5.来客
朝起きても身体は変わりなかった。猫耳と尻尾もそのまま。
元に戻っていないのは残念だけど、
これ以上小さくなったり猫に戻ったりしなかったことにほっとする。
朝食の前にマリーナさんから新しい服を渡される。
夜中に縫ってくれたようだ。
手伝ってもらって着替えると、サイズはぴったりだった。
「わぁ」
「可愛らしいですわ。よくお似合いです」
「ありがとう!」
私の猫耳を隠すように、上着にはフードがつけられていて、
尻尾を隠すためにマントのようになっている。
この暑い時期でも大丈夫なように、
ひんやりと冷たい雪蜘蛛の糸で編まれている布のようだ。
これって、高級品なんじゃ。
だけど、貴族から贈られたものに値段を聞くのは失礼になる。
ありがたく受け取るしかない。
「ジルベール様、ありがとうございます!」
「ああ、王都に帰るまで、何度か宿に泊まるからな。
その恰好なら大丈夫だろう」
なるほど。フードをかぶっていれば、ただの幼女に見えるはず。
問題は、なぜジルベール様が幼女を抱き上げているか……。
隠し子疑惑とかでないでくれればいいけれど。
あ、フードから黒髪が出ていたら驚かれるかも。
宿の人に嫌がられたら困るよね。
「マリーナさん、すみません。お願いがあるんです。
私の髪を編んでまとめてもらえますか?」
「髪を編むのはいいですけど、どうしてですか?」
「フードから出てしまったら、宿の人が嫌がるかもしれないので」
「あぁ、なるほど。ここの使用人は黒髪を見ても気になりませんが、
宿の人はそうかもしれませんね。わかりました。
余計な騒ぎになるのはお嫌ですよね」
にっこり笑ったマリーナさんは、
私を鏡台の前まで連れて行って座らせてくれる。
鏡の中にはやっぱり三歳くらいの黒髪の女の子がいる。
あれ?なんだろう。見間違いでなければ。
「マリーナさん、あの……私の目は何色に見えます?」
「目の色ですか?青に見えますよ?」
「ですよね……もともとは黒のはずなんですけど」
「え?」
ジルベール様にそれを言うと、姿が変わっているのだから、
目の色が変わっていてもおかしくないそうだ。
元に戻れば、目の色も戻るだろうと言われ納得する。
でも、これなら髪さえ気にしていれば、
少しくらい顔が見えても大丈夫そう。
今日の昼前には別荘を出ると言っていたが、
ジルベール様自身は何もすることがないようで、
朝食を食べた後はのんびりと魔術書を読んでいた。
私にも好きな本を読んでいいと渡されたけれど、魔術書しかない。
どうしよう。魔術に関する本は読んではいけないとお義母様に言われている。
「どうした?魔術の本は嫌いか?
この別荘には本を置いてなかったから、俺が持ち込んだ本しかないんだ」
「いえ……あの、魔術に関する本を読んだことがなくて」
「は?」
あまりにも驚いたのか、ジルベール様の口が開けっ放しになる。
こんな顔をしていても美しいのだから、ちょっとずるいと思ってしまう。
「読んだことがない……のか。そうか」
「はい」
もしかして、魔術の本を読んだことがないって、ものすごく恥ずかしいこと?
平民でも読むのが当たり前だったりするのかもしれない。どうしよう。
「そうか……それなら、この本は難しいかもしれないな。
王都に戻ったら、子ども向けの本から読むといい」
「おかしい、ですか?」
「ん?」
「この歳まで魔術の本を読んでいないって」
「まぁ、めずらしいが、これから読めばいいだろう」
「これから?」
「ああ。これからはいつでも読めるんだ。
遅れてるのは気にせずに読めばいい。
そのうち追い越せるだろう」
「……はい」
気にしなくていいんだ。
これからいつでも読めるって、解呪には時間がかかるのかも。
長い間お世話になることになるのかな。
すぐに追い出されることはなさそうで、ほっとする。
お世話になったのは昨日からなのに、ここはとても落ち着く。
ジルベール様の顔は美しすぎてまだ見慣れないけれど、
ここにいていいと言われている気がする。
本が読めないのなら、他に何をしていればいいか考え始めた時、
門の方から女性が騒いでいるのが聞こえた。
「……うるさいのが来たようだな」
「お客様ですか?」
「違う。だが、少し相手をしてくる。
……近くまでは連れていくが、顔は出すなよ?」
「わかりました」
やはりジルベール様と離れると危ないのか、
門まで行って応対するにも、私を連れて行かなくてはいけないらしい。
