16 手がかかりそうです
次の日ダニエルは農場での仕事を早めに切り上げ、午後からリズを馬車にのせ、街へ出た。行先は領都ワース。もちろん御者は、ダニエルだ。一頭立ての粗末な馬車だが、彼は馬の扱いが上手かった。聞けば、馬と育ったようなものだという。本当に彼の人生はなぞに満ちている。
なぜ読み書きができない状況に陥ったのか気になるところだ。
「うち宛の手紙はすべておじきのところへ行っていたんだ。だから、あんたが来ることを知らなかった。これは言い訳だが、来る手紙は殆ど読まずに捨てていたらしい」
正式に雇ってもらえることになったのだ。もうそんなことは気にしていない。それに紹介状に目を通してくれと頼んだ時彼が怒ったのにも合点がいった。字が読めなかったのだ。とんだ恥をかかせてしまったと、今では申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
思い出すと赤面してしまうほど彼には失礼なことをしていた。
付き合ってみれば、穏やかな人でめったに怒ることなどない。姉のマゴットのようにしょっちゅう顔色を窺わなくてもいいので楽だ。それに一緒に生活しているうちに彼の沈黙にも慣れた。街が近づくにつれ、馬車や人が増えていく、リズは往来の風景を楽しんだ。
そういえばゴードン夫妻はあの後どうなったのだろう。
馬車が街に入った。もっとさびれた雰囲気を想像していたが、意外に人出が多くにぎわっている。リズは店に案内されると、手馴れたものですぐに使い勝手のよさそうな羽ペンや、紙を見つけた。ダニエルに好みを聞いたが、彼は「わからない」と首を振るばかり。
それから本屋へ案内してもらい読み物を選ぶ。ダニエルの知識がどの程度か知らないので、一緒に選びたいのだが、彼は馬車のそばから動こうとしない。彼の知識はどこかで止まっているのか、それともまっさらなのか判断しかねる。
ダニエルは一見粗野に見えるが、愚鈍さはなく察しがいい。よくしゃべる方ではないが、頭の回転ははやそうだ、多分リズより。そして、粗野だが行動は紳士、思えばアンバランスな人。
仕方がないので、子供用の絵本から、大人用読み物まで教材になりそうなものをいくつか見繕うとダニエルの元に戻った。そういえばあの広大な屋敷には図書室はないのだろうか?
しばらく馬車で街を流すうちにリズは髪結床を見つけた。
「ご主人様。ぜひ、あの店へ」
身なりもどうにかしたい。爪も気になるが、まずは髪をさっぱりさせて、衣服を整えたかった。彼は背が高いし足も長いから、姿勢さえよくすれば、着映えするだろう。
幸い今日は彼も金をもってきている。計算ができない彼にかわって、金額をみながら、リズが買い物をしているのだ。
確かにこれでは領主としての仕事は誰かに代行してもらうしかない。思いのほか書類仕事が多いのだ。貴族男性で読み書き計算ができないのは致命的だ。
髪結床で、ずっとついているのも妻と間違えられて気まずいので、外に出た。もうとっくに結婚していてもおかしくない年齢なのだ。
街角にぽつねんとたっていると、しつこく男性から声をかけられる。自分の格好を見て納得した。こちらへは着替え程度の服しか持ってきていなかった。そのどれも掃除などの労働で薄汚れ、どんなに洗っても落ちない。
街中で夕刻にこんな薄汚い格好で立っていれば、商売をしていると間違われてもしょうがないだろう。
知らずにため息がもれる。本来ならば、もう結婚して、子供だって出来ていたかもしれない。
「待たせたな」
今度の男は綺麗な顔立ちをしている。自信があるのか、「待たせたな」とは図々しい。つんと顔をそらし無視すると、男が焦った。
「おい、リズ、遅くなって悪かったよ。店がこんでいたんだ」
「はい?」
まじまじとみると服装と声はダニエルと一緒だ。艶のある黒髪。そして瞳は濃い青。彼の瞳はサファイヤのように青い。顔立ちはこの国貴族らしく鼻筋が通り整っていて、目もとも凛として涼やか。髪を切って髭を当たっただけなのに、見違えた。
「申し訳ありません。どなたかわかりませんでした」
リズが謝ると、ダニエルはほっとした。
「こんなところで、待たせて、いやな思いをさせちまったな。男がしつこかったか?」
心配そうに聞いてくる。
「いえ、私は大丈夫です。そんな事より、ご主人様、まずはその言葉遣いを直しましょう」
「ちっ、きびしいな」
リズの授業はもう始まっていた。紳士にあるまじき、舌打ちのくせもやめさせなければ。口調は乱暴だし、彼の性格を知らなければ普通に怖い。
それからリズの見立てで、何着か服を買うと、彼がリズの服も買うと言い出した。確かに身なりを整えた彼の隣にいるとみすぼらしい。
だが、リズはそれよりも先立つものとして給金が欲しい。素直にそう告げると、いくらかと聞いてきた。
実は金の交渉も受け取りも父だったので、リズも家庭教師の相場を知らない。素直にそれを打ち明けると、今度、アボット卿に相談してみると言ってくれた。いつものは「おじきに相談する」だったのに、それがアボット卿に変わった。いったいあの日何が話し合われたのだろう。
今までダニエルは自由に金を使えないようだったが、今日は少なくない金額を持ってきている。すると察した彼が教えてくれた。
「アボット卿が、差配してくれているんだ」
「あの、叔父様方はどうなさいましたか? お答えになりたくなければ、結構です。私はお給金だけ頂ければよいので」
聞いてはみたものの踏み込み過ぎかもしれない。あくまでも主人と使用人だ。リズは執事や秘書ではなく、雇われの家庭教師なのだ。家庭教師と言うのは他の使用人と違い仕事がすめばお払い箱で、長く務める者からすれば、臨時雇いのようなものだ。
彼に伯爵としての自覚がでてきたら、今のこの近い距離を鬱陶しく感じるだろう。人は立場や金で変わるものだ。
ふと、ダニエルの顔が曇る。
「アボット卿には、おじきとは距離を置けと言われた。あくまでおじきではなく俺にすべての決定権があるのだからと、これからは自分で判断しろと言われた。だから、手紙くらい読めるようになりてぇ」
本当に、話し合われたのはそれだけだろうか。いずれにしても正式に雇用してもらえるのならば文句はない。仕事をしなくては。
「ご主人様、『俺』と『なりてぇ』はいけません」
「うるせえな、わかったよ」
「うるせえではなく。せめてうるさいとか。まあ、私の場合は使用人なので黙れといわれれば、黙ります」
「またごちゃごちゃと面倒くせえこと言いやがって。わかった。黙れ」
これは貴族の子弟より手がかかりそうだ。
結局、リズも「あんたも買え」と命令され、三着ほど服を買ってもらった。華美ではなく実用的で地味なものを選んだ。
以前ならば、家庭教師の仕事が出来るのだから、喜ぶところだが、今は複雑な心境だ。教育が終われば仕事も終わる。それならば、下働きの使用人で十分だった。そのほうが長く働ける。
リズは長く働きたいのだ。ダニエルはぶっきらぼうだが慣れてしまえば楽だ。気難しくもないので、顔色をうかがう必要もない。ここは居心地がよい。それにネリーからもっといろいろと教わりたかった。
午後の日が傾いた街をダニエルが操る馬車が行く。彼は気付いているのだろうか。髪を切り、髭をそった途端、道行く女たちが彼を振り返ることに。
リズは街の夕景にふと寂しさを覚えた。




