4.幸せな結末
大瀧詠一のヒットナンバーに乗せてお送りした物語も、これで最終話です。おつきあいいただき、ありがとうございました。
タクシーに乗り、沙織の案内で祐樹という男のマンションに着くまでに十五分くらいかかった。夕方に差しかかった時間の道路は、ところどころで渋滞が始まっていて、雨天が渋滞に拍車をかけていた。車内で沙織はずっとうつむいたままで、時折運転手に道案内をする以外は口を利かなかった。仁美は間の悪い渋滞にいらいらしていた。運転手は幽霊とオニを乗客にしているような気分で、ハンドルを握りしめる。
二人を降ろして、運転手はほっと安堵したような顔をする。仁美は沙織に、どこ、といって目の前に建つマンションのエントランスにさっさと足を踏み入れる。十階建てマンションのエレベーターに乗り、沙織は四階のボタンを押す。
エレベーターから三つ目が祐樹の部屋だった。二人はドアの前に立った。
「沙織、行くわよ。いい?」
沙織は仕方なさそうな調子で頷いた。仁美はためらわずインターホンを押す。沙織の部屋の前でもそうしたように、耳を澄ますとドア越しにかすかなインターホンの音が聞こえる。だが人の気配はない。三回押して、インターホンのスピーカーからは沈黙しか返ってこないことがわかると、仁美はがっくりとため息をついた。
「いないみたいね。さっきはいたの? あんた、まさか鍵持ってたりは……しないよね」
「持ってるわ」
沙織は自分のバッグに手を突っ込んだ。しばらく自分のバッグの中をかき回し、首をひねった。
「ない。鍵が……ない」
「なくしちゃったの? まあいいや。ここまで来たんだから、とにかく待ちましょ。さっきまでいたんだったら、待ってれば帰ってくるでしょ」
今日はどこに行っても待たされる日だと思いながら、仁美は沙織とともにドアの前に立っていた。雨天のせいで、夕方から夜に変わりつつある時間帯は、冷えた空気を連れてくる。雨で濡れた洋服を通して、冷気は二人の体に絡みついて背筋をぞくぞくさせた。
冷気と一時間あまり格闘しているとエレベーターが四階に停止した。扉が開き、中からカップルが出てくる。二人は顔を上げカップルの方に視線を向ける。そのとき沙織の目が大きく見開かれた。
祐樹は自分の部屋の前に立つ二人に怪訝そうな目を向けて、薄暗い廊下を歩いてきた。背後にはカップルの片割れがついてくる。部屋のドアまであと数歩というところで、祐樹は二回ほど食事をして以来、久しぶりに会う女の顔を見た。
「ああ、誰かと思ったら。あのとき食事して以来ですね。お久しぶりです。それにしても、こんなところでどうしたんですか?」
「ひどい」
沙織の放った一言は、呪詛に満ちていた。彼女の目から放たれた憎しみは、祐樹とその相手の間を交互に行き来した。それに合わせて仁美もまた二人を見た。仁美はやや混乱して、祐樹に訊ねた。
「あなた、沙織の彼氏……じゃないの?」
「えっ?」
そのとき沙織のカバンから小さなぺティナイフのようなものが取り出された。沙織は仁美の背後に立ち、仁美の正面に祐樹は立っていた。だから仁美も祐樹も、この沙織の行動には気付かない。わずかに祐樹の背後にいた麻友美だけが、沙織の不自然な行動を気にかけたが、仁美が死角となって沙織の手もとまでは見えない。
あっ、と麻友美が声をあげた。その刹那、沙織が握ったナイフは祐樹の腹に納まっていた。一瞬、沙織以外は、目の前で起きていることを認識できずにいた。沙織は祐樹の腹から抜き取ったナイフを麻友美に向けた。そのままナイフをへその位置に構えて麻友美に突き進む。片手で腹を押さえた祐樹と反射的に手を伸ばした仁美が彼女の突進を拒んだ。
一時間後、沙織は取調室にいた。傷害およびストーカー防止法違反容疑で、麻友美が携帯から通報した警察によって連行されたのだ。
