第1章 2
ずっとずっと昔から、快く思われていない事くらい幼心にも理解していた。
あの人が愛していたのはあの子だけ。所詮私は愛される対象ではなかった。だから何があっても私の所為、叱られるのも私だけ。そんな私を周りの大人達は同情はしてくれたけれど、みんなあの人を怖がって見て見ぬ振りをした。
パパだってそう。庇ってくれていたのは最初だけで、やがて仕事が忙しいからって話すら聞いてくれなくなった。
私の周りには味方なんていなかった。ママが亡くなって、あの人が家に来てから、世界は変わってしまった。
それでも大人になるまでと自分に必死に言い聞かせてきた。大人になったらここを飛び出して、広い世界で自由に生きていくつもりだったのに。
けれどあの人は、それすら待てなかったみたい。私が一体あなたに何をしたって言うの?こんな事をする程、あなたにとって私は邪魔な存在だったの?
私はただ――。
***
暖かい日差しが窓の外から差し込み、オレンジ色の光がシーツに散らばる金糸を照らす。艶やかな金髪が陽の光に反射して、きらきらと幻想的に映し出す中で、その主は決して晴れやかとは言い難い顔で身を起こした。眉間に深く刻まれた皺と、青ざめた顔色が、夢見の悪さを物語っている。
「今更こんな夢を見るなんて、最悪だわ」
アメリアは肌に張り付く髪を苛立たしげに掻きあげると、額を伝う汗を乱暴に拭った。暫くその体勢のまま、跳ねる鼓動が落ち着きを取り戻すのを待つ。ふと横に滑らせた視線が、窓の外の太陽が真上に昇っているのを捉えた。体が一瞬にして硬直する。
「嘘、もう昼……?」
その後の彼女の行動は早かった。
飛び上がらんばかりの勢いでベッドから降りると、小物を散乱させながら身仕度を整えていく。それが終わると部屋を飛び出し、ドタバタと、淑やかさとは無縁の足音を立てて階段を駆け降りていった。二階の扉を開けると、当然ながらそこに人の気配は無い。耳を澄ませば、一階から物音が微かに届いてくる。
アメリアはキッチンからコップを一つ取り、水道の蛇口を捻った。慌てているせいで栓を緩めすぎてしまったのか、勢い良く水が吹き出す。溢れる前にもう一度蛇口を捻って水の勢いを止めると、並々と注がれた水を彼女は一気に飲み干した。
そこへ扉の開く音がした。
「あら。リアちゃん起きてたの」
「おばさん!」
流し場に空のコップを置くと、アメリアは室内に足を踏み入れるコルトに駆け寄った。
「もう、どうして起こしてくれなかったの?昨日手伝うって言ったじゃない」
この店は夜は酒場、昼は喫茶店をしている。最近は例の男と会っていたせいで店を手伝う事ができなかったので、片がついた今日こそは、という話になっていたのに。
「そう言われてもねぇ、リアちゃん気持ち良さそうに眠っていたんだもの。起こしちゃ可哀想だと思ってね」
頬に手を当てながら、コルトは茶目っ気たっぷりに笑った。
確かに最初見ていた夢は、とても素敵なものだったような気がする。あまり記憶に残っていないため、はっきりとは言えないが。しかしあの夢まで見てしまうくらいなら、起こしてくれた方が何倍もマシだった。それを言ってしまえば八つ当たりのようで、夢を告げることは躊躇われたが。
コルトは何かを取りに来たのだろう。棚をがさごそと漁り始めたが、ふと思い出したように手の動きを止めて振り返った。
「そういえば、リアちゃんにお客さんが来てるわよ」
「客?」
眉根を寄せて、アメリアが聞き返す。わざわざ店まで訪ねてくるような人物に心当たりはない。
世話になっている以上、コルト達に迷惑をかけることが無いよう細心の注意を払ってきたつもりだ。よほどの信頼を置いている者を除き、アメリアは自分から居場所をバラすような真似は決してしない。富豪達がこの辺りに来ることも無いし、まして獲物と定めた相手がしつこく付き纏わないよう、尾行に関しては過剰なまでの配慮を払っていたはずなのに。
彼女の心境を知ってか知らずか、コルトは更に続けた。
「ええ、若い男の子だったわ。リアちゃんまさか年下の子にまで……」
「ちょっとおばさん、勘弁してよね。私の標的は成人男性だけ。年下は対象外なの知ってるでしょ?」
