4 和郎には必死さが足りない(必死さ。そう、それは商業作家に必要なもの)
その頃、和郎はひとり悩んでいた。
いっそのこと萌え絵などは無視して、ラブコメ作品をさきに書いてしまえば良いのではないかとも考えた。
だが、書き出してみるとほとんどが数ページ、あるいは遅くとも三十ページ以内に、確実に登場人物が死んでいた。
登場人物を殺さずに物語を進行させるにはどうすれば良いのか。
それを知るためには、やはりラブコメ要素の入ったライトノベルを読まなくてはいけない。
そして一冊を手に取り、表紙で萌え絵アレルギーが発動。
仕方がないとりあえず書き出してみるか……。
というループをすでに何十回やったかわからないような状態だった。
渉に相談しても「さすがにぼくは医者じゃないからなー」と、これといったアイデアは出てこなかった。
一瞬、玉青に期待しようかとも考えたが、すぐに頭を振ってそんな邪念を払拭する。
あいつは担当じゃあない。ただの出版社の窓口だ。
賢明にそう言い聞かせた。
そして、またもやあきらめ、不毛ながらも原稿を書いてしまおうと思い立ったそんな折り。
和郎の家に来客があった。
「こんにちは。こじまかずろう先生のご自宅はこちらでよろしかったでしょうか」
スーツに身を包んだ、慇懃無礼な三十代半ばの優男だった。
「はあ……」
和郎のことを『こじまかずろう先生』と呼んだことから推測すると、作家としての和郎を訪ねてきたらしい。
ファンか、あるいは今更だがマスコミだろうか。
ちなみに、受賞に際し、玉青が方々にかなり圧力をかけたらしく、和郎の自宅までマスコミやファンが押し寄せたことはいままでに一度もなかった。
それがついに破れる日がきたのだろうか。
「私、こういう者でございます」
和郎がいぶかしげに観察していると、男は懐から何かを取り出した。名刺だった。
「想大社、特別顧問補佐役、甲森仁……? なんだ、想大社のひとか……」
想大社という文字を見た瞬間、和郎は緊張の糸がほどけるのを実感した。
だが、玉青以外の人間がいまさら自分になんの用があるのだろうかと、今度は別の疑問が心の中に生まれる。
「失礼ですが、こじまかずろう先生本人でよろしかったでしょうか?」
「ああ。俺がこじまだけど……」
「そうですか。紅緒様、間違いないようですよ」
甲森は和郎に会釈すると、首をひねり、自分の背後に向かってささやくように言った。
「聞こえてるわよ!」
甲高い、叫ぶような声。
それに続いて、甲森の影から少女がひとり飛び出した。甲森の背後に隠れていたらしい。
「ふぅん。あんたがお姉ちゃんのパートナーってわけね……」
少女は玉青より少し身長が高いようだが、甲森や和郎よりは小さい。
しかし、態度はその場で一番大きかった。
見下すように、値踏みをするように和郎の全身をじろじろと観察している。
赤色を中心にコーディネイトされた、ドレスのような服を着ている。
わずかに茶色味がかった癖のある髪を頭の両脇で結わいている。
あどけなさは残っているものの、目鼻立ちは整っている。
どことなく玉青に似ている、そう和郎は思った。
ただし、玉青に比べると目の前の少女の方が若干目つきが鋭いが。
「……あんまり冴えないわね」
しばらく和郎を眺めると、やがて吐き捨てるように少女は言った。
「はあ? 誰だよ、おまえ」
いきなり初対面の人間に冴えないなどとバカにされ、和郎は少々いらだつ。
「おまえですって? 気安く人をおまえ呼ばわりしないで欲しいわね。あたしには竜宮院紅緒っていう高貴な名前があるんだから」
キッとにらみつける、紅緒と名乗った少女。すると、ほとんどそれと同時に、甲森が手を伸ばし、またもや名刺を和郎に差し出した。
「こちらが紅緒様の名刺になります」
甲森のシンプルな名刺とは異なり、真っ赤な薔薇があしらわれた派手なカードだった。
