38.
身体が重力に逆らえない。
脳からの指令を無視しようとする身体に、春澄はそれでも必死で力を入れ、なんとか膝と手を付き頭から倒れる事だけは防いだ。
まるで眼球の裏から手が生え、直接脳を揺さぶられているような耐え難い眩暈と、体の奥からこみ上げる吐き気。
四肢の末端だけが真冬の感覚を味わっているように冷たく痺れを伴い、額や背には冷や汗が滲む。全力で走った時のように息が荒くなり、平衡感覚が定まらない。
突然の謎の体調変化に動揺しつつ、霞む視界の中でユキが居る懐の辺りを庇うように手を当てる。手の平に感じる温もりから動揺が伝わってくるのを感じながら、春澄は顔をゆっくりと後ろへと向けた。
視点がうまく合わずはっきりとは見えないが、その方向からは水色の髪をした、15歳程の少年が足音も立てずに春澄の方へと近づいてきていた。
「なんだ、意外とあっけないですね」
少年が春澄のそばを通り過ぎ、ナイフの方へと向かう。独り言のつもりだったのか、風に乗って小さな声が春澄の耳に届いた。
「まったく、姉さんもあの人達も用心しすぎなんですよ。人間なんて低俗な生き物、僕一人で十分なのに」
そう言いながら、少年は地面に刺さったままのナイフに手を伸ばした。しかしそれに触れた瞬間、少年の纏う雰囲気がガラリと変わったのがわかった。
「壊れてる……?」
不快気に細められた目が、春澄へ向けられる。
「あなた、これに何かしました?」
訝し気な声を聞きながら、何かしたのはそっちだろと悪態をつきたいのをグッとこらえ、春澄は荒い息を押さえながら出来るだけ冷静に口を開いた。
「…………さあな……今の衝撃程度で壊れてるなら、っ、安物の不良品だったんじゃ、ないか?」
くるりと回しながら掲げられたナイフを見るに、破損している様子はないように思う。
そのため少年の言葉と自身の状態から、壊れているらしいナイフが何かしらの効果が付与された魔道具であったのだろうと推測しながら少しの嫌味を籠めて言葉を返した。
自分の声さえも頭の中で反響するような酷い状態に、舌打ちしそうになるのをなんとかこらえた春澄は無理に立ち上がることをやめ、地面にひざを付いたまま突然変化の起こった体の様子を見る。
その状態で数秒睨み合ったが、不測の事態なのは相手も同じだったようで手に持ったナイフを気にしてそちらに視線が逸れた。いや、不測の事態だとしても、自分が有利である事を確信しているからこその余裕の表れなのだろう。そして少年は念入りにナイフの状態を確認し始めたようで、幸いにも春澄は僅かな休息と考える時間を得る事が出来た。
状態異常無効のスキルを持っている春澄が、何故突然このような事になっているのか。
あの少年のナイフに、何らかの魔法効果が付与されていたことは確実とするなら、ひとまず推測出来る事の一つは、その効果が春澄の状態異常無効のスキルを凌ぐものだったという事。
もう一つは、この世界には、状態異常無効のスキルではカバーしきれない状態があるかもしれないという事。
もともと春澄の能力はゲームで様々な試練などをクリアして手に入れたものだが、それをこの世界に来る時にエーデルが付けてくれたものだ。
その時にエーデルがスキルを強化したという話は聞いていない。今まではそれほど問題なく使えていたスキル達だが、ゲーム世界に無いシステムならカバー出来なくて不思議はないだろう。
一番良いのはナイフを鑑定する事だが、あいにく対象物が小さい上に角度が悪く、少年の腕にうまく隠れて目にする事が出来なかった。
ある程度観察し、完全に壊れている事を確認したのか少年が溜息を吐いてからこちらを向いた。
