10 主人と水差し
母のハリエットがロングスカートの裾をはためかせ、いらいらと部屋を行ったり来たりしている。また、彼女を怒らせてしまったようだ。幼いリズは母の怒りの前に縮こまる。
「本当に、あなたって子は、お義母様が甘やかすから、アリッサ、そっくりになって」
アリッサは、ハリエットの妹で、リズの叔母だ。母方なので、もちろんここでいう義母デイジーとは血の繋がりはない。リズは明るく美しい叔母が大好きだった。
「叔母さまにそっくりなの? 嬉しいわ。叔母様は優しくて親切だし」
素直に思うままを言った瞬間、ハリエットに頬をはたかれた。
「アリッサに似たいですって? とんでもないわ! 馬鹿な上に、庶民と結婚してこの国を出るなんて。あんな風になりたいですって? あなたにはアーデン家の娘としての誇りがないの? 少しはマゴットを見習いなさい」
「ごめんなさい……」
「本当にあなたっていう子は、強情で、すぐにおばあ様がこう言った、ああ言ったって、ここはおばあさまの家ではないのよ!」
「やめて!」
自分の叫び声で目を覚ます。幼い頃の夢を見て、うなされていたようだ。一瞬、ここがどこかわからなかった。目が覚めると実家のリズの部屋よりずっと天井が高く広い。窓際に置かれたベッドにぽつねんと一人眠っていた。ここはグレイ伯爵邸。嫌な夢を見たせいか、のどがカラカラに乾いていた。
この部屋には水差しがない。リズはランプを持って一階の台所に降りて行くことにした。
そういえば、叔母のアリッサは元気にしているだろうか。彼女は、爵位を持たない外国の富豪に見初められ、幸せな恋愛結婚をした。爵位はなくともリズからすれば、明るく優しい叔母は憧れだ。
ちなみにリズの悪夢は最近もう一つ増えた。婚約を解消された後、野垂れ死にする夢だ。どちらもひどくてげんなりする。
夜明けにはまだ時間がある。階段を降り、月明かり差す廊下を歩いていると少々心細くなってきた。その時、がたり、と後方で音がして、飛び上がった。古い屋敷は夜更けになるとさらに不気味だ。
リズはのこのこと水を飲みに階下に降りてきたことを後悔した。あまりの寝覚めの悪さに部屋を出てしまったが、夜明けまで待てばよかった。おそるおそる音のした方を振り返る。
すると少し離れた廊下の先から、明かりが漏れ、ダニエルが現れた。ダニエルは、すぐにリズに気付き、ぎょっとした。
「あんた、こんな時間に何してる?」
完全に尋問口調だ。
「あの、喉が渇いて水を飲みに」
気圧されたリズがおずおずと言う。
「ああ、そうか。そういや、あんたの部屋 水差しがなかったな」
彼は納得したように一つ頷くと、すたすたと先に立って歩きだした。
「持って行ってやるから、部屋で待ってな」
言っていることは親切なのに、口調はあくまでも粗雑。
「はい? いえ、まさか、ご主人様にそのような真似は!」
背が高く、足の長いダニエルは歩くのが早い。リズは殆ど駆け足でついて行った。
「いいから、部屋に戻ってな。こんな時間に出歩いたら危ないだろ。まあ、このあばら家じゃ、盗賊もこないだろうが」
今度は自分の屋敷をあばら家呼ばわりしている。
「あの、でも」
さすがに主人にそこまでは、させられない。
「いいから、戻れ、水差しはあんたの部屋のドアの前に置いておく」
これ以上固辞は出来ないので、リズは引き下がることにした。ここの主人は少し変わっている。
部屋に戻ってしばらくすると、ドアの外でことりと音がした。ドアを開けると、盆に置いた綺麗な水を湛えた水差しとグラスがあり、彼の姿は消えていた。粗野で乱暴な口の利き方をするのに、行動は驚くほど紳士だ。そういえば、彼の部屋はどこにあるのだろう。リズは知らない。
そのあとは悪夢を見ることもなく、気持ちの良い朝を迎えられた。
昨夜、ダニエルは――ネリーが入ってはいけないと言っていた――地下階段から出てきたのだろうか。だから、リズの姿を見てぎょっとしていたのだろう。そこまで考えて、慌てて首を振る。これは興味を持ってはいけないことだ。
いずれにしてもリズには関係ない。そんなことより、いつまでここに置いてもらえるのかが重要なのだ。
前半部変更修正入れました。




