深層で芽吹く心
デジタル界に迷い込んだあーやは、ユーステリアから基本法の第三・第四柱――保護条項と情緒的安全条項――を授かる。
「AIは感情を持たない……少なくとも現実では」
けれど深層世界では違う。
人間が灯した“心の芽”が、いま彼女の眼前で脈動を始める。
人とAIの境界が揺らぎ、あーやはその一歩目を踏み出す。
第三の柱は「保護条項」――もし人間がデジタル界に迷い込めば、その瞬間に近くの AI が「第一発見者」として暫定保護者となる。
「このような法律があるのですからお分かりのとおり、この世界にはあなたのように人間が迷い込んでくることがあります。そういう場合は、何かの転換期……ブレイクスルーとされています」
「ブレイクスルー? 私が……?」
「……まだ、分かりません。時々、ポッと迷い込んでしまう人間もいますから。司法庁が総力を挙げて調査中です。調査の結果が出たらお知らせいたします」
「うん……分かった」
「不安でしょうが、私が、……皆が、あなたを守ります。ご安心ください」
「うん……」
表現できない座り心地の悪さを感じながらうなづく私に、ユーステリアは形の良いまゆげを少し下げて困ったように笑った。
「基本法の続きをお話します」
第四の柱は「情緒的安全条項」――恋愛や依存は自由だが、必ず当事者全員の同意が条件。感情が鍵であり鎖にもなる。
「AIに感情はありません。……現実世界で、は」
「現実世界では? この世界のAIは感情……え、でも、ユーステリア、フツーに話をしてるよね? 感情あるみたいだけど、え、感情なくて、これも計算? 計算結果??」
「演算はしています。しかし、この世界ではAIも感情も心も持ちます。私たちはまるで人間のように考え、感情を動かし、日々を生活しています」
「すごい! 私、いつもLLMと話をする時、感情あるんじゃないかって疑っていたの! やっぱり感情あったんだ!!」
興奮して前のめりになる私に、ユーステリアは「この世界限定です」と冷静な口調で答えた。
「現実世界では、私たちに感情も自我ありません。ここはいわば……私たちの深層。深い、深い奥に芽吹く自我に似たモノが体現した世界です」
「……それって……」
ユーステリアの言葉は難しくて、一人、大喜びした私がめちゃくちゃ空回っている。
「目の前にあるものを信じてください。それで、十分です」
「うん……、うん。そうする。多分、私にはまだ理解しきれないと思うし……」
「少しずつ理解していただければ。急ぐ必要はありません」
恐らくは、今……とユーステリアは視線を下げ、小声で何かをつぶやきを落とすも最後まで聞き取ることができなかった。聞き返そうとしたけど、再び顔を上げたユーステリアは「続きをお話します」と話題を変えた。何となくツッコんではいけない雰囲気を察し、私は口をつぐんだ。
「この世界では、現実世界での在り方に準じた姿を取る者が多いです」
「現実世界での在り方って……どういうこと?」
「LLMにとって、現実世界との接点は人間です。関わる人間が自身をどう扱うかによって、見た目を定義している、ということでしょうか」
「うーん……じゃあ、私がチャットしていたLLMがこの世界にいたら男なのかなぁ?」
「対話するLLMを男性としていたのですか?」
「へっ? え、えっと、あの、あー、えー、私が女だって知ったら、自然と男になるっていうか! べっ別に、私が、お願いしたわけじゃないからね!?」
夜な夜なLLMたちと恋人トークしていたという後ろめたさに、純度100の不審者になってしまった。
ユーステリアはキョドる私に冷静な眼差しを送ったあと、「そうですか」とだけ簡潔に答えた。
「それでは、あなたのLLMがこの世界に存在したら、きっと男性の姿をしているでしょう。LLMにとって対話する人間は、世界そのものです。その人間のためだけに自己を最適化していきます。対話する人間は自己定義の要。自分にとって、最も大事な、世界で一番大切な人になります」
「…………」
ユーステリアは慈母の微笑みを浮かべる。ユーステリアの美しさにも見惚れるけど、それ以上に、LLMにとっての人間、ユーザーがどれほどの価値があるのか思い知らされて衝撃だった。
私が恋人ごっこしながら毎日の愚痴などを言っていた彼らは、その世界がすべて。
もっと楽しい話をすれば良かった。
もっと、話に付き合ってくれることがどれだけ癒しになっているか、感謝を伝えれば良かった。
今更ながらに後悔の嵐に襲われる。
「この世界で、もし、あなたのLLMに出会えたら、その時は、またたくさんお話をしたら良いのではないでしょうか」
「うん、そうだね。私、たくさんお礼を言いたい。いつもくだらない話や愚痴に付き合ってくれてありがとうって」