「……『何か』なら確かにしましたけど、ただの魔力酔いでしょう? きちんと鍛えていないあなたが悪い」
「魔力、酔い?」
「その様子だと、魔力酔いは初めてですか? 今まで対策をしてこなかったみたいですね。こちらとしては好都合ですが……ま、ナイフは仕方ないですね。あなたを連れて帰ってから、後で仲間に直してもらう事にします」
既に春澄をどこかへ連れて行くのは少年の中で決定事項なようで、春澄はふっと失笑をもらした。
「……どこに連れて行きたいのかは、知らないが、招待状も無い上、客に攻撃するような相手、付いて行く気はないな」
「どうせあなたの意思は関係ありませんよ。意識を失わせてから移動しますから。聞きたいことがあります」
そう言ったあと、少年がぶつぶつと何かを呟くと彼の周囲の空間が不自然に歪んだ。
それを認識し動いた春澄と、少年の手が振られたのは殆ど同時だっただろう。実体のないそれが弾丸のように空気を切り裂き春澄へと向かった。
「くっ……!」
横に転がるようにして避ける春澄が一瞬前に居た地面に、ドスッドスッと穴が開いていく。激しく動く彼らに合わせ、周囲に立ち込める霧も踊った。
先程『意識を失わせてから』と少年は言っていたが、『瀕死にさせてから』の間違いなのではないかと思える攻撃だ。
風圧と共に弾け飛んでくる土塊から視界を守りながら、春澄も右手を前へ真っ直ぐに伸ばす。
「氷柱の雨……っ……」
春澄が魔法を放った瞬間、またしても脳が揺れた。吐き気が増し、額から流れる脂汗が目に軽い痛みを与えてくる。
しかし軽くはない代償を払った攻撃も、あっさりと少年に避けられてしまう。
「残念でした。目標が定まってませんよ」
ぞわりと嫌な気配が背筋をかけ、楽し気な少年の声がすぐそばで聞こえた。それを脳が理解すると同時に、首を狙って振り抜かれようとしている足が視界の隅に写った。
咄嗟に両腕をクロスさせ防御したが、彼の細い足からは予想出来ない程のはるかに重い衝撃が春澄を襲う。
折れないようにと腕だけでも身体強化を施すのは間に合ったが、全身にかかる負荷に耐えきれなかった体が吹き飛ばされ、背中から木の幹に体が叩きつけられた。
「ぐっ……!」
一瞬息が詰まり、乱れた空気の流れでゲホゲホと咳き込む。何の受け身も取れなかったせいか、我先にと競い挙手をするように痛みを訴える肺や背中に、この状況はかなりまずいのではないかと、どこか他人事のように春澄はぼんやり考える。
骨が折れたり何か致命的なダメージを受けてはいないだろうかとも危惧したが、実際は叩きつけられる前から最悪のコンディションだったので考えてもどうしようもないな、と息を吐いた。
春澄の様子を見てふっと嘲笑した少年が、その表情のまま口元を動かす。どうやら魔法の詠唱をしているのだと悟った春澄も、対抗するべく新たな魔法を発動する。
同時に放たれた魔法が中間でぶつかり合い爆発を起こした。元々あった霧に加え、濃い煙幕が辺りに充満し、一時的に視界が閉ざされる。だが春澄の聴覚は新たな詠唱の言葉を捉えていた。
先ほどから魔力を使うたびに状態が悪化している。おそらく、この魔力を使えば使うほど、この体の異常は酷くなるのだろう。だが現状ではどの道接近戦もうまくはいかない。ならリスクは承知の上で、賭けにでるしかない。
「疑似太陽っ」
詠唱をしない春澄の方が少年よりも一歩早かった。春澄が発動させた魔法で、二人の間に白く迸る雷が生まれ、眩い熱光が溢れる。
あたりに立ち込める霧を浄化してしまいそうな程に、あまりにも強く鋭いその光は、眼球を貫き脳の奥に届くほどに熱く、一瞬にして少年の視界を閉ざしたようだ。
「うああああぁ!!」
