1 相談するのは幼なじみ
後悔していた。
あの日、玉青が帰宅した後、自室に帰って冷静になった和郎はその場で膝から崩れ落ちた。
絨毯がなければ膝を打撲するような勢いだった。
なぜ、あんな約束を気軽にしてしまったのか。
和郎はとにかく後悔していた。
成り行き上、仕方なかったから?
小説家として生き残れる最後のチャンスだったから?
それとも、玉青の言葉が嬉しかったから?
理由はいくら考えてもわからなかった。
ただ、ひとつだけ明らかなことがある。
それは、半年以内にラブコメを書き上げなくてはいけないということだ。
さらにいえば、それは面白いことが前提で、発売後に大ヒットしなくてはならない。
ただしそれさえ成功すれば、汚名を返上し、和郎は小説家として大手を振ることができる。
そう思えば気力もわいてきて、執筆用のパソコンの前に座ることもできた。
だが、ラブコメ。
『ラブコメ書きますか? それとも作家やめますか?』
和郎が気がつくと、ディスプレイに展開された白紙の原稿フィールドにはそんな文字列が踊っていた。無意識にタイプしてしまったらしい。
「なんだよ、それが新作の題名? 売れそうもないね」
背後に気配を感じ和郎は僅かに振り返る。
そこには机上のディスプレイを覗き混むように不審者がひとり立っている。
いや、顔全体を覆う長い頭髪にマスク、まもなく夏になるというのに冬用のはんてん。さらにその下にもかなりの重ね着をした和郎の幼なじみ、綿貫渉である。
「本当にラブコメを書くつもり?」
「こうなったら後には引けない。とりあえずやるしかねえだろ」
今、和郎は渉の家でパソコンを借りている。
朝方、急に電源が入らなくなり、修理に出したからだった。
「ま、しかし、ぼくのアドバイス通りだったろ?」
「何がだ?」
「データを本体に記憶するのはあぶねーぞっての」
「そうだな。助かったよ」
和郎は、原稿のデータを日常的に、本体のハードディスクではなく、外部ディスクに記録することにしていた。もちろん、本体側にもバックアップは取っているが。
「ネットワークフォルダを使えばもっと便利になるよん?」
「ネットワークはいまいち信用ならん」
「和郎ってば、なんか微妙に時代錯誤だよね」
「必要になったら覚えるさ。今は必要ないだけだ」
「はいはい」
渉はあきれたようにそう言うと、和郎から離れた。
「しっかし、さっきから全然進んでないみたいじゃん?」
「ラブコメなんて書いたことがないからな」
「だからさー、そのあたりにある本読めって言ってんじゃんかー。おすすめの奴用意したってのに」
和郎のすぐ脇には、色とりどりの背表紙の文庫本が重なっていた。
題名や作者は様々だったが、表紙の部分に女の子のイラストが載っていることが共通していた。いわゆるライトノベルと呼ばれる文庫だった。
『涼み屋春日』『とある家族のご近所目録』『エルチキ』『通い獅子オーバードーズ』。
様々なタイトルがあったが、和郎は一冊も読んだことがなかった。
「うむ……」
試しに一冊手に取ってみる。
表紙を眺める。
目のきらきらした、漫画チックな女の子のイラスト。
その瞬間だった。
「か、かゆいっ!」
和郎の全身、肌という肌に赤い発疹が発生した。
「かゆい、かゆすぎるっ!」
咄嗟に本を山に戻す。
全身をかきむしる和郎。
だが、本を戻してものの一分程度で、赤い点は和郎の全身から消え去った。
和郎もかゆみを感じなくなる。
「あー、やっぱりまだ出ちゃうのか、萌え絵アレルギー」
そう。これが綿貫渉命名の、萌え絵アレルギーの症状だった。
この症状が出るため、渉の部屋にある挿絵つきの小説をなるべく見ないようにしていた。
「どういう症状なんだろうね」
「漫画は大丈夫なんだぜ? 想大社の週刊少年ダッシュとか」
「少女漫画はどうよ? たとえばこれとか」
ぱっと、渉が一冊のコミックを差し出した。
少年漫画やライトノベルの表紙よりも、ずっと目の大きな少女の顔が載っている。
「…………、大丈夫だな」
かゆみは発生しなかった。
「じゃ、アニメは?」
渉がリモコンを操作すると、部屋の壁際においてあるテレビが点灯、そこにアニメが映し出される。ピンク色の髪の毛をした少女が斬馬刀を両手に持って走り回っている。
「か、かゆいっ!」
「あ、これだめなんだ。じゃあこっちは?」
ピッピと、画面を操作し、別の絵のアニメに切り替えた。
今度は小さな和室のちゃぶ台を三世代の家族が囲んでいるシーンだった。
「……これは大丈夫だな」
「なんだかなぁ。タニシさんは大丈夫で萌えラノベが原作だとアウトとか、ものすごい作為的なものを感じますけども。アキバ系を敵に回すおつもりか?」
「なんの違いがあるのかよくわからんぞ?」
「んっと、まあ、前者がライトノベル原作のアニメで、後者が国民的日常アニメ。要するに、和郎の脳みそは、ライトノベルに関わるイラスト全般がダメっぽいね」
「そうなのか……」
「うん。だから、小説が読めないなら、ユー、アニメで見ちゃいなヨ作戦も使えない」
「なんだそのキャラ」
突っ込みつつ、和郎はディスプレイの原稿に再び目を戻した。
参考になりそうな小説は読めない、アニメでも見られない。
とすると、いったいどういうものがライトノベルにおけるラブコメ小説なのだろうか。
どうやってそれを書いたらいいのだろうか。
「わからんな……」
まだまだ締め切りは先とはいえ、和郎は一抹の不安がよぎるのを感じていた。
「ところで和郎、ごはんは食べた?」
「え?」
時刻は十四時。
和郎は今朝、遅い朝食を取ったあとパソコンを電機屋へ持って行き、そのままここへきた。
だから、昼食は何も食べていない。
「まだだ。そういえば、腹が減ったな」
「じゃあ、なんか作るよ。なんか食べたいものある?」
「いや、なんでもいいぞ。渉の料理はうまいからな」
「ふっふっふーのふー。ほめたってなんにもでないんだぜ!」
言いつつ、楽しそうに鼻歌を歌いながら台所へ向かう渉だった。