第七章 屋舗翔太の場合2
僕は、坂沼亜紀に向き直り、強い口調で提案する。
「さあ、再開しましょう、僕たちの勝負を」
坂沼亜紀は、強い意志をもった目で小さく首を縦に振る。見下すような視線で榊原を一瞥し、床から拾い上げたコイン、榊原から奪い返したコインを速やかに巾着袋に入れると、最後に手に持っていたコインも巾着袋の中に入れた。
僕は、彼女が手にする巾着袋にすかさず右手を入れ、指先に神経を集中させる。
躊躇は大敵だ。迷っていると、その間にもコインの温度が変わってしまう。
僕は自分の感覚を信じて、もっとも冷たいと思われるコインを選び出す。
自信をもって取り出すと、床に置いた。
表示されている印は★。
「最後の勝負です。これで、よろしいですね?」
坂沼亜紀が、床の上のコインに手を伸ばしながら、念を押す。今まで沈着冷静だった坂沼亜紀の声に、僅かな緊張感と焦燥感が感じられた。
彼女の顔に視線を向けたとき、右のこめかみから一滴の汗が流れ落ちるのが見えた。
――彼女が珍しく焦っている。勝てる。
外の世界で、眩しい太陽の光を浴びながら空を見上げる自分の姿を想像した。
勝利を確信した僕と翔次の首肯を合図に、彼女はゆっくりとコインを裏返す。
現れた印は、★だった。
「そんな馬鹿な!」
僕は思わず叫んだ。
これで、十勝十一敗。
僕たちの“処分”が決まった瞬間だった。
「僕は、僕は冷たいコインを選んだ。間違いない!」
思わず漏らした一言に、坂沼亜紀が表情を崩して微笑んだ。
「やはり、そうでしたか」
その声を合図に、今までうずくまっていた榊原がおもむろに立ち上がり、顔をこちらに向けた。
「やっと終わったか。いやあ、冷や冷やしたよ」
その表情は、先ほどまでの怯えた表情と打って変わって、晴れ晴れとしたものだった。僕たちは、状況を飲み込むことができずに、ただ茫然としていた。
「そんなに不思議そうな顔をしなくてもいい」
榊原は、得意げな表情で腕組みをしながら、僕たちの顔を覗き込んで、表情を確認する。
「実を言うと、私と坂沼君の間では、君たちが温度差による必勝法に気づくことは想定内だったんだ。君たちは気づいていなかったと思うが、温度差は、故意に生み出されていたんだからね」
僕は、耳を疑った。
「私たちは、君たちが遅かれ早かれ、このゲームの公平性に疑念を抱くだろうと予想していた。同時に、先に気づくのは、弟の翔次君だろうとも思っていた。ずっと観察してきたところ、翔次君のほうがやや思慮深い性格であるように見受けられたからね。しかも、ゲームに参加している当事者は、目の前の勝負に没入し過ぎて、周囲の人に比べるとゲームの公平性に疑念を抱きにくい傾向にある。そこで、私たちはゲームを通じてずっと、翔次君を観察していた。疑念をもちはじめるとすれば、恐らく勝敗の差がつきはじめてからだろうと想像しながらね」
榊原は、僕たちの前をゆっくりと行ったり来たりしながら、得意げに語る。その雰囲気は、再び元の詐欺師のそれに戻っていた。
「私たちは、勝敗の差がつきはじめたタイミングで、コインの温度を変えた。同時に翔次君の顔色を観察すると、案の定、表情が微かに変化していた。私たちは、その時点で翔次君が疑念を抱きはじめていると判断したんだ」
すべては、仕組まれた罠だったというのか。
「そして翔太君。温度差に気づいた君は、このゲームが確率的に不公平である事実を知ったにもかかわらず、ゲームの継続を選択した。継続してくれて、本当に助かったよ。だが、そうと決まったら、あとは簡単だ。あらかじめ用意していたシナリオ通りに行動するだけなんだからね」
