第十一章 此の世に生まれし者は1
切迫早産である舞香が、施設内のどこにいるのかなど、僕にわかりはしなかった。
あるいは、教団の息がかかった施設外の病院に、運ばれたのかもしれない。
だが、舞香がどこにいようとも、何としても見つけ出さなければならない。
――一刻も早く、舞香のそばに行かなければ。舞香を助けなければ。
僕は覚悟を決めると、全身のエネルギーを両足の筋肉に集中させ、前を歩く男に向かって突進する。そのまま、あらん限りの力を込めて、後ろから体当たりした。
そうしないではいられなかった。
体当たりした後は、そのままの勢いで廊下を走って、この場から逃げ出せばいい。そう考えていた。
ところが、男の屈強な体は、僕のタックルにびくともしなかった。僕は振り返った男に、いとも簡単にねじ伏せられてしまった。
上半身が、容赦なく硬い床に押しつけられる。
床の冷たさが、頬を通じて僕の心に染み込んできた。
「無駄なことは、おやめください。彼女はあなたと赤ちゃんを助け、自分は“処分”されることを選んだのです。自らの意志で“処分”を選んだ彼女の覚悟を、あなたは尊重なさるべきです」
「自らの意志で死を選んだ」という言葉が、鋭い刃物のように、僕の心を深く貫いた。
僕は微かな可能性に賭けて、もがき暴れたが、もちろん体が自由になるはずもなかった。
顔を男に押さえつけられたまま、為す術を失った僕は、号泣した。大粒の涙が、頬を伝って床に染みをつくった。
後悔の念が嵐のように荒れ狂い、僕の脳の奥を激しく揺さぶった。
涙の裏に、舞香の姿が浮かんだ。
舞香は、笑顔で赤ちゃんを抱いていた。笑顔は、不安定に形を変える水滴の中でゆらゆらとはかなげに揺れていた。
僕は、舞香の笑顔の向こうに、小さな記憶の欠片を見つけ出した。
舞香は部屋を逃げ出す直前、「いつも、こうなんだよね。私、無茶をしてばっかり」と、確かに言った。
だが、舞香自身の認識は間違っていた。今なら、そう断言できる。
あのとき、舞香は決して無茶をしたのではない。
大切な人を守ろうとしただけなのだ。
大切な人とは……。
親友である沙耶、そして家族。
家族とは、もちろん赤ちゃんと僕だ。
――大切な親友と家族に、無事でいてもらいたい。
それだけが、舞香のただ一つの願いだった。
僕は思う。
――舞香はきっと、大切な人たちを守る、そのために生まれてきた存在だったのだ。
残念ながら、沙耶を救い出すことはできなかったが。
――ならば、僕はどうすればいい?
今度は僕が守る番だ。舞香に守られた赤ちゃんを、舞香や僕と血が繋がった幼い家族を。
――此の世に生まれし者は……。
乾いた唇を懸命に動かし、僕は何度も何度も呪文のように呟く。
――此の世に生まれし者は……。舞香と僕の新しい家族。
――此の世に生まれし者は……。舞香の生まれ変わり。
僕は、今にも深い闇に飲まれてしまいそうな意識を必死に繋ぎ止めながら、かすれた声で男に聞いた。
「僕は、赤ちゃんの父親だ。せめて赤ちゃんに、赤ちゃんに会うことはできないか?」
引き取って、シングルファーザーとして育ててもいい。そこまで考えた。
「彼女は未婚でしたから、教団内部では、生まれた子はあくまでも父親のいない子として扱われます。彼女の子は、恐らく信者である誰かの子供という扱いになるでしょう。よって、教祖様があなたと子供の面会をお許しになることはありません」
そんなことは許せなかった。
「だめだ! 僕が……、何とかして父親になりたいんだ!」
声にならない声だった。
と、男の腕から、僅かに力が抜けた。
上体が自由になった僕は、咳き込みながら体を起こし、男を凝視する。
男が満面に優しさをたたえた笑顔で、僕の心に囁きかけた。
「これは私の領分を超える行為ですので、独り言と思ってお聞きください」
僕は今一度、男の姿を見上げる。
「教団信者になれば、あるいは……」
数秒の静寂があった。
「あなたは、すでに人間を一人、殺しています。外の世界に出ても遅かれ早かれ、警察に捕まることになるでしょう」
瞬間、心臓が鋭い音を立てて、急速に収縮した。
確かに僕は、人間を一人、殺してしまった。
舞香を連れて逃げる途中、追っ手の信者と揉み合いになり、彼を殺してしまった。
正確には、突き飛ばしただけのつもりだった。しかし、運が悪いことに、彼は足を踏み外して、階段の下に頭から落下したのだ。
不可抗力だったとはいえ、この結果によって、僕が殺人者になった事実に変わりはなかった。
――お前たちだって、何の罪もない人たちを、何十人も殺しているだろう。
そう言い返したかった。
しかし、言い返したところで、僕が一人の人間を殺したという事実が消えるわけではない。教団が今まで、どのような悪事を働いてきたかという問題とは別の次元で、僕は人を殺してしまったという事実を一生、背負い続けなければならないことに変わりはないのだ。
しかも、男の発言には、仮に僕が教団の罪を警察に訴え出ても、権力と教団の強固な関係によって揉み消すことができるという自信が感じられた。
結局、僕は沈黙せざるを得なかった。
僕の落胆ぶりを見た男は、優しさの中に狡猾さを併せもった笑みをこぼす。
「それならばいっそ、信者になったほうがよろしいのではないですか?」
瞬間、今まで脳の奥にそっとしまわれていた数々の記憶が、まるでコップの縁を越えた水のように次々と溢れはじめた。
僕の隣で、甘い吐息とともに「じゃあ来年、結婚しよっか」と呟いた舞香。
強い覚悟を秘めた表情で「その教団の施設に行ってみようと思うの」と自分の意志を示した舞香。
部屋から出る直前に「有り難う。彰はいつも、優しいね」と優しく微笑みかけてくれた舞香……。
僕は目を瞑ると、小さく深呼吸をした。




