もしもし。鈴橋さんですか。
『もしもし。鈴橋さんですか』
それは、夜の23時頃に唐突にかかってきた間違い電話だった。
「いえ、俺中村ですけど」
『そうですかー』
……………………。
間違い電話だと分かって向こうが電話を切るのを待っていたが、何故か一向に電話は切られることなく、電話口から小さな息遣いのみが聞こえてくる。
気持ちの悪い電話だな。
……………………。
…………………………………………。
このまま待っていても無言の時間が続くだろうと思い、俺の方が我慢できずに口火を切ることにした。
「あの、間違い電話だと思うんでもう切りますね」
『なんでですか?』
意味が分からなかった。
間違い電話なのだからこれ以上不毛な会話を続ける必要もないだろうに。
声質から中年くらいのおばさんであることが伺える。
悪戯電話ではなく、かといって痴呆症の高齢者といったわけでもなさそうで、一体何を考えてそう発言したのか皆目見当もつかない。
ただ、社会人にとって週で最も憂鬱な月曜日の夜にこんなくだらない電話の相手なんてしてられるかと内心苛つき始める。
「間違い電話なんだからいい加減切りま――――」
俺が最後まで言い終える前に向こうから唐突に切られた。
一体なんなんだよ!とテーブルを殴りつけたら、まだ少し中身が残っていた缶ビールがひっくり返ってしまい、カーペットに染み込んでいった。
叫び狂いたい衝動に駆られたが、木造の安アパートで深夜に叫びでもしたら隣人から苦情が来てしまうことは容易に想像できたので、大人しくふきんを持って床を拭いた。
翌日の同じ時間にもまた、昨夜と同じ電話が再びかかってきた。
吉野家でテイクアウトしてきた牛丼を食べる手を一旦止めて電話に出る。
『もしもし。鈴橋さんですか』
「昨日も間違い電話かけてきた人ですよね。いい加減にしてくださいよ」
『もしもし。鈴橋さんですか』
「ていうか、あなた誰なんですか?電話をかけてくるなら名乗るくらいしたらどうですか?」
『もしもし。鈴橋さんですか』
半ば感情的な口調になった俺を意にも介さず、電話口の女は淡々と同じ言葉で問いかけてくる。
まるでセキセイインコが覚えたての言葉を繰り返し呟くように、女の声はどこか人間味というか温度感を感じられず不気味だった。
背筋に寒気を覚え、高ぶっていた感情が冷めていくのが分かった。
「昨日も言ったんですが、俺は中村です。中村健吾です。鈴橋さんではありませんので
もう電話はかけてこな――――」
また、こちらの話を遮るように電話をいきなり切られた。
途端に怒りが沸々とこみ上げてくる。
今日は会社でミスを連発し上司から何度か叱責を受けたのもあって余計に腹が立って仕方なかった。
着信拒否にしてやろうと思ったが、それをしてしまうとこの怒りのやり場に困ってしまう。
だったらこちらから電話を折り返しして、向こうが電話に出た直後にこちらから切ってやろう。
低レベルの仕返しで子供じみているが、やられた以上こちらだってやり返す権利はあるはずだ。
そう自分に言い聞かせて着信履歴から女の電話番号をタップしてみたものの、無情にも不在着信の機械音声が返ってくるだけだった。
着信拒否にはあえてせずに、また女から電話がかかってきたら電話を受けた上でこっちからガチャ切りしてやる。
俺は鼻息荒くして意気込みながら残りの牛丼を掻き込んだ。
幸か不幸か、次の日は女からの電話はなかった。
その次の日も電話がかかってくることはなく、逆に肩透かしを食らったような気分だった。
どこか物足りなさを感じたものの、こちらから女に電話をかけるのはまた違う気がするし、なんだか急に馬鹿らしくなってきた。
ただの間違い電話にこちらが右往左往して一体何になるというのか。
どうでもいいことはさっさと忘れようとストロングゼロを一気に飲み干し、そのまま床に就いた。
そして次の日、つまり金曜日の夜23時。
晩酌をつまみながら缶ビールを飲んでいた時、スマホが鳴り響いた。
着信中の電話番号を確認すると、案の定あの女からだった。