和郎はそれを受け取り内容を音読する。
「想大社、特別顧問、竜宮院紅緒……。竜宮院ってことは、竜宮院玉青の親戚か何かか?」
「妹よ。十六になったばかりよ。悪い!?」
「別に良くも悪くもないが……。なるほど、妹か……」
和郎はようやく少女と玉青が似ている理由に納得した。
「何よ。そんなにじろじろ見ないでくれる?」
「まあまあ、紅緒様。紅緒様はお綺麗ですから、こじま先生も見とれてしまっているのですよ」
「え? そうなの?」
和郎はただ見ていただけだったのだが、甲森が勝手に注釈を入れた。
だが、そのひとことで紅緒の態度が一気に軟化したのがわかる。
「そ、そういうことなら仕方ないわね。好きなだけ見るといいわ」
と、紅緒は腰に手をあてると、そっぽを向き、これでもかといわんばかりに胸を張るのだった。
とりあえず和郎には、紅緒の胸がまだ発展途上らしいことだけがわかった。
「……それで、その妹さんが俺になんの用だ?」
玉青に似ているということは、紅緒もかなりの美人である。
しばらく鑑賞していても良かったのだが和郎はすぐに話を続けた。
萌え絵アレルギーやラブコメ原稿に手がついていないことで多少焦っていたのだ。
「え? そ、それはその……」
紅緒は口ごもる。代わりに甲森が答えた。
「紅緒様は玉青様を大変心配なさっております。そのため、あなたが玉青様をきちんとサポートできるのかをご確認なさりに来たのですよ」
「べ、別にお姉ちゃんのためなんかじゃないわよっ」
そっぽを向く紅緒。
「なるほどな。だけど、逆じゃないか? 俺が銀髪をサポートするわけじゃあない。あいつが俺を担と……、サポートするだけだろ?」
「担当」と口走りそうになり、和郎は慌てて言い直した。
「銀髪!? それにあいつですって!? ちょっと、こじま! あなたね。お姉ちゃんを代名詞呼ばわりして良いと思ってるの?」
「おい。お前こそ何いきなり人のこと呼び捨てにしてるんだ? 年下だろ、お前」
「う、な、何よっ。そっちが悪いんでしょ!?」
「ああ?」
和郎はほんの少しすごんで見せた。すると、紅緒は甲森に泣きつく。
「ひううっ。甲森、この男、怖いわ、なんとかして」
「紅緒様、今のは紅緒様の方にいささか非があると思いますが?」
「だって、だって、お姉ちゃんをあいつ呼ばわりするのよ!? 許せないわ」
「そうはおっしゃいますが、私どもが知らないだけで、おふたりはすでにそのような関係にあるのかもしれませんよ」
「そ、そのような関係って?」
「それはもちろん、男女の深い仲ですよ」
「嘘!? 本当なの、こじま!? ねえ、お姉ちゃんを、た、食べちゃったの!?」
甲森にそそのかされた紅緒は涙目になって、今度は和郎につめよった。
「食ってねえよ! おい、甲森さん、適当なことを言うなよ」
和郎は甲森を軽くにらみつける。甲森は申し訳ありませんとつぶやき、素知らぬ顔で舌を出した。この甲森という男、なかなか良い性格をしている。
和郎は紅緒に視線を移す。
「俺とあいつはそういうんじゃねえよ。俺が作家であいつが出版社の窓口役。それ以上でもそれ以下でもない」
「じゃあ、じゃあ、なんで銀髪とかあいつなんて親しそうにお姉ちゃんを呼ぶのよ? このあたしの許可もとらずに!」
「そりゃ当たり前だろ? あいつが俺にしたことを考えてみろよ。おかげで俺の人生……、ってほどでもねえけど、俺の将来の希望がずたずたのぼろぼろなんだぞ?」
「……そういえば、そうだったわね」
「だろ?」
「もし、あたしが同じ立場だったら、お姉ちゃんをどこかに閉じ込めてあんなことやそんなことをしまくってるだろうから、それにくらべたらあんたはずっと温厚だわ」
あんなことやそんなことってなんだよ、と聞き返したくなったが、面倒なのでやめておくことにする和郎。
