を摩りながら、正面の男を見る。男はニヤリとした。長井新九郎、越中守の腹心で謀略を好む。
「良き御思案と思いまする。織田千代丸殿は真に才気に満ち、弾正忠殿も喜んでいると聞き及びまする。千代丸殿と誼を通じておくことこそ、土岐家にとって肝要にございましょう」
「うむ、うむ。新九郎よ。そなたは千代丸殿を買っておるのだな?」
「はっ、我らを狙う越前の朝倉を御せるのは千代丸殿をおいて他になし。千代丸殿を抑えておけば、美濃に攻め込まれることはありませぬ」
新九郎は余裕たっぷりに答える。越前の朝倉家は土岐家と対立関係にある。土岐家は当主兄弟で骨肉の争いが続けられており、兄の方が朝倉家を頼った。目下、土岐家の懸案事項は精強な兵を擁する朝倉氏当主の朝倉孝景であった。
朝倉氏の南下、それが土岐家にとって最も避けないといけない事態である。土岐家にとって三河の松平はそれに比べれば対応の優先順位は少し下がるのだ。
それを鋭く見抜いた織田千代丸の調略に土岐家は乗った。織田家と通じておくことは悪いことではないのだ。
こうして織田信秀はは松平との戦いに集中できる環境が整ったのである。
織田信秀本陣。馬廻り衆が周りを固め、信秀は床几に座っていた。
名和城から出陣してきた松平軍は布陣している。緊張感が漲り、不気味な静けさが場を支配していた。
信秀が立ち上がり、軍配を振る。佐久間、林、柴田、そして平手の諸隊が動き始める。その中でも奇妙な動きをしたのは平手五郎左衛門政秀の部隊であった。
平手軍は敵軍を前に進軍を停止したのである。平手軍には千代丸軍も加わっている。指揮するのは蜂屋兵庫頼安である。
平手五郎左衛門政秀はすぅと深呼吸をする。蜂屋兵庫は隣に馬を並べた。
「兵庫よ、敵さんは動かぬな。千代丸殿の書状のおかげよの」
兵庫は前方を見る。水野軍七千は静かに動かないでいた。
平手五郎左衛門政秀はふっと笑う。
「若、やりおるわ」
五郎左衛門が千代丸の顔を思い出す。
(水野勢はせいぜい知多半島の北を抑えたに過ぎず。南の国人衆、千代丸にない内応との雑説を流し、恐れを抱いた水野は戦では動かぬと俺と不戦を約した。五郎左衛門よ、水野勢は動かぬ。松平清康は見捨てられたのだ。功を焦った。まだまだ青いの。フハハハ!)
五郎左衛門は勝幡での千代丸を思い出し、ぶるりと身を震わせる。
(やはり恐ろしい童子よ。倅や娘ども、千代丸に逆らえば、皆斬られるであろう。まっこと恐ろしい)
笑みを浮かべながらも五郎左衛門は内心穏やかではなかった。鋭すぎる刃物は身内すらも傷つける。松平本隊が苦戦している知らせに軽く頷く。五郎左衛門は息子たちを案じる気持ちよりも天下の鬼才に仕える武将としての喜びを嚙みしめていた。




