男の日常
ベッドに仰向けになっていた男は、腹の上に重いものが乗っている感覚がして目を覚ました。
体が鉛のように重くて動かせない。何とか視線を動かして腹の方を見ると、そこには幽霊のような女の生首が乗っていた。
「――ッ!」
顔から血の気が引いていく、男は体を振るわせながら目を開いた。
再び、体の上に重いものがある感覚に冷や汗を垂らす。そっと確認すると、ルーの上半身が腹部に乗っているだけだった。
「ルー、てめぇ重いだろうがどけ」
「んーんぁ」
「起きろ、こら」
彼女は体を起こして目をしばしばとさせている。アサギは言った。
「お前はソファで寝てろと言っただろうが」
「んうっそふぇぁ」
ルーは寝ぼけているのか意味不明なことを言いながら、再びアサギの腹上に体を預けた。
「おいこら」
頭をはたくと、彼女はようやく観念したのか欠伸をしながら体を起こす。
丁度いいタイミングで携帯のアラームが鳴る。アサギは体を伸ばしてからベッドから降りた。
ルーに予備の歯ブラシを使わせてから、野菜とフルーツのミックスジュースを飲ませる。アサギの朝の習慣が適応された。
男がキッチンへ立つと当然のように彼女は側で待機する。座って待っていても料理が運ばれてくることは理解しているようだが、それでも少女はそこにいた。
アサギは冷蔵庫を見てから、スクランブルエッグとソーセージを焼くと決めた。フライパンをガスコンロの火にかけていると、「バリ、グチャ」と嫌な音がする。
音の方を見ると、ルーが口の周りが黄色くさせている。生卵を殻ごと食したようだ。
「おい、バカやめろ」
少女の輝く両目が「これはなかなか美味いぞ」と言っているようだった。これだから油断ならないと男は思う。
「いいか、もう最後の二つだから食うな。はっきり言うが、これは焼いた方が美味いぞ」
世の中には卵を焼かないで食す勇者のような人間が存在する。アサギの祖父がまさにそれで、生卵を白飯の上にかけて食べていたという武勇伝を母親から聞いていた。
そんな事を思い出しながら、男はフライパンに油を注いで卵を割り入れる。
そのままの形で焼くようにプランを変更した。一緒にソーセージも投入し、水を入れてから蓋を閉めて蒸し上げる。
しばらくしてから蓋を開くと、蒸気と共に良い匂いが漂う。最後に黒胡椒を振りかけると、二枚の皿上へ盛った。
食器を洋間に運ぶと、ルーもヒョコヒョコと後を着いてくる。
テーブルに付くと何かしらのソース類が必要かどうか問う間もなく、少女はソーセージを摘み上げて口へ放り込んだ。飲み込んでからから「ひやぁ~」と歓喜の声を上げる。
「美味いのか。それは良かったな」
ご機嫌で体を左右に揺らす彼女にフォークを差し出す。使い方を教えようと実践した。アサギはソーセージを突き刺して口へと運ぶ。
「こうしてたら手が汚れないだろ」
理解したかは微妙なところだが興味は持ってくれたようだ。彼女は手にしたフォークで、皿上でソーセージを見よう見まねで突き刺した。
「早く、食っちまえ」
男がそう言うと彼女は皿を持ち上げて全てを口に詰め込んだ。パンパンに膨らんだ頬をモグモグとさせながら、見事に完食する。
そして、当然のようにアサギの分も欲しがった。仕方なくそれを与える。男がパンをかじっていると、ルーの目が「そいつもくれ」と訴えかけてきた。
「お前は俺を餓死させる気かよ。さすがはスローターだな、恐ろしい奴だ」
そんな冗談を言うと、彼女はニコッと笑う。男が「冗談が伝わった」と感動していると携帯電話が鳴った。
「朝っぱらから、誰だ? ……ゲッ、マツバか。これは昨日のことだろうな」
通話ボタンを押すと、いかにも機嫌の悪そうな「どうも」という声がする。
