決死の盾
一ヶ月。その間に男がした努力はこれだ。
アサギは初めて親になる人向けのラジオ放送や、子育て指南書とDVDを借りた。
少女には単語帳やピクチャーブック、絵本も読み聞かせたし、幼児番組での会話の特訓など、それはもうあらゆる教育を施した。
そして、その結果がこれである。
「あしゃぎぃ、こりぇみる」
風呂上がりの彼女はそう言って本棚の動物図鑑へ視線をやった。
舌足らずなところはまだまだ未熟である。男の努力不足も関係しているかも知れないが、それでも多少の意志疎通ができるようになった。
重量のある図鑑を渡すと彼女はそれをカーペットに座り込んで鑑賞し始める。
ここぞとばかりにアサギは動物を指さす。それは犬だ。
「ルー、これは何だ?」
「いるぅ!」
「いぬだ。もしくはわんわんだ」
「わんわぁんっ」
次に男は猫を指さす。
「これは何だ?」
「にゃこ!」
「ねこ、もしくはにゃんにゃんだ」
「おぉ、にゃんにゃあー」
「ほら、ネット動画にも歌があったろ。犬のお巡りさんは迷子の猫を。ああ、子猫だったか。まぁいいそれで、わんわんわーん……って、俺は何を言ってるんだ」
アサギはそこで我に返った。これではまるで「保育士と園児だ」と感じたところで、少女が謎の単語を叫ぶ。
「ぱだぁ!」
「なんだって?」
彼女はパンダを指さした。
「ぱぉだ!」
次に彼女はゾウを指す。たぶん、ゾウとパンダのニ体はルーの脳内で融合したのだと思われた。
「ルー、楽しいか?」
「あいっ」
そしてこれはタイランの真似だ。止めさせたかったが彼女はこれで返事を覚えてしまった。
そろそろ就寝時間ではないかと、アサギは置時計を確認してから言う。
「さてと、もう寝る時間じゃないか?」
「いやらっ」
「駄目だ。早くしないとお前の陣地を占領するぞ」
洋間の壁際に置いたエアベッドとその周辺は彼女の領域となっていた。ルーは図鑑に見入ったふりで無視を決め込んでいる。
「……よし、分かった。お前の可愛いベアちゃんを俺は寝室に連れて行く」
『ベアちゃん』というのはリタがプレゼントしてくれたクマのぬいぐるみだ。赤いリボンを首に巻いているが男の子だという。
それをルーはとても大切にしているとアサギは知っていた。
「しかも連れて行くだけでなく、一緒に寝てやるぞ」
「――うえぇ!?」
「寝るのか、寝ないのか」
「おやしゅみ」
少女はいそいそと図鑑を片づけてから、エアベッドの毛布へ潜り込んだ。以前、同じような状況になった時に、アサギがぬいぐるみと寝た事がどうも許せなかったらしい。
「そうか。じゃあまた、明日」
電気を淡い色に切り替えて、寝室へ入った。ベッドに寝ころびながら世の中の親というものを心の底から尊敬した。
それから「ルーは今までどうやって生活してきたのか」といういつもの疑問を考える。
先日、マツバの勤務する大学病院へ行って専門医に診察をして貰ったが、ルーは幼児へ退行している可能性が否めないそうだ。
それは元々、彼女が一般的な教養を持っていたという事になる。ただし、それは少女が人間だった場合の仮定だ。
マツバにも仕方なくルーの正体を明かしたが、それからは一切、彼が連絡をしてくる事は無かった。
リタに聞いた話によると、かなり怒っている様子で彼女ともろくに会おうとしないという。
「(リタには悪い事しちまったな)」
グダグダと考えてもろくな事は浮かばないと男はもう寝ることにした。
朝の目覚めがはっきりしていたのは、カーテンの隙間から差し込む日光が眩しかったからだ。
昨晩は携帯のアラーム機能を切って就寝していた。というのも、久々の休暇なのである。
たまには昼間で寝込むのもいいかと思っての行動だったが、日頃の習慣というものは身に染み着いている。いつも通りの時間に起きていた。
男が寝室を出ると照明具がまだ淡い色を放っている。エアベッド上が膨らみを帯びているのでルーは寝ているのだろう。
歯を磨いて、野菜とフルーツのミックスジュースを飲んでいると、少女がくまのぬいぐるみを片手に起きてきた。
「おはぅお」
「よう、おはよう。よく眠れたか?」
「あふぅ」
ルーは頷きながら、アサギと同様に朝の習慣を開始した。
朝食としてシリアルを食べさせた後、テレビを観ていた彼女に男はこう告げた。
「今日は出かけるからな」
「おでかけぇ?」
「ああ。買い物ついでに借りたアニメーションのDVDを返しに行くぞ」
「もりのにゃこしゃんばしゅ!」
「タイトルが違うようだが……。まぁいい、それより早く着替えろよ」
「あい」
準備を終えた二人はアパートを後にした。ルーは以前来ていたワンピーススタイルである。
