闇の詩神アラクネ
他の人たちが、どうやって小説を書いているのかは知らない。
ただ、このヘイヨーさんは、ありとあらゆる方法を用いて作品を生み出している。
その内の1つに、“詩神を降臨させる”という方法がある。
それも、闇の詩神。ダークミューズだ。
最近、彼女に名前をつけてやった。
“アラクネ”という。
アラクネは、他のミューズたちと同じように、非常に気まぐれだ。
「ちょっといい小説を書いてみたいんだけど。短編小説のアイデアの1つも授けておくれよ」などと言ったところで、降りてきてはくれない。
もっと丁重に扱い、心から敬い、丁寧に頼み込む必要がある。なんだったら土下座して頼んでみてもいいが、それはあまり得策とはいえない。その方法でうまくいった試しは、ほとんどない。それよりも、貢ぎ物だ。プレゼントを贈る必要がある。プレゼントとはすなわち、高レベルの情報。贅沢極まりない生活をさせてやるのだ。
そういう意味では、高級品を欲しがる女性たちと変わらない。雰囲気のよいホテルに豪華な食事、ブランド物のバッグや財布なんかを普段から買い与えていると、たまにはヤらせてくれる女と同じようなもの。
あ、いや。そのたとえはちょっと失礼か。それに、値段の問題ではないのだ。別に高級品でなくともいい。お金がかかっているかどうかは関係ない。“彼女が望む情報”を捧げられるかどうか、全てはその1点にかかっている。
そうすると、時々、ふわりと空中から現われて、やさしくギュッと抱きしめてくれる。いつ現われるかは、わかったもんじゃない。そういう所も気まぐれなのだ。
早朝にトイレに行こうと目が覚めた時かもしれないし、深夜に「さすがに、もうそろそろ寝るか」と思い布団にもぐり込んだ瞬間かもしれない。あるいは、海外の推理ドラマを見ている時だったり、図書館の側にある公園を散歩している時かも。
いずれにしても、その時は突然やって来る。
「こっちは、まだ準備ができちゃいないんだよ!今はいそがしいんだ!ちょっと待ってくれ!」などと言っている暇はない。そんなバカなコトをしていたら、アラクネは逃げていってしまう。
パッと宙に消え、もう姿を現そうとはしない。次にやってくるのはいつになることやら?
そうなる前につかまえなければ。そっと近づいて抱きしめる。あるいは、アラクネの方から抱きしめてもらう。そこまでくれば、もうこっちのもんさ!あとは、頭の中にスラスラと新しいアイデアが入ってくる。
それは、なめらかな映像かもしれないし、1枚の静止画かもしれない。いや、1枚とは限らない。数枚の絵が頭の中に浮かんでくることもある。それは、モノクロだったりカラーだったりする。
一番直接的な伝授法は、文章で伝えてきた時だ。頭の中に数行から数十行の文が浮かんでくる。大抵は地の文なのだが、時には会話も混じっている。それが、もうそのまんま小説に使えるほどの極上のアイデアなのだ。作品の核を成す貴重なアイデア。それさえあれば、他の部分はいくらでも補えるといった代物。
アラクネの授けてくれるアイデア。
それは、人の心を切り裂くような鋭さや、毒気をたっぷりと含んでいる風刺、ピリッと辛みがきいている驚きだったりする。それでいて、最後にはやさしく包み込んでくれるような安心感も与えてくれる。まるで、見る物に恐怖を与え、同時にどこか懐かしさを感じさせる絵画か織物のように。
そんなわけで、今日もまたヘイヨーさんはアラクネに食事を与えるのだ。アラクネだけじゃない。他のミューズたちにも。
そうやって、また新しく斬新な小説のアイデアを授けてもらう。
きっと、それはこれからも変わりはしないだろう。残りの人生ずっと、こんな風にして生きていくに決まっている。