警察に続いて現れた消防隊員により、祐樹は病院に運ばれた。祐樹の立っていた場所は、赤黒いシミを作っていたが量はたいしたことはなかった。幸いナイフもさほど深くは刺さっておらず、落命の心配がないことは病院で診察してすぐにわかった。
仁美は翌日も店を閉めた。もはや仕事ができるとは思えなかったから。午前中は部屋にいた。ろくに眠れなかったけれども、目は冴えている。
午後になって祐樹が入院した病院へと向かった。受付で病室を照会し、病室の扉を開けた。ベッドに横たわる祐樹と傍らに寄り添っている麻友美がいた。ドアのところで会釈をすると麻友美が会釈を返してきて、ベッドの上の祐樹もかすかに動いた。仁美はベッドの麻友美と向かいの位置に進み、祐樹の様子を見た。祐樹はそれほど憔悴した様子もなく、意識もはっきりとしている。それを見て、仁美は謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。あたし、あの日は沙織と一緒に、あの子の部屋から来たのに。まさかバッグにあんなものを忍ばせているなんて知らなかった。それにあの子が『私をほったらかしにした』って言葉を鵜呑みにして、あなたのところへ行こう、と焚きつけたのもあたしなの。本当に……ごめんなさい」
「でもあなたもまさか、あの子――沙織さんっていいましたよね――がストーカーだなんて思っていなかったんですよね。なら仕方ない。あなたのせいではないでしょう。それにあの子はあなたの親友なんじゃないですか?」
仁美は泣きながら、かすかに頷いた。嗚咽しながら、仁美はさらに悔恨の言葉を口にする。
「そう、親友のつもりだった。でも親友のことを、あの子がストーカーだなんてことを……あたしはまったく気付かずにいた。親友なんていえない!」
麻友美が感情をほとばしらせている仁美の傍に寄って、肩に手を置いた。
「親友でもわからないことはあると思います。いや、むしろ親友だから見えなくなってしまうことが」
「麻友美のいう通りですよ。まあ幸い怪我もたいしたことはない。『罪を憎んで人を憎まず』ということにしておきましょう。これからもあの子には、あなたの支えが必要なはずです、きっと」
祐樹は怪我がまだ痛むのか、わずかに歪めた顔に笑みを浮かべていった。
「ありがとう。あの子はあたしの店で、本当にあたしを助けてくれた。あたしは原宿でブティックをやっているんだけど、あの子以上の店員なんて見つからないと思っていた。なのにどうして、どうしてかわからない」
二人のなぐさめは仁美にとってありがたいものであったが、二人の優しい声は仁美をいたたまれない気持ちにした。結局仁美は悔恨と謝罪の言葉だけを置いて、病室を後にした。そしてその足を警察署に向けた。
警察署で接見を申し出ると、しばらくして接見室に通された。透明な板で区切られた境界に阻まれた彼岸に、沙織はいた。青白い顔を下に向けたまま椅子に座り、じっとしている様子は、ベッドに横たわっていた祐樹よりもはるかに病人に見える。一分ほど何もいえずに仁美は板越しに沙織を見ていたが、彼女が微動だにしないので、透明板に開けられた小さな穴に向かって話しかけた。
「沙織……ねえ、沙織!」
感情がそのまま声になったようだった。悲しいとも悔しいともとれる仁美の声は、接見室に響き渡り、ようやく沙織はわずかに顔をあげた。
接見は三十分くらいだったが、やはり病院で聞いた祐樹の沙織に対する記憶と彼女が語る祐樹の思い出には、大きな隔たりがあった。祐樹と沙織の話の共通点は、二度一緒に食事をしたことと先週の土曜日に麻友美と一緒に代々木公園を歩いていたことだけだった。いや祐樹のマンションまで行ったことも本当だろう。あとは明らかに彼女の頭の中で構築された話であることがわかった。
祐樹の誘いで部屋に入ったことも、彼とのセックスも、その後のシャワーも、彼の部屋から鍵を持ち出したことも、それらは全部沙織の中で作られた仮想記憶に過ぎない。仮想記憶は沙織の中で日に日に肥大し、現実世界との境界を曖昧にさせていた。彼女が代々木公園で麻友美と談笑しながら歩く祐樹を見たとき、彼女の中で、その光景は仮想記憶と結合したのだ。
