第七章 屋舗翔太の場合1
弟の翔次からゲームの真相を告げられたとき、僕は正直、心の底から驚いた。
油断も隙もないとは、このことだ。
だが、僕はその事実で、榊原や坂沼亜紀を糾弾しようと思わなかった。
その“不公平性”を出し抜く方法に気づいていたからだ。
それは、何か。
コインの温度だ。
僕が勝って四勝九敗になった後、巾着袋の中のコインを右手で選んでいると、一枚だけ、やや冷たいように感じられた。
僕は指先でコインに触れながら、その理由を推測した。
床に置かれたコインは、坂沼亜紀によって裏返され、しばらく床の上に放置された後、ようやく巾着袋に戻される。一方、床の上に置かれなかったコインは、床に置かれたコインが戻ってくるまでずっと、坂沼亜紀の掌に包まれた巾着袋の中にあった。
つまり、外に出されたコインが巾着袋の中に戻ってくるまでの間、巾着袋の中のコインは彼女の体温によって温度が上昇し続け、温かくなっていたのだ。
この状態で次の勝負に突入したとき、巾着袋の中で一枚だけ冷たいコインを選ぶと、どうなるか。
ほぼ百発百中で、先程取り出したコインと同じコインを取り出すことができるはずだ。
次の勝負で、僕は自分の推測に基づき、一か八かで冷たいコインを選んだ。
結果は表が★。裏返すと☆。
僕たちの勝ちだった。
これで五勝九敗。
その後は、指先に神経を集中させつつ、冷たい一枚を機械のように選び続ける。
この方法の効果は絶大だった。
面白いように勝ちが続いた。
今まで最大で六勝分あった差が、瞬く間に縮まっていく。
気がつくと、七連勝で十勝九敗と逆転していた。
――あと一勝だ。あと一勝で、僕らの勝ちだ!
痛快だった。どう考えても負けるはずだった僕たちが、今まさに勝利を手中に収めようとしているのだ。
心臓の鼓動が、今までになく高まり、気分が高揚した。脳内のアドレナリン値が、一気に上昇する。
一方で、もう一人の僕が「落ち着け」と自分に言い聞かせる。
そうだ。ここで気を抜いてしまうと、一気に奈落の底だ。僕は、最後の気力を振り絞って、勝負に集中する。
坂沼亜紀は表情をまったく崩さないまま、床の上に置かれたコインを拾い上げると、今までよりもややゆっくりとした動作で、掌の巾着袋に入れた。
僕は、高揚感を押し殺しながら、今までと同じように冷たいコインを選ぶため、巾着袋に手を入れた。
小さな違和感があった。
今までと異なり、コインの温度差がはっきりとしていなかったのだ。
僕は悩んだ末、もっとも冷たいと思われるコインを取り出した。
結果は、両面が★。僕たちの負けだった。
――これで、十勝十敗。追いつかれた。
思えば、この勝負の直前、坂沼亜紀はいつもよりゆっくりとした動作で、コインを巾着袋に戻した。恐らく、今までよりも長時間、手に持っていたために、“当たりコイン”の温度が上がってしまったのだ。
迂闊だった。
しかも、新たな問題が生じた。
僕の負けによって、今、床の上には僕たちにとっての“外れコイン”が置かれている。
つまり、次の勝負では冷たいコインは“外れコイン”ということだ。冷たくないコインを選ぶとしても、そのうち“当たりコイン”を選べる確率は二分の一。
――何とかして、“当たりコイン”だけ、異なる温度にできないだろうか。
――それとも、ゲーム自体が不公平である事実を申告して、このゲームが無効であると判断してもらうべきなのか。
心に迷いが生じた。
そんな僕の迷いとは関係なく、坂沼亜紀が床のコインを拾い上げた、そのときだった。
「待て! これはいかさまだ!」
つい先ほどまで、余裕を感じさせる表情で勝負を見守っていたはずの榊原が突然、叫んだ。彼は坂沼に駆け寄ると、坂沼亜紀が今まさにコインを戻そうとしていた巾着袋を奪い取った。
「コインに傷があるんだ! その傷を目印にしているに違いない!」
巾着袋から二枚のコインを出して床に並べたかと思うと、四つん這いになり、一枚を拾い上げて調べはじめる。
「いかさまだ。これは、いかさまだ。いかさまに違いないんだ……」
榊原の口から、呪文のような呟きが漏れていた。
完全に取り乱していた。異様な姿だった。
確率的には大差で勝つはずのゲームで思わぬ追い上げに遭い、混乱していることは明らかだった。
あまりの取り乱しように、哀れみをもって榊原の姿を眺めていたとき。
僕は、ある事実に気づいた。
榊原が床に置きっ放しにしているコインを確認すると、表に★の印がついている。
一方、坂沼が握り締めているコインは、先程の勝負で床に置かれていた、両面が★のコインであることは間違いない。つまり、今、床の上で冷たくなっているコインこそが、僕たちにとっての“当たりコイン”なのだ。
――彼らは大きなミスをした。このまま勝負を再開すれば、間違いなく勝てる。
やがて、坂沼亜紀が榊原に歩み寄った。乱暴な手つきで榊原からコインと巾着袋を奪い返すと、押し殺したような声で呟いた。
「私たちの勝負の、邪魔をするな」
今まで、彼女が決して見せることがなかった、険しい表情だった。その表情に、榊原は驚き、引き攣った表情を露わにした。
「私は、この人と勝負をしているんだ。部外者であるあんたには、黙っていてもらおう」
坂沼亜紀は強い口調でそう言うと、小さく息を吐く。
「……私は今まで、あんたの言いなりになって、多くの人を騙してきた」
しばしの静寂の後、意を決した様子で言葉を繋ぐ。
「だが、それももう終わりだ。私はこの人と正々堂々と勝負する。そして、もし負けたなら、お前を道連れに笑いながら“処分”されてやる。それが、ディーラーとしての私の矜持であり、お前への復讐だ!」
予想だにしなかった坂沼亜紀の厳しい表情と言葉に、榊原の顔から、さっと血の気が引いた。飼い犬に手を噛まれた気分だったのだろうか。
「お前は、今までの恩を忘れたのか!」
坂沼亜紀の襟元を掴もうとした榊原の手を、間に入った翔次が掴んだ。
「ゲームは、まだ終わっていませんよ。それに、暴力は即“処分”の対象になります」
僕は、勝利を確信しながら、翔次に視線を送る。翔次は、目が合うと小さく頷いた。その表情は、彼も勝利を確信している事実を示していた。