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簡単な解決法

 アサギは休暇日にルーインをアパートへと残し、高級住宅が建ち並ぶエアリアズ地区へ足を向けた。理由は、弟であるマツバの住むマンションを訪れるためである。


 その扉の前で男は立ち尽くしていた。事前に連絡は入れたものの、インターフォンを押す事を躊躇っていたのである。

 緊張で手が震えたが、意を決してチャイムを鳴らす。しばらくすると、鍵が開いて、金髪の女が顔を出した。


「リタ、なんでお前がいるんだよ」


「やっほー兄さん、元気? まぁ、とりあえず上がってくださいな」


「おう」


 大理石のような艶やかな床の廊下を進むと、リビングへ通された。

 そこはアサギのアパートとは比べものにならない程に広々としたスペースだ。

 白が基調の品の良い家具が並び、壁には抽象的な絵画が、室内の中央にはL字型の巨大なソファが存在感を放っている。


 男が「はぁはぁ」という息使いに気が付いて下を向くと、ドーベルマンが短い尻尾を振っている。


「(犬までいる、だと……)」


 まるで夢のような空間にアサギは唖然となる。弟の自宅へは初めて訪れたが、これほどの差があるとは予想もしていなかった。


「なんだよこの空間は。結構、悔しいんだが」


 男がリタにそんな本音を漏らすと、彼女は笑う。


「だよね。きっと住んでる世界が違うのよ。まぁ、私もいずれはここで暮らすんだけどさぁ。あはは、想像つかないってば」


 ズボンの裾にじゃれながら噛みつく犬を見て、アサギはリタに尋ねる。


「犬の名前は?」

「クロエっていうの」


「雌かよ」

「そう、まだ一歳なのよ。可愛いでしょ?」


「一歳でこの大きさか。まぁ、動物は好きだからいいけどな。おーよしよし」


 男が犬の首元を撫でていると、奥の扉が開いて家主が現れた。


「どうも、アサギさん」

「よう、マツバ。突然、連絡して悪かったな」


「いいえ、別に構いません」


 しかし、そう言った彼の顔面が鬼のように恐ろしい。リタがクロエを男から引き放して、そっと耳打ちしてくる。


「兄さん、私もさっき許して貰ったばかりなの」

「そうか」


 マツバはリビングからキッチンの方へ向かう。男は彼に問う。


「えっと、座ってもいいか」

「ご勝手にどうぞ」


 トゲドゲしい言い方を返されたが、とりあえずソファに腰掛けた。ふっわふわとした感触の良いそれに、アサギは思わず頬ずりしたくなる。もちろん我慢した。


 そこでマツバが湯気だったコーヒーカップを運んでくる。


「どうぞ」

「すまん、ありがとう」


「……それで、用というのは」

「ああ。えっと、ルーのことなんだが」


「そうでしょうね」

 彼はマグカップに角砂糖を一つ、二つ、三つ、四つ、五つも入れている。かなり怒っているに違いないとアサギは思った。


「その、彼女の正体をずっと黙っていてすまなかった。言えなかったんだよ。お前、スローター嫌いだろ?」


「そうですね」


「だから悪かったって。怒るなよ。あと、ルーが幼児返りだっていうお前の推理は当たってたよ」


「幼児退行という診断です」


「ああ、診断な。そうそう、だから」


「僕が何故、スローターを嫌悪しているか、あなたはご存じですか?」


「えっ、そりゃあ。お前は、真面目だしよ」

「違います」


「えっ、じゃあ。正義感が強いしな」

「はぁ、そんな風に思っていたんですか」


 マツバはコーヒーカップを下ろすと、男を睨みつけてきた。アサギは「だってそうだろ」と呟く。


「はぁ、性格の問題ではありません」


「じゃあ、なんだよ」


 そこでクロエと戯れていたリタが、男に小声で耳打ちをしてくる。


