4 編集者がうちへやってきた
その頃、和郎は生まれて初めてスランプを体験していた。
いや、スランプではない。怖いのだ。
渉のパソコンで、自分のデビュー作への感想を見たすぐあとは、それほど大きなダメージはなかった。
たしかに心に傷はついていたが、その晩は渉と一緒に夕飯を食べ、談笑する程度には回復していた。
つまらない、おもしろくない。そんな感想は正直、執筆を始めてから今に至るまで、常に聞き続けてきたことだった。
親や友達、あるいは近所の主婦などが、和郎が小説を書いていることを知ると、興味本位で『読ませて』と言ってくる。
小説家を目指す和郎にとって、それは喜ばしいことであり、すぐにいくつかの作品を渡す。だが、百パーセント「面白い」と言った人間はいなかった。
はっきりとつまらないと言われることもある。
そしてほとんどが二度と『読ませて』とは言わなくなるものだった。
つまらないことをわかっていて読むのは渉くらいなものである。
『自分の作品はつまらない』
和郎はそう自覚している。
自覚していたつもりだったが、実際は違った。
心のどこかでは、「いつか俺の作品を面白いと思う人間に出会えるはず」と考えていたのだろう。
だから、遊ミス大賞が決まった瞬間は、「ほら見たことか!」と、自分の作品をつまらないと思った人間を笑いたくなった。
しかし。
それが間違いだったと聞かされ、さらに本の感想のすべてが否定であった今、和郎には、もはや「誰かがいつかどこかでわかってくれる」などという逃避先すら残されていない。
そんな自分が小説を書くことになんの意味があるのか。
俺は小説家になりたいのに。
なったのに。
もしかしたら、俺には才能がないのか?
どんなにがんばって書いても、面白いものはかけないのか?
そんな自問に行き着いたとき、和郎は書けなくなった。
今までもアイデアや言い回しに詰まることはあったが、書けないというのは始めてのことだった。
それは、和郎にとって、呼吸ができなくなったのと同じくらい苦しい状態だった。
それにもうひとつ重要なことがある。
竜宮院玉青という編集者に言われたこと。
金輪際、想大社以外の出版社からは本を出してもらえそうもないこと。さらには、想大社内部でも本を出すのはかなり困難だということ。
それはつまり、和郎は二度と作家として本を世の中に出すことができないということだ。
もう、生きていられない。
ふらりとそんな言葉が脳裏をよぎった。
つまり、しをえらぶ……。
部屋の書棚には、ミステリー作品を書くためにこつこつと買い集めた資料がある。
ミステリー小説の数々、実際にあった事件の本、人体の仕組みや、拷問方法、あるいは、自殺読本のようなものまで。
和郎は、しばらくのあいだ本棚を眺めていた。
そのうちの一冊にそろそろと手を伸ばそうとしたときだった。
ピンポーン、とインターフォンの音が鳴り響いた。
その音で決心がゆらぎ、いらいらする和郎。
現在、家には和郎以外は誰もいない。従って和郎が相手をしなければならないが。
どうせ新聞屋か何かだろう。そう思って、居留守を決め込んだ。
だが、はじめはゆるやかな周期で、ピンポーン……、ピンポーン……、ピンポーン……。
それが徐々に早くなり、仕舞いには連打になった。ピピピピピピピピピピピピピ。
「だぁ! なんだよ! 誰だよ!」
和郎は根負けして、玄関のドアを開けた。
「やあ、こんにちは。久しぶりだね虎島君」
「あんたは」
諸悪の根源。すべての元凶。和郎の人生の破壊者。
そう呼ぶにふさわしい人物がそこにいた。
想大社の女性編集、竜宮院玉青だった。
「てんめぇ……」
和郎は心の奥からわき上がる怒りを感じた。
飛びかかってぶん殴ろうか、それとも石を投げつけようか。あるいは。
咄嗟に浮かび上がった行動はすべて、攻撃。それも致命傷を与えるようなものだ。
なんでもいい。
ぶっ殺す。
そんな物騒な発想に支配されながら、和郎は玉青に近づく。
だが、そこで、玉青が予想外の行動をとった。
「すまなかった」
なんと、玉青は門の前、その道路の上に機敏に膝を突くと土下座をしたのだ。
「本当にすまなかった」
額を地面にこすりつけるように、玉青は頭を下げる。
「キミには本当にひどいことをした」