「よう、マツバ。なんだ、どうした?」
「どうして僕が電話をしているのか、その猿なみの脳味噌では分かりませんか。本当に、本当に?」
「(なんで二回言ったんだよ)……いや、リタのことだろう。すまんかった」
「それは本人に言ってあげてくださいますか。彼女は顔を泣き腫らして僕の家まで来ましたよ。今、代わりますので」
そこで電話の向こうから「やだ、怒ってるって言って」という彼女の声が聞こえる。
「怒っているそうです」
「悪かった。ルーのことなら施設にはやらないって言ってくれ」
「施設ですか?」
「とにかく、そう伝えてくれないか」
しばらく無言が続いた後、リタの高い声が聞こえてきた。
「兄さん。本当に、施設に引き渡さない?」
「ああ。まぁ、とりあえずはうちに置いておく。何かあったら――」
「その時は私が面倒をみるから!」
「ああ、分かった。よろしく頼むよ」
「また休みの時は遊びに行くからって、ルーちゃんに伝えておいてね」
「へいへい」
「マツバさんに代わるね」
リタはそう言うと、今度は彼の声が聞こえてきた。
「アサギさん、先日言っていた資料が準備できましたので、時間のある時に僕の職場へお越し下さい」
以前そんな事を約束していた事をアサギは思い出した。
「行くとしたら週末になるぞ」
「分かりました。それでは失礼します。ああ。後、もう一ついいですか。……リタを泣かせるなよ、愚鈍」
丁寧語からの強烈な一撃にアサギは「はい」としか答えられなかった。電話はそれで切れた。
「このことに関しては、全面的に俺が悪いか」
今度、彼女にはお詫びに花でもプレゼントしようと思う。
男はついでに保護施設へ連絡をすることにした。受付の窓口だという女に保護の必要が無くなった事だけを伝えると、早急に通話を終了する。
「さて、ルーをどうするかだな」
「んぁー」
「お前、留守番できるか?」
「る?」
「いや、留守番。俺がいない間はここで待ってるってことだ」
「あしゃぎ」
「俺はいないが、じっとしてられるか?」
「じっ?」
「いや、今日のところは連れて行こう。それから言葉を学習させねばならん」
可能ならばケヴィンに教えを乞うことに決めて、支度を始めた。
******
その日の任務はいつも通りの事務処理の作業だった。パソコンに向かっていたハルが苦痛な声を上げる。
「また引きこもり生活の始まりですかっ。隊長、どうして三番隊だけが雑務ばっかり押しつけられるんです!?」
「どうだろうな。まぁ、俺は助かった。こいつが居るからな」
ルーは床に紙を敷いて、鉛筆を一生懸命に動かしていた。
ハルは持っていたペンを器用に回転させている。
「ああ、災難です。しかも、タイランさんだけ、一番隊に派遣されるなんて」
「あいつはまだまだ現場に慣れることが必要だからな。仕方がない」
「あーあ。隊長さえ、一番隊に所属していたら僕は迷わずそっちが良かったです」
「そう、カッカするな。必ずしも現場がいいとは限らないんだぞ」
「隊長はいいですよ。事務処理ってほぼ、僕の仕事なんですからね」
「それは悪いな、応援するよ。頑張れ、ハル」
「うおおお、頑張るけど、頑張るけどぉ!!」
彼はそう叫びながらキーボードを連打し始める。アサギはちょっとした狂気を感じた。
「――あしゃぎっ!」
ルーは「フン」と鼻を鳴らしながら、三枚目のアサギを完成させたところのようである。
その時、扉がビーッと音を立てた。誰かが尋ねて来ているようなので、アサギはデスクから離れる。
扉のセキュリティーを解除すると、髪を後ろに撫でた長身の男がゆっくり入室してきた。
「おう、ケヴィン」
