第十章 網島舞香の場合2
陸橋の上で出会った十数分後、二人は公園のベンチに並んで腰かけていた。先ほどまでオレンジ色に染められていた町には、すっかり夜の帳が下りていた。
舞香の手には、冷たい缶コーヒーが握られている。男の子が、公園の入口にあった自動販売機で買ってくれたものだった。
隣に座った男の子は、ブランコの方向を眺めながら口を開いた。
「ちょうど、両親の結婚記念日のプレゼントを買いに行く途中だったんだ。陸橋の下から君の姿を見たときは、本当にびっくりしたよ。間に合わないかとも思ったけど、間に合ってよかった」
昼間には子どもたちで騒がしかった公園も、すっかり静かになっていた。ときどき、セミが思い出したように発する、戸惑いがちの小さな鳴き声が聞こえるだけだった。
「余計なお世話かもしれないけど……。どうして死にたいなんて思ったの?」
正直なところ、話していいものかどうか、逡巡した。赤の他人に話すような内容ではない気がしたからだ。
そんな舞香の躊躇を見通しているように、男の子は缶コーヒーを一口飲むと、静かに息を吐いた。
「赤の他人だから、話しやすいってこともあると思う」
舞香の心から、何か硬い殻のようなものがはがれ落ちた気がした。
「……私、学校でいじめられてるんだ」
躊躇いがちに言葉を発しながら、恐る恐る男の子の顔を見る。引かれているかと思ったが、表情に変化は見られなかった。
カチリと小さな音を立てて、心のたがが外れた。気がつくと、舞香は自分の身の上を語りはじめていた。
両親が幼いときに亡くなり、児童養護施設で育ったこと。
学校でいじめられていること。
いじめは、養護施設の職員には内緒にしてきたこと。
そして……。
耐えられなくなって、陸橋から飛び降りようとしてしまったこと……。
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
舞香の話を黙って聞いていた男の子は、舞香が話し終えたのを確認すると、ポツリと呟いた。
「そっか。君はずっと、独りぼっちだったんだね」
しまったと思った。
喋った後で、自分の恥ずかしい部分をさらけ出してしまった後悔と自己嫌悪が、心の中で急速に膨張した。
返事に窮した舞香は、俯いたまま、黙って缶コーヒーの周囲についた水滴の数を数える。
公園内には、薄暗い街灯が一つだけ設置されていた。その街灯が弱々しく投げかけている光の中に、男の子の言葉が小さく響いた。
「僕と同じだ」
舞香は、思わず顔を上げ、男の子に顔を向ける。男の子は舞香を見返すと、寂しそうに笑った。
「実は、僕も両親がいないんだ」
「え? でもさっき、お父さんとお母さんの結婚記念日のプレゼントを買いにって……」
「僕の両親は、育ての親なんだ。本当の両親は、物心がつく前に、交通事故で亡くなった」
男の子は、宙を仰ぐ。舞香の視線が届かない、遠い世界を見ているかのようだった。
「僕は、今の両親を実の親だと、ずっと信じてきた。でも、いつまでも隠し通すことは難しいって考えたんだろうね。僕が中学一年生になったとき、つまり一昨年の誕生日に、本当のことを話してくれたよ」
舞香は、物心ついたときから、ずっと独りぼっちだった。だから、家族がいる自分を想像することすらできない。
しかし今、目の前にいるこの男の子は、ある日突然、今まで自分を育ててくれた両親が、実は血の繋がった家族ではないということを知らされたのだ。思いもかけずに知ってしまった真実は相当なストレスになっただろうし、きっと喪失感も計り知れなかっただろう。
「ショックだった?」
「うん。でも、薄々気づいていた。二歳よりも前の写真が、家に全然ないんだから。そのことについて聞いても、両親ははぐらかすばかりだった。だから、ひょっとしたらって、ずっと思ってた」
公園の外を走る自動車の排気音が、公園内の木々に反響した。再び静かになるのを待って、男の子は続ける。
「とはいっても、真実を聞かされたときは、さすがに悩んだよ。孤独感に押し潰されそうになって、家出を考えたこともあった」
舞香は、同情を込めた視線を男の子に顔を向けた。だが、舞香の想像に反して、男の子の瞳には強い意志が宿っていた。
「でも、悩んだ末に、こう思うことにしたんだ。血は繋がっていないけど、今の両親は、ちゃんと僕の家族だ。独りぼっちだと思うのは、我儘に過ぎない。それに……」
「それに……?」
「いつか、僕の前に『この人と家族になりたい』と思わせてくれる人が現れたら、僕はきっと、その人と家族になる。そして、新しい家族と一緒に、きっと新しい絆を育むことになるだろう。仮に今は独りぼっちだとしても、永遠に独りぼっちってわけじゃない。過去を変えることはできないけど、未来は変えることができるんだ」
男の子は、力強く言った。
彼の言葉が魔法の呪文のように全身を包み込み、舞香の胸の奥深くまで、じわじわと浸み込んでいった。
舞香の心の中には、十数年もの間、冷たい液体が静かに流れ続けていた。触れようとしたら、指先が瞬時に凍りついてしまいそうなほどの、極低温の液体だった。
男の子の言葉が、そんな冷え切った液体を小さく泡立てるのがわかった。言葉は、そのまま少しずつ、本当に少しずつだが液体の温度を上げていく。
液体の中で凝固していた感情が、温度の上昇とともに少しずつ融解した。
――家族がいない私は、今までずっと独りぼっちだったし、今もそれは変わらない。これからも、きっと独りぼっちなのだろう。それは逃れようのない“運命”だ。だから、受け入れなくちゃならない。
舞香は、自分にそう言い聞かせながら生きてきた。家族など、いなくても平気だと、自分を誤魔化してきた。
それでも、本当は独りぼっちが寂しかった。心の奥で家族を欲していた。家族の愛に、包まれてみたかった。