鉄道車に乗って都市部のパイシースを目指す。この地区は治安が良く、市場が開かれているために賑やかだ。
しかし、ルーと暮らすようになってから何かと物入りである。リタやケヴィンが不要な品物などは譲ってくれたが、それでも頻繁にここへと足を運ばねばならない。
駅に着いた車両を降りると、予想通り人の出入りが激しい。アサギは少女の方を振り返った。
「ルー、はぐれるなよ?」
「あーい」
元気よく返事を返してきたのはいいが、少女はきょろきょろと顔を忙しなく動かしている。駅から続くように軒を連ねる商店の活気あるかけ声に気が散っているようだ。
背後から「ふん、ふんふーんっ」とご機嫌な鼻歌が聞こえてくる間は、大丈夫だろう。アサギは人々の間を抜けて、駅側に立っている古いレンタルショップへDVDを返却をした。
その後は日曜品や雑貨を扱う複合店へと向かう。その店内で商品を物色していると、ルーが袖を引いてきた。
何かとそちらへ視線を向けると、彼女は白いウサギのぬいぐるみを抱いている。
アサギは冷静な対応でこう言い切った。
「買わないぞ、返してこい」
「うぇ、にゃんで?」
「あのなぁ、すでにお前にはベアちゃんがいるだろうが」
「うぉー、おともらちっ!」
「駄目だと言っとろうが」
アサギがそう言うとルーは後ろを向いてスカートを託し上げた。そしてぬいぐるみを服の中へ隠してから唇を尖らして素知らぬ顔を始める。
異様に腹の膨らんだ少女にアサギは目を細めた。
「(……いや、バレバレなんだが)」
「うひゃひゃ」
満足げにほくそ笑んでいる彼女のワンピースからぬいぐるみを抜き取る。嘆きの声を上げるルーを無視して、商品を棚に返した。
「うしゃぎしゃーんっ!」
「アホか、万引きで捕まるぞ」
彼女は不服そうに「ぶぅ」と頬を膨らませている。それを無視してアサギは目的の物をレジへと持って行った。
******
店から出ると一層、人口密度が増えた気がする。午前中とは違ってこの時間からは活動する者も多いのだろう。
――そこで唐突に高い悲鳴が上がった。
歩道を緩やかに下っていた人々は足早となり、まるで海の荒い波のように人の軍勢が逆走を始める。
彼らが何から逃げ惑っているのかはすぐに分かった。
人の群れの中から、次々と血しぶきが吹き上がっているのだ。ルーが「すりょーたー」と言ってその方向を指さすと、アサギの体に鳥肌が立った。
「まさか、スローターだってのか、こんな街中にッ、嘘だろ」
犯罪者然り、人間狩りをするような虐殺者はキャンザー街区に姿を現すことが多い。確かに市街や市場は対策部隊の警備が薄いとも言えるが、そのかわり警察が網を張っているからだ。
噴射されるような血液と悲鳴が徐々に迫ってくる。アサギはルーを先ほどの店中へと押し込もうとしたが、早くも騒動を嗅ぎつけた店主が、それを拒否した。
自動的にシャッターが閉まる様子を背に、現場とは逆の方へと足を向ける。「ルー、逃げるぞ」と少女の細腕を掴んで駆け出す。
休暇中であっても注射筒と小型の拳銃は所持している。しかし、もしも本当に対象者だったら、その恐ろしさを知っているからこその逃げるという選択だった。
それは凄まじい勢いで男の方向へとやって来た。なぜそう感じたかというと、頭と胴が切り離されて倒れる人が増えていく度にそこに道ができるからである。
その最中で「きゃあっ、たのし~い」と声を上げていたのは子供である。二つに縛ったスカイブルー髪を揺らすのは、なんと拘束されたはずのセレナだった。
彼女の手には以前と同じように蛇の様にうねった形状の長剣を持っている。
「ねぇ、お兄ちゃん。あそ~ぼっ」
ニヤリと微笑んだその顔を見て、アサギは逃げることを諦めた。ルーを庇うように前に出る。
「セレナ、お前は捕まっているはずじゃないのか」
時間を稼げば警察が誰かが駆けつけてくるはずだ。声をかけると、セレナは首を傾げた。
「えへへっ、なんでかなぁ~」
「ふざけるな、今すぐ人殺しをやめろ。さもなくば……」
「なにかなぁ?」
「また手足を吹き飛ばしてやる」
アサギは銃を構えるが、彼女は余裕な様子で笑う。
「きゃぁ、こわいっ。でも、そんなの効かないよ。 いぇーい、セレナの勝ちぃ」
そう言って彼女は特攻してきた。素早い動きで人波を抜け、男の間近へ迫る。
「ルー、どっかに隠れてろ!」
標的がアサギである事は明確である。男はルーと荷物を置いて真横の路地へと走り出した。
セレナは男の背を追いかけてくる。蛇剣が横に薙がれたが、間一髪で攻撃を回避した。
しかし、足がもつれて脇にあったゴミ溜まりに転がり込む。幸い段ボール箱が潰れてクッションとなり衝撃はない。