「わかったわ、こじま。あんたがお姉ちゃんをあいつって呼ぶことも、ついでにあたしをおまえと呼ぶことも許してあげるわ。あと、あたしの名前を言うときは様かちゃんをつけなさい」
びしっと、人差し指を和郎に突きつける紅緒である。
「……はいはい、わかりましたよ」
和郎は肩の力が抜けていくのを感じていた。もう、こじまと呼び捨てにされようとも怒る気は激減している。この紅緒という少女は、あの玉青と年齢が一つしか違わないというのに、かなりの子供なのだろう。
「と、ところで、こじま」
「なんだ、紅緒……ちゃん」
「その、あの……」
紅緒はもじもじと体を小刻みに揺すっている。
「どうしたんだ?」
「あう、えっと、あの」
体の動きは次第に小刻みになっていく。
紅緒の頬がほんのりと紅潮し、スカートの内側で必死に足をすりあわせているように見えた。
「……ああ。トイレなら玄関を入って右側の壁沿い一つ目の扉だ」
「れ、レディに何を言うのよ! ちょっと化粧を直したいだけなんだからっ」
和郎が半身になり、家のドアを全開にすると、紅緒は一目散に家の中に走り込んで行った。
玄関で靴は脱いだものの、ばらばらに散らかっている。
「まったく、どこがレディなんだか。しかもあいつメイクしてねえだろ、あれ」
「そこが紅緒様の魅力でもあるのですよ」
和郎のつぶやきに、甲森がにっこりと微笑んだ。
「銀髪とは大違いだな……。とりあえず、なんか用があるんだろ? 立ち話もなんだし、中に入ろうぜ」
玉青の妹ということもあり、さらにはこれ以上外でぎゃあぎゃあ騒がれるのもどうかと思った和郎は、そう言って、甲森と共に家の中に入った。紅緒の靴は甲森が丁寧に直していた。
「……どうもありがとう」
リビングに通じる扉を開けて待っていると、トイレから出た紅緒が礼の言葉を述べながら部屋に入ってきた。
「お礼は言えるんだな」
和郎が茶化すと、紅緒はむっとする。
「当たり前でしょ!? 礼節は人間と動物をわける境界線だもの。それともあたしが動物に見えるかしら?」
「猫っぽいよな」
「私はリスではないかと思いますが……」
「ちょ、何よふたりして!」
男二人の大人げない対応に、紅緒はまたもや泣き出しそうになる。
「冗談だ。それより、ケーキがあるぞ。食べないか?」
ケーキは甲森が土産に持ってきたものだ。
「ケーキ! もちろん頂くわ」
紅緒は表情を一転、笑顔を浮かべて小走りにテーブルに近寄る。その様子は猫よりも子犬っぽい。
だが、そんな子犬っぽい紅緒は、着席するとすぐに野犬のように和郎を鋭くにらみつけた。
「まさかお菓子で懐柔しようとしてるわけ!? あたしはそんな安い女じゃないんだからね」
「ほう。じゃあいくらくらいなんだ?」
和郎はついついからかいたくなって、そんな軽口をたたく。
「そうね。あたしをどうにかしようっていうなら、宮崎県産のマンゴー二つは必要ね。って何言わせるのよっ!」
頬を赤く染めながら抗議をする紅緒。そんな彼女に甲森がささやく。
「紅緒様、マンゴー二つではさすがにお安いのではないでしょうか」
「え、そ、そうかしら」
「せめて三つはないと」
「そ、それもそうね。っていうか、本当は三つなのよ? でも、ケーキがあるから少し割引しただけなのよっ」
「割引とかあんのか……」
和郎は呆れと和みが混じった、なんとも複雑なため息をついた。
やがて、ケーキを品よく平らげた紅緒が、やはり品よく口元を紙タオルでぬぐうと、改まった声を出す。
「ところで、こじま」
「なんだ?」
「今日わざわざあたしが足を運んであげたのは他でもないわ」
どうやらやっと本題に入るらしい。
「トイレを借りに来たのですよね、紅緒様」
「そうよ。……って、違うわよ! 誰がわざわざトイレを借りる為に、がっちがちのスケジュールに無理矢理空き時間作って高速道路を一時間もすっ飛ばして移動するのよ!」