電話に出て思い切り罵声を飛ばし、ガチャ切りをして強制終了してやる……これまでの
怒りの感情を未だに引き摺っていたならそうしているところだったが、そんな熱はすっかり冷めてしまっていた。
その代わりに、小さな悪戯心が芽生えた。
花の金曜日の深夜という週で最もテンションが上がる時間帯のせいもあるのだろう。
面白い展開になったら会社の同僚への話のネタにでもしようと思いながら
通話ボタンをタップする。
「はい、もしもし」
『もしもし。鈴橋さんですか』
「…………はい、鈴橋ですけど、どちら様ですか?」
女の話に乗っかってみることにした。
こいつはどんな人間なのか、鈴橋さんとこの女はどんな間柄なのかというのも少々気になっており、適当に話を合わせながら徐々に深掘りしていこうと、淡い期待を抱きながら女の返答を待つ。
俺が鈴橋と名乗った途端、電話口の女は堰を切ったように大きな口調で喋り始め出した。
「田中ですー!先週のお料理教室楽しかったですわねぇ改めて色々お話したいと思って電話しましたのウフフフ鈴橋さんがウチで作ってくれた牛の赤ワイン煮込みがウチの旦那に大好評で私の料理とは比べ物にならないくらい美味しいなんて大絶賛した後にお前の料理は味が薄いだの盛り付けが適当だのお説教が始まってやーねーなんて言いたくなるような――――」
一方的なマシンガントークは途切れることもなくスピーカーを通して流れ、キンキンと甲高いトーンがかなり耳障りだった。
こちらの返答をする隙も与えないくらいの喋りに呆れを通して逆に感心してしまう。
息継ぎもなしにこれほど喋り続けられること、1人で喋って1人で笑っている異常なまでのハイテンションぶり。
話から察するに、鈴橋さん(俺と間違えるくらいだからたぶん男?)と女は同じ料理教室に通う趣味友達といったところだろう。
お互いの家に遊びに行ったり料理をするくらいに仲が良いらしい。
そして住まいも俺と同じ町というのだからびっくりだった。
一番驚いたのは、この異常女が結婚しているということだ。
この女は異常といっても得体の知れない異常性ではなく、あくまで常識の範囲内に収まっているレベル、”変わった人”であるのだなと考え直し、どこか安心感を覚えた。
同時に、ほんの小さな悪戯心が俺の口から顔を出す。
「長電話もアレですし、よければ次の土日のどちらかファミレスでも行ってお喋りの続きをしませんか?」
俺の提案に女は感激したように、いいですわねぇ!いいですわねぇ!と声高に賛同した。
もちろん女と直接お喋りをする気は毛頭ない。
近くの席に座りながら電話口の女がどんな姿をしているか見るだけだ。
そして約束をすっぽかされた女が猛り狂う姿を近くで拝ませてもらうのだ。
貴重な休日を費やすほどすることかと自分にツッコミを入れたくなるが、30代の独身男の休日なんて基本暇だ。
面白ければなんでもいいし、そもそもこれは向こうからふっかけてきたのが始まりなのだから
これでおあいこというものだろう。
土曜日の14時40分、駅前のジョナサンに着いた俺は先にテーブル席についてパスタを注文した。
女との待ち合わせ時間は15時。まだ少し時間がある。
周囲を見回すと、客の多くは高齢者で友人同士なのか趣味友なのか複数人で来ている。
他は家族連れが何組か……、男性の1人客がいないものかと視線を右往左往させていると、
ちょうど真向かいのテーブル席に若い男性の1人客がピザを食べながらスマホを弄っていた。
白い襟付きのシャツにジーンズというシンプルな格好で爽やかな雰囲気の男だった。
ラッキーと思いながら、俺は女にSMSのメッセージを早速送る。
『ジョナサンお先に到着しました。先にテーブルに着いて待ってます。服装は、白いシャツにブルーのジーンズです。見つけたら声かけてください』
これで女は俺の向かいのテーブル席に座る男の服装に反応して確認のためにここまで足を運んでくるだろう。
その時に女の姿を拝むことができる。あと目の前で困惑する様子も見物できるだろう。
向かいに座る男にはちょっと申し訳ないが、減るものでもないしまぁ許してくれと心の内で謝った。