これ以上ないくらいに、体を地面に押しつけようとする玉青。
そんな玉青の姿を見て、和郎は一瞬、怒りが冷めそうになった。
瞬間的には殺してやりたいとまで思ったが、その気持ちがわずかに減る。というよりも、和郎は元々玉青をそこまで恨んでいたわけではなかった。
なんだかんだで結局のところ自分の作品が悪いということは認めていた。
ただ、精神状態が不安定になり、気持ちが落ち着いていなかったところに、突然玉青が現れたため、思考の振れ幅が極端に大きくなってしまったのだ。
だから、すでに殺してやろうとは思っていなかった。
殴ってやりたいくらいではあったが。
「本当にすまない」
それでも足下で平伏する少女の姿を見ていると、「もういいよ」と言ってしまいそうになる。
だが、和郎は意識をして首を振る。
なにかしらのひどい目にはあってもらわないといけない。
「……謝って、どうにかなる問題かよ」
吐き出した言葉は震えていた。理性が持ち直し、多少なりとも思考できるようになっていたとはいえ、感情の高ぶりはそう簡単に収まるものではない。
「ならない。謝って済む問題ではないことは重々承知している。だから許してくれとは言わない。これはあくまでもただの私の謝罪だ」
玉青も必死のようだった。
許しはしないが、土下座はやめてもらっても良いかもしれない。
ふとそんな考えが浮かぶ。
いや、まて。演技かもしれない。そう簡単に許してどうする。
すぐさまそんな別の思考が否定した。
「……本気で謝ってるのかよ」
「ああ、もちろん本気だ」
「それなら……」
和郎は少し考えた。演技かどうかを見抜く方法はないだろうか。
「……脱げよ」
「え?」
玉青が顔をあげる。見下ろす和郎は、憤怒を通り越し、無表情だった。
氷のように冷たい瞳がまっすぐに玉青をにらみつけている。
「本気で謝る気があるなら、俺の言うことくらい聞けるだろう? 死ねとまでは言わない。せめて着ているものを脱ぐくらいのこと、できるだろう?」
公道の真ん中で、女性が服を脱ぐことはおそらくかなりの恥辱だろう。
だが、演技ではなく本気ならば、そのくらいのことはできるのではないか。
というよりは、むしろ脱がずにいてくれる方が和郎は嬉しかった。
その方が、公明正大に罵倒できる。文句を言える。怒りをぶつけられる。
しかし。
「わかった。キミの言うとおりにしよう」
玉青はすっと体をおこすと、躊躇せずにブラウスのボタンに手を掛けた。
緊張しているのか細い指先は震えていたが、ひとつ、またひとつと確実にボタンを外していった。
「お、おい」
和郎は戸惑いの声を上げた。
「良いんだ。少しでもキミの気が晴れるなら、私はなんでもするよ」
ふぁさり、と高級そうな白いブラウスを玉青は脱ぎ、自分の横に置く。
下着一枚となった、真っ白で折れそうなほど細い上半身があらわになる。
銀髪碧眼の特異的な容姿と合わさり、まるでよくできた人形のようだった。
和郎は思わず生唾を飲み込んでしまう。
「これでよいだろうか。それともまだ足りなければ」
そして、玉青は下着にも手をかけ始める。
「あ、和郎くん、こんにちは。あら?」
と、そのタイミングで、隣の家の主婦が出てきた。
和郎と、上半身半裸で土下座する美少女を交互に見て、言葉を失う。
咄嗟に。
「そ、そそっかしいな! おまえは。着替えを風に飛ばされるとか、勘弁しろよ」
「え、あ」
和郎は土下座する玉青の手首をつかみ、立ち上がらせるように引き上げる。
同時に傍らにあったブラウスを持ち。
「まったく恥ずかしい。と、深澤さん、みっともないとこみせました!」
強引に玉青を家の中に引き入れたのだった。
「……まあまあ、和郎くんにも彼女ができたのね」
ドアがしまる直前、深澤さんの奥さんのそんな声が和郎の耳に届いた。
* * *
「とりあえず入れよ」
怒りと、それから格好的にも玉青を直視できない和郎は、目をそらしたままそう告げて、家の中に入った。
「服は着ろよ。廊下の突き当たりがリビングだ」
背中越しにそう叫ぶと、和郎は自身もリビングへ入る。
幸い、応接セットのテーブルの上は片付いていたし、部屋もそれほど汚れていない。
多少ちらかっていた新聞や雑誌を片付け終えたころ、玉青がしずしずとやってきた。
ちらりと横目で見ると、きちんとブラウスを着用している。
