幸福の夜
結局梨乃は亜希の家に泊まることになった。亜希の母、彩子も大歓迎で、
「久しぶりやねぇ!泊まっていきや!」
とにこやかに言った。
「梨乃、そのブレスレット、可愛いなぁ。どうしたん?」
彼女は、キラキラ輝くブレスレットをつけていた。
「あ、これ…これは、お母さんが持ってて…。パワーストーンっていうねんけど、なんかパワーが入ってるらしいねん。」
梨乃はうつむいた。亜希も、どう言ってやればいいのかわからなくて、うつむいた。梨乃の辛い話を聞くと、自分まで悲しくなってしまう。亜希は、また話をそらした。
「そ、そうや、梨乃、これからどうするん?長野に帰る?出来るんやったらさ、ずっと梨乃にいてほしいけど、無理っぽくない?2日か3日くらいやったら大丈夫やとは思うけど…。梨乃のおばあちゃんがどういうかわからんしな…」
亜希が言った。梨乃はうつむいて考える。
「私、やっぱり長野に帰るわ。亜希にも迷惑かけられへんし。向こうでもうちょっと頑張って見る。」
亜希は、梨乃を長野へ帰らせるようなことを言ってしまったことを後悔した。彼女は、たった2週間で逃げてきたのだ。あと何年も、いや、あるいは成人するまであの地で暮らすことになるかもしれないのだ。その間、ずっと、我慢するのか…?それならば、これからずっと、亜希の家に梨乃を泊めるほうが、よっぽど良いじゃないか。
亜希は、また胸がしくしくと痛んだ。何か、彼女の今の現状を救う方法はないのか…?
そうだ!亜希は思いついた。蒼璃の顔が、頭の中に思い描かれた。
「梨乃、蒼璃みたいに中学受験したらいいやん!そしたらさ、おばあちゃんも『勉強頑張るんやったら』って仕事押しつけなくなるかもやし、意地悪な友達とも別れられるやん。」
亜希は、名案だと思った。でも、梨乃は一瞬顔を輝かせただけで、すぐにしぼんでしまった。
「でも…、お金かかるわ…。蒼璃、『入学したら年間100万円くらいかかる』って言っててん。おばあちゃん、そんなお金払ってくれへん…」
梨乃は、がっくりと肩を落とした。でも、亜希はそう言われたとき用のセリフを用意していた。彼女は、首を横に振った。
「それが大丈夫やねん!蒼璃は偏差値高い難関私立を目指してるらしいけど、『国公立はあんまりお金かからんから、親は国公立に行けって言ってる』って言ってた。公立とか国立はお金、そんなにかからんらしいで。梨乃、国公立受けたらいいやん!」
亜希は元気良く言った。梨乃は、ハッと顔を上げた。
「そうなん!?じゃあ、国公立で易しい所、おばあちゃんに頼んで受験してみる。ほんまにありがとう、亜希!」
梨乃は、亜希に頭を下げた。亜希は「そんな、やめてやー。」と照れる。
「明日の朝、出発するわ。今日だけはここに泊めてもらってもいい?」
「そんなん当たり前やん!」
2人はうなずき合った。すると、美味しそうな匂いが漂ってきた。梨乃のお腹が急に鳴り出す。
「ごはんできたでーー!」
彩子の呼ぶ声が聞こえた。亜希と梨乃はすぐに立ち上がり、ダイニングルームへと向かった。そして、いそいそと椅子に座る。
「ビーフシチュー!」
彩子がテーブルにビーフシチューを運んできた。焼きたてのフランスパンもある。
「美味しそう!いただきますっ!」
梨乃は勢いよく食べ出した。お昼は何も食べていなかったので、お腹がペコペコだったのだ。また、長野の家では粗末な和食などしか食べられなかったので、豪華な洋食を見ると自然にお腹が空いてくるのだ。
「ごちそうさまでした!美味しかった!」
ビーフシチューのお皿も、フランスパンが入っていたバスケットもみんな空っぽになった。彩子はにっこり笑い、お皿を片付けた。
「梨乃、お風呂入り。疲れてるやろ。」
突然亜希が言った。梨乃は、「えっ、いいの?」と亜希を見た。
「うん、汗かいたやろ?」
