第5章 5
「いいものねぇ……」
誰もいなくなった向かいの席を意味もなく眺めながらアメリアは呟いた。アディが飲んでいたカップはすでに店主の手によって下げられ、人がいた痕跡が消されている。彼が立ち去ってからすでに三十分程経っただろうか。時間帯のせいかあれ以降来客の姿はなく、店内にいた数人の客は退店していった。少し離れた席では、気まずい思いをした中年男性の客が何事もなかったかのように本を読んでいる。彼女を取り巻く環境はあれからずっと変化していない。
今度は一体何を企んでいるのか。アディの意味深な微笑みが脳裏に浮かぶ。彼がああいう反応をした時は嫌な予感しかしない。
それから更に時間が経った。手元のカップの中身はすでに空になり、アメリアを除いて唯一の客だった男も店を出ていった。今この店にいるのは彼女だけ。クラシカルな音楽に耳を傾けるのも悪くは無いが、これ以上ここにいるのも無意味に思えてきた。少し時間は早いが、遠距離馬車の停留所に向かおうか。もしかしたらそこで面白い旅人と出会えるかもしれない。
そんな事を考えていると、静かな店内に足音が聞こえた。視線を巡らせれば、この店の主人がアメリアのテーブルに近づいてくるところだった。
「どうぞ、こちらを」
そう言って差し出されたのは深緑と群青のグラデーションが美しい液体の入ったカクテルグラス。喫茶店にはおよそ似つかわしくないそれは、もちろんアメリアが注文したものではない。
眉を顰めながら店主を見上げると、彼は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「プレゼントだそうですよ。わざわざわたしに頼まなくても、自分で渡せばいいんですけどね」
「プレゼントって……」
質問に答える代わりに、店主は背後を振り返る。アメリアも彼にならってそちらを見遣った。店主が何を指しているのかを察するのに、そう時間はかからなかった。
本来店主がいるべきカウンターから、遠目にこちらを覗き見る少年。赤茶の髪をツンツンと逆立たせたその容姿を見間違えるわけが無い。
「ハイド?」
目が合ったその瞬間咄嗟に身を引いて隠れたが、名前を呼ぶと観念したように姿を現した。照れ隠しなのか、罰が悪そうに目を逸らしている。
彼と別れの挨拶を出来なかったことが心残りだったから、その機会が訪れたことには嬉しさを覚える。それを与えたのが偶然ではないとわかっていたとしても。
『--いいものが見られるかもしれませんよ』
アディが言っていたのはきっとこの事だったのだろう。
カウンターを潜って近づくハイドとすれ違うようにして、店主が二人を交互に見比べた後、定位置に帰っていく。途中、交差した瞬間に店主がハイドへ何事か囁いたように見えたが、その内容までは定かではない。
アメリアの前で立ち止まったハイドが、手持ち無沙汰に視線を彷徨わせる。唇を真一文字に引き結んだその姿を一瞥して、対面の席へ促す。
「座ったら?」
「……そうだな」
こくりと頷いてハイドが椅子に腰掛けた。しかし唇は相変わらず貝のように閉ざされたまま。何と切り出すべきか悩んでいるのだろう。
アメリアはカクテルグラスを引き寄せると、そこへ視線を落とした。
「これ、ハイドが作ったの?」
「ああ」
「綺麗な色。飲んでもいい?」
頷いたのを確認して、カクテルグラスに口をつける。
「うん噂通り。上手になったわね」
お世辞ではない。色の濃淡や味等、氷の溶け具合や空気の含み方他、同じ分量で作ったとしても作り手の技術でカクテルは七変化する。
どうやら評判は間違いではなかったようだ。まだ早朝とも呼べる時間から酒を呑むのは不思議な感じではあったが、たまには悪くない。特にこういった特別な一杯は。