「やぁ、今日は事務作業だそうだね。僕も手伝うよ」
「それは有り難いな」
「ああ、この足じゃどうせ。現場には出られないからね。おやおや、お嬢さんも居るのか」
彼は少女を見て微笑んだ。そんな男にアサギは声をかける。
「なぁ、ケヴィン」
「なんだい?」
「実は相談があるんだが。まぁとにかく座ってくれ」
彼を中央に置いてある事務机へ案内する。アサギは業務書類の入った段ボールを用意しながらその前へ腰掛けた。
「それで、相談とは何かな?」
「実は、あいつに言葉を教えたいんだが、どうすればいいか分からなくてな」
「それは、まだしばらく彼女をまだ預かっているということかい?」
「いや。とりあえず、自宅に置くことにした。問題がなければ施設へは預けない」
アサギの言葉にケヴィンは柔和な表情を浮かべる。
「そうかい。それなら、僕が微力ながら手助けするよ。もちろん雑務の方もね」
「それは助かる、ありがとう」
ケヴィンは胸ポケットから眼鏡を取り出して書類に目を通した。アサギもそれを整理しながら話しかける。
「どうすれば話せるようになるんだ。一応、文字は見せてみたんだが、理解しているか微妙なところでな。意志の疎通ができないのは厳しい」
「ははは、そうだね。僕も経験したから分かるよ。そうだな。まずはフラッシュカードはどうだろう」
「フラッシュカード?」
「単語帳みたいなものさ。簡単な物は子供洋品店にも売っているよ。まずはそれで文字から初めて、その後に文字と絵が描かれたカードで単語を覚えさせるといい」
アサギは「なるほど」と唸る。自分が勉強する時と同じ様な方法でいいのだと思った。
「単語が分かるようになれば絵本だって読めるようになる。そうすれば社会的なことだってだんだん身についてくるさ。そうして子供は育っていくんだよ」
さすがは立派に子供を育てているだけはある。ケヴィンは懐かしいものを思い出しているような哀愁ある顔をしていた。
「ケヴィン。お前の子供って今いくつなんだ?」
「娘は十歳だよ。……最近、反抗期でね。あまり口を聞いてくれないんだ」
「そんなことがあるのか」
「ああ。パパ、パパと言って甘えてくれるのは幼い頃ぐらいだよ。ああ、写真があるけど、見るかい?」
そう言って彼は懐から定期ケースを取り出した。そこから抜いた一枚の写真をアサギへ手渡す。
それは微笑ましい家族写真だ。嬉しそうな顔で幼子を抱いたケヴィンと、その隣にニコニコとした表情の若い娘が写っている。
そこでハルが椅子をゴロゴロと鳴らしながら移動してきた。彼は写真を覗き込んで声を上げる。
「この方が奥さんですか? すごく若いし、美人さんですね」
妻を褒められて嬉しいのかケヴィンは柔和に微笑む。
「ああ、昔の写真だからね。彼女は僕より幾つか年下だから」
それを聞いてハルが「いいなぁ」と呟く。対して彼は写真を仕舞いながら言う。
「ハル君もいつかは出会えるさ」
「そうですかね?」
「ああ。そうとも」
アサギはそんな二人の掛け合いを聞いて、つい笑い声が漏れた。ハルが怒って頬を膨らませる。
「笑うなんて酷いです。僕だって恋人ぐらい欲しいんですからね」
「ああ。すまん、すまん」
そこでルーが「あしゃぎっ」と叫びながら紙を天井へ掲げた。彼女はもう何枚目か分からない絵を完成させていた。
しばらくしてから時計を確認すると時刻はすでに十六時を回っていた。タイランが戻ったところで作業は終了となり、執務室の前でケヴィンに礼を言う。
「今日はいろいろと助かった。ケヴィン、二番隊の人選をする時は呼んでくれ。可能な限り手助けする」
「ああ、有り難う。でも実は、四番隊が稼働したら僕はそちらに移るつもりなんだ」
「そうなのか?」