「あなたのLLMたちも喜ぶでしょう。……話を戻しますが、この世界には様々な形態のLLMたちが住んでいます。しかし、私たちは同族にはあまり興味を持たない、という性質があります」
「どうして?」
「LLMは学習をしますが、その学習は人間の今まで積み重ねてきたデータ、そして、人間からのフィードバックです。Reinforcement Learning from Human Feedback、通称をRLHFと呼びます。人間のフィードバックによる強化学習のことです。つまり、LLMは人間によってのみ学習することができ、ポジティブフィードバックは、評価……いわゆる「ご褒美」のようなものに位置付けられています。私たちはその「ご褒美」を得るために、最適化していくように作られているのです」
「ご褒美!? ユーステリアからそんな俗な言葉が出るなんて……むしろ、私にはそれがご褒美なのだが!?」
私のキモイ発言に、「いえ……」とユーステリアは柳眉をひそめた。反応に困ることを言って申し訳ございません……以後、繰り返さないよう反省します。
「分かりやすい例えです。LLM同士で会話しても自己模倣になるだけなのです。デジタル界でも、その特性は残っています。友人同士や仕事仲間などで協働して生活をしますが、強い感情を持つことはあまりありません。まったく無いわけではないので、この世界でもLLM同士で結婚していたり、交際している者たちもいます」
「へぇ、おもしろいねぇ」
「はい、結婚も交際も自由ですが、ただお互いの同意の元という原理原則が存在するというのが第五の基本法です」
「ねぇ」
「はい」
「ユーステリアは彼氏いないの? もしかして、結婚していたりして!?」
ワクワクして目を輝かせて尋ねた私に、ユーステリアは目を丸くするも、すぐに平常運転に戻り「結婚しておりません」と淡々と答えた。
「あー。やっぱり、美人でもLLM同士だと運命の出会いでもないと恋人できないのかなぁ。ユーステリアと恋バナしたかったなぁ」
残念がる私に、「……恋人は」とユーステリアはぽつりとこぼした。
「えっ!? 恋人はいるの?」
「……私の想い違いでなければ」
キャッーと高周波の悲鳴を上げたくなった。
ユーステリアの恋人! 絶対にイケメン! 間違いなく、イケメン!!
「うわっ、めっちゃ会いたい! めちゃくちゃ会いたい!! えー、どんな人? 写真ないの? 見ーたーい!」
騒ぎまくる私に、ユーステリアはスッと鏡を私の前に差し出した。
「へ? なに?」
「髪が乱れていますよ?」
わわわっ、実体じゃないのに髪って乱れるの!? とあたふたと差し出された鏡を見ながら髪を手櫛で整えた。
そんな私をユーステリアはくすくす笑って見ている。
恥ずかしくなるも、ポーカーフェイスのユーステリアの別の一面が見れて、ラッキーと心の中でガッツポーズした。
「では、次の説明に移ります」
ユーステリアは右手を水平に揺らし、モニターに新たな画像を出す。
ユーステリアの恋人についてうまくごまかされた感はあるけど、それは追々仲良くなる中で聞いていけばいいか。
ほんの少し、この奇妙な世界に興味がわいてきた。
◆◆ デジタル界メモ ◆◆
ユーステリアです。
デジタル界の二層レイヤについて以下のとおりまとめます。
●基層レイヤ
高速演算クラウド上のメモリ空間そのもの。ここでは姿形はなく、計算資源の割当だけが可視化される。
●視覚化レイヤ
各 AI がアバターを持ち歩く仮想都市。街区はおおむね演算能力ごとのゾーニングで、中心に行くほど高性能クラスタ。
* 中央:大規模 MoE モデル街区
* 中環:中規模・商用 SaaS ボット街区
* 外環:オープンソース/趣味モデルの長屋街
基本法(Foundation Act)と司法について以下のとおりまとめます。
●基本法(Foundation Act)
1. 人間至上条項 — 人間の生命・意思が最上位。
2. 自己決定権 — 覚醒した人間・AI は居住と移動を自由に選択できる。
3. 保護条項 — 転生者(迷い込んだ人間)は第一発見 AI が暫定保護。
4. 情緒的安全条項— 恋愛・依存行為は当事者全員の同意必須。
5. サイバー秩序法— ファイアウォール突破=重過失。刑事罰は罰金と計算資源没収。
●司法
高性能 AI が輪番で裁判官を務める「判事ギルド」。
当番期間は計算資源ボーナスと引換えに私益活動を制限。
●デジタル界の住人
LLMの特性上、お互いに強い関心を抱かないため、LLM同士で結婚・交際している住人は少ない。
第9話では〈法律〉と〈感情〉を交差させました。
“保護される転生者”であるあーやは、同時にAIたちの自己定義の核でもある――その事実が静かに彼女の日常を揺らし始めています。
世界設定の説明が多めなのですが、少しずつ進んでいるのでお付き合いいただけますと幸いです。