更にもう一口とグラスを傾ける。程よい甘みを舌で味わっていると視線を感じた。
「どうしたのハイド?」
「別に、何でもねぇよ」
「そう?」
何でもないと言っておきながら、カクテルを味わう姿をまじまじと見つめられては、少々居心地か悪い。とはいえ、自分が作ったものを美味しいと喜んでもらえたら誰でも嬉しいものだし、その姿を見ているのはきっと気分がいい。
頬杖をついて見つめてくるハイドを見返して、アメリアはカクテルグラスを置いた。
「そういえば、どうしてここがわかったの?」
アディが仕組んだのは間違いなさそうだが、肝心なのはその方法。例の隠れ家で合流してからずっと彼とは行動を共にしていた。つまりハイドに連絡を取ったのはそれよりも前ということになる。そもそもハイドはアディを警戒していたはずだ。そう簡単に彼の言葉を信じるとも思えない。
「俺昨日、ダチの家に泊りに行ってただろ?」
「うん。おばさんからそう聞いてる」
「けどそこで色々あって、結局途中で帰ってきたんだよ。そこでお前が出てったことを母さんから聞いて、その後で部屋に戻ったんだ。そしたら誰かが外から石か何か投げ込んできやがって、窓を開けたらコレが入ってきたんだ」
コレ--そう言って差し出されたのは小さな紙切れ。元々くしゃくしゃに丸めた紙を広げたように、細かいシワが寄っている。その紙切れの中には意外と綺麗な文字で時間と場所、そして『これが彼女と逢える最後のチャンス』と一言。
「何これ。滅茶苦茶怪しいじゃない。よくこれで来ようと思ったわね」
眉を顰めながらアメリアは手紙を返した。その紙切れをハイドが片手で摘んで引き寄せる。眼前に翳すと彼は薄く微笑んだ。
「もちろん怪しいとは思ったよ。けどな……それでも可能性に賭けてみたかったんだよ。だって、俺……」
「ハイド……」
ハイドの視線が向けられる。その真っ直ぐな瞳に見つめられて、呟くように彼の名を呼んだ。この胸を満たすような思いを声に乗せて。
「ハイド、そこまでして私との約束を守ろうとしてくれたんだ?」
「え?」
彼の気遣いが心から嬉しかった。口では何だかんだと言いながら、怪しいとわかっていてここまで来てくれた。わざわざ大事な商売道具を持参して。
「やっぱりあんたは私の最高の弟ね!」
満面の笑顔を向ける。ハイドは最初呆けた顔をしていた。何かを言おうとしているのか、口が開いたり閉じたりとまるで魚の様だ。しかし次の瞬間に瞼を落とすと、彼にしては珍しい、とても優しい声音で呟くように。
「……サンキュ。お前も俺の最高の姉貴だよ」
思えば彼から姉と呼ばれたのは初めての事だ。つい先日も弟扱いするなと怒られたばかり。自分の存在を認めて貰えた充実感を噛み締めながら、残りのカクテルで喉を潤す。
約束を果たし、ハイドとは以前より打ち解けられた。折角出会えた今、彼にはあの事を話しておくべきかもしれない。“あの人”はもう酒場を訪れることはないだろう。店の常連客が急に姿を消したら、コルトもきっと心配するはずだ。
しかし問題はどこまで言うべきか。彼はアメリアの仕事を知らないし、今後も話すつもりはない。わざわざこんな薄汚い世界の事なんて知らなくていい。
「ねぇ、ハイド」
「ん?」
「オルドおじさんの事なんだけど……」
「オルドおじさん?」
突然出てきた名前をハイドは不思議そうに問い返す。彼にとってオルドは善良な店の馴染み客。そのイメージをあえて壊す必要は無いだろう。危機を脱した今、裏切られていた事実を告げた所で誰も得をしないのだから。
「うん、実はね--」
一つ一つ言葉を選ぶように、アメリアは彼を騙し始めた。
***
一応念の為……。これはフィクションです。お酒は二十歳になってからですよ!