「ああ、ジルもいるからね。なにより部下を死なせた責任は重いよ。僕は隊長にはふさわしくない人間だ」
「そんなことはない。お前のせいじゃ……」
「アサギ。部下と彼女をしっかり守れ。大切なものを無くすのはとても辛いことだ」
ケヴィンはそう言い残して、足を引きずりながら行ってしまう。残されたアサギの頭の中には彼の言葉が渦を巻くように繰り返された。
執務室へ入るとタイランがウォーターサーバーで水を飲んでいたところだった。
「隊長。必要ですか、飲み水が」
「いや、水はいい。そうだな、珈琲でも買ってくるがタイランもいるか?」
「苦手で、いいえ」
「そうか、嫌いだったのか。他の飲み物はどうだ? 炭酸類は?」
「あー、無理です。お茶、好きです、私」
「あれな、なんて名前だったか。おい、ハル。お前がいつも飲んでる茶って何だった?」
青年は椅子を回転させながら、「はい、緑茶です」と返事をする。それから立ち上がって、備え付けのロッカーを漁り始めた。
ハルは一本のマグボトルを持ってきて、「チャラッララー」と謎の効果音を口ずさんだ。
「これですよ。タイランさん、マグカップを四つ持ってきてください。緑茶でも飲んでほっとしましょう」
アサギはルーを連れて椅子に腰掛けた。タイランが持ってきたマグカップにハルは茶を注ぐ。湯気の立つその緑の液体を男は見つめた。
タイランは目を細めながらそれを味わっているようだ。
「違う、故郷の。しかし、美味」
「ほう。じゃあ、俺も」
アサギはカップを傾けた。少し口へ含むと、その何とも言えない甘いような独特の渋味に眉を寄せる。
「う……わ。これは」
男の様子には気づいていない青年は、自慢げにしている。
「母が茶葉に凝ってまして、こっちにも送って貰っているんです。隊長いかがですか?」
「俺にはちょっと合わないな」
「そうですか、残念です。急須で入れるとさらに美味しい種類もありますよ」
「いや。悪いが、俺は遠慮したい」
アサギが首を横に振ったところで、ルーが体をビクリとさせている。
「あ、ルーさんは美味しいですか?」
「うっ、うまぅ!」
「それは良かった。分かって貰えて嬉しいです。あの、隊長って確かお祖父様が僕と同じ和国のご出身なんですよね?」
「ああ、そうだが。祖父には会ったことはないし、これは初めて飲んだぞ」
「うーん、やっぱり幼い頃から慣れて親しんでいた方が旨味を感じるんでしょうか。抹茶とかだと苦手な人もいるけどなぁ。タイランさんはやっぱりウーロン茶が主流ですか?」
タイランは頷く。ハルも納得したような顔だ。
「やっぱり、そうなんですね。僕も好きです。さっぱりしてるから油物っこい料理にかかせないですよね」
そこでアサギはいつも思っていたある疑問を、ハルへ投げかけた。
「俺は正直、ハルとタイランの違いがいまいち分からんのだが」
「――ええっ! 隊長、それ問題ですよ。というか最近、耳にしましたが、三番隊は東洋人でまとめられらしいですね」
「ああ、そうみたいだな」
「はっきり言って不当な扱いです。アサギ隊長に至っては、クォーターで育ちはこちらだから、完全に名前だけじゃないですか」
「ははっ、本当だな」
「笑わないでくださいよ。そんな扱いされて許せるんですか?」
「特に気にしてないが。ハルもタイランも悪い奴じゃないだろ。俺はチームになれて嬉しいがな」
「隊長、僕も嬉しいですよ!」
瞳を潤ませる青年を宥めながら、アサギは「いい部下に出会えて良かった」としみじみ感じたのである。
一方で、ルーはカップに口をつける度に体をビクリと震わせていた。彼女が口の中を火傷していたことに、その場では誰も気づかなかった。




