Call for help②
玄関のチャイムが鳴ると、男は目でリタに行けと合図する。彼女は短く息をつくと、玄関へと向かった。「いらっしゃーい」というリタの声が響く。
さらさらとした栗毛を揺らす男が、眼鏡を怪しく光らせながら現れた。アサギは何事もなかったような態度でソファへ座ると口を開く。
「マツバ、どうした。珍しいな」
「あなたに会いにわざわざ足を運んだ訳ではありません。勘違いはしないでください。アサギさん」
「お、おう」
マツバはアサギに対して他人行儀な態度である。それは昔からという訳ではなく、まだ若い頃は「兄さん、兄さん」と慕ってくれていた。
男が長い息をはくと、リタが台所から飲み物を運んできた。
「コーヒー入れたから、皆でゆっくりしようよ。は~い、ダーリンはミルクとお砂糖が多めね」
「ここは俺の家なんだが……」
「まぁまぁ、兄弟なのにほとんど生き別れ状態なんだし。久々に再会したんだから二人とも嬉しそうして」
リタは婚約者の珈琲カップをかき混ぜながら微笑む。
マツバが、ソファと反対側に置いてあった丸椅子に腰を下ろすと、洋間は冷戦時のような冷ややかな緊張に包まれる。しばらく無言の時が流れた。
その静寂を破ったのは、室内へ響きわる「うおぉーっ」という絶叫だった。
興奮した様子のルーがソファの隣に出現している。
「――おまえはああっ」
そんな雄叫びを上げた男は、少女を抱え上げて素早く寝室に投げ込んだ。扉を閉めてから背で体重をかけて開かないようにする。
向こう側からドンドンとそれを叩く音がする最中で、マツバが怖い顔を向けてきた。
「今の彼女は、どちら様ですか?」
「い、いやっ」
アサギは必死に扉を押さえるが、押す力が強すぎて耐えられない。彼女の登場を容認せざるを得なかった。
少女は扉から飛び出て、床に手を付きながら疲弊する男を大きな瞳で見つめる。
その何かを訴えるような眼光に、アサギは「なんだよ」と問いかけた。
「――たらふくぅ!」
少女はペロペロと舌なめずりをしながらそう答える。先ほどの言葉通り、彼女は部屋の中で少しの間だけ大人しくしていたようだ。
それを悟ったアサギはさらに落ち込んで頭を下げた。
「兄さん、もう諦めなよ。折角だからマツバさんにも紹介したら?」
落ち込んでもいられない。まだ少女がスローターだとは感づかれていないのだから、その方が誤魔化しが効くのではないかと気を強く持った。
「マツバ、紹介するよ。彼女はルー。友人の娘さんだ。今、一時的に預かっていてな」
そう口からでたらめを言うと、マツバは椅子から立ち上った。しかし、黙っていればいいものをリタが余計な発言をする。
「そうだ、マツバさん。ルーちゃんを診察してあげて。彼女、さっきアロエベラの食べ過ぎで倒れていたの」
マツバも可愛い婚約者の言葉には逆らえないのか、無言で立ち止まってからルーの方を見る。
「いいでしょう。お嬢さん、こちらへ来てください」
彼はそう言ってから再び丸椅子へ腰掛け、少女を手招きした。
これはもう最悪の状況である。後は彼女の正体が暴かれないようにとアサギは祈るしかなかった。
リタと一緒に手遊びをしているルーを神妙な表情で眺めていたマツバが言う。
「アサギさん、彼女には幼児退行の症状が見られますが、どういうことでしょうか」
強い口調で問いつめられて、男は額に冷や汗を浮かべる。どう言い訳をしようかと思考を巡らせていると、彼は眼鏡の奥の瞳を閉じた。
「口にできない事情も世の中にはありますね。まぁ、あなたはどうしようもない人間で女性不審もありますから、何かしらの理由があるのでしょう」
さらっと罵ってくる弟に対してアサギは傷心したが、何とか彼なりに納得してくれたようで助かった。
男が安堵したのも束の間である。マツバは意外な発言を始めた。
「僕が微力ながら協力しましょう。ルーさんの症状は放って置いていいものではありません」
「いや、あのな」
「彼女には専門的な治療とアドバイスが必要と判断します。アサギさんのことですから、詳しいことは何も調べていないのでは」
「だから、それは」
「……はぁ、いつもあなたはいつもそうですね。一人で抱え込もうとするから」
そう言って視線を逸らすマツバを見て、男は「自分が本当に敬遠されているのかどうか」が、分からなくなってしまった。
「それとも、僕では信用に値しないとでも?」
「じゃあ、お願いするよ」
アサギは誘導尋問かよと思いながらも、結局は根気負けしてそう答えてしまった。うなだれる男を後目にマツバは立ち上がる。
「では、また資料などを用意しておきます。後日、連絡しますので。リタ、帰りますよ」
「はーい。じゃあ兄さん、ルーちゃんもまたね」
リタがマツバの後を追って玄関へ向かうのを眺めながら、男は頭を抱える。
アサギがそうして、こめかみを押さえていると少女が、そーっとやってきて袖を引いた。心配そうな表情で首を傾げる彼女に言う。
「別に痛む訳じゃねぇよ。人生って思ったように上手く進まないって、嘆いているだけだ」
「うぇ?」
「全部お前のせいだからな」
「おーおぅ」
「てめぇ、バカにしてんのか!」
「んんっ?」
「……はぁ、もういい」
難しい事はどうせ伝わらないとアサギは諦めた。ルーは口を開けて、腹部を撫でながら食事の催促をする。
「ああ、そういや。食わせる約束だったな」
それを聞いた少女は鼻息を荒くさせた。
男は「先に部屋を片づけさせてくれ」と呟きながら、めちゃくちゃになっていた洋間の掃除を始めたのだった。