両手を頬に添え、大袈裟に驚いてみせるコルトをアメリアは軽く睨んだ。
「『お金持ちの』を忘れてるわよ?」
「……やっぱりわかってるんじゃない」
茶目っ気たっぷりに笑って見せる彼女に、最早呆れるしかない。
「とにかく行ってみるわ」
この不毛な会話に終止符を打つようにアメリアは背を向けた。コルトが入ってきた時に開けられたままの扉を出て階段を降りていく。
彼女の足音が遠ざかった頃。
「あらあら、怒らせちゃったかしら?それにしても、とても可愛らしくて礼儀正しい子だったわねぇ」
部屋に一人残されたコルトは、来客を思い出しながら一つ呟き、探し物の捜索を再開させた。
***
店内は食後のお茶を楽しみに来た客達の姿がちらほらあり、大繁盛とまではいかないにしても、それなりの賑わいを見せていた。そんな中でも、アメリアが『彼』を見つけるまでさほど時間はかからなかった。それぐらいその人物は周囲の中でも目を引いていたのだ。
「――何しに来たのよ?」
彼のテーブルまで歩み寄ると、アメリアは剣呑な眼差しを隠そうともせず、低い声音で呟いた。ただならぬ様子に周囲の注目を集めたが、邪険にされている当の本人に気にした様子はない。
「何って、折角逢いに来たのに酷い言い草ですね」
暗殺者は待ち人の登場に気をよくしたのか、にこにこと微笑みながら答えた。元より美しく中性的な顔立ち。天使の微笑みをプラスすれば、思わず溜め息が零れる程の愛らしさだ。視界の片隅では、早速天使の毒牙にかかった男が頬を染めて見蕩れている。デート中なのか、同じテーブルについた女が殺気立っていたが、幸か不幸か男は気づく気配がない。
(ご愁傷さまね)
とは言え、男の命が危機に晒されていた所で自業自得、知った事ではない。アメリアはわざとらしく溜息を零すと、同じテーブルの反対側の席に座った。
「どうして此処がわかったの?」
周囲に声が届かぬよう、唇を動かす程度の微かな声量で問い掛ける。その様子をおかしそうに笑いながら、暗殺者は一瞬店内全てへ視線を走らせた後、そっと唇を動かした。
「舐められたものですね。女性一人の居所を見つけるくらい簡単ですよ」
笑顔を崩さぬまま、少年は淡々と呟く。酷く冷たい声音だった。これ以上はこの場で続けるべきでは無いだろう。そう判断し、アメリアは無言で立ち上がった。
「出るわよ」
「何故ですか?」
笑顔のまま彼は首を傾げた。その様子から疑問なんて一切感じられない。アメリアの意図を察した上で、わざと聞いているのだ。
「いいからおとなしく来なさいよ。ーーハイド!」
アメリアはコルトの代わりに店内を走り回っていたハイドを呼び止めた。ちらちらと二人の様子を窺っていたハイドは、突然の事に肩を跳ねさせ、持っていた伝票を取り落としてしまう。
慌ててそれを拾い、目の前の客へ一礼と共に詫びを告げてから、ハイドはアメリアの元に駆け寄った。
「どうした?」
「彼の代金は私が持つわ。帰ったら払うから、つけておいて」
「そこまでしてくれなくても結構ですよ」
「いいの!……お願いね、ハイド」
「あ、ああ」
ひと睨みで暗殺者を黙らせ、アメリアはハイドに向き直った。その剣幕にハイドも圧倒され黙って頷くしかない。彼が了承するのを確認して、アメリアは先に店の出口に向かった。
***
「何かご用ですか?」
不意に肩を掴まれ、彼を少しでも知っている者ならば『胡散臭い』と形容する微笑みを浮かべながら、暗殺者が振り返る。視線の先では何故かハイドが驚いた顔をしていた。無意識の行動だったのだろうか。
「あ、いや……おまえ、アメリアとどういう関係?」
「どういう、と言われましてもね」
ごくり、と生唾を飲み込んだ緊張の面持ちで尋ねられ、少年は頭を掻きながら曖昧に笑った。それから彼の手に自分の手を重ね、やんわりと肩から外し。
「複雑な関係、とでも言っておきます。気になるなら、直接本人に伺ってみたらいかがですか?」
どうとでも取れる曖昧な表現にハイドの表情が強張ったのを確認すると、少年はくすりと意味深な笑みを残し、呆然としている彼に背を向けて店を後にした。
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