「おっと。そういえば紅緒様は高速道路の途中、きちんとサービスエリアでトイレ休憩も取られておりましたね、失礼しました」
「べ、別にトイレ休憩じゃないわよ! あそこのサービスエリアでうちの会社の商品がどれくらい扱ってるか調査しようとしただけなんだから! 決して限定のメロンパンが目的だったわけじゃないんだからね……って!」
そこまで言って、紅緒は甲森をにらむ。
「甲森っ! 話の腰を折らないでちょうだい!」
「失礼しました」
甲森はそこで口元に人差し指を当てると、少しだけ身を引く。これ以上口を出しませんという意思表示のようだ。
「えっとそれでね、こじま。あたしがここに来たのはあんたが何か困ってるんじゃないかと思ってのことよ」
「困っていること?」
和郎は少々困惑した。
困っているのは事実である。
萌え絵アレルギーを解消しなくては、ラブコメのラの字すら書けそうもない状況だからだ。 とはいえ、そのことを知っているのは渉と玉青だけのはずである。
「……あいつに聞いたのか?」
「お姉ちゃんは関係ないわ。あたしの単なる……、えっと、ひ、暇つぶしよ」
紅緒はわずかに視線を下げた。だが、すぐに和郎に目をもどし、まくしたてるように言う。
「それで何か困っていることはないわけ!? たとえば筆が止まったときにお姉ちゃんに相談しても良いアイデアが出て来ないとか、せっかく原稿ができあがってお姉ちゃんに見せても面白いかどうかの判断をしてもらないとか、えっと、とにかく困ってることはないの!?」
その台詞で和郎は少女の来訪の目的をようやく理解する。
竜宮院紅緒は、姉の玉青が「面白いことがわからない」というエンタメ作品の編集者としての致命的な弱点を知っている。
そしてそのことで和郎の創作作業に支障が出ていないかどうかを懸念しているのだ。
姉に失敗して欲しくないのだろう。だからこそ、わざわざやってきて、和郎のラブコメがヒット作となるように協力しようとしているのだ。
「こじま先生、紅緒様の面白さに対する感性は玉青様より遥かにすぐれているんですよ」
「甲森、それじゃお姉ちゃんが劣っているみたいじゃない。お姉ちゃんと比較しないで」
「失礼しました。では言い換えましょう。紅緒様の「面白さ」に対する感性は想大社一……、いえ、もしかすると日本一かもしれません」
「あたしは作家じゃないからゼロから作り出すことはできないけどね。出来ているものに対して面白いとか面白くないとかいうことは造作もないことよ」
「もっとも宣伝などの営業戦略についてはからっきしですけどね」
「それはお姉ちゃんに任せておけばいいのよ」
紅緒と甲森のやりとりを聞きながら、和郎はなるほどと思う。
この少女の特技は玉青とは正反対の方向なのだろう。
「とにかくこじま、そういうわけだから原稿を出しなさい」
すっと手を出す紅緒。
もはや彼女の中では、和郎が原稿の面白さについて困っていることは確定事項のようだ。
「いや、まだできてない」
「途中まででも構わないわよ。もしくはプロットの段階でもアドバイスくらいならできるし」
「無理だ」
「はぁ? なんでよ。お姉ちゃんに遠慮してるわけ? そりゃあ普通は担当編集者を飛び越えて別の編集者に意見をもらうっていうのは良くないことだものね。あたしも出過ぎた真似だとは思うけど……。だけど、お姉ちゃんに任せておいたらお姉ちゃんは……」
「違うんだ。俺はあいつを担当として認めたわけじゃない。だから、申し出は有り難いし、見せられるものなら見てもらっても良いと思う。だが……、本当に何もないんだ」
「何もない?」
和郎の言葉に、紅緒は顔をしかめた。
「どういうことよ?」
「実はまだ何一つ出来ていないんだ。キャラクターも、プロットも……」