すぐさま体を起こすと、ひたすら真っ直ぐに路地を突き抜けた。それでもすぐ背後から「待ってよ~きゃははっ」と楽しそうな声がして冷や汗を垂らした。
「らめっ!」
舌足らずな叫びが上がった。アサギが振り返った時には、ルーがセレナと男の間に立ちふさがっている。
アサギを庇った少女の右腕が切れ落ちた。そしてその腹部からが血が溢れ出す。
ルーがそのまま倒れると、男は息を飲んだ。その体はすぐに治癒を始めるが、彼女は力ない様子でぐったりとしている。
「――クソッ!」
そこでアサギは銃口をセレナへと向けた。例えそれの効果が期待できないとしても、そうせざるを得なかった。
「へへっ、こんどはお兄ちゃんの番だよ。――っあ!?」
今度は幼い体から短い悲鳴が上がった。セレナは地面へと倒れて、涎を垂らしながら痙攣を始める。
その背中から複数の赤い矢羽が見えて、アサギは思った。
「(あれは……矢弾か)」
男が空を仰ぐと、建物上から何者かが飛び降りてきた。土煙を上げながら着地をしたのは褐色肌の巨漢である。
しかし、注目すべきはそこではない。彼はいわゆる『お姫様抱っこ』のような形で人を抱えているのだ。
それは目を半開きにした少女である。彼女は地に降ろされると、素早く片膝を付いて矢弾射撃銃を構えた。
そして迷う事なく、ルーへと矢弾を発砲する。回復を終えた体にそれが突き刺さると、その体はビクリと跳ねた。
「おい、やめろ!」
アサギが慌ててルーの体に覆い被さると彼女は構えの姿勢を解き、不思議そうな顔をした。
「アサギ、どうしたでありますか? これも貴方を狙ったスローターでは?」
「こいつは違う、俺の連れだ」
狙撃手の少女は頭部から飛び出た毛束を揺らしながら大げさな動きで首を傾げた。その隣にいた巨漢の偉丈夫が、申し訳さそうにスキンヘッドの頭に触れる。
「アサギ殿、すまない。自分もこれは貴殿を狙ったスローターの一味かと」
「いや、そう思うのは当然だ。正直言って、助かった。礼を言うよ、DS」
セレナの様子を確認すると気絶しているようだ。その背に打たれた矢弾の数から推測すると、何日かは目を覚まさないかも知れない。
一方、銃器を手にした少女は誇らしげに胸を反らしている。
「ふふん、このクリスティーナ・シュミットに落とせない的はないであります」
「ああ、そうだな。本当にありがとう」
アサギ礼を言うと少女、クリスティーナの言動がおかしくなり始める。
「この案件は堕天使との混血である我が身には容易すぎたので、礼には及ばないでありますよ」
彼女は「キリッ」っと自ら声を上げ、どうだと言わんばかりの顔をした。巨漢の偉丈夫が額に汗を浮かべながら、その体を申し訳なさそうに丸めている。
「アサギ殿。うちのリーダーがすまない。慢心するなといつも言い聞かせているんだが」
「いいや。気にするな、オリバー。……お前も大変だな」
頭を下げた彼、オリバーの肩に触れる。そこでルーがのそりと起きあがってきた。彼女の右腕はすでに繋がり、腹部も回復を遂げている。
少女はいつもとは違って険しい表情を浮かべていた。
「ルー、大丈夫か? クリスティーナの矢弾は特注なんだ。辛いところはないか?」
「……ない」
彼女の声のトーンはいつもより低い。一発とはえ、薬剤投与されたのだから、まだ脳が上手く働いていないのかも知れない。
男がそんな事を考えていると、銃器を背負い終えたクリスティーナが苦しそうな表情で「ぐっ、魔眼が疼く」と目元を押さえた。
オリバーが苦笑して口を開く。
「アサギ殿。どうやらリーダーは状況の説明を願い出ているようだ」
「ああ。この娘はルー、俺が保護している近世代スローターで害はない。こっちに倒れているのはセレナ、以前に基地に奇襲を駆けてきた奴らの一人だ。本部の方で捕らえていたはずだが、逃げ出したのかも知れん」
クリスティーナは真顔に戻ってから顎に、革袋を装着した手を当てる。
「それはまた、きな臭い案件でありますな。――ハッ、これはまさかっ。母上の血界が破れて外界との門が開きかけているのではっ!?」
彼女は慌てた様子で空を仰いだ。オリバーが「いや、そんなものはないぞ。リーダー」と冷静な態度でそれを諭している。
そんな二人を見ながらアサギは思う。
「(……クリスティーナは黙っていれば名狙撃手なんだがな)」
「――はっ。うぇ、あしゃぎ?」
そうこうしている内にルーも正気を取り戻したらしい。そのタイミングで、パトカーのサイレンが近づいてくる。軍用車も駆けつけ来ると、アサギは安堵して一息をついた。