ひょいと抱えられて、玄関まで行くと私を降ろす。
「玄関の中で待っていろ。すぐに戻る」
「はい」
いったい誰が来たんだろう。
玄関の横にある窓から見えないようにのぞくと、
護衛の二人がいるのが見えた。
護衛の二人と料理人と御者は今朝マリーナさんが紹介してくれた。
この別荘では人が足りないから、門番も兼ねているらしい。
紺色の髪のルイさんとルナさん。身体の大きさは違うけれど、顔はそっくりな双子。
マリーナさんとルイさんとルナさんは貴族出身らしいけれど、
料理人のトムと御者のベンは平民だと言っていた。
侯爵家なのにめずらしいと思ったら、
ジルベール様が気に入らない人をそばに置くのを嫌がるからだと教えてくれた。
ジルベール様が門に近づくと、ルイさんとルナさんが説明している。
門が開けられると、一人の令嬢が中に入ってきた。
日傘をさしているから、顔は見えない。
ドレスを着ているから令嬢だというのはわかるけれど。
令嬢だけ入ってきたというのは、馬車は中に入れないということ。
用件だけ聞いて、すぐに帰らせるつもりなんだろう。
声…聞こえるかな。
窓を少しだけ開けたら、話しているのが聞こえた。
「どうして私ではダメなのです?」
「身分といい、血筋といい、ダメな理由しかないな。
お前を選ぶくらいなら、他にもっといい令嬢がいくらでもいる」
「そんな……私は魔力だって」
「魔力……中級二の位だったか。
魔術師にはなれるかもしれないが、それだけだな。
俺の婚約者として選ぶ理由にはならない」
「お願いです。私を選んでください!」
「断る……帰れ」
「婚約してくださるまで帰りません!」
どうやらジルベール様と婚約したい令嬢が押しかけて来たようだ。
そういえば、ジルベール様が独身かどうかも聞いてなかった。
侯爵家当主で二十七歳なのに、婚約者もいないんだ。
「いいかげんにしろ。帰らないのであれば、伯爵を呼びつける。
娘を引き取れと。そうなったら、お前もただでは済まないぞ」
「……そんな」
「今なら、聞かなかったことにしてやる。
さっさと帰れ」
「あきらめません……ですが、今日は帰ります」
ずいぶんと強気な令嬢……くるりと後ろを向いた時、
日傘から赤い髪がはみ出たのが見えた。
赤い髪?伯爵家?
……嫌な予感がする。
あれはもしかして、ドリアーヌ?
令嬢はそのまま門から出て行った。
ルイさんとルナさんが門を閉めている。
ジルベール様が疲れた顔で玄関に戻ってくるのが見え、
慌てて窓を閉めて元の場所に戻る。
「待ったか」
「いえ……何か、ありましたか?」
「令嬢が押しかけて来た。
俺はこの歳まで婚約もしないでいるから、
婚約してほしいと貴族が押しかけてくるのはよくある。
さすがに令嬢が一人で来たのは初めてだ」
「はぁ……」
ドリアーヌだったら、ありえる。
お父様は気が弱いけれど、非常識ではない。
むしろ、世間体を気にしすぎる。
ドリアーヌだけを寄越して婚約を迫るような真似はさせないだろう。
だけど、お義母様とドリアーヌなら、やりかねない。
あれが本当にドリアーヌだったとしたら、
ジルベール様のお手を煩わせてしまってもうしわけない。
あんな異母妹でも、一応は血のつながった妹なのだし。
「ここにいると余計なものが来そうだ。
準備ができたら、すぐに出よう。マリーナ、準備を急いでくれ」
「準備はもうできております。いつでも出られます」
「よし、じゃあ、行くか」
もう準備はできていたらしい。
また小脇に抱えられて、別荘の外に出る。
御者のベンが馬車の前で待っていた。
ジルベール様と私とマリーナさんは馬車に乗り、
ルイさんとルナさんは馬に乗ってついてくるようだ。
「よし、出発」
「はい!」
軽やかに馬車は走り出した。さすが侯爵家の馬車。
すごく乗り心地がいい……のはさておき、
ジルベール様のひざの上に乗せられてしまった。
小さすぎて馬車の揺れに耐えられないだろうと言われたら、
確かにそうだとしか思えない。
まともに歩くことすらできないのだから、
ちょっとの揺れでも飛んで行ってしまいそうだ。
「シャル様、何かあれば言ってくださいね」
「マリーナさん、ありがとう」
「本当に異変があればすぐに知らせろ」
「はい」
すぐに知らせろと言うけれど、これだけそばにいたら、
ジルベール様は私よりも先に異変に気がついてくれそうだ。
それから二、三時間ごとに休憩を取りつつ、馬車は王都を目指す。
夕方になって、最初の宿に着いた。