こころの中に、ほんの少しだけがっかりしたような感情が芽生えたことに気づき、和郎は頭を振った。こ、い、つ、は、俺、の、敵、だ。
「なぜ止めたんだ?」
入り口に立ったまま、玉青が尋ねた。
「私はキミの言うとおり服を脱いでいただけだろう」
「お前が恥ずかしい目に遭うのはいっこうにかまわないが、俺にも世間体がある」
「世間体?」
「お前が脱いでるだけなら恥女扱いですむけどな、それを俺が見てたら、俺もまとめて変態扱いされるってことだよ」
「なるほど」
「わかったか?」
「虎島君、キミは他人の目がない家の中で、私にさっきの続きをしろということだね」
「はあ?!」
「そうか。それでいったん着直させたわけか」
「おい、ちょっとまて。壮絶な誤解をしている」
「それで、私はどこで土下座をして脱げばいいんだい? ここかな」
「バカ野郎! んなとこで土下座すんな。それからごく当たり前のようにブラウスを脱ぐな! 変態かお前は」
和郎は、その場に膝をついて上着を脱ぎ始めた玉青を無理矢理立たせた。
「……そうか。立ったままの方がキミの好みなのだな」
「違ぇ! ああ、もう。面倒くせぇなあ」
和郎は握ったままの玉青の手首を引っ張ると、無理矢理応接セットのソファーに放り投げた。
「きゃっ」
玉青が小さな悲鳴を上げる。
「そこでおとなしくしてろ」
和郎がため息混じりに言うと、玉青は自分の状態を確認するようにまわりを眺めた。
「この構図は見たことがあるな」
「……は?」
「虎島君、つかぬことを伺うが、キミの家族は今日はいないのかい?」
「……親父は輸入雑貨の会社経営で、お袋は旅行ライター。夫婦そろって海外を飛び回っていて、年間の九割ほどうちにはいねえよ。それがどうした」
「ふむ。見事に付合するな」
「なにがだ」
「このシチュエーションだよ」
「シチュエーション?」
「少女漫画や成年漫画にはよくあるのだよ。のこのこと男の一人暮らしの家にやってきた女が、そのまま手込めにされてしまうというものがね」
「はあ?」
和郎は改めて状態を確認する。二人掛けのソファーだったが、小柄な玉青の体躯では、横になれば充分にベッドの代わりになる。
そして和郎は一人暮らしも同然。
「さらにいうとな。そういうときに男が言う台詞が大抵「おとなしくしろ」というのだよ」
「俺さっき、それに近いことを言ったな……」
「うむ。つまり虎島君。キミはこれから私の体をどん欲な獣のように貪ろうというのだろう?そのために服を脱がせようとしたのだろう? なるほどな。確かにキミの夢を壊してしまったことに対する償いのひとつとしては充分に考えられることだ」
「い……いやいやいやいや。そんな気ねえから!」
「自分で脱いだ方が良いか? それともびりびりと破く方がお好みかな」
「どっちもいらねえよ! だから脱ぐなって!」
「なぜだ? 何が不満なんだ? 私は処女だぞ」
「そういうことじゃねえよっ! なにさらっとすげぇことカミングアウトしてんだよ」
「そうか……。私の体がこのように貧相だからいけないのだな。たしかに普通、襲われる漫画のヒロインはもっと胸も尻もばいんばいんとしたものが多いからな」
「ばいんばいんって……」
和郎は思わず玉青の全身を見る。すこし力を込めれば折れてしまうのではないかと思える繊細で華奢な体つきだ。決して肉付きが良いとはいえない。
しかし、さっき表で下着姿になったときの胸元は、そこまで貧相だったかといえばそんなこともなかった……。
「って違うだろ、俺!」
自分の思考につっこみを入れる和郎。それを玉青はまたもや誤解する。
「違う。……やはり、君の好みとは違うのだな。すまない。そればかりは今更どうしようもない。だが、機能に差はないはずだ。そこは安心して襲ってくれてかまわないぞ」
「機能とか言うな! それから安心して襲って良い、じゃねぇだろ! お前には恥じらいってもんがないのか」
「恥じらい……。そうか普通はもう少し頬を赤く染めたり、悲鳴を上げたり、おびえたり、泣きじゃくったりするものだものな。それでキミはどれが好みなんだい? おとなしく我慢するタイプかい? それとも泣きわめくのを無理矢理いくのが好きなのかい?」
「どっちでもねえよ!」