結局沙織は起訴猶予処分となり、一週間ほどでキャンディに戻ってきた。仁美が病室で流した涙が功を奏して、祐樹と麻友美の心を揺すったようだ。あの部屋に悔恨と謝罪の言葉を置き土産にしたことは、沙織の役に立っていた。沙織は以前ほどではないものの、一応は明るさを取り戻したように見えた。
彼女が復帰してから始めての月曜日。その日は定休日で仁美も沙織も休みである。だがまだ沙織のことを心配していた仁美は、再びトップスのチョコレートケーキを手にして、沙織の部屋に向かった。今度こそ、沙織と一緒にケーキを食べよう、と思っていた。
沙織はおのが部屋に、ひっそりとわだかまっていた。仁美はこの日、ずっと沙織と一緒に過ごすつもりだった。今この子を助けてあげられるのは、あたししかいないんだ、と仁美は思っていたから。チョコレートケーキの箱を開けると沙織はキッチンに向かった。今日はコーヒーを淹れるつもりらしい。仁美はちょっとだけ胸をなでおろした。
コーヒーの準備をする彼女の横で、仁美は皿とナイフを取り出して、チョコレートケーキを切り分けた。ナイフをケーキの入っていた箱に置くと、再びキッチンへと向かい、二人分のフォークを持ってきた。
仁美も沙織もランチはまだだったが、チョコレートケーキを二人で頬張ったら満腹になったので、お昼はケーキとコーヒーだけで済ました。
それから夜まで二人はいろいろと話をしたが、仁美は祐樹のことだけは意図的に避けていた。今度こそ彼女の中に堆積した仮想記憶を蘇らせるわけにはいかないから。それから一緒に夕食をとり、午後九時半くらいに彼女の部屋を出た。
「じゃあね、沙織。また明日、お店で会おうね」
「うん、今日はありがとう、店長」
「何いってるの、元気出しなよ。食べっぱなしでゴメンね。久しぶりに沙織との話に盛り上がっちゃったからさ」
「気にしないでよ。ケーキごちそうさま」
しかし翌朝、開店時間の十時を過ぎても沙織は現れなかった。部屋の電話も携帯も彼女はいないといっている。午前中いっぱい待ったが、ちょうど昼休みの時間になると仁美は店を閉めた。明治通りに出てタクシーを停めると、沙織の部屋に急いだ。いつものいやな胸騒ぎがまた体中を駆け巡っている。
沙織の部屋の前でインターホンを押したが、案の定返事はない。ここ数週間の間に何度このインターホンを押したことか。仁美は一階に降りて管理人室に向かった。管理人に自分の身分と事情を話し、彼女の部屋の鍵を持った管理人とともに再びエレベーターに乗る。四階で降りるなり、管理人を急かせるように沙織の部屋を開けさせた。部屋に入ると昨夜のままのテーブルが真っ先に目に入った。夕食の皿も、ランチ代わりに食べたケーキの箱もそのままだった。ケーキの箱の上に仁美が載せたナイフがない以外は。
部屋に駆け込むと沙織とナイフが床に横たわっていた。彼女の左手首が置かれた周辺の絨毯だけが赤く染まっている。彼女が手首を切ったのは明白だ。ナイフにまだ残っていたケーキを切ったときのカスは、彼女の左手首にもわずかに付着していた。
仁美は再び悔いた。あれほど祐樹の話題を慎重に避けたのに、なぜナイフを出したままにしてしまったか。そもそもナイフなど、まだ沙織の前に出すべきでなかったのかもしれない。しかもそのナイフはあの日、祐樹を刺したナイフに大きさも形もそっくりではないか。
立ち尽くしたまま呆けたような顔で固まっている管理人の前に、仁美は崩れ落ちた。バカ、と何度も動かぬ沙織を叩き続けた。沙織は仁美のなすがままに、僅かに笑みを浮かべたまま、ただそこに横たわっている。
(了)
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