第三章 高柳瑠理の場合1
「なあ、瑠理」
私の隣で胡坐をかいている清水が、私の名を呼んだ。
私は、清水に顔を向ける。清水の視線は、私にではなく、正面の壁に向いている。その姿勢のまま、清水は呟くように話しはじめる。
「お前が俺の女になって、かれこれ三年だ。三年間、いろいろとお前の我儘を聞いてやったよな」
清水は、懐かしそうに語った。いや、懐かしそうな表情を装っているだけだ。
長年、つき合ってきた私にはわかる。今、清水の目の奥には、打算と欺瞞に満ちた悍ましい光が宿っている。
*
今から四年前、私は東京にある女子大学に通う大学生だった。
もともとは関西の出身で、実家に住む父親は元運送会社の運転手だった。だが、数年前に体を壊して仕事ができなくなり、母親がスーパーのレジ打ちのパートで家計を支えていた。
決して裕福とは言えない生活だったため、両親には地元の大学への進学を懇願された。しかし、東京という大都会への夢を捨てきれなかった私は、大学の授業料や生活費をすべて自分で賄うという条件付きで東京の大学に進学し、夢の東京生活を手に入れた。
家庭の事情から、多くの友人たちが楽しむような贅沢な暮らしはできなかったが、念願の大学でのキャンパスライフは、それなりに充実していた。
それは、私がいつものようにアルバイトに出かけようとしていた、ある春の日のことだった。
ユニットバスの片隅にある鏡の前で髪の毛をブラッシングしていると、突然、玄関のチャイムが鳴った。
髪の毛がなかなか纏まらない苛立ちと、アルバイトの出勤時間が迫っている焦りに溜め息を吐きながら、私はブラシを置いて玄関に向かった。
ドアを開けると、三人の見知らぬ男が立っていた。
――誰?
私は、真ん中に立っている男性を見上げる。派手なスーツにサングラス。一八〇センチはあろうかという高い身長と、サングラス越しに覗く、威圧感に溢れる視線。
一方、その男性の左に立っているのは、グレーのスーツを着込んだ中肉中背の中年男性。右端には、スーツの下に着ているシャツのボタンを二つ外したキツネ目の若者が控えていた。
詳しい身分は知る由もなかったが、明らかに、その筋の人間たちとしか思えなかった。
「高柳さんですね?」
警戒する私の返事を待つこともなく、彼らはドアの隙間から体を室内に滑り込ませた。キツネ目の若者が、後ろ手にドアを閉めた。バタンという音とともに、私の部屋が密室になった。
アパートの狭い玄関に立つ三人の男性の圧迫感に戸惑っていると、サングラスの男性がスーツの内ポケットから一枚の小さな紙を取り出し、私の目の前に差し出した。
「私は、こういうものです」
名刺だった。「丸兼興産 営業部長 田代剛志」と書かれていた。
私が受け取った名刺に目を落としている間にも、田代は感情が感じられない事務的な口調で続ける。
「ちょっと込み入ったお話なので、中に入らせていただいてもよろしいですか?」
返事を聞くまでもなく、田代は靴を脱ぎ、私の前を横切って狭い廊下を進む。奥の部屋に入ると、白いローテーブルの前に胡坐をかいた。
田代の手招きに誘われて、私は仕方なく彼の対面に座った。それに倣い、今まで立っていた両隣の二人も、狭い床に腰を下ろす。
二人の着席を確かめた田代が、私の顔を覗き込んだ。
「橋本奈緒さんをご存じですね」
奈緒は、大学一年生のときに知り合った友人だ。たまたま同じ講義に出ていたのだが、実家が比較的近いということがわかり、仲よくなった。服装は私よりもちょっと派手めだが、性格は真っ直ぐな、どこにでもいる女子大生だった。
「あの、奈緒が何か?」
上目遣いで恐る恐る尋ねると、田代は困ったように眉間に皺を寄せた。
「実は、橋本さんが我が社からお金を借りたまま、連絡が取れなくなってしまいましてね」
上体を乗り出し、まるで心の中を覗き込むかのように顔を近づけてくる田代に、私は反射的に身構えた。
「高柳さん。あなたは確か……、橋本さんの連帯保証人でしたよね?」
その言葉に、私の脳裏に大きな衝撃が走り、忘れかけていた半年ほど前の記憶が鮮明に蘇った。
私の前で俯いたまま、ゆっくりと言葉を繋ぐ奈緒の、悲しそうな表情だった。
「実は、弟が交通事故で子供に怪我をさせて、急に治療費が必要になっちゃって……」
そこで一旦、言葉を止めると、奈緒は意を決したように口を開いた。
「急なことで、百万円ほどのお金を借りなきゃならないから、申し訳ないけど瑠理に保証人になってほしいの」
もちろん、最初は躊躇した。借金の契約に関して大した知識はもっていないが、それでも気軽に保証人になるべきではないことは、何となく理解していた。
しかし、何度も頭を下げられた私は、絶対に迷惑はかけないという一言を信じて、最後は奈緒が取り出した書類にサインをしてしまった。
私は動揺を隠すのも忘れて、目の前の田代に尋ねる。
「弟さんの交通事故の……、治療費の件ですか?」
田代は、鼻で笑った。
「交通事故なんかじゃありませんよ。あなたがどのようにお聞きになっていたかは知りませんがね。わかりやすく言うと、ホストクラブの飲食代です」
耳を疑った。
「ご存じとは思いますが、ホストクラブとは、おもに女性客がイケメン男性に接待してもらって、対価を支払う風俗営業店です。使い方によっては、一晩で数十万円、数百万円が簡単に飛んでいく。橋本さんは分不相応にも、そのホストクラブにハマってしまっていたみたいでね」
最初は何かの間違いではないかと思いながら、田代の話を聞いていた。しかし、すこぶる具体的な彼の説明に、やがて私は彼の話が事実であることを理解した。
――私が親切心から保証人になったお金が、そんなことに使われていたなんて。
衝撃の真実に、眩暈がした。
「で、我が社から少なからぬお金を借りておいて、返済ができなくなったために姿をくらましたというわけなんですよ」
田代はスーツの内ポケットから煙草を取り出すと、おもむろに口に咥えた。それを見た若者が、すかさずライターで火をつける。田代が気持ちよさそうにふうっと煙を吐き出すと、むせそうなほどの強烈な臭いとともに、茶色い煙が玄関の中に広がった。
言葉を失っていると、田代は隣の中年男性を手で指し示した。
「ご紹介が遅れましたが、この方は弁護士の平郡さんです」
紹介された平郡という男は、軽く頭を下げた後、大事そうに抱えていたビジネスバッグからA四サイズの紙を取り出した。田代は、それを受け取ると、私の目の前に置いた。
書類の上の部分に、横書きのやや大きめの文字で「借用証書」と書かれていた。金額の欄には、「金七百万円也」と書かれている。下部の「連帯保証人」の欄には、まぎれもない私の署名と「高柳」と彫られた赤い印鑑の跡が見えた。半年前、迂闊にもサインをしてしまった書類そのものだった。