「はあ?! 本当に? あんたやる気あるの? 新人作家連中だったら、これだけ時間があったらプロットの千本や二千本つみあげてくるのが常識よ?」
「紅緒様。さすがにまだそこまでの時間は経っておりません。千本は厳しいかと」
「そ、それもそうね。だけど、えっと、気合いの問題よ。やる気の問題なのよ。ねえ、何かしらあるんでしょう!? 落書きめいたメモとか、本当に何でも良いわ、この際」
「……メモみたいなものはあるにはあるが」
「それで充分よ。それとも何? 未熟なものは見せられないとかいう、無駄なプライドを持ってるわけ? それならそんなくだらないものはさっさと捨てなさい。プライドで面白い作品ができあがるなら売れない作家は世の中に存在しないわ」
どうやら何かしら見せないことには紅緒は納得しそうもない。
そう思った和郎は渋々立ち上がると、自室に戻り、一応、ラブコメを書くつもりで作ったいくつかのプロットのプリントを持って来た。
「初めから素直に見せればいいのよ」
紅緒はプリントを受け取ると、真剣な面持ちで一枚一枚に目を通す。
ものすごい勢いだった。
その様子は先程までの子どもっぽい紅緒とはまったく異なる。
凄腕編集者と呼ばれてもおかしくない貫禄があった。
やがて数枚の資料を見終えた紅緒は、テーブルの上でとんとんと叩いて紙束を揃え、和郎に突き返した。
「まるでダメね」
「だろう?」
「っていうか、序盤に必ず人が死ぬってどういうことよ。どんなラブコメ書こうとしてるのよ」
「やっぱりダメだよな」
「当たり前じゃない。……あなた、ラブコメ読んだことあるの?」
紅緒のその言葉は和郎の胸に突き刺さった。
やはりそこなのだ。
「その様子じゃ、読んでないみたいね」
「実は、萌え絵のついた小説を読むと体がかゆくるんだ……」
「はぁ?! なにそれ」
「俺にもわかんねえよ。とにかく、今、既存のラブコメを読もうとしているんだが、そういうわけでちっとも読めねえんだよ」
「ふざけないでよっ!」
ばんっと、紅緒がテーブルを思い切り叩く。
「かゆいくらい何よ! 死ぬ分けじゃないんでしょ!? あなた真面目にやってるの!? 本気で取り組んでるの? 必死さが足りないわよ、必死さが!!」
紅緒は目に涙を溜めていた。
「必死さが……、足りない?」
和郎は紅緒の言葉を復唱する。
「あんたが書かなかったら、あんたがヒット作を出さなかったら、お姉ちゃんはっ……」
和郎の前で、唇を噛み締め、拳を手の色が変わるくらい強く握りしめる紅緒。
それからすっと立ち上がる。
「……行きましょ、甲森」
「もうよろしいのですか、紅緒様」
「本気じゃない人間を相手にするほど暇じゃないもの」
和郎には目もくれず、紅緒はリビングの出口へ向かう。甲森は和郎に会釈をすると、腰を上げ、紅緒に続いた。
「レーベル立ち上げまでの半年はお姉ちゃんのことを諦めるために使うことにする」
そう言い残し、紅緒は足早にリビングから去っていった。和郎の耳に、玄関の扉が乱暴にしまる音が届いた。
「こじま先生」
甲森はまだ残っていた。
「玉青様のパートナーにあなたを推薦したのは私です。玉青様はお若いのに少々優秀すぎるのでね。社内でも敵視している人間は多いのですよ」
甲森の声は、紅緒とともにいるときよりもずっと酷薄なものだった。
「正直、予想以上にあなたがダメそうな作家で良かったと思っています」
どこか嘲笑めいた口調でそう告げると、甲森もリビングを出て行った。
和郎はふたりが去るあいだ、テーブルの上のプリントを焦点の定まらない目で見続けていた。
今日まで決して真剣にやってこなかったつもりはない。
だが、改めて指摘されると少しだけ引っかかるところがあったのだ。
今のままではダメだと思い悩んでいたものの、それ以上のことをやろうという努力はしていなかったかもしれない。
そこに気がついた。
和郎はひとり、ただじっとプリントを見続ける。