エピローグ
太陽が登り始めたとはいえ、朝はまだ少し肌寒い。陽の光を遮るようにして顔の前で手を翳すと、背中から屋根に倒れ込んだ。ひんやりと服越しに冷気が伝わってくるが、徹夜明けの重たい身体を目覚めさせるには丁度いい。今この瞬間にも目の前の建物では面白い事が繰り広げられている。この距離ではそのやり取りまで聞くことは出来ないが、窓越しに窺える様子を見ればなんとなく察することが出来る。折角最後のチャンスと言える環境を用意したのに、どうやら無駄に終わってしまったらしい。いや、二人の表情を見ている限り、存外無駄とは言えないかもしれない。
屋根は冷たいが、陽光は暖かい。障害物が無いから全身でそれを浴びることが出来る。両手足をぐぐっと伸ばしながら空を仰いだ。雲ひとつない青空。どうやら今日は一日天気が良さそうだ。仕事の時間までまだ猶予もある。彼らのやり取りにも一段落がついたようだし、このまま惰眠を貪るのも悪くない。顔の上に手を乗せると、アゾットはそっと瞼を落とした。
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彼にとって仕事とは、物心ついた頃から与えられた、いわゆる習慣のようなものだった。善悪の判断も無く、当たり前のように命令されれば実行する。それさえしておけば生活には困らないだけの充分な報酬が与えられる。特にやりがいも見い出せず、与えられた仕事をやるだけ。ただ、それだけだった。
何の感情も見せず飄々とした態度で完璧に仕事をこなすアゾットは組織の中でも優秀で、裏社会ではその名前を知る人間も少なくはない。そんな彼だが、過去に一度だけ仕事でミスをした経験がある。八年前、アゾットがまだ七歳だった時の事だ。
彼にとって初仕事の日だった。ターゲットは人買いの二人組。元々密売組織の一員だったが、彼らは組織の仕事とは別に隠れて人買いを始めた。それが上にバレてしまい、激昂した組織のトップが二人を始末するように依頼してきたのだ。
組織を外れた裏社会の人間の始末は比較的簡単だ。その上彼の中性的で愛らしい容姿は、商品として潜り込みやすい。そこで、まだ幼いアゾットが任命されたのだ。
適当な人間に子供を売る親の代わりをしてもらい、その取引の最中に馬車にちょっとした仕掛けを施した。あとは人里離れた山奥で馬車を止め、混乱に乗じてターゲットを仕留めるだけ。檻の中には何人か子供がいたが、機会が来たら勝手に逃げ出すだろうと気にも留めていなかった。
もうすぐ仕掛けが発動する。そこで想定外の出来事が起きた。捕らえられた子供のうち、一人ぽつんと座っていた金髪の少女が話しかけてきたのだ。状況をわかっていないのか、彼女は世間話をするように意味の無い質問を重ねてきた。最初は適当に相槌を打っていた。名前を聞かれたから、取引用に適当に付けた名前を名乗った。頭を撫でられた時は訳がわからず訝しげに相手を見上げたが、気付いている様子は無かった。
やがてタイムリミットが訪れた。出入口付近の車輪に仕掛けた爆薬が炸裂し、激しい縦揺れに襲われる。壁に身を寄せ足を踏ん張らせてその衝撃に耐えた。他の子供達は想定外の出来事に床を転がり呻き声を上げていたが、ぽっかりと空いた穴の存在に気が付くと、なりふり構わずに駆けて行った。一人を除いて。
例の少女が急かすように腕を掴んできた。切羽詰まった声を上げるくらいなら一人で行けばいいのに、お節介にも一緒に逃げようというらしい。一刻の猶予もないこの瞬間に、人を気にかける余裕なんてある筈がないのに。
騒ぎに気づいた人買いの男が馬車の中に入ってくると、怒りの形相で少女を掴み上げた。宙吊りにされ苦しそうにもがく彼女に男が怒鳴りつける。理由はわからなかったが、どうやら男達はこの騒ぎの原因がこの少女にあると思っているようだ。
濡れ衣を被せられ、このままでは彼女の身が危険だ。それなのに男達が言い争う隙をついて、少女はアゾットに向けて叫んだ。早く逃げてと。
正直、訳がわからなかった。ついさっき出会ったばかりの、短い間会話を交わしただけの相手を、何故命懸けで守ろうとしているのか。しかし思考とは別に、身体は勝手に動いていた。