梨乃は「ありがとう」と言って風呂場に行った。シャワーで体を洗い流す。今まで体を締めつけていたものがするすると落ちていく感じがする。長野の家のお風呂では洗い流せなかった汚れも落とされるようだった。思う存分湯船に浸かってから梨乃は風呂場を出た。
「パジャマ、置いてあるからそれ着て。あんまり可愛くないねんけど…」
亜希はそう言って風呂場に入った。梨乃は親切に用意してくれたパジャマを着て亜希の部屋に行った。そして、敷いてくれた布団の上に寝転がった。ふっと睡魔が襲ってきて、梨乃の目がトロンとしてくる。…梨乃は寝てしまった。
「昨日はありがとうございました。」
梨乃は、彩子と亜希に深々と頭を下げた。彩子は「そんなことないやん」と微笑む。
「またどうしてもって時は帰ってきいや!あと、受験頑張って!」
亜希が言った。今にも泣き出しそうだ。梨乃もうん、とうなずく。
亜希は、梨乃の姿が見えなくなるまでずっと梨乃を見つめていた。これから衝撃の事実を知ることになるということは、もちろん全く予期していない…。
梨乃は、石切から大和西大寺、そして親切にも彩子に取ってもらった特急券で特急に乗り松阪、名古屋、中津川、松本…と電車を乗り継いで、歩きたくもない長い道のりを暗い気持ちで歩いた。1歩進む度に梨乃の心はしぼんでいく。
そしてとうとう、家に着いてしまった。家の中の厳かな雰囲気が外にもにじみ出ている。梨乃は、ガラガラと引き戸を開けた。「梨乃です…、ごめんなさい!帰ってきました…。」と言うが、家の中からは返事も何も聞こえない。梨乃は思い切って靴を脱いでしまい、そっと家に上がった。
「おばあちゃん…、梨乃です…。」
応接間、寝室、庭、台所…どこにもヤスエはいない。それでは畑か…、と梨乃は思い、畑に行った。美味しそうな野菜類が収穫されている。
「なんや、おめーか。どっか行きおったと思ったら、しょうわる(臆病)でじき帰って来た。これからもいびられたらそのたんびにこじくれて(すねて)向こうに逃げるんかや?わしゃー(私)は別におわえ(追いかけ)ようとも思わんけど。…それより早よ生ゴミびっちゃて(捨てて)おいないよ。」
ヤスエが面倒くさそうに梨乃に近寄ってきた。いつものように梨乃をきりりと睨む。
「はい…。」
梨乃は返事をしてから、とぼとぼと歩いた。生ゴミの処理や、排水管の掃除、物置小屋の清掃など、汚れてしまう仕事はいつも彼女の仕事だ。梨乃は小さくため息をついて家の中に入った。
「面倒くせぇ。」
梨乃が行ってしまってからヤスエはそうつぶやいて、畑仕事を続けた。
「実は…、昨日梨乃が来てん。」
亜希がいつものグループ、奈々絵、小夏、蒼璃にささやいた。3人は驚きのあまり声も出ない。
「えぇー!なんで言ってくれへんかったん!ウチらも梨乃に会いたいもん!」
小夏が早速ブーイングを始める。亜希は、
「ごめん、忘れてた…。」
と謝る。小夏はもう、とあきれたように言って静かに椅子に座った。
「でも、なんで帰って来たん?」
奈々絵が訊いた。蒼璃もうなずきながら亜希に詰め寄る。
「長野の家でこき使われてるらしいねん。あと、学校もサイテーで…いじめとか、体、罰…」
亜希がふるえて言った。さっきまでふくれていた小夏が、急に身を乗り出して亜希の話を聞く。
「もしかして…梨乃、いじめられてるん…?」
蒼璃がおそるおそる訊いた。亜希は、首を垂れてうなずいた。奈々絵は、「ひどい…」と顔を覆った。小夏も、目を閉じて何か考えている。
「梨乃…」
亜希がつぶやいた。嫌な予感がするのだ。奈々絵も嫌な予感がしたらしい。
「大丈夫!梨乃やったらいけるわ!」
小夏が無理に笑顔をつくる。奈々絵はもう泣きそうである。
「応援しよう…。」
蒼璃が複雑な眼差しでそう言った。みんなは小さくうなずいた。




