33 リズの事情
リズは屋敷の掃除をしていた。やはり掃除は楽しい無心になって出来る。
「悪いね。リズ、君に掃除なんてさせてしまって。使用人を新しく雇いなおすまで待ってね」
「いいえ、むしろこの方がしっくりきます」
アーノルドが申し訳なさそうにいう。新しい使用人を雇うのに主人も家令も慎重になっているのだ。
だが、そういう彼の手にも雑巾が握られている。そして屋敷の主人は庭を掃いていた。横ではネリーが雑草を刈っている。
「そんな事より、ご主人様に庭を掃かせてだいじょうぶなのでしょうか?」
「私もなんども注意したんだがね。気分転換になるからと。農場でも鍬を担いでいるひとだからな」
「まあ、まだ農作業をやってらっしゃるのですか!」
リズは驚いた。
「やっているも何も、あのお方は貴族と言うより、ならず者の頭目だからね」
「ならずもののとうもく、この間もそういってましたよね」
「あれ、ご主人様から、いろいろと話を聞いたんじゃないの? 農場力比べの話とか」
「は? そのようなお話はまったく」
「ああ、リズのことは大事にして農場に連れて行かないからなあ。私もあそこへは行きたくないのだけれど」
アーノルドが憂鬱そうにため息をつく。農場で何かあったのだろうかと少し不安になる。
「リズ、君は知らないだろうけど、この世には金や身分ではなく、力だけが物を言う世界もあるんだよ」
「はい……」
訳知り顔に語るアーノルドに、リズは不思議そうに小首を傾げた。
「つまり、うちのご主人様は貴族の皮を被った別の何かなんだよね」
悟ったようにアーノルドが語る。なんとなく主人に対して失礼なことを言っている気はしたが、リズには、いまひとつピンとこない。適当に頷いておいた。
ここに来た頃のダニエルは粗野で、顔立ちも分からないほど毛むくじゃらだった。あの頃はよく力仕事や大工仕事をしてくれて助かったものだ。
シルクのシャツの上にしゃれたベストを着て、クラバットを巻くこともなく、髪を撫でつけることもなかった。いつも風に吹かれるまま。それでもいつの間にか、とても頼りにしていた。
♢
その晩も主人は図書室にやってきた。前もちょくちょく来ていたが、リズが攫われてからは毎日来るようになった。
別に話すわけではなく。ただ紅茶を飲みに来るだけのときもある。まるでリズの無事を確認するように。
「あんたの実家の事で話があるんだが」
切り出された言葉に、リズは緊張した。また家族が何か迷惑をかけたのであろう。
「父が金の無心でもしてきましたか?」
リズのその言葉に彼は苦笑して首をふる。
「あんたをアーデン家に返さないのならば、籍から抜くと」
意外なことにショックだった。自分で出て行くのと縁を切られるのは違う。それにもし籍を抜かれたら、リズはもう貴族ではない。根無し草だ。実家にそれほど未練はないが、目の前にいるダニエルがさらに遠くなったように感じる。
ここへ来た時は、あんなにも身近な人だったのに。随分と遠くに行ってしまった。
「おい、まさか家に帰るとかいうんじゃないだろうな?」
物思いに沈んでしまったリズにダニエルが不安そうに声をかける。
「父も母も健勝ですか?」
「ああ、元気いっぱいってところだな」
だいぶ彼に迷惑をかけているようだ。リズはいろいろな思いを振り切るように一つ頷く。
「私はここに居たいです」
「そう、良かった」
ダニエルがほっとしたように柔らかい微笑を浮かべる。彼がそんな表情をするのを初めて見た。これから、時間が、立場が、彼をどんどん変えていくのだろう。
屋敷の主人の成長は嬉しいが、その反面寂しさに押しつぶされそうになる。自分はこんなに性格が悪かったのかと、リズの気持ちは沈む。
「リズ、渡したいものがあるんだ」
彼はよくリズに土産を買ってきてくれる。こうして、夜に一緒に茶を飲むときに手渡してくれるのだ。いつも楽しみにしている。この間はおいしい焼き菓子だった。その前は素敵な羽ペン。
しかし、今夜は指輪を差し出した。中央にはごろッとした大粒のエメラルドがはめ込まれている。
「え! こんな高価なものはいただけません」
「うん、リズならそう言うと思ったよ。ならば、預かっていて欲しい」
「はい? あずけるならば私よりもアーノルドの方が良いのではないですか?」
「彼に指輪を贈れと?」
ダニエルが苦笑する。
「あの、でも受け取るわけにはいきません。失くしたら大変です」
「気にするな。失くすも捨てるも、リズの好きにすればいい」
リズの手をとると、彼はそれをリズに指にはめる。胸がどきどきして、頬が熱くなる。
「良かった。ぴったりだ」
とても嬉しいが、少しパニックになる。こんなことをしてもらっていいのだろうか。すると彼がさらにとんでもないことを言いだした。
「リズ、結婚してくれないか?」
頭が真っ白になる。何も考えられなくて……。
「駄目です!」
気付くとそう叫んでいた。
♢
リズは朝からぼうっとしてた。今日は仕事でよくミスをした。アーノルドが不思議そうにリズを見ていた。
「何かあったのかい?」
心配そうに耳打ちしてくる。
「いいえ」
ふるふると首を振る。まさか彼に相談するわけにはいかない。
そしてまた一人になると、リズは昨日の図書室での顛末を思い出してしまう。
「無理強いをするつもりはないが、いくら何でも即答はないだろ。少しは考えてみてくれ」
ダニエルが傷ついたような顔をした。リズもびっくりして混乱していたのだ。もう少し言い様はあったのではないかと……。
今度は落ち着いて、懇切丁寧に身分が違い過ぎると、ダメな理由を説明した。するとダニエルはこう言った。
「あんたの言い分はわかった。つまり身分に差があるから、結婚できないというのだな」
「はい、実家から籍を抜かれた私は平民で、あなたは高位貴族です。それで縁組などありえません」
ダニエルがリズのその言葉に、しばし沈黙する。
「しかし、即答とはひどいな。せめてひと月くらいは考えてくれ。いまのは聞かなかったことにする」
答えは変わらないが、頷いた。彼もひと月経てば、冷静になるだろう。何がどうなってリズに求婚したのか。
彼がアボット卿にでも相談してくれればいい。そうすれば、落ちついてまともな判断が出来るだろう。もちろん、ダニエルはとても大切な人だ。だからこそ、幸せになってほしい。
家もなく姓も持たない自分は、彼の隣に立ってはいけないのだ。