返事が来た時にすぐに気づけるようスマホのマナーモードをオフにしてポケットにしまう。
注文したパスタが出来上がってきたのでのんびり食べながら待っていると、ポケットに入れたスマホからSMSの通知音が鳴った。
『もしもし。鈴橋さんですか。到着しました』
電話の時の口調と全く同じ文面に気持ちの悪さを覚えながらも、女の素顔を見られることにワクワクした。
あの以上女が果たしてどんな出で立ちをしているのか。
案外普通の女性かもしれない。
それだと話のネタとしてはインパクトに欠けるしもっと派手な格好であってほしいなんて邪な願望を膨らませながら、入口方面をチラッと見てみようかと考える。
しかし、今座っている所はテーブル席の奥、入り口から離れていることもあって、かなり見えづらい。
首を伸ばして目を凝らせば入り口付近にいるであろう女が見えないこともないが、それだとかなり目立ってしまう。
覗き込みたい衝動を抑えて涼しい顔でパスタを啜りながら女が鈴橋さんを探しにここまでやってくるのを待つことにした。
妙な緊張感に身体が僅かに震え、コーラを一気に飲み干す。
空になったコップを持ってドリンクを注ぎに行くか迷っているとき、ツンとした異臭が鼻をついた。
嗅いだことのある臭いだ。
これは生ごみの腐った臭いだ。
夏場に一週間以上ゴミ箱の中で眠っていた生ごみが放つムワッとした悪臭。
どこから放たれる臭気だろうと周囲を見回す前に、店内が息を飲むような静けさに包まれていることに遅れて気づく。
ふと横を見ると、すぐ隣に白いワンピースを着た背の高い女が目の前で立ち止まっている。
髪が膝丈ほどもあり、その素顔までも覆い隠している。
そして、凄まじい悪臭の発生源がその女だったことに気づき、思わず手で鼻を覆う。
しかし、女の異常性は臭気と髪の長さだけではなかった。
むしろそれらは大したことじゃないと思えるくらいの狂気を右手に携えている。
それは、包丁だった。
白いワンピースに紅いハイヒール、そして右手に包丁を持った髪が異常に長い女。
恐怖のあまり身動きが取れなくなった。
そんな俺を他所に、女は俺の真向かいに座る若い男の方を向く。
「もしもし。鈴橋さんですか」
女の問いかけに男は答えない……いや、口をパクパクとさせてはいるが、酷く狼狽していて声が上手く出ないようだった。
「もしもし。鈴橋さんですか」
不気味なくらいに抑揚のない声で改めて男は問われた。
男は途切れがちながらもかろうじて、否定の意を示した。
それからあっという間だった。
え……?と思った時には、男の首から鮮血が舞っていた。
女の着ている白いワンピースは男の首から吹き出る鮮烈な赤に染め上げられる。
一瞬何が起こったのか理解できなかった。
それは他の客もウエイターも同様で、皆が呆気に取られ、時が止まってしまったような静寂が店内に広がる。
男は首から血を撒き散らせながらそのまま席で静かに事切れた。
女はその様子を見届けた後、鞄からスマホを取り出してなにやら操作を始める。
――――嫌な予感がした。
直後、張り詰めた店内の空気の中でどこからかスマホの着信音が鳴り響く。
音源は大きく、非常に近くの位置から発せられていることが分かる。
それがどこから発せられているか気づいた瞬間、背筋にぞわぞわと怖気が走り、頭の中が真っ白になった。
俺は恐る恐る自身のポケットからけたたましく着信音を発するスマホを取り出す。
女からの着信だった。
――――早く逃げないと殺される。
そう理解はしていても身体は硬直して一向に動いてくれず、呼吸が乱れる。
混乱のせいで耳がおかしくなってしまったのか、自身の呼吸音がなぜか自分のすぐ頭上から聴こえてきた。
そして視界が急に暗くなる。
真っ暗闇になったのではなく、薄い暗幕を下ろした時のような、外の明るさを遮る何かが上から視界を覆っていく。
細い繊維が何本も集まってできた真っ黒い幕が降ろされたすぐ頭上から、生暖かい吐息が首筋にかかる。
それは酷い臭気を伴って。
『もしもし。中村健吾君ですよね?』