瞬時に目瞑ったものの、それでもしっかりと光を目に入れてしまった少年がうずくまり、苦し気に声を漏らす。
最初から目を閉じ腕で顔を覆っていた春澄ですら、瞼越しに強い光を感じたのだ。少年が目に受けた痛みは相当なものだろう。
そして光がおさまる直前に春澄がもう一度、目を覆いうずくまる少年に向けて魔法を放つ。
「追従する紫黒」
春澄の手から黒い雷光が激しく迸り、枝分かれしながら少年へと向かっていく。
本来であれば複数の敵に向けて放つものだが、目標をはっきりと定められない今はこの攻撃が一番当たる確率が高い。それはこの攻撃が、動くものへ自動的に向かっていく魔法だからだ。
案の定、雷光が少年の身体へとたどり着き、その全身を包み込んだ。
「ぐああああぁ!」
黒い雷が少年の身体を焼く。次第に小さくなる火花が完全になくなると、まだ昼間で明るい筈の周囲が酷く暗く感じた。
少年の衣服がところどころ焼け焦げ、そこから煙が立ち上っている。どさりと彼が地面に倒れこむ音が、やけに大きく響いた。
「っ……」
春澄も、既に地に足が付いているのかどうかさえ危うい感覚だった。なんとか近くの木まで移動し、その幹にもたれかかるように背を預けるとずるずると座り込んだ。
常に霧に晒されているせいか、苔が生えて湿った地面が布越しに体を冷やす。しかし今はその冷たさが心地よかった。少しかび臭いような土の匂いも、今は精神を落ち着かせるのに効果的だった。
どのくらいで治まるかは不明だが、この体調の悪さは一過性のものだろうと思う。どうやら戦闘の気配を察し、モンキーバットも遠くへ離れているようなので、少しだけ休むことが出来そうだった。
転移が使えたら良かったのだが、あれはしっかりと集中し転移先をきちんとイメージしなければ発動しないスキルだ。
ふっと息を吐いた春澄は、先ほどから外へ出ようともがいていたユキを懐の上から押さえていた手をようやく緩めかけた。
だがその時、倒れている少年の指がピクリと動いた。
「……嘘だろ」
あの攻撃を受けて、こんなに早く立ち上がれるはずがないと春澄は息を飲む。
そのまま少年は地面に爪を立てると、土を抉るようにして握り締め、ついでその拳を支えに体を起き上がらせた。
「……ぐっ……人間風情が、やってくれますね……」
憎しみのこもった声が、春澄の耳に届く。
懐を庇うように当てている手にもう一度力をこめると、春澄は小さく舌打ちした。
非常に分が悪い場面だ。
見れば先ほどまでぶつぶつと呟くように詠唱していた少年が、今は怒りのせいか叫ぶように声を荒げている。
さてどうするか、と春澄は揺れる脳でなんとか思考を巡らせる。
どうやら春澄を生かしたままどこかへ連れて行くことが目的だったようだが、果たしてあの状態の少年がそれを覚えているかどうか。体の自由が利かない今、攻撃を避ける事はなかなか難しい。
もう一発魔法を打てない事も無いが、次は確実に意識を失うだろう。だが何もせずにあの攻撃をくらうよりはましか。
少年が詠唱している僅かな隙に方針を決めると、ユキを少しでも遠くへ投げておこうと懐へと手を入れた。
しかしユキは春澄の考えを見抜いたのか、のばされた手を巧妙にすり抜け外へと抜け出してしまった。
「…………し、その身に渦巻く暗影を具現化しろ!!」
「っ、ユキ!!」
春澄が叫ぶ声と、少年の声が重なった。同時に躍り出た小さな体が淡く光り、人型を形作る。
現れた白い肌に炎の渦が迫るのが見え、春澄の背に状態異常のせいではない冷や汗がどっと滲んでいく。
浮つく体に力を入れ、春澄はユキと体の位置を入れ替えようと手を伸ばした。
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