「あのね。マツバさんは、兄さんのことが心配なんだよ」


 アサギは「まさか」と声を上げる。しかし、目前に座っていたマツバがプイッと顔を背けると、自分の考えを疑った。


「マツバ、お前。俺が心配だったのか?」


 彼は「なっ、なに馬鹿なことをおっしゃい」と言葉を噛む。あたふたとする弟を見て、兄も同じようにあたふたした。


 リタがソファに腰掛けながら声を上げる。


「もう、二人とも素直になりなよ。仲良くしたいんでしょう?」


「リタ、何を言うのですか。別にそんなことはありません」


「……俺は昔みたいに兄弟仲良くってのもいいと思うけどな」


「アサギさんも変なこと言わないでください。かなり、うん。かなり気持ち悪い」


「酷でぇな」


 アサギが笑うと、マツバは眉を潜める。それでもその顔が少しだけ赤らんでいたことに、男は気付くことが出来た。


 リタが首を傾げながら口を開く。


「ねぇ、兄さん。なんでルーちゃん置いてきたの? 一人にして大丈夫?」


「ああ、今日はルーインだったからな。早めに帰れば問題ないだろう」


 そう言うと彼女は不思議そうな顔色をさらに深くする。


「えっ、ルーインって誰?」


「その話だが」

 アサギが二人にルーの正体について話をすると、リタは訝しげな表情をして頭を抱えてしまった。


「わ、私のルーちゃんが人格だったなんてー。しかも、聞く限りだとルーインちゃんは結構キツい性格みたいだし」


 リタの「なんだかなぁ」という呟きに同意したくてアサギは何度も頷きながら腕を組む。


「俺も驚いたからな、奴はだいぶ偉そうだぞ」


「可愛いルーちゃんのイメージが崩壊しそう。でも見てみたいかも、呼べないの?」


「はぁ? ここまで連れて来いってか」


「だって直に会ってみたいんだもの。あっ、そうだ。じゃあ皆でお昼ご飯食べに行こうよ。兄さんちの近くでさぁ」


「いいが、うちの近所じゃデリバリーショップしかないぞ?」


 男が苦笑を返すと、リタは何かを閃いたように手をポンッと打ち鳴らす。


「私、あれ食べたい。なんだっけ鶏スープに麺が入ってるやつ!」


 アサギはその存在を思い起こして「あー、あれな」と小さく声を上げた。


「ヌードルだろ?」


「それそれ!」


「あれの本格的なやつはヴィーゴウ地区まで行かないとないんだが……」


「じゃあ、行こうよ。ねぇ、マツバさんいいでしょ~?」


 リタがマツバの腕に頬をすり付けている。弟が女といちゃついているところなんぞは見たくないなとアサギは思う。

 しかしながら、やはりマツバはリタには適わないようだ。彼は大げさにため息をつく。


「はぁ、全く。車を出せばいいんでしょう」


「いいの? ありがとーダーリン」


 マツバに抱きついたリタを見て、男は完全に視線を逸らした。



 ******


 マツバが車で迎えに来るというので、アサギは自動二輪車オートバイに乗って、ひとまず先にアパートへと向かった。

 家の中へ入ると、ルーインがテレビの前で真剣な様子である。彼女が観ているのは、ネコがネズミを追い回しているアニメーションだ。


 ルーインは背後に立つアサギに気付いて素っ頓狂な声を上げる。


「――は、早かったな!? って、違うぞ。こ、これは俗世調査であって、決して娯楽で鑑賞している訳ではないからなっ」


「ああ、それより飯食いに行くぞ」


「――はぁ!? い、今いいとこ……いや、分かった。準備する」


 少女はションボリと残念そうな表情を浮かべながら寝室へと消えていく。アサギは静かに腹を抱えた。



 迎えの車が来て、男は助手席へ座った。なぜならリタが後部座席でルーインと話したいと言ったからだ。

 男二人の背後から陽気な声が車内へと響く。


「えっと、初めましてでいいのかな」


「私は知っている。リタ」


