13 リズの田舎暮らし
それからひと月が過ぎた。大きなサロンも小さなサロンもきれいになり、一階の廊下と階段からは埃を駆逐した。ほとんど一日中掃除をしているが、それはそれで満足だった。目に見えて達成感があるのは心地よい。
最初の頃は、ここにはネリーと主人と自分の三人しかいないと思っていたが、厩や農場では人を雇っているようだ。
時折ここに農夫や畜産関係の労働者が出入りするが、リズとはほとんど接触がない。彼らは農場の方に住んでいるそうだ。台所に上がり込んでくることも、リズに話しかけてくることもなかった。なぜか遠巻きにされているようだ。
その日は、いつも夜明けごろから、暖炉に薪をくべているダニエルの姿が見えなかった。リズは暖炉と竈の火を起こしつつも体調でも悪いのかとここの主人が心配になる。
すると勝手口あたりで物音がして、びくりとした。こんな時間に誰だろう。こちらへ近づいてくる複数の足音と、ぼそぼそと話し声がする。農場の人が訪ねてきたのかと覗いてみると、夜明けのまだ薄暗い中にダニエルともう一人男が立っているのがぼんやりと見えた。
「おはようございます」
と声をかけると彼がのんびりとこちらの方に歩いてくる。
「ああ、あんたか。もう、そんな時間か」
いつものように、リズに声をかけ、多分、機嫌よさそうに近づいてくる。毛むくじゃらだからその表情は分からない。しかし、夜明けの光に照らされた彼その手は腕の付け根まで血にまみれ、服にも鮮血が飛び散っていた。
「ひっ!」
いったい、何が!
リズはあまりの恐ろしさに、その場で卒倒した。
「おい、ちょっと、あんた大丈夫か」
ゆさゆさと揺すられてリズは目を覚ました。毛むくじゃらな男が彼女の顔を覗いている。その背景には天井が……。ガバリと起き上がる。どうやらリズは台所のソファーに寝かされていたようだ。
するといきなり起き上がったせいか、めまいがした。
「気がついたか。良かった。少し休んでろ」
そういって、ダニエルはリズに水を湛えたグラスを差し出す。ごくりと飲むと頭スッキリしてきた。それと同時に自分が気を失ったわけを思い出し、ソファーの背に体をつけ、ダニエルから、できうる限り距離をとる。怖い、何があったの。
「ああ、違うんだ。あれは、昨夜馬のお産があったんだ」
ダニエルがリズに慌てて説明する。
「え?」
彼は着替えたようで、衣服に血はついていない。そういえば血生臭く、ツンと獣の臭いがする。
「悪かったな。驚かしちまって」
「い、いえ……」
ほっとした。しかし、王都に住んでいた頃は身近な場所で馬のお産など聞いたことがなかったので驚いた。ここでは一般的なものらしい。覚えておこう。ここの地方の男達がたとえ血まみれだったとしても、それは必ずしも事件ではないと。
夜半に、またダニエルの叔父がやってきた。今日は夫人を連れずに彼一人だ。リズは、彼と顔を合わせないようにとダニエルに言われた。ネリーはもう休んでいる。
「お茶をお持ちしなくて宜しいのでしょうか?」
「俺がやるからいい。あんたはもうやすんでな」
そう言いおいて主人は本館へ行ってしまった。そうは言われても気になる。何せ「叔父」はリズを追い出そうとしているのだから。
♢
その日のゴードンは機嫌が良かった。少し酒がはいっているようだ。茶より酒を欲しがるので、ダニエルはリンゴ酒をだした。
「お前の為に、王都でのあの女の噂を集めて来たぞ」
「そんな必要ないだろう」
ダニエルは呆れた。
「なんでも姉の婚約者を誘惑して奪おうとしたらしいぞ」
「リズが?」
信じられない。リズはそういう女性には見えない。働き者の彼女が男を誘惑する姿など想像もできない。
「ああ、そうだ。それで王都に戻れないらしい。だからしばらくここで身を潜め、ほとぼりが冷めるのを待つつもりだろう。お前にも媚びてくるだろ」
「いや」
そんな感じはまったくないし、むしろ村の娘より愛想がない。ネリーの方がよっぽどよく笑う。
「そうか。ならばお前は田舎者と馬鹿にされているのだろう」
田舎者とは思われているだろうが、馬鹿にされているような感じはまったくない。たいてい彼女は先に寝ろといっても、彼の為に夕餉を準備して忠犬のごとく待っている。
「それで思ったんだが、私に預けてはどうか?」
「なんでだ、急に? ついこの間までリズを追い出せと言っていたじゃないか」
ゴードンがにやりと笑う。
「いやいや、私も若い娘にこの屋敷の掃除や修繕など辛い仕事させたいわけじゃない。うちに来た方があの娘も幸せなんじゃないかと思ってな。ここにいるより、贅沢をさせられる。手当もだそう。一つ聞いてみてくれんか」
ダニエルは嫌な予感がした。以前、叔母のアンヌがゴードンの女癖に悪さを零していたことがある。ここで、リズが街で仕事を探すつもりだと言えば、下手をすれば叔父に囲い込まれてしまうかもしれない。
「一応は聞いてみるが、どうするつもりだ?」
ゴードンは薄く下卑た笑いを浮かべた。
「それより、あの女は茶も持ってこんのか」
「もう、休ませた」
「使用人のくせに、主人より早く休むのか? やはり、お前ではああいう女の扱いは難しかろう。お前のいう事など馬鹿にしてきかないのではないか?」
ゴードンが畳かける。あちこちで拾い集めてきた噂でリズが王都に帰れないと知り、俄然興味が湧いてきたようだ。
「そんなことはない。リズは働き者で助かっている。そんなことより、叔母さんがあんたの帰りを持っているんじゃないか? 今日ここへ来ることを知らせているのか?」
ダニエルが言うと、彼は慌てて席を立ち帰り支度を始めた。
「アンヌにはここに今日立ち寄ったことは言うなよ。それとあの女にうちに来るよう言っておけ。もちろん、このこともアンヌにいうなよ」
そう釘をさしてゴードンは帰っていった。
叔父は愛人が欲しいようだ。




