プロローグ
闇に包まれた暗い森の中を、月の明かりだけを頼りに走り続ける。もうどれくらいの時間こうしているのか。すっかり息は上がってしまい、口からはぜいぜいと荒い息が漏れる。感触を忘れてしまった足は自分のものと思えないほど重く、まるで鉛を引きずっているようだ。汗か外気のせいか、湿ったぼろぼろのワンピースが足に纏わり付いて余計に走りを妨げる。
一人だったらとっくに根を上げてしまっていただろう。けれどいまだに走り続けていられるのは、きっと先を行く彼女が私の手を引いてくれているから。
荒い呼吸の中でも少し耳を澄ませば私達を追い掛ける男の声が聞こえてくる。何を言っているのかはわからない。だけど綺麗な言葉でない事だけは予測できた。
先の見えない逃避行。しかしそれは突然終わりを迎えた。森を抜けたと同時に先を行く彼女が足を止めた事で。そして同時にその意味を理解した。
だって彼女は私よりも背が低いから、突然途切れた道を隠す事はできなかったんだよ。
***
栄光の街グロワール。
それは他国が羨むほどに豊かな国の名前。国民の半分以上が何かしらで成功を収め、富を築き上げてきた者ばかり。そのため、富豪の間ではこの街に居を構える事こそが豊かな証とされ、一種のステータスとなっていた。
そんな街でも影の差す部分というのは必ず存在する。きらびやかな大通りから脇道にそれ、どんどん細い道に入っていくと薄暗い路地に辿り着く。建物の陰に隠れ、陽の光がほとんど届かないその場所まで来ると、ぱたりと人通りも途絶えた。
だから身なりの良い、恋人同士のように仲睦まじい一組の男女の存在はあまりにも浮いていた。
男の腕に甘えるように両腕を絡める女の髪は絹糸のように細く、腰に届くほどの金髪。長い睫毛に縁取られた瞳はまだ少しあどけなさを残すが、高い鼻梁と桜色に色付いた唇は妖艶な色気を放っている。
一方で男は容姿こそ整っているとは言い難いが、陽に焼けた浅黒い肌と筋肉の隆起した腕は力強く頼りがいがあり、彼の服の胸を飾る紋章はこの街でも有数の資産家である事を証明していた。
「ねぇ、次は何処に連れていってくれるの?」
女は男の顔を下から覗き込み、緑色の瞳を細め艶やかに微笑みながら、甘えた口調で問いかける。
「お前が行きたい所ならどこでも……って言いたいとこだが、これから行かなきゃいけねぇとこがあんだよ」
男は顔をしかめながら後頭部に手をやり、資産家というには少々粗暴な口調で答える。
「そうなの……残念ね」
「そう言うなって。後でたっぷり可愛がってやるからよ」
「ふふ、楽しみだわ」
女の髪を一房すくいあげ、口付ける。女はころころと鈴の鳴るような声で笑うと、男の肩に頬をすり寄せ耳元で囁いた。
「それじゃ、また会いましょう?」
「ああ。……そうだ、アメリア」
男は女ーーアメリアの肩を抱き寄せ、額に口付けを落とすと、懐から革製のペンダントを取り出した。不思議そうに見上げる彼女の首に通し、飾り部分を服の胸元に潜ませる。
「これは……?」
「俺からのプレゼントだ。大事にもっとけよ?」
「ありがとう」
アメリアは服の上から革製の飾りを両手で包み、笑顔で頷いた。
それを見届けて男が踵を返す。路地のさらに先を行く彼が姿を消すまで、彼女は手を振りながら見送った。やがて男を見送り終えた女はそのまま表通りに足を向ける――と思いきや、彼女は立ち去った男の後を追い始めた。その顔には先程の甘ったるい笑みは微塵もない。
男の向かった先は大体予想がついている。彼の行先はあの角を曲がって少し歩き、突き当たりを右に曲がった先の、古びた屋敷だ。もちろん彼の邸宅ではない。この辺りの道は街の人々に嫌煙されており、近づく者は少ない。そんな場所に存在する建物。用途は限られてくる。
そろそろ男の背中は遠くなっているだろうか。角の手前まで辿り着くと、アメリアは壁に背を這わせ、慎重に先を覗き込んだ。
次の瞬間、絶句した。
最初に目に入ったのは赤。薄暗い路地裏によく映える鮮明な赤色。そしてそれを胸から大量に染み出させた、さっきまで恋人のように振る舞っていた男の抜け殻と、血塗れたナイフを手に、それを見下ろす誰か。
「あーあ、見つかっちゃった。まさか追いかけて来るだなんて思いませんでしたよ」
男とも女とも判断のつきにくい、高くも低くもない声音。まるで世間話をしているような軽い口調で呟き、その人物はアメリアに笑顔を見せた。
歳は十代半ばくらいだろうか。首筋に掛かる程の栗色の柔らかそうな髪に、隙間から覗く十字架を象った左耳のピアス。長めの前髪の下から覗く大きな瞳もまた同じ色をしている。華奢な体型と容姿が合いまり、中性的で男女の見分けがつかない。
無邪気で愛らしさを覚える、場違いな微笑み。まだ子供と呼んでも差し支えない幼いその人物は、憐れむように、そして嘲るように言葉を紡いでいく。
「見られたからには仕方がありませんね。恨むなら、好奇心に囚われたご自分を恨んでください」
