第三章 高柳瑠理の場合2
「というわけで、申し訳ありませんが、私どもはあなたから七百万円を回収させていただかなければなりません」
体が震えた。必死の思いで、声にならない声を喉の奥から絞り出す。
「あの、奈緒は今、どこに?」
「わかりません。私どもとしては、お金さえ戻ってくれば、彼女がどこに行こうが関係ないんですよ」
田代は愉快そうに目を細めながら、二口吸っただけの煙草を、テーブルに置かれたガラスのコップで揉み消した。
後に知った事実だが、丸兼興産は違法な金融会社、いわゆる闇金だった。法外な金利で利用者に金を貸し付け、莫大な利益を上げていたらしい。
そんな丸兼興産の社員の正体は反社会勢力、いわゆるヤクザであり、その実働部隊を動かしていたのが、あの日、テーブルの上のコップで煙草を揉み消した田代。清水の兄貴分にあたる人物だった。
今にして思えば、その道に明るい別の弁護士に相談するなどすればよかったのだろう。だが、もともと法律的な知識に疎かった事実に加え、突然のできごとを前にして冷静になることを忘れた私は、彼らの要求に黙って従うことしかできなかった。
とはいえ、返済する金額は二十代前半の若者にとってはあまりにも高額であるうえ、もし返済が遅れれば、一日当たり数万円の延滞金が発生する。今まで通りの生活を続けていて、とても返済できる金額ではなかった。
私は、大学の授業を減らし、アルバイトの時間を大幅に増やした。
最初は、現金を持った奈緒がいつか戻ってきて借金を返済するものと信じていた。しかし、スマートフォンがまったく繋がらず、何の連絡もないまま半月が過ぎた頃、信じることをやめた。
返済する金額が大きいだけに、田代の手下たちによる取り立ての厳しさは、想像を超えるものだった。
返済が一日でも遅れると、数人で私たちのアパートに押しかけ、脅迫まがいの言葉を吐きながらドアを叩き続けた。近所の住民によって、警察に通報されたこともあった。
返済をはじめて一ヶ月が経過した頃、高額な支払いノルマを何とかこなすため、私は両親に内緒で大学を中退した。生活に困窮している両親のことを思うと、事実を告げたり、借金の肩代わりを頼んだりすることなどできなかった。
その後も、借金返済のためだけに毎日を生きるという、地獄のような生活が続いた。そんな暮らしに疲れ果て、自殺という言葉が頭をかすめたこともあった。
為す術を失って途方に暮れているとき、田代から声をかけられた。
「風俗関連の仕事をやってみないか? もしその気があるなら、いい店を紹介することもできるぞ」
田代の言うには、風俗嬢になれば、真っ当なアルバイトとは比べ物にならないほどの収入が見込めるという。
健全な精神状態だったなら、明らかに怪しげだと判断できる口調だった。だが、疲れ切っていた私には、田代の言葉は慈愛に満ちた救いの一言に聞こえた。
借金を完済する展望を失っていた私は、自暴自棄になっていたこともあり、自ら風俗嬢になる道を選んだ。
より具体的に言うと、ソープランドで働くソープ嬢だ。
形だけの面接が終わると、その日のうちに採用が決まり、店長たちによる“研修”がおこなわれた。“研修”とは、実際に性交渉をおこないながら、ソープ嬢としての作法やノウハウを身につける行為だ。まだ男を知らなかった私は、その研修で初めて男を知った。相手はもちろん、店長だった。
一回り以上も年の離れた、愛情の欠片も感じない小太りの中年男を相手に、私は処女を失ったのだ。
男の性器が私の中心を貫く瞬間の、痛みを伴う生々しい感触。
フラッシュバックのように繰り返し蘇る感触と、親に対する申し訳なさで、その夜はベッドの上で人知れず泣いた。
ただ、悲しみは一日で終わった。
今にして思えば、もはや逃げることができないという諦念によって、自分本来の感情が無意識のうちに抑圧されてしまったのだろう。
そのときの私は、こう思った。
――体を商売道具にすることなど、きっとたやすい。
目に見えない焼きごてで胸の奥に刻まれた、自己嫌悪という小さな刻印に気がつかないふりをしながら、私はソープ嬢としての一歩を踏み出した。
ソープ嬢の仕事は、慣れるまでは嫌悪感しかなかった。だが慣れるにつれて、苦痛は少しずつ、しかし確実に減っていった。
専用のローションを使って十分に湿らせた秘部に男性器を挿入させ、適度な物理的刺激を与えて射精させてやればいいのだ。愛情も、自分自身の快感も必要はなかった。心を無にして射精の瞬間を待っているだけ。造作もない話だった。
より早く射精させるための、ちょっとした秘訣も身につけた。
どこの誰ともわからない客と体を一つにするストレスがまったくないとはいえなかったし、借金の返済という名目で、収入のかなりの部分を搾取される点など、納得がいかない点もあった。
とはいえ、実働時間がそれほど長くないことに加えて、収入も悪くはない。気がつくと、ソープ嬢という仕事に、やりがいに近い感情さえ感じている自分がいた。
つくづく、流されやすい性格だと思う。
ソープ嬢が、自分にとってごく当たり前の職業になった頃、清水と出会った。