叫ぶと同時に、ダンっと和郎は思いきりテーブルをたたいた。
それで一瞬、玉青の饒舌が止まる。
「いいか、よく聞けよ」
「ふむ?」
「普通の男子高校生は、いくら一人暮らしの家に美少女が来たって、そう簡単に襲ったりはしねえんだ」
「なんだって!?」
玉青はまるで、怪事件の真相がノストラダムスの予言につながっていたことを知ったときのように目を丸くして驚いた。
「ば、馬鹿な。つまり私の常識が間違っていたということか。漫画を読めば大体同年代の思考がわかると思っていたのだが違うのか」
「漫画は漫画だ。それにな、俺は確かにあんたに夢をぶちこわされて、腹が立って仕方がねえ。ついさっきは一瞬ぶっ殺してやろうかと思ったくらいだ。だけどな、その代償を体で払えとは言わねえよ。俺はそこまで下種じゃない」
「む……、そうか」
「だから、もう脱がなくて良いし、襲ったりもしねえから、普通に座れよ。とりあえず茶でも入れるから」
「わかった。重ね重ね済まなかった」
「わかればよろしい」
姿勢を正した玉青が頭を下げるのを見て、和郎は台所へ向かった。
日本茶に、たまたま昨日深澤さんからいただいた饅頭があったので、それをお盆にのせて戻る。
玉青はきちんと背筋を伸ばしソファに座っていた。その姿はやはり美しく、西洋人形のように様になっていた。
「んで、今更なんの用だよ。もう俺は出版業界からお払い箱なんだろ?」
和郎が湯飲みと饅頭を並べながら尋ねる。
「用件はふたつある。ひとつは謝罪だよ」
「もうひとつは?」
「……もうひとつは、謝罪が受け入れられなくては話すことができないんだ」
「受け入れるっていうのはどういうことだ? あれか? 法律的にどうのこうの言われないようにするためか?」
少しだけ嫌みたらしい口調で和郎が言うと、玉青は即座に否定した。
「違う。そんなことは考えていない。私はもうひとつの話をしたいと考えている。そのためには虎島君に話を聞いてもらう程度には謝罪をしなくてはならない。ただそれだけのことだ」
「ほう」
「正直に言おう。私がキミにしてしまったことは一生を掛けても償いきれるかどうかわからない。だからそれについてはいつ何時でもキミの言うことに従おうと思っている。脱げと言うのなら脱ぐし体で払えと言うのならいくらでも払おう」
「ふん。まるで奴隷みたいだな」
「奴隷でかまわないよ。私はキミにそれくらいひどいことをしてしまったと思っているんだ」
玉青はしゅんとうなだれる。そんな少女の姿に、和郎はほんの少し同情する。
玉青も別に悪気があってやったわけではないのだろう。
「……わかったよ。とりあえず今日のところは話を聞いてやる」
「本当か?」
「もちろんそれで許すわけじゃない。ただ、俺自身、あんたに怒りをぶつけたところでどうしようもないとも思ってる。元はといえば俺の小説がつまらなかったことも問題だからな」
「いや……、それは、判断できなかった私が悪いわけでだな」
「あんたは面白さがわからないんだっけか?」
「そのとおりだ」
そこで和郎はふと気づく。
「待てよ。言い換えると、あんた俺の作品見てつまらないとも思わなかったってことか?」
「そうともいえるな。たしかにつまらないとは思わなかった」
「もう一度」
「つまらないとは思わなかった」
「もう一度!」
「つまらないとは思わなかった。……なんだい、虎島君。いったいなんのおまじないだい?」
そのやりとりをしているうちに、和郎は心が軽くなっていくのを感じていた。
「そうか……。はは。そうか。はははははは」
「どうしたんだい虎島君。まさかこのお茶に笑い薬でも入っていたのか?」
「入れねえよ」
和郎は笑いながらそう言った。
さんざんつまらないと言われ続け、自信を失い、生きる目標を亡くした和郎だったが、『つまらないとは思わない』というその言葉だけで、何かから解放されたような心持ちになっていた。
それも、たったひとりの、元凶を作った人物の言葉で。
言葉の力はすごいな。和郎はそんなことを思った。
「まったく俺もせいぜい単純だな」
「なにがどうしたんだ、虎島君」
「気にするな。それより、もうひとつの話ってのはなんなんだ?」
「ん? 聞いてくれるのか?」
和郎は茶をすすりつつ、玉青に話をするよう手で促した。
「キミの本で我が想大社は非常に大きな損失を出してしまった」
