29 逃亡
リズがどさっと落ちた先は弾力が有り、ちょっとした衝撃はあったが、痛みはない。恐る恐る固くつぶった目を開く。
「あんたは、なんて無茶をするんだ。けがはないか?」
ダニエルが心配そうにリズの顔を覗き込んでいる。がっちりと彼に抱きとめられていた。
「え、あれ? ご、ご主人様!」
夢かと思った。彼は暗色のマントを着てフードを目深にかぶっている。まるで盗賊のよう。
対面も束の間、ダニエルはリズを軽々と肩に担ぎ直す。
「わああ、ちょっとご主人様! どうして? おろしてください。というかお怪我はありませんか?」
「リズ、黙れ。見つかるだろ。さっさとこの屋敷からずらかるぞ」
「はい?」
言うや否や、リズを抱えて柵を超えて逃げ出した。
ダニエルはリズを荷物のごとく抱えたまま、夕闇せまる王都を疾走した。道はせまくなり、汚くなっていく。とうとう下町の治安の悪い地区に入った。とても危険なところだと聞いている。主人はいったい何を考えているのだろう。
「旦那、こっちですぜ」
不意に薄暗い路地から、声がかかり、リズはびくっとする。
「おう、例の物は用意出来たか」
「はい、ばっちりです」
ダニエルはリズをおろすと後ろに庇うように前に立ち、男に金を払う。薄暗い路地裏でのとても怪しいやり取りにリズは震えた。
ダニエルに手を引かれるまま路地を抜けると二頭立ての馬車が止まっている。ダニエルはリズをその馬車にのせ、自身は御者台におさまった。
それからリズにフード付きのマントをすっぽりとかぶせる。
「フードを外すなよ。絶対に顔を晒すな」
「はい」
状況はなに一つ分からないが、素直に頷く。主人が隣にいることが奇跡のようで嬉しい。ふとした瞬間に涙がこぼれそうになるのを堪える。……助けてくれた。
一方、ダニエルは涙を必死にこらえるリズが不憫でならない。よほど怖い思いをしたのだろう。もっと早くに気付いていれば彼女にこんな悲しい思いをさせずに済んだのにと後悔する気持ちでいっぱいだった。
ダニエルが馬に合図を送ると馬車は王都の石畳を駆け抜け一気に街道に出た。
夜通し馬車は走りノースエイデン領へ入る。そこで初めて宿屋をとった。いろいろダニエルに聞きたいことはあったが、王都に入ってからほとんど眠れなかったし、一日中馬車に居たので、食事もそこそこに、宿屋の粗末なベッドで倒れ込むように眠ってしまった。
次の朝、目を覚ますとまだ疲れは残っていた。一晩中馬車に乗っていたせいか体のあちこちが痛む。リズは冷たい水で顔を洗い気分をスッキリさせた。階段を下りると食堂から、パンの焼けるいい匂いが漂ってくる。
ダニエルはもう先にいて、お茶を飲んでいた。やはりここでもフードを目深にかぶっているので、リズもそれに習う。
カリカリのベーコンとポテトとフライドトマト、焼き立てパンの食事を済ませるとやっとひと心地ついた。
「ご迷惑、おかけしました」
主人に丁寧に頭を下げた。
「うん、リズが無事でよかった」
ダニエルの言葉を聞いた瞬間、安堵したせいか、堰を切ったように涙があふれた。
♢
宿で昼食用のサンドイッチを作ってもらい、干し肉を買って出発した。
「しっかし、あんたも間抜けだな。子供じゃあるまいし、攫われるとはな」
ダニエルが二頭の馬を操りながらのんびりとした口調で言う。面目なくてリズは俯いた。
「やっぱり、私、攫われたんですよね?」
ダニエルが呆れたような視線を向ける。
「あっさり、騙されやがって」
あのときおかしいとは思ったのに、馬車に乗ってしまった。
「しかも、実家に監禁されて二階の窓から逃げ出そうとするとか。まったく、けがをしたら逃げるどころじゃねえだろうが」
「申し訳ありません。あ、あのときは、上手くいくような気がしてしまって」
リズはもごもごと言い訳しつつも、恥ずかしく真っ赤になった。
「しばらくは、客に呼ばれても屋敷の外にでるんじゃねえぞ」
「はい」
子供に言い聞かせるような口調でいわれ、リズは主人の横で小さくなる。
「……あの、助けていただいておいて何なのですが、こんなことをして、ご主人様は大丈夫なのでしょうか?」
「俺は、しらを切る」
ダニエルがきっぱりと言い切った。
「……なるほど、わかりました。では、私は一人で逃げだしたという事で。どのみち絶対に逃げるつもりでした」
「だろうな。必死さと意気込みだけは、十分すぎるほど伝わった」
主人にしては珍しく、皮肉だろうか。そういわれると、決死の覚悟の行動が、空回りしていたようでとても恥ずかしい。
「あの、私が窓から出てこなかったら、どうするつもりだったのですか? というかなぜあそこに?」
ダニエルはアーデン家の敷地に不法侵入し屋敷の裏に隠れていたのだ。
「家に忍び込んで連れ戻すつもりだった」
言動は犯罪者のようだが、リズにとっては頼もしい主人だ。しかし、安心すると疑問はむくむくとわいてくる。
「そういえば、なぜ、私が攫われたとわかったのですか? 随分早かったですし……もちろん助かりましたし、すごく嬉しかったです」
「あんたが何も言わずにいなくなるわけはないからな。あの日、アーノルドと手分けして使用人達に聞き取りをした。そうしたら、新入りの庭師が目撃していたんだ。ジェシーとかいうくそメイドが、それを口止めしてやがった」
そうだ。あの時ジェシーに呼ばれたのだ。口止めとはあくどい。よほどリズが嫌いなのだろう。そう思うと少し悲しい。




