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此の世に生まれし者は  作者: 児島らせつ
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第三章 高柳瑠理の場合3

 店が「反社会勢力と繋がりが深い」という事実から警察に摘発されそうになったとき、私が逃げ出すのを手引きしてくれたのが、清水だった。

 私のどこが気に入ったのか、清水は私に愛人になるよう要求した。

 一方の私はというと、助けてもらった恩を過大評価するあまり、とくに抵抗感を感じることもなく、彼の愛人になった。もちろん「これで風俗嬢から足を洗うことができる」という安心感も大きな理由の一つだった。

 私を愛人にすることを兄貴分である田代に告げると、思いのほかすんなりと認められたらしい。どうやら田代は、ほぼ借金を返し終えている私に、たいして興味がなかったようだった。

 清水は、残り僅かになっていた借金を肩代わりし、私を愛人にした。

 なぜ、そこまで私にこだわったのか。一度だけ、聞いたことがある。

 清水は煙草の煙を吐き出しながら、「若さゆえ、かな」と宙を見上げた。

 私は、あまりにも漠然とした答えに、苦笑いするしかなかった。

 恐らく、ともに危機を乗り切ったという“吊り橋効果”から、私の身の上に過剰な共感を抱くようになったのだろう。そのときは、そう判断した。

 だが、私の容姿が、若くして亡くなった清水の姉にどことなく似ているという事実を、のちに知った。真相はわからないが、本当の理由は、私に姉の面影を見たことだったのかもしれない。

 そして、気がつくと三年が過ぎていた。

 三年という年月は、私の容姿から少しずつだが、確実に若さを奪い取りつつあった。同時に、私が清水の愛人であるという事実と、清水が私に注ぐ愛情は、惰性に満ちた形だけのものになっていた。

 私が姉ではない事実に、今更ながら気づいたのかもしれなかった。

 そんなとき。

 確か今年の一月だったか。清水は知人の紹介で知り合った人物に、絶対に儲かるという投資の話を持ちかけた。もちろん、詐欺だった。

 儲け話に興味津々といった様子のその人物は、詐欺とは知らず、いとも簡単に大金を差し出した。後から知ったのだが、その人物はこの教団の幹部で、差し出した札束の一部は、教団から横領した金だった。

 やがて、詐欺と横領が明らかになり、清水は教団に拉致された。清水の行為を隣で黙認していた私も、一緒に連れてこられた。大金を差し出した幹部の行方は、知る由もなかった。

 通常、詐欺事件の被害に遭えば、警察に通報するはずだ。通報されなかった事実を考えると、教団の金は、恐らく表沙汰にできないものだったのだろう。私にとっては、運が悪いとしか言いようがなかった。


          *


「なあ、瑠理」

 清水は、もう一度、私の名を呼ぶと、肩に手を回してきた。

「目上の人の商売道具に手を出すのは、この世界じゃご法度だ。だが、それでも俺は、兄貴に頭を下げて、お前を愛人にすることを許してもらった」

 閉ざされた部屋の中で、私の隣に座った清水は、懐かしそうに遠くを見た。

「あのとき、俺が愛人にしなかったら、お前は今もソープ嬢のまま、ろくでもない男たちを相手に人生を浪費していたかもしれない。そう思わないか?」

 耳触りのいい言葉の裏に、恩着せがましさが見え隠れする。

 だが、一理あった。

 ソープ嬢と同等の収入を、真っ当な仕事で得ることは簡単ではない。当時の私は気がつくと、他人から後ろ指をさされない仕事で収入を得る自分を想像できなくなっていた。

 清水に拾われなかったら、恐らく目に見えない自己嫌悪を胸に抱えたまま、ズルズルとソープ嬢を続けていただろう。

「この三年、お前は幸せだったよな?」

 清水の心の中の邪悪なものが、獲物を狙うヘビのようにとぐろを巻き、舌をチラチラと動かしながら、私につけ入る隙を窺いはじめていた。

「今、その恩を返すときが来たんだ」

 ヘビが大きく口を開き、暗闇に立ち竦む私を飲み込もうとする。

「お前が犠牲になって、俺を助けるときが来たんだよ」

 全身を冷たく撫で回すような冷徹な言葉に、身動きが取れなくなった。体中の感覚器が、麻痺していく。

 この男は、自分の意のままに操れる唯一人の存在である私を犠牲にすることを、最初から決めていたのだ。唯一の武器である暴力が通用しないこの部屋の中で、ほかの六人とのトラブルを避けつつ自分の身を守るために……。

 急に、世界が静寂に包まれた。

 顔を上げると、目の前の男が、餌を求める池の鯉のように、さかんに口を動かしていた。だが、男が発する言葉は、まったく聞こえない。

 まるで、もともと音が存在しない、別次元の世界に迷い込んだようだった。

 静寂という雑音に耐えられなくなった鼓膜が痺れて、痛い。その痺れが、少しずつ脳の中で大きくなっていく。

 遠のきそうになる意識のなかで、ふと考えた。

 ――そうだ。これは、宗教なのだ。

 清水が教祖で、私は信者。

 清水が、音の飛んだレコードのように繰り返し唱え続ける怪しげな教義。

 その教義から逃れる方法を知らない私は、教義に飲み込まれたまま、やがて自分の意志で死を選ぶのだ。

 そんな私の行為は……。

 ――殉教?

 自分が信じる者のために、我が命を捧げる聖なる行為……。

 だが、その実、信じる者のための行為でもなければ、聖なる行為でもない。

 支配する者によって、聖なる行為として美化された、罰だ。

 ――私、そんなに悪いこと、してきた?

 今までの人生から考えると、あまりにも不釣り合いなほどに残酷な結論だった。だが一方で、自分には、そんな結末が似合っている気もする。


  理不尽なことも深く考えずに受け入れてしまう浅はかさ。

  抗う行為をいとも簡単に放棄してしまうしまう弱さ。


 そのような私の性格が、現在の状況を生み出してしまったのだ。

 ――どうせ、私には幸せになる資格などない。

 意味もなく悔しさが込み上げてきて、涙が出た。私は、涙を拭うことも忘れて、唇を噛む。

 ――もうやめよう。

 ――考えることも、後悔することも。そして、生きることも……。

 すべてを諦めた私は、陶酔した表情で何かを語り続ける清水の横顔に向かって、首を静かに縦に振った。

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