「……悪ぃな」
「いや。キミが謝ることじゃない。最終的な判断は私がやったことだ。それでだ。虎島君、その損失の責任を果たすために、会社から私に課題が与えられてね」
「課題?」
「うむ。想大社では半年後にライトノベルの新レーベルを立ち上げる。そのときの初期ラインナップのうち一冊を私が担当し、一番のヒット作にしなくてはならないんだ」
「ほう。ライトノベルか……。渉の奴の専門分野だな。それと俺になんの関係が?」
「キミに書いて欲しいんだ」
「ふぅん。キミに書いて欲し……、俺に!?」
ぶふーっと、和郎はお茶を吹き出した。玉青にかかったのだが、玉青は微動だにしない。
「ら、ライトノベルを俺に書けっていうのか?」
台所からおしぼりを持ってくると、玉青に渡しながら聞き返す。
「うむ。経緯は省略させてもらうが、キミと私のコンビでヒット作を作り出すこと。これが、会社が私に与えた課題なんだ」
「想大社もこれ以上は俺の本を出すのは難しいんじゃなかったのか?」
「新レーベルだし、ミステリーではないライトノベルだ。同じ名前であろうと風評被害は小さいはずだよ。それに作る物はヒット作。つまり面白い物だ。だからそこは問題ない。それに成功すればミステリーは難しいかも知れないが、他社もキミを認め直すはずだよ」
「……ちょっと待て」
和郎は目を閉じて考えた。
悪い話ではない。ライトノベルといえど小説は小説だ。
小説家になりたくて、呼吸するように小説を書いてきた和郎にとって、小説家として再び日の目を見られる可能性があるということは、大いに喜ぶべきことだった。
だが一方で不安もある。
そしてそれは今もなお全身に襲いかかってきている。
「……なあ、あんたは俺が面白いものが書けると思うのか?」
「わからないよ。そもそも私には面白いということがわからないんだからね」
「ああ、そうか」
「だけどね虎島君。出版社の人間として……、編集者としてひとつだけいえることがある」
「なんだ?」
和郎は首をかしげた。
「我々出版社の人間は、原稿さえあればどんなものでも本にすることができる。それが面白いか面白くないかは関係ない」
「それはそうだな」
「だけど、作家の脳内にあるものだけはどうしたって本にはできないんだ。もちろん、それが面白いか面白くないかなんてことも判断できない。だからね、とにかく作家には書いてもらうしかないんだ。書いて原稿にしてくれ。すべてはそこから始まるんだよ」
「つまり、書いてみなくちゃわからないってことか」
「原稿になっていない作品が、ものすごい傑作である可能性はゼロではないからね」
「そうか……」
そう言われて、和郎はまたもや気分が軽くなるのを感じた。
「わかった。やってみよう」
「本当か!」
「ただし、条件がある」
嬉しそうに腰を浮かせかけた玉青を、和郎は手で制した。
「なんだい、虎島君」
「やるからには俺ひとりでやる。別にあんたに協力をしてもらう必要はない」
「む……? しかし、私を介さなくては本は出せないぞ」
「……そうだな、俺の原稿を勝手に持っていって本にするのは一向にかまわない。だが、内容に口を出すのはやめてもらおう」
「なるほどな。さすがにあんなことをしてしまった私を、担当編集として認めてはもらえないということだな」
玉青は浮かせていた腰を再びソファーに沈める。その表情は硬い。
「わかってるじゃねえか。あんたは言うなればただの連絡役だ」
「……しかし、書いてくれないよりはまし、か」
困惑気味の玉青は、あごに手を当て考えていた。
和郎はそんな玉青に告げる。
「今度こそ面白いと言われるものを書いてみせるさ。ライトノベルがどんなものかはいまいちよくわかってないけどな。ネタのストックには高校生が主役のミステリもあるし」
「あ、虎島君」
玉青が小さく手を挙げる。
「なんだよ、まだなんかあるのかよ?」
「キミに書いてもらいたいのはミステリじゃない。ラブコメだよ」
「……ら、ラブコメ!?」
「そういうルールなのでね」
「そんなもの、書いたことねえぞ」
「面白い物を期待しているよ。ところで虎島君、私は飲み物はミルク以外受け付けないんだけれど、冷たいミルクはないかな?」
そんな玉青の言葉は、和郎には届いていなかった。