「シナリオだって? どんな?」と、翔次が呻くような声で質問する。
「いい質問だ。私が取り乱したとき、翔太君、君は床に置かれたコインが自分の“当たりコイン”だと考えただろう。『“当たりコイン”が今、床の上で冷たくなっている』と……。しかし、あのコインは、両面が★のコイン。つまり、君たちにとって“外れコイン”だったんだよ。私が坂沼君から巾着袋を奪い取るとき、彼女が素早くコインをすり替えたんだ」
「そんなシナリオを、いつの間に……」
「プロは、普段からいくつものシナリオを用意しているものだ」
榊原は、フッと小さく息を吐いて笑った。
僕は、榊原の言葉に愕然とした。
このゲームの本質は、彼らにとって有利なルールであるという“不公平性”ではなかった。たとえ“不公平性”に気づかれたとしても、それを覆すことができると錯覚させることで、さらなる深みに誘い込む。それこそが、このゲームの本質だったのだ。
そして僕たちは、まんまとその深みに捕らえられてしまった。
榊原の言葉の一つ一つが、今までに経験したことのない痛みをもって、僕の心に突き刺さる。
自分の間抜けさ、そして榊原たちの老獪さに、無性に腹が立った。
「ふざけるな! こんな茶番、認めないぞ!」
僕が思わず拳を振り上げたとき、翔次の腕が僕を制止した。
「もういいよ、兄ちゃん……」
絞り出すような、苦しげな声だった。
同時に、スピーカーから冷たい声が流れた。
「すでに勝負が成立した以上、抗議は認められません」
翔次は、僕の腕にしがみついたまま、続ける。
「彼らは、プロだ。もともと、僕たちがかなう相手じゃなかったんだよ」
翔次の言う通りかもしれない。
彼らは、騙し合いの修羅場に日常的に身を置く、騙しのプロなのだ。僕らのような素人が、端からまともに勝負できる相手ではなかった。認めたくはないが、それが現実だった。
――完敗だ。
観念した僕は、最後に一つだけ残った疑問を、榊原にぶつけた。
「もし、僕たちが『このゲームは公平ではない』と抗議して勝負を途中で降りたら、どうするつもりだったんだ?」
「そのときは……。ルール通り、このゲーム全体が無効になるだけだ。ただ、私たちはできるだけ、君たちがゲームから降りないように努力した。そして、その努力は報われた。本当は、公平性に問題があることがもっとばれにくくて確実に勝てるゲームで戦いたかったんだが、いかんせん、この部屋で調達できる道具は、このコインに限られていた。だから、私たちは公平性に問題があることがばれやすいゲームで、リスクを背負いながら戦うしかなかった。まあ、そもそもリスクのないギャンブルなんてものは、端から存在しないのだがね」
僕は、抑えようのない悔しさに唇を噛んだ。同時に、自分たちの迂闊さを、激しく後悔した。
今まで僕たち兄弟は、自分たちの運の悪さを呪ってきた。しかし、すべてのできごとは運の悪さが原因ではなく、あくまで自分たちの選択が原因だったのだ。
父親と母親の姿が、脳裏に蘇った。
あの頃、誤った道を進みはじめた自分たちの人生を修正する機会は、いくらでもあった。しかし僕たちは、軌道修正のための一歩を踏み出す勇気がもてず、無意識のうちに修正の機会を無視していた。
額を冷たい汗が伝わって、音もなく床に落ちた。奥歯がギリギリと音を立てた。
――修正しなければ。人生を、運命を……。
だが、もう手遅れだ。
僕は、思わず天を仰いだ。
「畜生……」
――こんなところで死にたくない。人生を今からでもやり直せるものなら、やり直したい。
悔しさに溢れ出した涙が、止まらなかった。
涙の向こうに、榊原の狡猾な笑顔が揺らいでいた。