自らの血で真っ赤に染まった男とアメリアを順に見据え、笑顔でさらりと死の宣告を下す。
アメリアは男を見た。資産家を表す胸の紋章も同様に彼の血で赤く染まり、原形がわからないほどだ。あの量では完全に血痕を落とすのは不可能に近いだろう。
「人を殺した後だって言うのに、ずいぶんと落ち着いているのね。あんた、暗殺者か何か?」
「ええ、まぁ」
「……そう」
アメリアはそれだけ質問すると顔を俯かせた。暗殺者は彼女のあまりの潔さに一瞬眉を顰める。錯乱してもおかしくないこの状況で、彼女の反応は異様だった。しかし、気に留めるほどの事ではないと判断したのだろう。ナイフの血を振り落とすと、逆手に持ち直して一歩、また一歩と距離を詰めて行く。何があってもひれ伏せるだけの自信もあったのかもしれない。
手を伸ばせば後少しで彼女に届く。そこで、不意に暗殺者は動きを止めた。口元からは余裕の笑みが消え、眉間に皺が寄る。彼の視線の先で、これから死にゆくはずの彼女の顔は諦めてなどいなかった。
暗殺者が僅かに見せた隙を、アメリアは逃さなかった。意思の篭った強い瞳で睨み据えると、我に返った暗殺者が地面を蹴るより先、彼女の手が眼前に伸びる。
鋭い刃がアメリアを捉える寸前で、斬りつける態勢のまま暗殺者は動きを止めた。正確には、見えない何かによってその体は捕縛されていた。腕も足も、まるで何かに縫い止められているかのように自由が効かない。予想外の反撃に、暗殺者の顔に驚愕が混じる。
「僕に何をしたんですか?」
「僕?へぇ、男の子だったんだ」
アメリアは質問に答えず、物珍しげに少年の顔を窺った。まじまじと見つめられ居心地悪そうに眉を顰めるが、溜め息を吐いた後、同じ質問を繰り返す。
「もう一度聞きます。一体何をしたんですか?」
「あぁ、それ?」
ツーっと、何かを辿るようにアメリアの指が動く。彼の肩先から宙を滑り、コンクリートの壁で止まる。
「糸?でもどうして突然……まさか、“希少種”?」
「ご名答」
すっと手を引き、アメリアは肩を竦めてみせた。
目前の危機を脱したアメリアは、暗殺者の横を通り過ぎ、血溜まりの中心にある男の横に跪いた。ナイフによって急所をひと突きされた男の体はまだ温かかったが、既に生存を見込める状態ではない。
暗殺者はその様子を黙って見つめていた。命を狙う相手の動きを奪っただけで、手を出す気配もなく、取り乱した様子すら見せず、死に絶えた男を見つめる彼女の意図を推し量るように。
しかし様々な状況を巡らせていた暗殺者も、次に彼女が起こした行動だけは予想していなかった事だろう。
まるで人形にでも向けるような冷たい目で男を見下ろすと、アメリアは血で汚れるのも構わず、男の懐に手を滑り込ませた。器用に片手だけを動かし、やがて取り出したのは真っ赤に染まった財布。軽く振って大粒の赤い滴を落とすと、中身に目を通し始めたのだ。
「……あれだけ血塗れだったから中身も危ないと思ったけど、ギリギリセーフってとこね」
分厚い財布の中から現金だけを抜き取り、元あった場所へ戻す。ハンカチで血を拭うと、札束を数えながらアメリアは呟いた。その状況を理解し難そうに暗殺者が見つめている。視線に気付いたアメリアは、札束を服の中に忍ばせると、少年の方へ向き直った。
「信じられないって顔ね。でも死体から金巻き上げるくらい大目にみなさいよ。人の獲物を殺したのはあんたなんだから」
「獲物……?」
「そう。彼は私が目をつけた金づる。本来ならもっと期待できた筈なのに、あんたのせいでたったこれっぽっち。無いよりはマシだけどね」
淡々と言葉を紡ぎながらヒールの底に付着した血痕を拭き取り、アメリアは男の元を離れた。用を果たした今、ここにいる意味はない。あるのは誰かに見られるかもしれないというデメリットだけだ。
「それはあと五分もすれば自然に消えるわ。警備隊に突き出すつもりはないから、せいぜい頑張って逃げてちょうだい」
暗殺者の身動きを封じる見えない糸を指差すと、アメリアは踵を返した。彼の横を通り過ぎ、早々にその場を立ち去ろうとする。その背中へ鋭い声が飛んだ。
「待ってください!」
「……何よ?」
気だるげに目を細めながら、それでも律儀に歩みを止め、アメリアは振り返った。暗殺者は寸分違わぬ体勢のまま、今度は少し落ち着いた声音で続ける。
「人に正体を尋ねたんだ。自分も明かすのが礼儀じゃないですか?」
身動きが取れずに男の死体の傍らに佇む暗殺者の少年。人殺しに礼儀を問われる筋合いも、質問に答えてやるメリットも存在しない。馬鹿正直に名乗るなんて無意味以外の何者でもない。
だから、次の行動は彼女のただの気まぐれだったのだろう。
アメリアは暗殺者の眼前まで歩むと、自分より僅かに背の低い彼と目線の高さを合わせながら、鼻先が触れそうなほどの至近距離で優雅に微笑んだ。
「ただの詐欺師よ。さようなら、暗殺者さん」
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