「えっ、ありがとう。そっか、そっか。えっと、ルーインさんはヌードル好き?」


「ぬーどる? なんだそれは」


「今から食べに行くの。美味しいよ」


「ほう」

 そんな会話を聞きながら、アサギはフロントガラスから外の景色を眺める。

 車は滞りなく進み、ジェナイから市街地リブラへ、そこから裏通りへと進んで行った。


 ヴィーゴウ地区は大きく分けて二つ区域に分かれている。


 ソワレ通りは煌びやかな娼館が立ち並ぶ。一方のアイリーン通りには住宅と小さな飲食店がひしめき合い、多国籍な人々が暮らしていた。

 タイランの下宿先もこの近くにあるらしく、アサギもよく東洋風の旨い店を紹介して貰っている。


 マツバはアイリーン通りへと入る前に、パーキングエリアに駐車した。店までは歩いて向かうようだ。

 看板に『ら~めん』と書かれたこぢんまりとした店の前で、アサギは「そうそう」と顎を引く。


「そうだ、らーめんだ。ヌードルじゃなくて」


「それそれー。なんか上に乗ってるお肉がめっちゃくちゃ美味しいんだよねぇ」


 リタが「じゅるり」と声を上げると、それを思い出した男の腹も豪快に鳴る。


 店へ入ると、カウンターがあるだけの古風な作りである。亭主が「らっしゃい」と声を上げた。

 席に座ってメニュー表を見ると、異国の文字表記だ。アサギの予想だと和国語で書かれている。


「えっと、普通のらーめんを四つ」


 以前にリタと二人で来店した時も確かこんな感じで注文をした気がすると、男は過去の情景を思い出す。亭主は気前よく返事をして、麺を茹で始めた。


 それは器にヒョロっとした白い野菜とリーキねぎが山盛りとなり、二つに切られたゆで卵が黄身と白身の鮮やかな断面を見せている。


 そして申し訳なさ程度に肉が二枚だけ乗っていた。しかし、侮るなかれこの肉がなんとも旨いのである。

 どう表現をしたら良いだろうか、甘いようなしょっぱいような不思議な旨味で、柔らかい触感が癖になるのだ。


 そして極めつけは二本の棒ならぬ、『ハシ』である。


 他の客がそれを起用に操っている様子を見よう見まねで真似るが、上手く麺が掴めない。やつらはかなり素早い動きでハシから脱走し、自然と器へ戻っていく。

 四人揃って不器用な行動をしていると、亭主がフォークを出してくれた。



 大満足の食事を終えると、ルーインも幸せそうな顔をして腹をさする。その隣でリタが、しみじみとした様子で言った。


「あの味は家庭ではだせないよね」


「ああ、あれだ。ハルに聞いたことがあるが、『ソイソース(しょうゆ)』と『魚のダシ』がいるらしいぞ」


「えっと、それマーケットで手に入るかな? ねぇ、マツバさん」


 リタがそう問いかけると、マツバはタッチパネル式の携帯端末を取り出した。


「どうやら、この辺りの店でも売っているらしいですね」


「行きたーい、買いたーい、作りたーい」


「三重苦ですね」


「そんなことないもーん。上手く作るよ。マツバさんの意地悪ぅ」


 ぷーっと頬を膨らませたリタに、アサギはある提案をする。


「じゃあ今度、ハルに調味料を譲ってもらうか」


「――ほんとに! 兄さん大好きっ」


 彼女が駆け寄ってくると、マツバが「はぁ?」と言いたげな顔でアサギを見つめてきた。男にとっては正直なところ恐怖だ。


「アサギ、あれは何をしている」

 そこでルーインが民家の方向を指さす。


 家の前の路上で、生きたニワトリが今まさに絞められようとしているところであった。リタが「いやぁ、鳥ちゃんがっ」と悲鳴を上げる。

 アサギは、説明がいろいろと面倒くさいので、とりあえずルーインの目を両手でそっと塞いでおく事にした。

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