力任せに投げ飛ばされた彼女の身体が壁に叩き付けられよりも先に、その隙間へと身を滑らせ、文字通り身を挺して受け止める。いくら幼い女の子と言っても年長の彼女の身体は一回り大きく、支えきれず背中を壁に打ち付けた。息が詰まりそうになったが、すぐに呼吸を整えると彼女の手を掴んで馬車を出た。この子が居たら仕事が出来ない。しかし自分があの場所に留まったら彼女もその場に残るだろう。今するべき事は、彼女をどこか安全な場所に連れていくことだ。仕事を完璧にこなす為には多少のタイムロスは仕方がない。
しかし作戦は失敗に終わった。アゾットはこの辺りに土地勘が無く、がむしゃらに走ったため逃げる方角を間違えた。眼前には切り立った崖、そして背後には例の男達が迫っていた。
アゾットは彼女を背中に庇うようにして立つと、捕獲者と対峙した。繋いだ手が強く握られる。心無しか震えていた。当然だろう。どんなに強がっても、所詮はただの子供なのだから。
崖の先まで追い詰めて余裕が出来たのか、男達がまた言い争いを始めた。力がどうこうと、まるでこの少女を警戒しているようだった。意味がわからないが、今は目先の事に集中すべきだろう。組織の掟がある以上、彼女の前でターゲットを手にかける訳にはいかない。しかしこの状況では一刻の猶予もない。
ふと、手から体温が消えた。振り返ると、少女が無言で瞳を伏せ、胸の前で手を組んでいた。恐怖のあまり神に祈りを捧げているのか--次の瞬間、何の前触れもなく地震が起きた。状況を察するよりも早く、捕獲者との間に亀裂が入る。不安定な足元に立って居られず、アゾットはその場に膝をついた。その体勢のまま背後を振り返る。
最初に映ったのは、驚いた顔。自分が今どのような状況にあるのか理解出来ていないのだろう。地震のせいで足場を踏み外した少女が、ゆっくりと崖下に落ちていく。アゾットは少女の名前を叫びながら必死に手を伸ばした。しかし間に合わなかった。
崖から身を乗り出すと、小さくなった少女が崖下を流れる濁流に飲み込まれ、やがて姿を消した。この高さから落ちた上に急流に飲み込まれてしまえば、生存は絶望的だろう。彼の意図とは全く異なる形で、部外者はいなくなった。
第三者が居なくなった後、仕事をするのは簡単だった。持ち前の身体能力の高さで崖の地割れを飛び越えると、服の下に隠したアゾット剣を取り出す。相手が身構えるよりも早く距離を詰めると、練習通り一撃で仕留めた。
これで依頼は完了だ。仕事は誰にも見られていない。多少の時間のロスはあったが、それも許容範囲内だろう。与えられた仕事は完璧にこなした--けれど、素直に初仕事の成功を喜べる心境にはなれなかった。暗殺者にとって部外者がどうなろうと関係ないはずなのに。己の未熟さに後悔の念が沸き上がり、下唇を噛み締めながらアゾットは踵を返した。
闇に包まれた森の中を、月明かりだけを頼りに帰路を辿る。何気なく開いた右の掌を、アゾットはぼんやりと見つめた。手を繋いだ時の柔らかい感触がまだ残っている。失ってしまった温かみを受け止めるように、アゾットは拳を握った。
もう二度とこんなミスは犯さないと心に刻んで。
後日、ターゲットが警戒していた少女の力について知り合いに尋ねた。そこで“希少種”の存在を初めて知った。危険過ぎる故に存在を世界に管理という名の隔離をされているとか。相手は何故そのような質問をするのか不思議そうにしていたが、適当に誤魔化しておいた。
そしてあの時。
長い時が経ち、苦い思い出は記憶の片隅に埋まっていた。だから最初は気付かなかった。希少種の力によって想定外の不意を打たれ、動けないアゾットを見て彼女が優雅に微笑んだ瞬間、幼い少女の笑顔と重なった。
あの時の少女は生きていた。幼い子供は美しい女性へと成長していた。そして皮肉なことに、見ず知らずの相手を命懸けで庇った無垢な少女は、人を騙す詐欺師になっていた。時の流れとは面白い。アゾットの中で、彼女に対する興味が芽生えた。
その後の接触で彼女が自分の正体に気付いていないと知ったアゾットは、恩返しと称して近づくことにした。彼女と共にいる時間は思っていた以上に楽しい。口ではどうこう言いながら、はっきりと拒絶しないお人好しさが面白い。一緒に居ればいるほど、彼女に対する興味が膨らんだ。
組織に属する人間として、いずれは掟に従い彼女を始末する日がくるだろう。ただその瞬間が来るまでは、この時間を楽しんでいたいと思った。
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